心ならずも

foujita2005-05-31


5月最後の二日間は朝から雨がザーザーだった。早起きはするもののあんまり士気あがらずぼんやり本を読んでいるうちに出かける時間が近づいていてあわてる。

石川達三の日記本、『流れゆく日々2』(新潮社、昭和47年)を繰っていたら、《大江健三郎『鯨の死滅する日』を読んでいて、次の言葉にぶつかった。ラブレーであろうか。「出来得レバ憎悪セン、然ラズンバ心ナラズモ愛サン」。これは腹に滲みるほど悲しい言葉である。……》云々というくだりがあって、「おっ」だった。

この言葉にわたしが初めて出会ったのは、串田孫一の戦中戦後の日記を収めた『日記』(実業之日本社、1982)所収の、串田宛渡辺一夫の書簡(昭和21年2月7日)だった。《おたよりありがとう存じました。小生のヘボ絵やヘボ字が雪深い国の今様菅公様の部屋に飾られるとは……これも Odero si potero si non invitus amabo (出来たらいやじゃと申そうが、それもならずば、いやじゃがまあ好きと申そう)であります。》というふうに渡辺一夫が書いているのを見て、「いいな、いいな」と思いつつも、しみじみこの「Odero si potero si non invitus amabo」に感じ入るものがあって、スーッと貼り付いた。それからほどなくして、『渡辺一夫敗戦日記』(博文館、1995)にある昭和20年6月1日付けの日記(5月25日の大空襲の直後)に渡辺一夫がこの言葉を帳面に書き留めているのを知った。註によると出典はオウィディウスとのこと。

渡辺一夫から大江健三郎へと受け継がれ、そして、自分の嫌いな大江健三郎の小説に登場のこの一節が思わず腹に滲みてしまった石川達三の図、と、この流れが「いいぞ、いいぞ」と思った。うっかり腹に滲みてしまった石川達三がなんだか好きだ。

渡辺一夫で思い出して、だいぶ前に古書展で入手してそれっきりだった、渡辺一夫の装幀が嬉しい中野重治『楽しき雑談1』(筑摩書房、昭和22年)をペラペラと繰ってみると、今度は中野重治石川達三の『豺狼』に苦言を呈しているのが目にとまる。石川達三文芸時評的な文章はなかなかの見ものであるし、中野重治文芸時評的な文章もずいぶん面白い。石川達三の『流れゆく日々』も中野重治の『楽しき雑談』も続きを読むのがたのしみ。

落語メモ