フィルムセンターで『浪人街』を見たあと、庭園美術館で建築写真展。

朝寝をして「音楽の泉」を聴きのがしてしまった。バタバタと身支度をして、イソイソと外出。午前11時より、《生誕百年 映画監督 マキノ雅広》特集開催中のフィルムセンターにて、『学生三代記 昭和時代』(昭和5年・マキノプロ)の「野球の巻」「下宿の巻」と『浪人街 第二話 楽屋風呂』(昭和4年・マキノプロ)を見る。先日、竹中労の『日本映画縦断』をランランと読みふけっていたばかり、というタイミングで、『浪人街』の断片を見られるというのが、まずは嬉しかった。

 京都・千本丸太町、前に紹介したカフェー「天久」は、大正七年の創業。昭和の初年、映画人のたまりとしてこの店がにぎわったころ、巷には不況の風が吹いていた。カツドウヤのふところも、ご多分にもれずさみしかったが、わが師ナンキョウ(南部僑一郎)の回想によれば、先代ママはいやな顔一つせず、無頼漢どもにツケで飲ませてくれたという。
 田坂具隆内田吐夢岡田時彦、玉木潤一郎、八尋不二、比佐芳武、「天久」常連のエピソードはそのままニッポン映画裏面史の一齣々々である。そのころ千本丸太町では、およそ七、八軒のカフェーが立ち並び、失業した親兄弟・夫にかわって、家族を養っていくために“にわか女給”となった、エプロン姿の女たちが、紅灯のもとにひしめき、歓を売っていたのである。
 山上伊太郎『浪人街』は、そのような世相と風俗とを、時代劇の世界に移してみせて。……


竹中労『日本映画縦断3 山上伊太郎の世界』(白川書院、1976年11月20日)より】

と、こんなくだりを目にすれば、それだけで心は躍るというもの。『日本映画縦断』をつらぬく竹中労の思い込みにグイグイと引き寄せられるようにして(あとの方になると引いてしまうところも多々あるにしても)、『日本映画縦断』に通底している、竹中英太郎の画業と同時代の日本映画の諸相、「モダン都市文化」あれこれにあらためて目を見開かされる快楽が格別だった。竹中労内田吐夢に連れて行ってもらったという京都の「天久」、遺跡めぐりをしたいなと思って調べてみたら、現在は「日本大正村」(http://www.nihon-taishomura.or.jp/p3.html)に移築されているとのこと(http://www.nihon-taishomura.or.jp/ntm3/roman3.html)。


ある日の古書展で200円だったのでふらっと深い考えもなく買った、「キネマ旬報別冊」『日本映画代表シナリオ全集 1』(昭和32年12月25日発行)は今となっては、なかなかの拾い物だった。ほんの気まぐれで読んだ、『彼をめぐる五人の女』(昭和2年・日活大将軍)のシナリオ(田中栄三)が大満喫だった上に、この巻には竹中労が愛してやまない山上伊太郎の『浪人街 第一話 美しき獲物』(昭和3年・マキノプロ)のシナリオも全篇収録されていて、シナリオの文字を追いながら、竹中労書くところの「天久」の空気に、ひいては勝手な思いこみでモダン都市の諸相に思いを馳せるのが格別だった。


そんなこんなで、『浪人街 第一話』のシナリオ読みの余韻を胸にとりあえず見物にやってきた、《「浪人街 第二話 樂屋風呂」(第一篇・解決篇)を短縮したフィルム》であったが、近眼ゆえに字幕がよく見えないということもあって、ストーリーがよくわからないまま雰囲気にひたるだけになってしまったのは否めないけれども、その独特の群像劇ぶりに胸がキュンとなるものがあったのと、第一話の赤牛の根岸東一郎の風貌をじっくりと観察できたのは本当によかった。「貴様が愛好してやまなかった、この居酒屋の――酒!」と第一話の赤牛の追憶にひたる。第二話もシナリオが読めれば、今回の映画をもっと楽しめただろうけれども。ついでに見ることになった、復元された『学生ロマンス』は小津安二郎の『若き日』をどうしても思い出してしまうような、のんきな学生喜劇がたのしかった。「野球の巻」がはじまってさっそくスクリーンに映し出されるのは阪急電車の駅(だったかな)の「クラブ歯磨」の広告、「おっ、ここでも!」とさっそくにっこり。宝塚行き(だったかな)の阪急電車(だったかな)に乗って向かう球場はどこなのか、小津安二郎『若き日』の「阪神間」版という趣きの『学生三代記』であった。


映画のあとはエレベーターにのって展示室へ。先週の「スタヂオF」の興奮を胸に、常設展の《五所平之助とスタヂオF》コーナーへ突進し、『花よりだんご』と『高雄山』をもう一度じっくりと凝視。うしろの伝次郎の声と横の藤原義江の歌声を聴きながら、うっとりと「スタヂオF」の記録映画を見つめる。東武電車にのって「さって」という駅に降り立って一行はピクニックへ出かけている。『スタヂオF版「あこがれ」』と称したフィルムは今日も「調整中」で見られず。嗚呼、くじけずにまた来るとしよう。先週見逃した特別展示《マキノ映画の軌跡》をじっくりとめぐる。『日本映画縦断』を見たあとだと岡島艶子のブロマイドが嬉しくて、若き日の月形龍之介にもうっとりだった。日本映画史はなにかと面白い、と、いろいろと「勉強」していきたいとモクモクと嬉しくなったところで、外に出る。




まわるアサヒペンを見上げたあと銀座線にのって、溜池山王南北線にのりかえて、白金高輪で下車。東京都庭園美術館で《建築の記憶 写真と建築の近現代》展を見物する。先週演博で見た《坂本万七 新劇写真展》とおなじく、「資料」としての写真ならではの独特の美しさがなんだかよかった。やはり一番心ときめくのは、なんといっても「光画」とその時代の住宅写真の展示のところ。「野々宮アパート」には何度見ても心ときめく。資生堂ギャラリーの展覧会図録、《銀座モダンと都市意匠》(資生堂企業文化部、1993年3月発行)をそこはかとなく思い出すひとときでもあった。などと、今日はほんの気まぐれの散歩がてらの展覧会見物であったので、「既知との遭遇」が今日の気分にぴったりで、なによりもたのしかった。


戦前の明治製菓を追う身にとっては、前川國男を見て思い出すのはどうしても「明治製菓売店」のこと。昭和5年に満2年のパリ留学を終えて帰国した前川國男はすべてのコンペに挑戦の方針のもと、まっさきに挑戦した「明治製菓本郷売店」公開コンペで見事一等当選とあいなった。昭和6年7月の「明治製菓銀座売店」の公開コンペは、《これまでのコンペは予め募集主側から参考プランが与えられ、そのプランの立面を考えるもので、当選案を実施案とせず参考程度とする場合も少なくなかった。それに対し、初めて平面計画を重要なポイントとして審査し、後のコンペに多大な影響を与えた。1等当選は前川國男。》と、初田亨・大川三雄『都市建築博覧・昭和篇』(住まいの図書館出版局、1991年11月)に説明があるとおりに戦前建築史のひとつのトピックとなっている。日本建築史に「明治製菓売店」が組みこまれていることが極私的に嬉しかった。


と、そんなことを思い出しながら、ひさしぶりに朝香宮邸の建物を練り歩く時間がふわふわとたのしかった。ポカポカと庭をふらふらする日曜日の昼下がり。この朝香宮邸は、京橋の明治製菓ビル、藤本真澄がいたころの明治製菓ビルや明治製菓銀座売店とおなじ昭和8年の建物なのだった。「光画」が終刊したのも昭和8年。美術館の前の庭は白梅が満開だった。今度ここに来るのは、秋に開催の《1930年代・東京―アール・デコの館(朝香宮邸)が生まれた時代》展になりそう。




わが書架の「建築写真」コレクションとして、『明治製糖三十五周年記念 伸び行く明治』(明治製糖株式会社、昭和15年12月10日発行)より、京橋の明治製菓ビル。ビルの左下にあるのが昭和14年7月開店の「明治製菓ビル売店別館」で、本社ビルの1階右にあるのが昭和8年の新築以来従来からある売店内田百間の「可否茶館」でイキイキと活写されている明治製菓売店がこのふたつ。現在『御馳走帖』で読める「可否茶館」の初出は明治製菓の PR 誌「スヰート」の昭和17年7月1日発行号。




おなじく『明治製糖三十五周年記念 伸び行く明治』(明治製糖株式会社、昭和15年12月10日発行)より、明治製菓ビルの「事務室の一部」。戸板康二のデスクもこんな感じだったのかしら! 「スタヂオF」同時代の明治製菓在籍時の藤本真澄のデスクもこんな感じだったのかしら! と、フィルムセンター展示室の余韻にもひたる。




しつこく、わが書架の「建築写真」コレクションとして、『建築家前川國男の仕事』(美術出版社、2006年4月発行)より「森永キャンデー・ストア」。森永の銀座売店大正12年12月に銀座6丁目に開店しその後5丁目に移転、昭和10年12月の第4次新装がこの建物で、前川國男の設計だった。同年10月、前川國男は銀座に「前川國男建築設計事務所」を創立したばかりで、この年の銀座売店の改装を皮切りに、次々と森永製菓キャンデーストアの設計を請け負い、独立後の支えとなったという。フランスから戻ったばかりの前川國男は、「明治製菓売店」にも「森永キャンデーストア」にも関わっていて、戦前の製菓会社との浅からぬ縁があるのがおもしろい。




濱谷浩《東京銀座 森永キャンデーストア前》1936年。『モダン東京狂詩曲展 図録』(東京都写真美術館、1993年)より。