最後の・歌舞伎座の『野崎村』、岩波文庫のリクエスト復刊

まだ雨が降っていなくて嬉しい。ツンとした冷気のなかを今週もイソイソと歌舞伎座の幕見席へ。千秋楽の前日の幕見席の行列は初日の次の日よりはずいぶん大勢だった。開場が始まってツツツツと歩を進めていたら id:kanetaku さんに遭遇してワオ! だった。わーい、やっぱり見逃せない今月の『野崎村』。開演になると幕見席はいい具合に満席になった。閑散とした幕見席の大ファン、と言いつつも、満席の方が天井桟敷気分がますます盛りあがってずっと愉しい(座っているときは)。と、気分はさらに上々、いい具合に『野崎村』見物を締めくくることができて、言うことなしだった。

歌舞伎座を出ると今にも雨が降りだしそうだけどまだ降っていない。京橋図書館に本を返したあとマロニエ通りをテクテクと教文館へ本を見に行った。年に何度かのおたのしみ、岩波文庫の《リクエスト復刊》の選定をしたあと、あれこれ長居して外に出ると、雨がポツポツと始まったところ。徒歩帰宅は諦めて地下鉄に乗りこんで、再び地上にあがったときは雨がザアザア、夜ふけ、寝る前にふと窓の外を見たら、雪がシンシンだった。このところ日々の天候が不安定になってきている。着々と春だなあと思う。

芝居見物

  • 二月大歌舞伎『野崎村』/ 歌舞伎座・夜の部一幕見

短い2月は逃げるように過ぎてゆく。『野崎村』に感激しているうちにあっという間もなく終わってしまう。と、しょうこりもなく歌舞伎座の『野崎村』の追憶にジーンとなっていたところ、またもや新たな感激に襲われることになった。いつもたいへんたのしみにしている竹本葵太夫 HP(http://www6.ocn.ne.jp/~aoidayu/)の「今月のお役」にて21日から「『野崎村』心おぼえ」が掲載されている。こんなにも充実した記録を読むことができるなんて、こうしてはいられないと、パッとプリントアウトしてさっそく読みふけって、これまで3度見た『野崎村』の追憶にひたって、さらに胸がいっぱい。「心おぼえ」は中途だったけど、ひとたびその詳細な文章を拝見してしまうと、なんとしてもあともう1度見ておきたいものだと、しょうこりもなく思ってしまう。なんだか、歌舞伎座の『野崎村』をとりまくすべてのことに、最後の最後まで感激続きだった。無事に見られたことと、実のところ先月一番心配だった見物にあたっての己のテンション(自分で自分がわからない…)を保てたことを、よかったよかったと心から思うのである。まあ、単なる自己満足なのだけれども。

『野崎村』は何年か前の文楽公演と、いつかの浅草歌舞伎で亀治郎のお光と、今まで2度見物したことがあったものの、ほどなくして忘れてしまう刹那的なわが数年の芝居見物であるので、今回初めて見るような感覚で『野崎村』の接することとなった。事前にしたことはとりあえず、岩波の旧大系の『浄瑠璃集』で本文を読むというのと、かねてからの愛読書、志野葉太郎著『歌舞伎 型の伝承』(演劇出版社、1991年)をざーっと見ておく、というくらい。というわけできわめて適当な感想ではあるけど、初見のときにもっとも印象的だったのは、今回の『野崎村』は浄瑠璃読みの感触を歌舞伎の舞台でしっかりと体感できた、ということだった。その「丸本に忠実」ということは、富十郎がセリフを補足していること、舞台には登場しない病臥している老母の存在感がしっかり、といったことに対して漠然と感じていたのだったが、あとになって、久松の鴈治郎による藁苞を使った型をはじめとする、初見の印象の所以を解き明かしてもらうという種明かし的なことに立て続けに遭遇するというなりゆきになり、そして、ますます『野崎村』に感激することとなった。

今回、葵太夫さんのサイトで初めて知ったことに、幕開けのお光が登場する「あとに娘は気もイソイソ」の直前にある、「年の内に春を迎えて初梅の花も時知る野崎村…」という一節は原作の端場「あいたし小助」のマクラを付けたものだということ(音羽屋では省略とのこと)、それから、お染と共の女中のおよしが花道に登場するところ(「堤伝いに…」の「つつーみ」では先日文楽の『沼津』で覚えた「ウミ字」が使われていることも初めて知り注目、いや注耳だった)はチャリ的なことはせずに「花尽くしもおっしゃらないしとやかな吉之丞」であったということ、というのがあった。すぐに観客の目から消えてしまうし花道の見えない幕見席であるにもかかわらず、ちょろっと接する吉之丞がきわめて好感触だったなあということをヴィヴィッドに思い出したし、いつも歌舞伎では省略される小助登場のくだりをそれとなく実感させてくれるしかけが富十郎のセリフや鴈治郎の藁苞の型以外にも、いろいろとあったのだなあと、ますます面白いなあと思った。なにかと浄瑠璃読みの感触が鮮やかな舞台なのである。なので、まずはそれら一連のことを思いつつ、最後の『野崎村』見物が始まった。


昭和54年の国立劇場所演で小助をしていたという富十郎が今月久作をしている、という諸々のことにとにかくも感激だったのだけれども、「あの病づらめが」で富十郎の久作がお染の存在に気がつくというやり方をしているということについて、武智鉄二の論文にも同様の指摘がある、ということを葵太夫さんのサイトでやっと気がついた。筋書のインタヴュウの富十郎のところには、

「どこまで覚えているかわかりませんが、昭和24年に文楽座でやった武智歌舞伎を思い出してさせて頂きます」
武智鉄二の実験的な演出で旋風を巻き起こした武智歌舞伎の中心メンバーだった。『野崎村』ではお染の母、お常の役だったが、その時も文楽の大夫や三味線のそうそうたる名人が、武智と共に「久作役の冠十郎さん(当時の靖十郎)にもやかましく注文をだしていました。息のつめ方とか、お染にいつ気が付くか等私はそばで聞いていました。」

というくだりがある。とんだ「宝の持ち腐れ」だわいと、あわてて本棚から武智鉄二著『蜀犬抄』(和敬書店、昭和25年)を取り出した。

久作はお光をどうやって納戸へ連れて行くのか。それは「無理に」である。では何故久作はお光を「無理に」つれて行かねばならぬのか。それはお染が来ているからである。久作がお光を奥へやるのは、お主筋のお染の難儀な辛い立場を救い、お光のいやな気持をも忘れさせ、又久松お染を二人きりにして意見して、婆のために久松とお光との結婚を確定しようという考えからである。だからそれまでは久松お光の二人が口喧嘩をしても、別に強いて隔てようともせず、「灸業のかわり喧嘩の行司さすのかやい」と軽口まじえに唯たしなめるにとどまっている。それをお光が「いわし、くさる」と表へあたって云うので、初めてお染の存在に気づき、「何を云うやら」と言うのである。この「何を云うやら」は唯埒もないことを言うという意味ではない。お染の存在を意識に置いて、尊敬すべき地位にある人に対する娘のはしたない言動をくろめるためと、もう一つは久作の困惑の情(この思いがけないお染の来訪という事態に関しての)から出た、自分で一体どうしてよいのか判らぬ気持をも含めての「何を云うやら」であらねばならぬ。「何を云うやら」という文章はたしかにそのような情合の感覚を含んでいる。したがって義太夫節で語る時はお光の詞を「病づらめが、言わし、くさるッ」と一言一言表へあてこすって言い、それで久作が不審を起して「ムー」と語り、表を見る間が在って、「何を云うやら」を以上述べた気持を込めて語り、その次の「アハハハハ」の笑いが此の上もなく難しいものになると思う。それ以下の詞は従って肚からまくれて、夢中のように語らるべきだ。又久作が此処でお染に気づけばこそ、久作はお光を「無理に納戸へ連れて行く」ことになるのであり、又、「始終後に立聞く」ことも出来るのである。(武智鉄二「『野崎村』について」より)

富十郎の久作を見た記念に長々と抜き書き。この「『野崎村』について」の前には「野崎村研究」という文章があり、これを読んで山城少掾の『野崎村』を聴きたい、と切に思った。

ところで、他のページを繰ってみたら、先日文楽を見たばかりの『沼津』についての、以下の一節を目にしたとき、突然目頭がツンとなってしまった。不意打ちだった。

「旦那のおっしゃる通り、大概乱れかかって居りますわい」の後の平作の笑いについてである。古靭は「アヽアハアハヽヽ」というように、一種のこしらえを以て笑うのである。ところが私はこれが平作の狂言の乱という事が判らずに、つんぼけんを打って、調子をあわせて、乱れという言葉を文字通りに取って、アハヽヽと素直に笑うべきで、狂言の乱が判って、一緒に洒落を言う気で笑ってはいけないという意見を持って居た。それで少し不審に思ったので、この気持を古靭に正して見た。すると古靭は「乱れと申しますのは乞食の事でございましょう」と言った。それで私は帰宅して調べて見ると、あるある「俚事集覧」に「大阪詞乞食をいふ」と載っている。それで古靭は、重兵衛に「乱れ」と言われたのが、平作には「乞食」のことと受けとれて、そのように言われるようになった境涯を淋しく思って、「アヽアハアハヽヽ」とそのこしらえで笑ったのである。此処まで調べのととのった人はまだないように思う。(武智鉄二「千本道行と沼津」より)

うっ、これが感動せずにいられようか。岩波の大系の註釈にも書いてあったような気がするけれども(忘れていた)、『野崎村』の義太夫についての詳細な文章を読んだあとに目にすると、さらなる感激が不意打ちに襲ってくるのであった。山城少掾の『沼津』を聴きたいと切に思う。同じ文章の、

古靭の「沼津」については稿をあらためて書きたい。その前半の咲太夫風と、後半の染太夫風との肚と口とのさばき工合の鮮やかな変化は驚嘆すべきものがある。又染太夫風の産字運びというものが、これを聞いてはっきり判った。全く糸から離れて、言葉を言ってしまって、それから音を遣って産字を不自然にならぬように気をつけて運ぶ。それでこそあの産字の多いおよねのクドキが別物にならず、それで以て聴衆を泣かせ得るのであると悟った。唯、私はこの沼津を三回聞いて、最初はその後で神経痛の発作を起して寝込んでしまったし、二度目は途中でグラグラと目眩がした程で、三度目にやっと無事に聞き了った程聞き込んでいるので、今軽々に筆を下したくない気持がする。

というくだりを見てしまうと、ますます山城少掾の『沼津』を聴きたいと切に思う。うーむ、武智鉄二の文章はむやみに人を熱くさせるなあ。とにかくも、『野崎村』と『沼津』の今月を締めくくるにふさわしい、武智鉄二の『蜀犬抄』だった。


先月の『御ひいき勧進帳』では松緑に思いを馳せ、今月の『野崎村』では武智鉄二、というわけで、現在の富十郎のかたちづくっている「昭和歌舞伎」いろいろにうっとりと眩しい思い。そんな富十郎をはじめとして、お光の芝翫、お染の雀右衛門、久松の鴈治郎、後家の田之助、という「人間国宝」の共演の照らしている「歌舞伎の歴史」がとても眩しい。漠然とではあるけれども、この感覚を一生覚えておきたいと思う。

と、そんな役者たちのそれぞれがそれぞれにコクがたっぷりでありつつも調和が完璧で、プリズムのように5人の役者が光り輝きつつ、全体にはしっとりとひとつの劇世界が屹立しているという、そんな舞台を初回とおんなじように、最後の最後までただただ満喫だった。たとえば、4人が同じ舞台にいるとき、お光と久作が「動」で、彼らを挟むようにして木戸越しに、お互いの存在に気づいてどうしたものかとお染と久作が目線を送り合うところとか、なんでもないようでいて、4人それぞれの存在がしっかりとしつつも決してうるさくはならず、舞台に厚みがあるとのはこういうことなのだ、ということがよくわかる。4人一緒の舞台というと、お光尼が登場したあとのしんみりとしたところとかバタバタするところなど、いつもだったら事のなりゆきをぼーっと眺めるだけになりそうな恐れもあるけど、4人それぞれが厚みたっぷりなので、今回の『野崎村』はすみからすみまでただ見ているだけでそのまま満喫なのだった。

むやみに人を熱くさせる武智鉄二の文章を見たあとなので、その言葉を反芻しつつ、舞台を見るというのもたのしかった。おかげで最後の『野崎村』見物がますますオツになった気がする。お染久松のクドキのところ、久作の意見のところの3人でいるところなどの、『野崎村』ならではの妙味は、武智鉄二の言う「すべて此の場の人物は声を出して泣いてはいけないので、それは奥の婆に聞え、何事かと思うと困るからである」という一節にあるのだなあとしみじみ思った。初見のときから無意識のうちに老母の存在が通底しているのがいいなあと思ったのだったが、姿を見せない老母の存在、というのが、歌舞伎としての限界(演じる役者がいないとか役として映えないとか)ではなしに、よい舞台だと歌舞伎の醍醐味としてかえって効果的なのだ。藤沢清造の「野崎村の研究」では老母を登場させていてその「卓上舞台」が愉しかったのだけれども、小山内薫が老母のことを、劇全体の鏡のような存在、ここにいる登場人物をそれぞれに照らすことでその光線がそれぞれに屈折してひとつの空間が形成、というようなことを彼一流の修辞で語っていたのが印象的だった。老母が姿をみせない、ということに、かえってなるほどという気持ちになってくるのが今回の舞台だった。

武智鉄二の言葉でとても印象的だったことをもうひとつ。お染の出について、《お染の出は真世話運びと組太夫音に十分注意する。お染が歩む「友禅の振の袂」に寒い川風がゆきかえる、そのもつれあいの姿である。》という一節がある。近松半二おなじみのシンメトリーとして、『野崎村』では、農村のお光と都会の令嬢、お染の対比というのがある。農村に振袖姿のお嬢さんを登場させているところに趣向がある、らしい。歌舞伎というのは見たまんまの世界で、その人の鬘や化粧や衣服など「見た目」でその役柄が自動的に系統づけられているわけだけれども、お染が振袖を着ている、ただそれだけのことがこんなにも感動的とはと、なにやら意味不明ではあるけれども、そんなうまく言葉にはできないような感激を味わった。久松とお染のクドキのところは、袖をつかったお染の身体を見ることになる。雀右衛門を見ていると、このハラハラと美しく刹那的に、ろうそくの炎のようにゆらめく袖がお染そのものなのだなあということがよくわかる。正体をあらわすときは衣裳が変わったりと、歌舞伎は「見た目」がそのまんま「その人」なのだ、という、わざわざ言うまでもない当たり前のことがしみじみと面白いことのように思えてくる。なにかいい舞台をみると、その演目におさまらない「歌舞伎」そのものということを実感した(気のせいかもしれないけど)、という気持ちになるけれども、『野崎村』はその典型であったように思う。今まで、芝翫のお光にばかり注目しがちで、お光の諦念のその美しさの方ばかりにしんみりしていたけれども、最後に「振袖のお染」の雀右衛門を見ることで、本来だったら八重垣姫みたいに劇の主人公になりえる情念を秘めた女であるところのお染を見て、漠然とだけどしみじみ「歌舞伎」ということを思ったのだった。

と、5人すべてがきわめて厚みがあって、いちいち書いていたら本当にもうキリがないという、彼らがそれぞれに輝いている大舞台。その背後には「昭和歌舞伎」がある。そして、その「昭和歌舞伎」にまつわる「歌舞伎」にいるのは役者だけでなく、芝居に真摯に向かい合った藤沢清造とか武智鉄二といった人たちをも含んでいる。なんて、文章は最後の最後までうまくまとまらないけれども、今月の歌舞伎座の『野崎村』に際してのこの四週間、「歌舞伎」そのものにたいへん感激したという一言に尽きるというのが、最後の最後に思ったことだった。とにかくも、今回の『野崎村』のことは一生覚えておこう。

購入本

岩波文庫の《2005年春リクエスト復刊》は、まずは2冊買った。

古いタイプの翻訳者にただよう独特の香気にひたりつつ、いわゆる「文人翻訳者」を媒介に海外文学の接する、というのが好きだ。神西清はわが10年以上にわたるチェーホフ読みのきっかけとなった翻訳者なのでとても愛着がある。去年の『シベリヤの旅』に引き続いての《リクエスト復刊》は、未所持の本なので前々から発売をたのしみにしていた。4月にはプーシキンの『スペードの女王』が改版して刊行とのことで、こちらは読了済みだけど、このところ岩浪文庫では神西清の訳書が立て続けに復刊されているのは嬉しいかぎり。去年の秋にチェーホフの『可愛い女・犬を連れた奥さん』が改版されたとき、本屋さんでふと立ち読みしたのを機に、もとから部屋にあった古い文庫本で池田健太郎による巻末の、神西清のことを「文人翻訳者の最後の一人」と書く「神西清の翻訳」という文章にあらためて感激していた。この池田健太郎の一文について、先月号の「日本古書通信」の小出昌洋さんの連載で、ちょろっと言及があって、とても嬉しかった。この『決闘・妻』は、去年に復刊の『シベリヤの旅』に続くチェーホフの歩みを追う、という点でもたいへんオツな復刊。この本の初版は昭和11年神西清の翻訳書リストを作りたいと思いつつ、それっきりなので、もうちょっと追求したいところ。

ホイットマンの詩集だけど緑帯、有島武郎岩波文庫の『草の葉』。翻訳だけど緑帯の岩波文庫の系譜、というのもとても面白い。

岩波文庫の復刊は、本体の模様がそのままカヴァーになっているという今の形式も好きで、手にしただけでなんとなく嬉しいけれども、以前の《リクエスト復刊》での切り絵ふうの模様が毎回たのしみだったので、また復活するといいなとも思っている。今でも古本屋さんの岩波文庫コーナーでかつての復刊ものを見つけるとまずはカヴァーに注目してしまう。が、復刊ものは値段が張るので購入は見送ることが多い(500円以上になると急に財布の紐がきつくなる)。