紀尾井町で岸田劉生展を見る。虎屋から野口冨士男の歩いた道を歩く。

いくぶん曇っていて、今日はやや涼しくて、ありがたい。意気揚々と外出、テクテクと四谷界隈に出て、通りがかりのコーヒーショップでひと休み。読みさしのままかばんに入れっぱなしだった、イプセン/原千代海訳『幽霊』(岩波文庫)を読み終えたところで、スクッと立ち上がって、上智大学の裏手からホテルニューオータニの建物に入る。ホテルのなかをクネクネとめぐりつつ、美術館へと向かう。


《画家 岸田劉生の軌跡 油彩画、装丁画、水彩画などを中心に》なる展覧会を見物する。岸田劉生といえば、2001年4月に鎌倉の近代美術館での展覧会がとてもよい思い出で、今でも折にふれ当時の図録を眺めているのだけれども、今回のニューオータニでの展示は、コンパクトながらも劉生の軌跡が網羅されている格好で、たいへん満喫。劉生に開眼した2001年4月の鎌倉の近代美術館での濃密な時間がよみがえってきたような感じで、思っていた以上の至福だった。竹橋の近代美術館の常設展示を見に行きたくなってウズウズ。ここには展示のない、《道路と土手と塀(切り通しの写生》とか《壷の上に林檎が載って在る》を思い出して胸がツーンとなりながら、時系列に劉生の作品をゆっくりと見てゆく時間がとてもよかった。つい二巡、三巡してしまい、なかなか去り難かった。

私はその会場で、岸田劉生の歯ぎしりの音が聞こえるような気がした。明治洋画のエリートたち、黒田や藤島たちを尻目に見て、劉生は、西洋というものは洋行帰りのお前さんたちが得意になって見せびらかしているような、そんなもんじゃないよ、と言っているのだという気が私はする。そして、本当の西洋はこれだということを、デューラーファン・アイクに傾倒して見せることで示そうとしたのではなかったか。そのくせ、彼自身はついにいちども西洋へは行こうとせず、白樺イズムの草土社からやがて宋元画のグロテスクヘ、でろりとした美の肉筆浮世絵と、のめりこむように傾斜して行くが、そうなっていっそう孤立化してしまった劉生の口惜しさが、こういうふうに絵が並ぶと、ありありと私の眼に見える。大正ということで考えるなら、ここには、岸田劉生の姿を籍りて現れた、明治に対しての、やはりひとつの大正がある。

洲之内徹「村山槐多ノート(一)」 - 『セザンヌの塗り残し』(新潮社、昭和58年1月)より】


岸田劉生静物(林檎と葡萄)》大正8年。図録《生誕百十年 岸田劉生展》(神奈川県立近代美術館、2001年)より。大正5年に肺結核を患ったあとの鵠沼時代の劉生の静物画が大好きだ。展覧会で出会うとそのたびに胸がスーっとなる。ほの暗い色調と光の加減と奥深さと静謐さ。今回の展覧会では、上掲の《林檎と葡萄》の隣りに展示の、《静物(土瓶とシュスの布と林檎)》は個人蔵だそうで、初めて見る絵(たぶん)。この2枚の静物画が今回の展覧会の最大の至福だった。劉生自身の、「思ひ出及今度の展覧会に際して」(『白樺』第10巻第4号、1919年)にある、《写実を追求して、無私の神秘な幽明鏡に達するのが自分の志》というくだりが紹介されていて、手帳にメモしたりも。劉生の静物画というと、竹橋の近代美術館にある《壷の上に林檎が載って在る》を鎌倉の近代美術館で初めて見たときの感激を忘れない。松濤美術館で《幻想のコレクション 芝川照吉》展を見たときに、ふらっと展示してあって、思いがけなく対面してたいそう感激したものだった。人生であと何度見られるか、というくらいに好きな絵。《幻想のコレクション 芝川照吉》展はたいへんおもしろかった展覧会で、いつものようにケチって図録を買い控えたのが今となってはたいそう悔やまれる。




岸田劉生寺子屋舞台図》大正11年。硝子戸の向こうにこの絵を見た瞬間、「キャー、キャー!」と心のなかで絶叫であった。大正11年6月7日観劇の新富座寺子屋吉右衛門の松王丸。劉生への関心は、戸板康二を読み始めたばかりのころに、劉生の『演劇美論』のことを知ったのが最初だったと思う(絵よりもその文筆がきっかけで作品も好きになっていたというのは、鏑木清方小出楢重も同様だった。)。劉生の『演劇美論』は昭和5年4月の刀江書院版が初版で、昭和23年10月、早川書房の「悲劇喜劇選書」として再刊、その際に『歌舞伎美論』と改題された。銀座の奥村でこの『歌舞伎美論』を買ったときの感激を忘れない(粗末な造本で値段は数百円だったかせいぜい千円だったと思う)。上の《寺子屋舞台図》は『歌舞伎美論』のカラー口絵になっている。『歌舞伎美論』には劉生日記の観劇日記の抜粋が収録されている。

吉の松王丸がすばらしくよかつた、無禮ものといふところも、二度目の出で刀を出しての大きいみへも中々よかつた、時蔵のとなみも動きがすべて美くしく、机の數を聞かれるとのころ吉とイキが合つて實によかつた、秀調の千代も悪からうはづなし。

『演劇美論』には、新富座の花道の羽左衛門の実盛、吉右衛門の妹尾を描いた油画が中ページにある。この絵もいつの日か見てみたい!

岸田劉生氏が羽左衛門の実盛を油画にのこしていますが、岸田氏自身の文によると、そこには「花道と其の背景になる所の桟敷平土間あたりの見物に、電燈の光や提灯の灯を浴びて美しく色どられた、それらの他愛もなく愉しみに浸つてゐる花道、そこに立つた俳優」が写されています。実はこの絵は、観客の顔がうまく書けているのです。画面の五分の四までが女性の、この日の新富座の客席の人々の、実盛を「渇仰」している表情があざやかにとらえられています。羽左衛門の実盛は、こういう「渇仰」を滋養分として吸収し、昭和十九年十月の最後の初演にまで行ったのでしょう。一挙手一投足とも、ことごとく自身にみちて、彼は実盛を演じていました。……

戸板康二『歌舞伎の話』(角川新書・昭和25年12月→講談社学術文庫・2005年1月) - 「第七話 その芸術性」より。】

などと、劉生の『歌舞伎美論』を初めて手にしたころの感激がよみがえったひととき。とりあえず、9月の新橋演舞場海老蔵の実盛が楽しみである(めずらしく一階席を買ってしまったので、花道がよく見えるのが嬉しい)。



寺子屋舞台図》とおなじように、岸田吟香の精き水のケースとビンがガラス戸の向こうに展示してあって、そこに劉生の数少ない木版画、1912年制作《築地風景》が展示されていて、劉生の背後にある「東京の昔」にいい気分になった。『大東京繁昌記』下町篇所収の劉生による「銀座」をひさしぶりに読み返したくなった。




岸田劉生《築地居留地風景》大正元年12月23日。図録《生誕百十年 岸田劉生展》(神奈川県立近代美術館、2001年)より。今回見た木版画と同年の油彩として。桑原住雄『東京美術散歩』(角川新書、昭和39年4月)によると、築地を油絵のモティーフとして初めて取り上げたのは劉生だったという。ちなみに、『東京美術散歩』には鍋井克之の《五月の築地河岸》(大正11年)が紹介されていて、これも好きな絵。この絵を描いた当時鍋井克之は牛込に住んでいて、せっせと築地までデッサンに出かけていたという。同年鍋井克之は渡仏。



昼下がり。弁慶橋をわたって、青山通りに出る。虎屋本店の地下で喫茶。煎茶と季節の生菓子。本日の御菓子は「常夏」。常夏は秋の七草の撫子のこと。まあ、なんて愛らしいのでしょう! としばし心のなかではしゃいだところで、おもむろに持参の文庫本、野口冨士男『かくてありけり・しあわせ』(講談社文芸文庫)を取り出す。『かくてありけり』の冒頭、《なだらかな傾斜をもつ下り坂の左側には、こころもち褐色を帯びた暗灰色の石垣が続いていた》という弾正坂は、虎屋から青山通りを横断した豊川稲荷の左の坂道。というわけで、虎屋でひと休みしたあとは、シンと静まり返る休日の弾正坂を歩いて、四谷へ向かった。




都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より、「虎屋」(昭和7年)。岡田信一郎設計。当時虎屋は豊川稲荷側にあったのが、東京オリンピックに際しての道路拡張で反対側に引っ越して新館を新築することになり、現在の虎屋本店がその建物。子供時分の徳川夢声は赤坂表町に住んでいて(明治34年から37年まで)、この頃の虎屋は紀の国坂を下りた細い通りの突き当たりの裏町にひっそりとあったという。人生最初の記憶が弾正坂だった野口冨士男が住んでいたのは大正2年から5年の、満五歳まで。



日没後。浅草をぶらりと歩いて、千束通り沿いでビールを飲んだ。行きしな「明治チョコレート」の古い看板が素敵なお菓子屋さんの前を通りかかって「おっ」となる。ビールを飲んで元来た道を戻ると、まだあいていて嬉しかった。記念に「明治サイコロキャラメル」100円を買った。吾妻橋を渡るとき、海の方に花火が上がっているのがかすかに見えた。花火を見たのは何年ぶりだろう。アサヒビールのふもとで「吾妻橋ハイボール」というのを飲んで、ふたたび吾妻橋を渡ったときは、すでに東京湾の花火は終わって、橋は閑散としていた。右手の鉄橋では、東武電車がゆっくりと走っていた。涼しくなったら、浅草から東武電車に乗って、どこかへ遠足へ出かけたいなと思う。




ついでに、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より「浅草松屋附近鳥瞰」。大好きな写真。ビールといえば吾妻橋