丸善で岩波文庫を買う

地下室の古書展」で開催の、「EDI 叢書(http://www.edi-net.com/sosho/sosho-1.html)」完結記念の荒川洋治さんのトークショウに行き損ねてしまって無念なり、と、夜道の石畳をシオシオと歩いた。

先月のある日曜日の夜、「ラジオ深夜便」のスイッチを入れたら、網野菊さんの『一期一会』についてのお話が聞こえてくるのでびっくり、「まあ!」と耳をそばだてた。そのお話があまりに素敵で、網野菊さんの『一期一会』というだけでも嬉しいのに、そのお話が素敵なので嬉しさ2倍、なんというかウルウルとしか他にいいようがない、ハテ語り手はどなただろうと思っていたら、ズバリ荒川洋治さんであった。わたしが聞いたのは網野菊さんの『一期一会』の途中からだったけれど、そのコーナーは荒川洋治さんが女性作家の本をいくつか紹介するという趣向、『一期一会』はその最後の1冊で、コーナー締めくくりのアナウンスによると、他に取り上げられていたのは、月曜社片山廣子『燈火節』、藤原書店ジョルジュ・サンドセレクションとあともう1冊、たしか岩波文庫だったかと思う。それにしても、なんと見事なセレクション! と、いつまでもうっとりだった。

……というようなことを、夜道を歩きながら思い出しているうちに、荒川洋治さんが紹介していた岩波文庫が何だったか気になってしかたがない、本屋さんへ行けば思い出すかも、こうしてはいられない、閉店しないうちに行かねばと、「シオシオ」から一転「ズンズン」と丸善へと向かった。


そんなこんなで、丸善岩波文庫コーナーにたどりついたのだったが、荒川洋治さんが紹介していた岩波文庫が何だったかは結局思い出せずしばしモンモンとなった。が、岩波文庫赤帯を眺めているうちに急に興奮、そうそう、アナトール・フランスの文庫本を買おう買おうと思っていたのであった、ということを思い出した。

日中、机の引き出しに入れっぱなしの岩波文庫の解説目録を気晴らしに眺めていたら、アナトール・フランスの『少年少女』(三好達治訳)、『昔がたり』(杉捷夫訳)というのを見つけて、そこはなとなく読んでみたくなっていたのだった。しかし、机の引き出しの岩波文庫の解説目録は2002年版のままなので、いざ買いに行くと売っていないことの方が多い。今度はどうかなとアナトール・フランスの名前を探してみると、『少年少女』も『昔がたり』もなかったけれども、『シルヴェストル・ボナールの罪』が1冊だけひっそりとささっていた。

とりあえず、表紙の解説文を読んでとてもそそられて、読んでみたくなった。机の引き出しの解説目録には載っていなかった本なので、思わぬところからひょいと飛び込んできた恰好で、こういう偶然で本を買うのはたのしいものだ。


と、急に機嫌がよくなり、勢いに乗って、買い損ねていた岩波文庫の新刊を一緒に手に取った。

改版になって発売になった『スペードの女王 ベールキン物語』は元版を持っていて読了済みなので見送る予定でいたのだけれども、念のためチェックしてみたら、今回の改訂版は単に改訂しただけではなく、神西清による解説が新たに3本加わるという充実ぶりで、ワオ! だった。

新たに加わったのは、(1) 角川書店飛鳥新書版『プーシキン短編集』(1948年)の序文「この訳本について」、(2) 角川書店飛鳥新書版『プーシキン短編集』(1948年)の解説「短篇6種の発生について」、(3) 河出書房版世界文学全集『プウシキン集』(中山省三郎訳、1950年)の解説「プーシキンとその作品」で、このあとに旧版岩波文庫の解説が収録されているのだけれども、2本とも旧版の『スペードの女王 ベールキン物語』とは違う文章なので、今回発売の改訂版は旧版とはまったく別の1冊になったという感じの決定版ともいうべき、1冊まるごと「神西清による」プーシキン短篇集となっている。それにしても、なんてすばらしいのだろう! 神西清ファンにとってはこんなに嬉しいことはない。表紙の解説文に添えられたプーシキン自身によるカットもとてもいい感じだし、「プーシキン入門」として最適の1冊。4月の岩波文庫の海外文学は『幼なごころ』にメロメロだったけれども、その一方で、前から出ていた絶版本がこうして装いもあらたにさらに充実して現代に甦っているというわけで、ますます岩波文庫の海外文庫のファンになってしまった。それにしても、神西清プーシキンもまさしく「頬擦り本」という感じ。『大尉の娘』も装いを新たに岩波文庫の「改版」になるといいなあと思う。プーシキンの『大尉の娘』も大好きな小説。井伏鱒二徳田秋声訳で面白く読んだと言っていたのを思い出す。徳田秋声訳の『大尉の娘』! いつかぜひとも読んでみたいものだ。


山口昌男は『挫折の昭和史』に引き続いて、『敗者の精神史』も岩波現代文庫になるのだそうで、目論見通りの展開が嬉しい。『敗者の精神史』の方は実は未読なのだった。これを機に晶文社の『内田魯庵山脈』を買おうかしらと思っている。

ところで、『挫折の昭和史』を初めて読んだときにしみじみ甘粕大尉が面白いと思ったものだった。いい機会なので、ちくま文庫で最近刊行の角田房子著『甘粕大尉』を読むとするかな。唐突であるが、わたしにとって甘粕大尉と言えば、六代目菊五郎なのである。戸板康二が『六代目菊五郎』という本で引用しているのを見て以来ずっと心に残っていた大好きな文章が、久保田万太郎の「甘粕大尉」という小文で、初出は大正13年5月の「新演芸」、震災後の再刊第1号だったとのこと。それにしてもなんて見事な文章だろう。勢いに乗って、以下全文抜き書き。

 地震後、神楽坂の田原屋で、わたしは屡々尾上菊五郎丈にあつた。いつも甲斐甲斐しい洋服いでたちで、誰かしら連をつれてゐた。
「また逢つたね、君。」
 かれのほうがさきのときはかれのテーブルのまへから、わたしのはうがさきのときには、わたしのテーブルの側を通りながら、その都度、愛想よくかれはいつた。
 風邪をひいて十日あまりわたしはねた。――床を離れて、はじめて相馬屋まで買物に出たかへり、久しぶりに田原屋へよつた。と、一足違ひに、そのときかれも入つて来た。
「どうだね、君、甘粕大尉は……?」
 かれはわたしの一つさきのテーブルに落ちつくなりわたしにいつた。――いつもの「また逢つたね、君。」といふかはりに……
「さア。」
 わたしは、たゞ、わらつてこたへた。――その、日に焼けた髭を立てたかれの精悍な、みるから健康らしい面貌のなかに、わたしは、みも知らない甘粕大尉の面貌をふとみいだした。
久保田万太郎「甘粕大尉」大正13年