東武博物館のあと浅草松屋の建物を観察して、昭和6年の浅草を思う。

正午浅草。銀座線を田原町で下車して階段をのぼって、焼きそばの匂いがプーンとただよってくると、浅草に来たなア! と、いつもふつふつと嬉しくなる。このごろは浅草に来るのは飲酒目当てで日没時ばかりだった、昼の浅草はひさしぶりだなあと地上に出て、さらにふつふつと嬉しい。と、浅草の地に降り立つといつもそれだけで気持ちがふわふわ。テクテクと吾妻橋に向かって歩く途上、昼食にオムライスを食べて、ひと休み。無事に腹ごしらえが済んだところで、浅草松屋の前に立ち、イソイソと東武電車の改札を目指してゆく。もうすぐ、東武電車で隅田川の鉄橋を渡るあの瞬間がやってくると思うと、気が急いて仕方がないのだった。






市川崑『青春怪談』(昭和30年4月封切・日活)より。松屋前の地下鉄の出口のあたりに来ると、いつもなんとはなしにこの映画を思い出している。浅草松屋前の階段をあがって、北原三枝とその父・山村聰が地上に出ると、吾妻橋の手前に三橋達也とその母・轟夕起子が待っている。このあとすぐ、三橋達也山村聰がないしょ話をするところで、吾妻橋の向こうのアサヒビールが映る、東武電車の鉄橋もチラリと映るけれども、残念ながら電車は通らず。『青春怪談』はどうってことのないと言ってしまえばそれまでだけど、そこはかとなく好きな映画(ワンシーンだけ登場のバーのインテリアデザイナー滝沢修イカす)。獅子文六の原作はもともと大のお気に入り。





よいお天気の日曜日、ちょいとどこかへ出かけようかなということで、ふと思い出したのが、新装開館した東武博物館http://www.tobu.co.jp/museum/index.html)のこと。先月の関西遊覧の折の建築および鉄道観察(の真似ごと)の記憶が鮮明なうちに、関西と相対化させるべく、関東の建物ないし鉄道観察(の真似ごと)もドシドシ進めていきたいなあということで、まっさきに思い立ったのが、かねてより執着している浅草松屋東武電車……というわけでやる気満々、よろこびいさんでここまでやって来た。


東武博物館は一昨年、深い考えもなく出かけてみたら案外にもなかなかたのしく、とりわけ、東向島駅、すなわち旧玉ノ井駅に隣接しているという立地が味わいたっぷりで、博物館のあとの歩行もたのしい。博物館そのものというよりも、浅草から東武電車で隅田川を渡り旧玉ノ井で下車、という行程が妙に気に入ってしまって、この先、折に触れて出かけたいなと思ったものだった。と言いつつ、その後、忘れかけていたところで、東武博物館は半年間の休館を経てこの夏、晴れて新装開館したと知った次第だった。


そんなこんなで、よろこびいさんで東武電車の各駅停車に乗り込み、浅草駅を出発して、ゆっくりと隅田川の鉄橋をわたるひとときをいつものとおりに大いに満喫、やがて車庫の脇を通って、電車はすぐに旧玉ノ井の東向島駅に到着。わーいわーいと博物館のなかへ入る。改装後も入場料は200円に据え置きで、嬉しい。館内はワイワイガヤガヤと子供たちが大はしゃぎ。東武博物館は本物の車両が館内にたくさんあって、そのほとんどが実際に乗車できるように配慮されていて、ちょっとした遊園地のよう。




博物館に入場して、まっさきに対面することになるのが、この電車。《東武鉄道が初めて1924(大正13)年10月1日に浅草(現業平橋)〜西新井間を電化した時に走った木造電車》と、フムフムと解説を読んでみると、現在の浅草駅の開業は昭和6年5月のことで、それまでは、現在の業平橋が「浅草駅」だったということに、あらためて目を見開かされる感じがする。現在の終点浅草駅は東武ビルディングの竣工と同時の昭和6年5月、東武が大家さんとなって浅草松屋が開店したのは、同年の昭和6年11月。




これは「明智平ロープウェイ」で、昭和8年の開業とのこと。戦争で昭和18年に業務停止となるも、昭和25年に再開して現在に至る。先月、比叡山のロープウェイ(大正14年開業)に乗った記憶が鮮明なときに見ると、これまた、行楽の誕生、ということにあらためて目を見開かされる感じがして、ワクワクだった。



本日の一番のお目当ては、東武電車の戦前の資料、紙モノをたくさん見られたらいいなというところにあったので、その点では新装前の前回の来訪時とあまり変わりはなく、単なる再訪になってしまったのは残念だった。が、その一方で、浅草から東武電車に乗って隅田川を越えてここまでやってきたばかりのところで、かつて業平橋と西新井の間を走っていた電車を目の当たりにしたのは臨場感たっぷりで、「川向こう」から浅草の繁華街に思いを馳せて、東武電車の終点が現在の業平橋から、隅田川を越えた現在の終点の「浅草駅」まで伸びたというのは、すごいことだったのだ、とってもすごいことだったのだ、ということが初めて実感としてよくわかった気がした。


東武電車が隅田川を越えたのは昭和6年5月。東武ビルが大家さんになって浅草松屋が開店したのは昭和6年11月。トーキー映画『モロッコ』の公開は昭和6年2月、日本初のトーキー『マダムと女房』が公開されたのは同年8月。トーキー化にともない武蔵野館を馘首された徳川夢声らによる「笑の王国」が誕生するのは昭和8年4月、その前史としての浅草。一方、古川ロッパ喜劇俳優転身を決意したのは昭和6年の年末……などなど、東武博物館で戦前の車両を見て、昭和6年の浅草にちょいと思いを馳せたとたんに、頭のなかは一気に、日頃の最大の関心事であるところの「1930年代・東京」一色になってきた。


……などと、いつもながらに、思い込みが激しいのだったが、頭のなかが一気に「1930年代・東京」になってしまうと、あらためて東武電車の浅草駅および松屋を観察したくてムズムズ、いつもだったら東武博物館のあとは、鳩の町界隈を歩くのをたのしみにしているのだけれども、今日はそんなことをしている場合ではないのだった。イソイソと博物館の外に出て、東向島駅へ突進し、東武電車に乗りこんで、一目散にふたたび浅草へと向かう。





往復で隅田川の鉄橋をゆっくりと渡る東武電車を満喫できて、今日はなんたるよき日ぞやと思う。と、心持ちよくウカウカと、終点の浅草駅で下車して、まずは、ホームを観察。




「新建築」昭和6年12月15日発行号(第7巻第12号)より、《東武鉄道浅草停車場全景》。

吾妻橋畔、隅田公園に近く建つ本建築は久野節氏の設計になる東武電車の終端駅としての大建築で、地上七階厖大なる延長を有するもので隅田川をへだてて浮んだその姿態は実にすばらしいものである。かかる郊外電車の終端駅としての大ビルディングの建設は大阪方面に於ては既に数年前から二三完成しているものであるが、東京に於ては最初の例であり、殊にそれが地下鉄に連絡している点に於て、本邦初のもので、その点、実に最も現代的な建築課題であり、今後に於ても相当に行われるものであろう。(文:河崎郁夫)

東武電車の終点は、「浅草駅」と称しつつも当初は本所小梅瓦町にあった。大正12年関東大震災で焦土と化した東京市内への乗り入れを目指して、同年10月に東武電鉄はいち早く、免許を申請(当初は隅田川をわたって浅草から上野、東京駅までの延長を目指していた)、翌大正13年、免許を得て、鉄道工事は昭和2年に始まる。東武ビルディングの起工は昭和4年8月、昭和6年5月に竣工、浅草雷門駅(昭和20年10月に現在の「浅草駅」に改称)が開業。ホームのある2階以外をデパートとして使用するのは、関東では初の試み。旧浅草駅は、業平橋と改称されて、もとの広い構内の大部分を貨物駅として使用することとなった。【参考文献:『東武鉄道百年史』東武鉄道株式会社・平成10年9月30日発行】




戦前絵葉書《(大東京)隅田川吾妻橋浅草区花川戸と本所区竹町に架る)》、《吾妻橋は昭和六年六月の竣工であって、長さ百五十米幅二十米。写真の右は松屋百貨店。東武電車発着所。左は浅草雷門方面である。》。東武ビルディングとおなじく、吾妻橋も昭和6年の竣工だ! と、ますます、昭和6年の浅草へと思いが及ぶのだった。これを機に、 東武鉄道の浅草駅を有する東武ビルディングについてじっくりと追究(というほどのものでもないが)すべく、メラメラと閲覧した『東武鉄道百年史』には、

隅田川沿いに細長く建築された同ビルは、左岸から見て、巨大な船が川に浮かんでいるようで、その腹部から電車が出発していくさまは、空母の射出装置カタパルトから航空機が飛び出てくるさまにたとえられた。

という一節があって、このいかにも「モダン都市」なくだりにニヤニヤ。過日にランランと読みふけった、速水豊著『シュルレアリスム絵画と日本』(NHKブックス、2009年5月)の古賀春江の《現実線を切る主智的表情》(1931年)に関連して、1931年を頂点とするロボットブームについて言及があったのを思い出したりもする。





上掲「新建築」より、《東武鉄道浅草停車場、東側側面図》。上掲の全景写真とおなじく、隅田川の方角から見た、東武ビルディングの側面図。『東武鉄道百年史』には、

 設計の基本は、当時流行したネオ・ルネサンス(近世復興)様式で、日本のアール・デコ建築のひとつにあげられている。アール・デコは1925年(大正14)パリで開催された装飾美術展(レ・ザール・デコ)に由来する様式である。この設計は、前述のとおり久野建築事務所で、ほかにも大阪・難波の南海鉄道(現南海電気鉄道)の南海ビル(昭和7年7月竣工)なども手がけた。
 東武ビルディングは当時、哲学、美術、文学などの各ジャンルに流行したモダニズムの影響下に設計されており、柱間に整然と窓が並び、2階の駅部分にはアーチ形の大窓が17個、連続して並んでいるのが特色である。南海ビルは、東武ビルと同じ建築様式によっているため、6階部分に連続アーチが見られる、などの共通点もあるが、最大の類似点はその経営方法にある。それは南海鉄道が、当社同様にみずから百貨店経営を行うのでなく、高島屋をテナントとしたことである。

というくだりがあり、浅草松屋東武鉄道、難波高島屋と南海電車をパラレルに、同時代の東京と大阪を思うのは、いつもたのしい、昭和4年3月に開業の梅田阪急と対照させて、小林一三に思いを馳せるのもいつもたのしい……などと、しょうこりもなく関西遊覧への思いが煮えたぎってしまうのだけれども、ここでは、浅草の東武ビルディングに気持ちを集中させることにして、





東武博物館を出て東向島駅から浅草行きの各駅停車に乗って、車窓から業平橋駅の広大な車庫を見て、先ほど東武博物館で思いを馳せた、かつての終点「浅草駅」を思ったところで、電車は隅田川の鉄橋をわたる、この鉄橋を渡っているとき、東武電車の速度はだいぶゆっくりで、浅草にジワリジワリと近づいてゆく瞬間がいつも格別なのだった。と、浅草駅に到着したところで、東武ビルディングの2階部分の浅草駅のホームをまずは観察してみると、『東武鉄道百年史』の《2階の駅部分にはアーチ形の大窓が17個、連続して並んでいる》とある、「17個の大窓」がまさしくこれだ! と興奮なのだった。




現在の建物は、外側はブラインドのようなもので覆われているので、上掲の昭和6年当時の写真のように、整然と並んだ半円状の窓を外から見ることはできないけれども、東武電車の浅草駅のホームに立てば、いつだってこの窓を見ることができる。ブラインドに覆われているので、薄暗い。遠い戦前の浅草を垣間見るような、この薄暗さがいいなあと思う。







上掲「新建築」より東武鉄道浅草停車場、上図《二階大階段》、2階の東武電車ホームからエスカレーターをくだって1階にゆくと、松屋の入口に。開店当時、1階は食料品や家庭用品等の均一品売売場だったというから、現在のスーパーマーケットのような感じだったのかな。この写真を反対側から撮ったのが、下図の《二階休憩室》。エスカレーターをあがって3階にゆくと、松屋の入口に。エスカレーター脇の正面にはうっすらと東武電車のプラットホームが見える。




『写真で見る東武鉄道80年』(東武鉄道株式会社、昭和52年11月)より、《乗り入れ早々の浅草雷門駅ホーム》。《当時は改札口に並んで電車を待った》とある。『東武鉄道百年史』にも、改札口に人々がならんで入場を待っている写真がある。







混雑しているので、正面改札の観察は後日に譲ることにして、ホームの丸窓を思う存分観察したあとは、反対方向の隅田川の鉄橋にほど近い改札から、東武ビルディングの外に出てみた。東武ビルディングの2階部分から隅田川に向かって、線路がニョキッと飛び出している。『東武鉄道百年史』に、ビルの《腹部から電車が出発していくさまは、空母の射出装置カタパルトから航空機が飛び出てくるさまにたとえられた》とあるように、この鉄橋をゆっくりと隅田川に向かって東武電車は発車する。昼下がりの晴天の下、太陽の都合で写真がちょっと曇ってしまったけれども、真下から見上げて、いつも見慣れていたはずの浅草松屋の建物を裏側から見て、ふつふつと嬉しいのだった。てっぺんの煙突部分がいかにも古めかしくて、ああ、「1930年代・東京」! と青い空の下、いつまでも嬉しい。






太陽がまぶしい。松屋の脇の道路(江戸通り)を横断して、鉄橋のふもとの日影にたたずむと、また違った視覚を得ることができて、感興は尽きない。下の写真は、高梨豊さんの写真の真似をして、この鉄橋を撮った写真。年明けの東京国立近代美術館高梨豊展は実にすばらしかった! と追憶にひたる。







せっかく道路を渡ったので、ついでなので隅田川を見にゆく。日曜日の午後の隅田公園はしごくのんきな空気が流れているのだった。鉄橋をゆっくりと走る東武電車を眺める。何度眺めても、電車の徐行具合がおもしろい。この鉄橋も、東武ビルディングと同じく、昭和初期のものがそのまま残っているのだなあとしみじみとなる。





隅田公園を出て、ふたたび東武ビルディングの観察を続けることにして、ふたたび江戸通りを横断して、今度は隅田川と反対側から建物を眺める。向かって左側の隅田川に面するところはブラインド状に補修が成されている(駅のホームの半円状の窓があるところ)けれども、煙突の真下の張り出し部分のコンクリートは昭和6年の竣工時と変わっていないようだ。古色蒼然とした壁面が嬉しい。




上掲の「新建築」に掲載の《東武鉄道浅草停車場、東側側面図》の右端、煙突の下を拡大。ここの部分が、竣工時の面影が色濃く残っている部分。




隅田川の反対側へとまわって、松屋の脇を歩いて正面入口へと向かう。裏道にあたるこちら側から東武ビルディングを眺めるのが前々から大好きだった。何度見ても、煙突が味わい深いなあと、ふつふつと嬉しい。この煙突に注目したのは今日が初めてかもと思った。





『大東京写真案内』(博文館、昭和8年7月)に掲載の《浅草松屋附近》。竣工当時のこの写真を見てみると、東武ビルディングはまさに白亜の建物で、浅草の町中にデーンとそびえたっていて、現在の古色蒼然とした建物とは大違い。隅田川沿いと同様に、裏側にも半円状の装飾がほどこされている。無装飾の高層部分のところが現在もそのまま残っているようだ。






東武鉄道浅草雷門駅の正面入口であると同時に、松屋の正面入口でもある。上が「新建築」、下が『写真で見る東武鉄道80年』に掲載の写真。下の写真には、半円状に「TOHBU RAILWAY」のネオンが設置されていて、竣工当時の「新建築」の写真よりも派手になっている。『写真で見る東武鉄道80年』には、《浅草雷門駅の正面玄関、国際的観光地への玄関にふさわしく早くも横文字の社名が設けられた》というふうに書いてある。





前々から浅草松屋に来るたびに(もっぱら古本市)、この階段をのぼったり降りたりするのをたのしみにしていた。だいぶ改修が進んでいても、階段だけは竣工当時のままであることが多くて、古い建物のデパートに来ると、いつも階段を観察するのがたのしい。






閑散とした屋上もいつも味わい深い。夏のビアガーデンに毎年行き損ねている。今日初めて、目が行った屋上の煙突に接近して、たのしかった。下は、上掲「新建築」より。松屋の屋上の遊園地「スポーツランド」について、去年、明治製菓タイアップ映画の木村荘十二『純情の都』(P.C.L.、昭和8年11月封切)のロケ地として使われているのを目の当たりにして、ずいぶん胸躍らせたものだった(id:foujita:20080619)。

 屋上および七階には小動物園と並んで各種遊戯施設を集めた「スポーツランド」を開設した。浅草はそれまでおとなの歓楽地で、子供が安心して遊べる場所がないため、「スポーツランド」は好評であった。ドイツのハーゲンベック動物園、アメリカのコニーアイランドにある遊戯施設を参考にして作られた斬新な施設は子供だけでなくおとなにも喜ばれたものであった。
 子供に最も喜ばれたのは一回一〇銭で二周する豆汽車であった。このほかボウリング、コニーアイランド、かわらけ割り、鬼倒し、野球遊び、射撃場、弓場、七階にあるローラースケート場(のちに豆自動車)などがあって、連日おとな、学生も交えて賑わった。
 このほか、屋上の両端を往復するゴンドラがあった。これは初めは道路と隅田川を越えて対岸まで往復する構想であったが、許可が困難で、建物の周囲を一周する計画に変更したが、建物からの支柱に問題があって取り止め、結局往復形式に落着したが、それでも運行中の雄大な眺めとスリルとは非常に人気を呼んだものである。
 「何々ランド」と称するこの種施設はこのスポーツランドがわが国で最初であった。


【『松屋百年史』(株式会社松屋、昭和44年11月3日発行)- 「第3節 浅草支店の開設」より】

タイムマシンがあったら、このゴンドラにぜひとも乗ってみたい! と思う。『松屋百年史』で初めて、このゴンドラが隅田川を横断する計画だったと知って、その壮大な構想に笑ってしまった。しかし、白亜の建物のてっぺんの端から端まで移動するだけでも、かなりのスリルだっただろうなあと思う。「新建築」のグラビアのゴンドラの奥の方に見える煙突が、今も屋上に残るこの煙突なのかな。スポーツランドがあった頃とは大違いの静かな屋上もなかなか味わい深いのだった。





吾妻橋の真ん中に立って東武鉄道の鉄橋を眺める、しごくのんきな日曜日の午後、であった。せっかくなので、向こう岸で朝日麦酒を飲んでいきたいところだけど、東武博物館で戦前の東武電車を見たとたんに急に頭のなかが「1930年代・東京」一色になって、昭和6年竣工の東武ビルディングおよび松屋をちょいと観察し、昭和6年に改修の吾妻橋に立ったところで、ますます頭のなかは「浅草昭和六年」のことでいっぱいになる。日没まではまだだいぶ時間があることだし、室内でいろいろと本を繰って戦前浅草探索をするかなと、ふたたび銀座線にのって、イソイソと帰宅。【次週に続く(たぶん)】