ぬしは麻布で気が知れぬ

わたしが見たら泣いて喜びそうなことを、今出ている「演劇界」で山川静夫さんが書いている、という内容のメイルを昨日いただいて、ハテなんじゃろなと気になってしかたがないので、昼休みさっそく立ち読みに出かけた。今まで立ち読みすらほとんどしたことのなかった「演劇界」、今月号の表紙は富十郎の『船弁慶』だ、ジーン。と、気もそぞろに山川さんのページを開いてみると、戸板康二に関することが書いてある。さらにジーンとなって、読み進めていって、最後の方でびっくり! 戸板康二の『歌舞伎への招待』が来年1月に岩波現代文庫として復刊されるとのこと。わたしが戸板康二に夢中になったのはまさしく『歌舞伎への招待』がきっかけだった。その『歌舞伎への招待』が文庫化されるといいなあとずっと思っていた。文庫本になるとしたら岩波文庫の青がいいなあと妄想は広がる一方だった。それがなんと初春に実現、岩波の青ではなくて、岩波現代文庫小宮豊隆中村吉右衛門』、渡辺保女形の運命』と同じシリーズとして、戸板康二『歌舞伎への招待』が本屋さんに並ぶことになるというわけだ。……と、泣いて喜びながら(心のなかで)ぼーっと散歩していたら、車にひかれそうになってしまった。危ない危ない。 

日没後いそいそと六本木へ。まずは青山ブックセンター。ひさしぶりに来ると、なにやら妙に興奮してしまうのかつい散財。ルビッチの『天国は待ってくれる』の上映プログラムを思わず買ってしまった。もう一度見たい! いそいそと芋洗坂を下って十番へ。ギャラリー柳井にて、林哲夫さんの《モランディ頌》と名づけられた展覧会。本当にもう素敵な絵ばかりでずいぶん見とれて、特に背景の色の感じがとてもよかった。あとやっぱり心惹かれるのが書物を描いたもの。いつの日か自分の部屋に飾りたいものだなあとちょっと夢のようなことを思った。毎回見逃していた林哲夫さんの展覧会、見ることができて本当によかった。昔よく麻布十番に来ると、ソバ屋じゃなかったらここ、というお気に入りのお店があって、何年ぶりかで食事した。なにもかもがまったく変わっていなくて嬉しかった。

今月はじめの風邪っぴきのときに久保田万太郎の句集を眺めていた折、戸板康二の『万太郎俳句評釈』を読み返して、この本の類いまれな名著ぶりを痛感していたのだったが、そのとき心に残った俳句が「きの知れぬ麻布の永き日なりけり」。万太郎が銀座でいつも行っていたよし田の青年が麻布に永日庵というソバ屋を開いたときに贈った句だそうで、江戸以来の慣用句「ぬしは麻布で気が知れぬ」を踏まえて「気が知れぬ」を枕言葉にしたのは手だれである、と戸板さんは書いていた。そのことがまだ記憶に新しいとき、万太郎の『市井人』を読み返していたとき、主人公の麻布十番の下宿に浅草からはるばる訪ねてきた友人が「ぬしは麻布で気が知れぬ」を口にしているのを見て「あっ」となった。前読んだときは特に気にとまらなかった箇所だ。……と、久保田万太郎の余韻とともに、麻布十番に来ることになった巡りあわせが嬉しかった。しかも林哲夫さんの展覧会のおかげだなんて、ちょっと出来過ぎな感じの嬉しい夜だった。

展覧会メモ

  • 林哲夫 水彩画《モランディ頌》ギャラリー柳井*1

購入本

植草甚一のコラージュ日記、2冊でおしまいなのがとても残念、大事に読むとしよう。と、植草甚一目当てで入った本屋さんだったのだけれども、思わぬ発見があって、師走の本読みが一気にたのしみになった。わたしにとってはひさしぶりの堀江敏幸もたのしみだし、今回のびっくりは伊藤玄二郎さんの本。こんな本が出ていたなんて! 今年3月に発売になっていたようで、今日までずっと気づかなかった。鎌倉文士が登場する、編集者によるメモワール。里見とんに傾倒していたくだりを立ち読みして即購入を決意。うしろの方をペラペラめくって、猛烈に永井龍男を読みたくなった。それにしても「末座の幸福」とはなんと素敵なタイトルだろう。脚注が充実しているので、鎌倉文士再入門としても読めそうで、こんな本が出ていたなんてなんて幸福なことだろうと思う。この筆者のことを知ったのは、いつだったかささま書店で買った「別冊かまくら春秋」の永井龍男追悼号の編集長として、がきっかけだった。去年行き損ねた、年末の瑞泉寺、今年は行けたらいいなと思う。