近鉄電車と生駒山。新緑の大和郡山で川崎彰彦と小野十三郎をおもう。

大阪から近鉄電車にのって、生駒トンネルを抜けて奈良へ

2012年5月13日日曜日。午前7時50分、大阪地下鉄を難波で下車して、近鉄電車に乗り換えて、奈良へ向かう。近鉄電車に乗るのは2年ぶりくらい。難波の地下の駅を出発し、上本町の地下駅では地上のチャーミングなターミナルのたたずまいを頭に思い浮かべて、にっこり。またビスタカーに乗りたいなと、過去の遊覧の追憶にひたる。上本町を出た電車が地上にあがるとすぐに右手に赤十字病院の大きな建物が見える。結構最近まで残っていたという、海野弘著『モダン・シティふたたび』(創元社、昭和62年6月)でおなじみの古い建物を頭のなかに思い浮かべて、にっこり。





日本赤十字社大阪支部病院》(設計:日本赤十字社臨時建設部)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真。古びた屋根が連なる向こう側に白亜の病棟が並んでいる。南病棟が昭和4年3月に竣工して以降、中病棟(昭和7年3月竣工)、分病舎(同年6月竣工)、看護婦寄宿舎(昭和8年5月竣工)、北病棟(昭和9年12月竣工)が出来上がり、同書刊行時は「本屋改築予定地」が下図に白線で示されている。

……(天王寺地区の)北には大阪赤十字病院がある。この主要部分は日赤臨時建設部が一九三四年に設計したものである。日赤臨時建設部というのは、夕陽丘高校清香会館をつくった木子七郎が中心になり、岡田信一郎が顧問であったという。その後、建て増しされて、変わっている部分も多いが、いたるところにしゃれた装飾やステンド・グラスなどがあり、そのうねるようなファサードをはじめとして、いつまで見ていても、なかなか見尽くせない。

というふうに、昭和末期に海野弘さんは書いている(『モダン・シティふたたび』)。わたしもこんなふうに赤十字病院の広大な敷地を歩いてみたかったな。……と、大阪に来ると毎回必ず、海野弘の『モダン・シティふたたび』の一節が思い浮かぶ瞬間がある。海野弘を思い出したところで、さらば大阪。電車は奈良へと向かってゆく。




大軌参急電車発行《大軌参急沿線案内》、昭和9年5月印行。2009年12月にビスタカーに乗った記念に購入した沿線案内をひさしぶりに取り出す。現在の近鉄電車は長らく上本町が起点だったが、昭和45年3月に難波まで伸びた。昭和45年の万博による大阪の都市変貌の一環なのかな。難波から出る電車は上本町の地下に停車する。現在の近鉄電車は難波から阪神電車に接続していて、奈良から神戸まで一直線でつながっている。




上記沿線案内の中身はこんな感じの路線図。上本町からの路線図を拡大して、本日の行程を図示。上本町を出発した近鉄電車(近鉄大阪線)は、奈良へ向かう電車は布施で分岐して「近鉄奈良線」となる。生駒トンネルを通って、あやめ池を通過し、西大寺橿原線に乗り換えて、このたびの奈良遊覧の最初の目的地、大和郡山へ。




昭和3年11月3日の奈良電車開業当時の沿線案内《奈良電車沿線案内》より、本日の行程を拡大。上の大軌電車の沿線案内は単なる路線図だった一方で、奈良電の沿線案内はこんなにチャーミング(作画は内田紫鳳による)。下が大阪の市街地で、上六を出発した現在の近鉄電車は布施で分岐して、生駒山のトンネルを通過する。トンネルを抜けるとそこは奈良県、ということになる。





東花園(かつての駅名は「ラグビー場前」)あたりを走行中の奈良行きの快速急行の車窓から生駒山を眺める。大阪から奈良に向かう近鉄電車に乗るということはまずは生駒山に向かうということなのだ。というわけで、近鉄電車が鶴橋の手前で地上に出ると、生駒山の景色が目にたのしい。そして、生駒山のてっぺんに林立するアンテナ群にいつも大喜び。




入江泰吉《寒冷線上のテレビ塔群》。以前もここに載せたことがある大好きな写真、季刊『真珠』第35号(近畿日本鉄道宣伝課、昭和35年7月1日)に掲載のグラビア。わたしのなかの「関西絶景10選」と選ぶとしたら、必ずランクインされることは必至の生駒山のアンテナ群。




そして、生駒トンネルに近づくにつれて、どんどん高度を増す線路の上からの車窓がまたたいへん素晴らしい。この写真では画面が淀んでしまっているけれども、生駒山の直前の近鉄電車の車窓から見る大阪の町並みが、ニューヨークのように見えるひとときは何度乗っても感動する。本当にすばらしい。




真治彩さんの個人誌『ぽかん(http://www006.upp.so-net.ne.jp/pokan/)』第02号(2011年11月20日)の特集「私の大阪地図」の1篇のおかやまたべにさんによる「Rなイマザト」が大好きだった。生駒へ引っ越した「フジミちゃん」のところへ行こうと、「のりちゃん」と「その姉ちゃんである4年生のせっちゃん」と一緒に今里から生駒まで無賃乗車をした小学校2年の夏休み。

生駒山トンネルを抜けるとき、電車の窓ガラスにわたしが映った。しゃぼん玉模様のワンピースを着た自分の姿を見たとき、さすがに遠くへきた感じがして怖くなった。トンネルの向こうが得体の知れぬ世界のような気がした。

という結びの一文を、近鉄電車は生駒山のトンネルを抜けていくとき、なんとはなしに思い出した。それから、《大阪東部の学校の校歌には必ず「生駒山」が出てくる。》という一節に「おっ」だった。ああ、生駒山。と、『ぽかん』の「私の大阪地図」で読んだ文章を思い出して、いい気分になったところで、電車は生駒山の長いトンネルを抜けてゆき、トンネルを抜けるとそこは奈良県だった。




《生駒新トンネルを出る8000系 生駒駅 1964-9-3》、『高橋弘作品集2 関西の私鉄 懐しき時代』(交友社、昭和54年6月10日)より。出来立てほやほやの新生駒トンネルを通る電車と右側に旧生駒トンネルが写る、すばらしい写真。新生駒トンネルの開通にともなって、昭和39年7月に石切駅が移転し、石切・生駒間にかつてあった孔舎衛坂駅がルート変更により廃止となった。生駒トンネルの難工事を経て、現在の近鉄奈良線は大正3年4月に開通した。2010年9月に初めて生駒ケーブルを満喫した帰りに、旧生駒トンネルの残骸を見にゆくと、わずかにその名残が見ることができた。




入江泰吉生駒山》、季刊『真珠』第44号(近畿日本鉄道宣伝部、昭和37年10月1日)より。



午前8時過ぎ。大和西大寺橿原神宮前行きの普通電車に乗り換えて、車窓はますます雅やかに。唐招提寺薬師寺に沿って電車は走り、車窓はますますのんびり。右手に郡山城址公園らしきものが見えてきたところで、電車は本日の目的地、近鉄郡山駅に到着。




近鉄郡山駅の風景。郡山駅の開業は現在の近鉄橿原線の開通と同時の大正10年4月。橿原線の先には歌舞伎でおなじみの「新ノ口」という駅があって、路線図を眺めているとおのずと十三代目仁左衛門の顔が頭に浮かんでくるのだった。


川崎彰彦さんの散文に誘われて、新緑の大和郡山へ。

2010年9月に、京都から旧「奈良電」の近鉄京都線にのって、奈良ホテルで閑雅な昼食のあと、生駒ケーブルに乗ったことがあった。このときの自称「モダン奈良遊覧」がとてもたのしくて、大阪や京都を起点にしつつも、ちょいと足を伸ばすというふうにして、近鉄電車に乗って奈良を歩いてみるということを今後続けていきたいな思ったものだった。あれから2年近くたって、2度目の奈良遊覧に出かける運びとなったところで、まっさきに行きたいと思った場所は大和郡山だった。


大和郡山は、川崎彰彦さんが1990年から2010年2月に亡くなるまでの20年間暮らしていた町。わたしが川崎彰彦を初めて読んだのは2006年6月、連作短篇集『夜がらすの記』(編集工房ノア、昭和59年5月)が最初だった。さっそく最初の一篇、「清遊記」からして大好きになってしまった。『夜がらすの記』を手にとったのは、その当時編集工房ノアから出ていた三輪正道さんの散文集を3冊、『酒中記』(2005年12月)、『酔夢行』(2001年12月)、『泰山木の花』(1996年10月)を立て続けに読んだのがきっかけだったかと思う(その後、去年11月に4冊目の散文集『残影の記が出た。)。さらに、三輪正道さんの文章に出会ったのは、『Bookish』第9号《特集 山田稔の本》(2005年9月発行)が最初だった。つまり、山田稔→三輪正道→川崎彰彦という流れだった。


Bookish』の山田稔特集が出たのとほぼ時をおなじくする、2005年夏に中尾務さんの個人誌『CABIN』を初めて手にとり、以後毎年その刊行を心待ちにしている。さらに、『CABIN』と出会ったあと、『大和通信』が届くのを心待ちにする歳月が始まり現在に至っている。わたしの手元にある『大和通信』の最も古い号は2005年9月15日発行の第67号である。『大和通信』は川崎彰彦さんとその仲間たちによる、B4の一枚紙に両面印刷した学級新聞のような雰囲気の紙面で、1994年8月に創刊されたという。発行元は「海坊主社」となっていて、その住所は大和郡山




三輪正道の最初の散文集『泰山木の花』(編集工房ノア、1996年10月)、巻末に川崎彰彦による解説(「途中下車の精神 三輪正道君のこと」)を収める。『黄色い潜水艦』第52号《川崎彰彦追悼号》(2010年6月5日発行)。川崎彰彦さんの「河童頭狗肉の記」が掲載されている『CABIN』第8号(2006年3月発行)。『Bookish』第9号《特集 山田稔の本》(2005年9月)、ミニ特集は《長沖一とその周辺》。『大和通信』は、2010年2月に川崎彰彦さんが亡くなったあとは同年8月30日に第86号が出て、以来、ほぼ3か月に一度の頻度で発行、現在に至っている。最新号は2012年3月25日発行の第91号。86号から中野朗さんによる「川崎彰彦を探して」が連載中。そろそろ新しい号が届くかな。



川崎彰彦さんゆかりの『大和通信』をたのしみにしているここ数年、わたしのなかの奈良というと、大和郡山がまっさきに思い浮かぶのだった。川崎さん亡きあとの『大和通信』では、3月になると「夜がらす忌」の告知が出る。桜咲く4月の土曜日、近鉄九条駅が最寄り駅の極楽寺へお墓参りのあと、城址でお花見して、故人を偲ぶ催し。と、そんな「夜がらす忌」の告知を見ているうちに、わたしも川崎さんとその仲間たちが花見や月見をたのしんでいた郡山城址公園小野十三郎の詩碑へハイキングに行ってみたいなと思うようになった。と、そんなこんなで、このたび大和郡山に出かけることが決まって、念願かなってやれ嬉しや。ずっと買い損ねていた川崎さんのエッセイ集『くぬぎ丘雑記』をあわてて購ったあとで、昭和29年の大和郡山の鳥瞰図が売っているのを発見して衝動買い。と、ひとまず遊覧の準備はととのった。





川崎彰彦『くぬぎ丘雑記 奈良盆地から』(宇多出版企画、2002年11月20日)。1997年3月から奈良新聞の文化欄に「くぬぎ丘雑記」というタイトルで連載したエッセイの119回までを収録。

私のすまいは大和郡山城址西側の台地にある。この台地は武家屋敷なども残る閑静な住宅地で、クヌギの木が多い。ほかにクリ、ミズナラなどもあるが、ことにクヌギがめだつ。そこでこの台地を「くぬぎ丘」の美称で呼んでみたい。

と、本連載第1回の「大和路の春」にある。さっそく、大和郡山の風土を体感して嬉しい。このあとも、川崎彰彦さんの文章とともに、大和郡山の季節の推移に身をまかせて、すっかりいい気分。大和郡山へ出かける絶好の序奏になった。





大和郡山市観光協會発行《大和郡山案内》。《菜の花の中に城あり郡山》という句が惹句が添えられた菜の花畑の表紙。裏表紙には「大和郡山市歌」が楽譜付きで紹介されている(中川静村作詞、川澄健一作曲)。昭和29年頃に発行の鳥瞰図。「田」の落款と「八作」のサインがある。すなわち、作者は田八作。吉田初三郎の高弟で、別名吉田朝太郎。郡山町は昭和29年1月1日に大和郡山市となっているので、この鳥瞰図は市制化を記念する印行と思われる。「京都 河原町 三條 六曜社作製」とクレジットされている。




上掲の表紙を開くと、「西公園遊園地」「城址内堀」「城址内堀のボート」「西公園満開の桜並木」に囲まれて、「城址より市内を望む」の写真が大きく掲載。




観音開きにすると、鳥瞰図の上に折りたたまれた下部の右部分に「大和郡山市庁舎」「近鉄駅前商店街」「金剛山寺(矢田寺)」「大納言塚」の写真。




左部分では「特産郡山金魚養殖一部」「売太神社」「源九郎稲荷神社」「松尾寺」を紹介している。




そして、下部の折りたためる部分を開くと鳥瞰図が広がり、その下の余白(上の写真の裏)に昭和29年1月現在の大和郡山市の現況が記載されている。そして、ここに印刷されている市の紹介は以下のとおり。

「菜の花の中に城あり郡山」と謳はれた大和郡山市は遠く豊臣秀吉時代より畿内商業の中枢地として知られ明治以降は縣下商工業の中心地である、就中メリヤス工業に於ては全国生産高の第四位を誇り国内は勿論諸外国にも輸出されその名声を博している。更に特筆すべきこのに特産郡山金魚があり、金魚といえば郡山、郡山といえば金魚を想起される程有名であり生産高において品質において共に全国第一位を占むるのみならず諸外国への輸出を獨専してゐる又郡山城址を中心として西公園一帯に亘つての数千本の櫻は「郡山の櫻」とあまりにも知られている

吉田初三郎ばりの鳥瞰図ならではの独特の構図はいつも目にたのしい。この一枚の平面図に、近郊の奈良市周辺はもちろんこと、大阪、神戸、吉野山、京都、琵琶湖まで描きこんで、ひとつの小宇宙のようになっている。


新緑の大和郡山を歩く・その1:金魚と花街

午前8時半。そんなこんなで、『くぬぎ丘雑記』の余韻とともに、昭和29年の鳥瞰図を片手に、5月の大和郡山を歩くのであった。



まずは、近鉄郡山駅附近にズームイン。駅の上側(西口)、つまり城址公園の南一帯の「大納言塚」のある台地が、川崎彰彦さんが「くぬぎ丘」と称していた台地。このあたりはあとでバスの車窓から眺める予定、まずは、線路の東側を歩いてみることにする。民家が密集している様子のこの界隈。



風情たっぷりの路地の朝を満喫しつつ、近鉄電車の線路に沿う方向で歩を進めてゆく、その先には……。




絵に描いたような、大和郡山の金魚養殖地の風景が眼前に広がる。




左手に金魚養殖地、右手の田園の向こうには近鉄電車。ああ、なんと風光明媚なことだろう!



入江泰吉《金魚のふるさと》、『近鉄沿線風物誌 産業2 金魚』(近畿日本鉄道宣伝課、昭和36年7月1日)より。今もこの写真とまったくおんなじ雰囲気の大和郡山なのだった。




近鉄沿線風物誌」は、季刊誌『真珠』(昭和27年1月創刊、昭和44年1月終刊、全69号発刊)とともに近鉄の宣伝課が刊行していた沿線 PR 小冊子。「総論」の『真珠』に対して、『近鉄沿線風物誌』は「各論」で、その微細にわたったテーマ設定が嬉しく、「産業」のほかに「社会」「歴史」「自然」「文学」「芸術」「民俗」といった区分があり、それぞれにテーマが枝分かれし、たとえば「芸術」には「歌舞伎」の1冊もある(著者は山口廣一)。「文学」のシリーズでは足立巻一がさかんに執筆しているのが嬉しい。全体的には岩波写真文庫の影響が多分に伺えて、そんなところもたいへん興味深い。



もと来た道を戻って、今度は右折(近鉄郡山駅の東方向)してみると、今度はにわかに特徴的な3階建ての木造の建物が登場し、独特の風景が眼前に広がる。典型的な花街の町並みとなっていて、そうか、沿線案内には特に記載がなかったけれども、実はこの界隈は艶めかしい界隈であったということがなんだか妙に嬉しくて、上機嫌に建物見物がてら路地を適当に歩きまわる。



古い木造の建物がたくさん残っていて、建築的にもみどころが多い界隈。このあたりの花街の発展のありようについては、まだ調べていないのだけれども、線路の向こう側には郡山城址がありその周囲には武家屋敷の跡がある一方で、こちら側には艶めかしい路地が控えているという都市構造がとても面白いなあと思った。歩いてみるものである。




朝の花街歩きをたのしんでいるうちに、いつのまにやら、駅に直進する商店街に出た。ここを左折して、近鉄郡山駅へ戻ってゆく。




昭和29年の大和郡山の鳥瞰図《大和郡山案内》に紹介されている「近鉄駅前商店街」の写真。50年前の近鉄郡山駅前の様子とそんなに変わっていない感じがする。古い日本映画を見ている気分になる1950年代の町並み写真がいつも大好き。


新緑の大和郡山を歩く・その2:城址公園の小野十三郎の詩碑


駅前に戻ってきたところで、ふたたび鳥瞰図を広げて、いよいよ郡山城址公園へ向かう。




郡山城の方向へ線路に沿って歩いてゆき、城址公園の手前で踏み切りを渡って、線路の向こう側へ。市役所は現在も同じ位置にあるけれども、小学校は現在はないのかな。




そうだ、先ほど駅近くの商店街沿いで「旧郡山小学校跡門柱」をあったっけ。昭和29年の鳥瞰図と21世紀の現在とがつながった瞬間によろこぶ。




踏み切りを渡って、城址公園の入口に。近鉄電車の線路とお濠。このお濠は「五軒屋敷池」という名前なのだそうだと案内板で知る。




踏切とお濠を渡り、城址公園にいたる道へと右折。すると、今度は左手に内堀があって、その向こう側に古い木造建築が見えて、なかなかの風情。ここに「桜名所百選の碑」がある。その季節にはお花見の人びとでさぞかし賑わうことだろう。でも、つづじと新緑の季節もなかなかのもの。





それにしても、なんと風光明媚なことだろう! と、青い青い空の下の砂利道を日傘片手に歩いているうちに、気持がふわふわしてくる。ジーンと感激にひたっているうちに、お城の門に到着。




城内に入り、さらなる上り坂を行った先の高台、先ほど踏切を渡ったときに右手にのぞんでいた「五軒屋敷池」に沿った位置に「城址会館」なる建物がある。小野十三郎の詩碑はもうすぐ! と城址会館へ向かって、思わず小走り。





城址会館が眼前に迫ったのだけれど建物観察はあとでゆっくり行うこととし、取るものもとりあえず、建物の右手へと視線を移すと、小野十三郎の詩碑が向こう側に! まさにこの場所で、川崎彰彦さん一行がお花見をしていたのだなあ。この場所、あまりにも素敵過ぎて、いざこの場所に来てみると、それはもうびっくりするくらいだった。





詩碑に接近して、いつまでも感激にひたる。表面には「ぼうせきの煙突」の詩が、裏面には詩碑の由来が刻まれている。《作者小野氏(一九〇三― )はその幼少の日の一時期を市内台所町で過した。作品はこの辺りから当時の町の風景を回想したものである 森田義一 これを建てる 一九七九年十月》の文字が刻まれている。小野十三郎が1996年に亡くなったあとも没年は空欄のままに。



小野十三郎が亡くなった翌年、川崎彰彦さんは「奈良新聞」のエッセイに以下のように書いている。

 先日、大阪や生駒の友人たちが郡山城跡にやってきた。この人々とは、もう十年も前、平城宮跡で月見をしたことがある。そのとき三笠の山にいでし月が雲のない大空を「月の船」のように皓々と照りかがやきながら横切って生駒山脈の方角へ沈んでいくまでを、呆然と魂を奪われたようになって見入った。その夜の印象がよほど強くて、月見は大和にかぎると思いこんだらしい友人たちは、その後、私が郡山にきてからは、郡山城跡に集まるようになった。同城跡の市民会館前広場に昨秋、九十四歳の天寿を全うして他界した大阪の詩人・小野十三郎の詩碑がある。
 小野さんは少年時代の一時期を郡山の養家で過ごした。そのころの記憶に基づくらしい――郡山の紡績工場のギザギザ屋根の上に尾を引くハレー彗星の光芒をとらえた印象的な詩が美しい自然石に刻まれている。友人たちとこの詩碑の近くに集まる。「月見」と称しているが、明るいうちから宴が始まるから夕刻には散会になる。昼間の月見なんてヘンだからハギ見か秋の園遊会にしようと、私は主張している。

この文章は、『くぬぎ丘雑記』の1997年の項に「大和秋色」として収録されている。このあと、季節はめぐり、翌1998年の春のエッセイ、「春のもと句会」では《大阪の詩人・小野十三郎の直接、間接の影響下にある》友人たちと花見の宴での句会のことが書かれていたりして、読んだだけでうっとりしていたものだったけれども、いざ本当に来てみると、郡山城址公園小野十三郎の詩碑は本当に素敵な場所だった。こんなにも素敵な場所だったなんて! 川崎彰彦さんのおかげで来ることが出来たのだなあと、5月の青空の下、いつまでも感激にひたった。




小野十三郎『詩集 大海邊』(弘文社、昭和22年1月15日)。装幀:池田克巳。郡山城跡の詩碑に刻まれている「ぼうせきの煙突」はこの詩集に収録されている。


《「ぼうせきの煙突」
たそがれの國原に
ただ一本の煙突がそびえてゐる。
大和郡山の紡績工場の煙突である。
ぼうせき。それはいまは死んだやうな名だが
私は忘れることあ出來ない。
明治も終りの夏の夜である。
七十六年の週期をもつハリー彗星の渦が
涼しくあの紡績の裾齒状屋根の
紺青の空に光つてゐたのを。
  ○
ひとりゐる。若草山
風渡る。
芒原。》


『詩集 大海邊』は小野十三郎の敗戦後初の詩集で、版元は戦前最後の詩集となった「新詩叢書」の『風景詩抄』と同じく湯川松次郎の弘文社で、その住所は戦前は大阪市南区順慶町通、戦後は大阪市住吉区上住吉となっている。ちなみに『大海邊』と同年の昭和22年6月に出た『叙情詩集』の版元の爐書房の版元は奈良県高市郡八木町。とかなんとか、そんな奥付でたどる関西地図はそれだけでいつも愉しい。『風景詩抄』には「紡績の菊」という詩が収録されている。


《「紡績の菊」

子供のとき
大和桃源に十年ほどいた、
はじめのころはおぼえていない、
ただ俺が生れるずつと前から、
赤煉瓦の古い紡績工場があすこにあつた、
毎年いまごろになると
構内に豪華な花壇がくまれて
菊見でにぎわつた、
秋の陽の強烈なスポツトを浴びる
たがをはめた
古塔のような一本の大煙突、
ぼうばくとして記憶の果に
何もない地上から
いまそのようなもののかたちが
そびえたつ。》




小野十三郎の「ぼうせきの煙突」の紡績工場は、昭和29年の大和郡山の鳥瞰図にある「日紡工場」のことかな。工場は国鉄郡山駅の近くでその線路に沿っている。鳥瞰図に描かれている郡山城址は桜が満開。




城址会館」の建物の裏面の塀の向こうがちょうど「ぼうせきの煙突」のあった方向。近鉄電車の架線の向こう側に若草山が見える。小野十三郎の詩そのまんまに若草山が。




そして、城外を偵察するようにして、正方形の鉄砲狭間から外をのぞむと、ちょうど近鉄電車が走ってきて、電車が通過してゆくでござるぞとよろこぶ。



小野十三郎の「ぼうせきの煙突」の余韻にひたりながら、「城址会館」の建物をひとまわりしたあとで、あらためて「城址会館」を見上げる。和洋折衷の建物が奈良ホテルを彷彿とさせてワクワクしてくる。くすんだ看板の説明書きで、この建物がかつて「奈良県立図書館」だったことを知った。小野十三郎の詩碑はかつての図書館の建物のすぐ近くに建っているということになる。なんてすばらしいのだろうと思う。




現在は市民会館として使用されている旧奈良県立図書館の建物は明治41年奈良県最初の図書館として奈良公園内に建てられ、昭和43年にここに移築されたという。小野十三郎の詩碑は昭和54年の建立だったから、その約十年前。大和郡山市役所のウェブサイトの「史跡・文化財」を参照すると、設計は奈良県技師の橋本卯平衛によるもので、橿原市にある明治36年竣工の旧高市郡教育博物館も彼による設計で似た外観だという。いつか行ってみたい!




奈良県立図書館に入り、ちょっとだけ建物観察したあと、窓から公園の緑の風景をのぞむ。かさねがさね、なんと素晴らしいことだろう。


近鉄郡山駅からバスにのって、車窓から「くぬぎ丘」をのぞんで、矢田寺へ。

一ヶ月遅れの自分内「夜がらす忌」を満喫したところで、ジャリジャリともと来た道を戻って、ふたたび近鉄郡山駅前に戻る。郡山城址公園のあとは、「くぬぎ丘」を通るバスに乗って、終点の矢田寺前まで行くことに決めていた。そのバスの時間まではまだちょっと間がある。駅前に啓林堂書店という本屋があるのが実はさっきから気になっていたのだ。イソイソと店内に足を踏み入れる。



『くぬぎ丘雑記』所収の2002年の「年末来の読書」に、露文科出身の川崎彰彦さんは、

十年ほど前「ソ連崩壊」の大見出しが朝刊に踊っていた日、私はわけがわからず、世界の座標軸が一夜にして消え失せたような不安にかられて近鉄郡山駅前の書店で、岩波文庫の棚にトロツキーの『裏切られた革命』を見つけて買って帰り、むさぼり読んで……

というふうに書いていたのを、近鉄電車を下車して近鉄郡山駅前に書店があるのを見たとき、鮮やかに思い出したのだった。その本屋はここかな、どうかなと、店内に足を踏み入れていたら、岩波文庫コーナーが見事にあった。きっと、川崎さんはここで岩波文庫を買ったのだ。わたしも記念にここで岩波文庫を買いたいなと思ったところで、水上瀧太郎の『銀座復興 他四篇』が目に入った。なんやかやで買い損ねていた今年3月の新刊を2か月遅れで買ったところで、バスの時間が近づいてきた。




昭和29年の大和郡山鳥瞰図より、郡山城址の南の台地。川崎彰彦さんが「くぬぎ丘」と名づけた台地を含む一帯。鳥瞰図の上部には大阪の町が描かれ、さらに西ノ宮、神戸の文字も見える。この画像では切れているが右上に生駒山、左上に信貴山、その下に松尾寺

 私のすまいは大和郡山城跡西側の台地にある。この台地は武家屋敷なども残る閑静な住宅地で、クヌギの木が多い。ほかにクリ、ミズナラなどもあるが、ことにクヌギがめだつ。そこでこの台地を「くぬぎ丘」の美称で呼んでみたい。ここから近い城跡の北側、濠に面したあたりにもクヌギ林があり、芽ぶきなのだろう、二月なかばから梢をやわらかく煙らせていた。この先、城跡や台地のクヌギの木は霧のような春雨なかで梢にモール状の花のふさかざりをつける。人は城跡の桜の花にのみ気をとられ、クヌギの花のような地味なものには注意を向けないのだろうが、ここにもたしかに大和路の春のおとずれがあるのだ。

と、ふたたび『くぬぎ丘雑記』第1回「大和路の春」を反芻する。さて、城址の桜の季節も去り、新緑の5月。『くぬぎ丘雑記』では、たとえば「鳥の声」と題したエッセイに、桜の季節のあとの「くぬぎ丘」の風土が活写されている。

 大型連休の初日――みどりの日の朝、玄関の戸を開けた家人が、
 「あ、ウグイスが鳴いてる」
 と弾んだ声をあげた。
 ウグイスの声は私のいる居間には届かないが、家人は玄関口で、なおも聞き耳をたてている気配だ。やがて「真っすぐ南の方角で鳴いている」といった。ああ、あのガケのあたりだなと、私は思った。
 近鉄郡山駅から私の家へは矢田道を真っすぐ西へたどる。カトリック教会や幼稚園、旧藩時代の家老の屋敷跡と伝えられる屋敷などの立ち並ぶ静かな通りである。やがて斑鳩道という通称をもつ県道と交差するが、その手前の住宅の裏手あたりでも、ウグイスの声を聞きつけることが多い。このへんの民家の塀のなかでミツマタのクリームイエローの花が咲くのも、毎春の楽しみである。

矢田寺に向かうバスは、先ほど歩いた郡山城址をぐるっとまわって、「矢田道」を直進して、「斑鳩道」を横断したあと富雄川を渡ってさらに直進して、鳥瞰図では「金剛山寺」と表示されている矢田寺の入口にいたるというコースである。



午前10時35分。大和郡山駅から矢田寺前にゆくバスは1日5本、その2本目のバスに乗る。バスの車窓から、川崎彰彦さんの住んでいた場所を眺めて、『くぬぎ丘雑記』の気分にひたるというただそれだけの時間をたいへん満喫。川崎さんの書いていたカトリック教会はあの教会かな、このあたりの田園風景が目にたのしいなあとかなんとか、ジーンと感激にひたっているうちに、バスはスイスイと矢田寺に向かって直進、奈良盆地を少しずつ高台に向かってゆく感じがたいへん心地よい。川崎彰彦さんが愛でていたに違いない田園風景に心がスーッとなったところで、バスはあっという間に終点の矢田寺前に到着し、矢田寺の参道の前に降り立つ。




ここから先が矢田寺の参道。石畳の道をひたすらのぼってゆく。




しばらく上ったあとで来た道を振り返る。バスで走ってきた道路がはるか向こうまで続いている。参道のなだらかな石畳の坂道の終点は矢田寺の入口。矢田寺の本堂へゆくためには、この先さらなる階段をのぼりらなくてはいけない。と、その階段の前に、茶店があるのを見つけた。階段をのぼる前にちょいとひと休みと、吸い込まれるように中に入って、コーヒーを1杯。




その茶店からは「絶景かな、絶景かな」としか他にいいようがない風景が眼前に広がる。低山の連なりとその前方に控える台地の眺めは、「奈良盆地」を鮮やかに実感させる。




茶店からさきほど歩いてきた参道をのぞむ。




いつまでもここでのんびりしていたい気もするけれども、さあ、これから矢田寺へ。




あじさいで有名な矢田寺の正式名称は高野山真言宗金剛山寺。矢田丘陵の中心地の矢田山の中腹にあるお寺。これから長い階段をのぼって、本堂をめざしてゆく。




階段をのぼるのは大変だけれど、この階段がなかなかの風情。日傘片手にゆっくり上ってゆく。




ようやく、本堂が見えてきた。