昭和五年頃、前夜のウィスキーがたたって、大阪朝日会館での『鉄化面』の説明の途中に眠り込んでしまった夢声の図。《……いつまでたつても、何にも云わはないから、今に云ふだろ、今に何か鶴の一声みたいな名文句を並べるだろ、と、益々静粛になつて耳をかたむけた。が、結局、何にも聴けなかつたので、客の一人が曰く、――なるほど、やつぱりムセイ(無声)や! と、嘆声をもらしたさうだ。》【徳川夢声/清水崑・画『うすけぼう譚』 - 寿屋商報「発展」第四巻第三号(昭和17年1月発行)附録より】
本とその周辺(2006年9月分補遺)
9月中旬、そろそろ秋日和という頃合いの夕暮れを満喫しつつ、文房堂でグラシン紙を買うべくテクテクと神保町に寄り道したその帰り、ふらりと足を踏み入れた岩波ブックセンターで、唐突に平凡社ライブラリーの新刊として小村雪岱の『日本橋檜物町』が平台に積んであるのに遭遇して、びっくりだった。
さっそく立ち読みを開始してみると、まあ! と、高見沢木版社の初版(昭和17年10月)を踏襲した全頁に罫線をあしらった装訂にさっそくうっとり、……しつつも、高見沢木版社版も中公文庫版もすでに持っていることだし、あまり本を買いすぎるのは本意ではないので、せっかくのご厚意なれども購入は見送らねばならぬ、と思ったその直後、巻末に同時代人による雪岱評が収録されているのを確認。舞台装置家としての雪岱を語った戸板康二の文章もしっかりと並んでいる。『日本橋檜物町』が平凡社ライブラリーに入ったというだけならただびっくりするだけなのだけど、ここまですみずみまで気を配ったつくりになっているとひたすら感嘆するしかない、これはもう絶対に入手しないわけにはいかないのであった。と、迷わず買えるというのが嬉しい。ホクホクとお会計をして、帰宅後、さっそくパリッとグラシン紙でカバーをかけて、ご満悦だった。
その翌日、盛厚三さん(id:kozokotani)より「北方人」第9号が届いた。まっさきに開いたのは、盛厚三「中戸川吉二ノート」。今回は中戸川吉二の短篇『牧場行き』の復刻、初出の「新潮」(大正9年8月)の誌面をそのまま紹介している。中戸川吉二の『牧場行き』といえば、「新潮」通巻一二〇〇号記念『名短篇』(ISBN:410790136X)にて、編者の荒川洋治があとがきで紹介していたことでキューンと心に残っていたタイトルで、中戸川吉二目当てで遅ればせながら『名短篇』を手に取った日(id:foujita:20051024)からずっと読んでみたいものだと思いつつもそれっきりだった。と、そんなわけで極私的にも嬉しいし、『名短篇』の荒川洋治の編者あとがきを読んだ人だったら誰だって気になったに違いないわけで、中戸川吉二の作品を復刻してくれるというのが心憎いばかりなのだった。さっそく読んで、いつもの中戸川吉二読みの典型的気分、うまく言葉にはできないけれども、つい頬が緩みつつも琴線が刺激されてちょっと切なくなってくるような、そしてどこか甘美で読み心地すっきり。中戸川吉二の『牧場行き』はさながらジャン・ルノワールのサイレントを見ているかのよう。のんきでとびきりモダーンでチャーミング。EDI 叢書3の矢部登編『中戸川吉二 三篇』(http://www.edi-net.com/sosho/nakatogawa.html)で初めて読んで以来、ずっと心から離れない中戸川吉二。初夏に京橋図書館で2冊借りて読んだのもたいそう嬉しいことだった。いつの日かもっとまとまったかたちで読んでみたいものだと願うばかりだけど、今回「北方人」で『牧場行き』を読めたみたいに、こうしてポツリポツリと宝物をさがすように、落穂ひろい感覚で読むのもオツだなあとうれしかった。
彼岸のころ、お墓参りに行った折に同行の母から、たいそう感激してメロメロだった、どうもありがとうと、小山清『日日の麺麭・風貌』(講談社文芸文庫、2005年11月)を返却された。何ヶ月か前に思いつきで貸していたようなのだが、本人はすっかり忘れていた。ちょいと読み返してみるかなと、部屋でゴロンと寝転がったその次の日、近くの図書館へ『増補新装版 小山清全集』(筑摩書房、1997年)を借りにでかけた。この本を借りるのは何度目だろう。その後しばらく、つねに持ち歩いていた。『小山清全集』は東京堂2階でずっと狙っていて、買おうと思えばいつでも買えるけど簡単に入手してしまうのはおこがましい、というような心境になってしまって、なかなか買う機会がめぐってこない。いつになったら入手できるのだろう。
ほぼ時を同じくして、次月から3ヶ月にわたる通し上演に備えるべく、京橋図書館で『青果全集』第一巻を借り出して、『元禄忠臣蔵』を読み進めていたのだったけれども、ひとたび読み始めてみると、あまりにすばらしく、青果戯曲にひたすら酔いしれた。歌舞伎を見る習慣が一応はある者として、『元禄忠臣蔵』の脚本を読まずに終わるとしたら、確実に損をしていたと思う。ああ、それにしてもなんとすばらしいことだと、机に座って背筋をのばして、岩波文庫ではなくていかめしい全集で読むのが気分ぴったり。それぞれの場で当時と現在地とを対照できるようにして地図が紹介されているので、最初の江戸城の刃傷などは東京本としてもなかなかよかった。田村町の地図を見て、川尻清潭のすまいのあった明舟町に思いを馳せたりとたいそうたのしかった。奇しくも『元禄忠臣蔵』の読了は田村町のキムラヤとなった。
と、2冊の全集本をかわるがわる読み進める日々、家の近所ではつねに金木犀が匂っていたような気がするけど、いつ匂わなくなったのだろう。
届いた古本は、保昌正夫『七十まで ときどきの勉強ほか』(朝日書林、1995年)。それから、意気揚々とひさしぶりに五反田の古書展へ出かけて、内田誠『いかるがの巣』(石原求竜堂、昭和18年)300円を拾い、注文本がはずれたので心の隙間を埋めるべく、前々から欲しかった宇野浩二『文学の三十年』(中央公論社、昭和17年)2000円をこの機会にと買った。そして、五反田の帰りにいつも行く恵比寿のカフェでさっそく繰った9月末日の昼下がり。内田誠の『いかるがの巣』には「雪岱忌」という文章が入っていて、宇野浩二の『文学の三十年』は絶好の中戸川吉二文献のひとつで、神奈川県立近代文学館の閲覧室で嬉々と読みふけっていたものだった。平凡社ライブラリーの『日本橋檜物町』に感激し、「北方人」で中戸川吉二の『牧場行き』を読んだ9月の絶好の締めになったような気がする、と、ここで無理やりこじつけておく。
サントリーホールの内田光子さん(2006年9月分補遺)
(1) モーツァルト・プログラム/サントリーホール(9月16日)
- 幻想曲 ハ短調 K475
- ソナタ ハ短調 K457
- アダージョ ロ短調 K540
- ソナタ ヘ長調 K533/K494
- ソナタ ニ長調 K576
- アンコール K330から第二楽章
- アンコール K545から第二楽章
(2) ベートーヴェン・プログラム/サントリーホール(9月18日)
今回の来日公演は、ひさびさのモーツァルトと、前回の来日公演時(id:foujita:20040329)とまったくおなじベートーヴェンの後期三大ソナタという組み合わせ。モーツァルトのソナタではかねがねK533/494 と K576 を偏愛していたので、わが意を得たりのプログラムで、内田光子さんの演奏を聴くことでかねてからのわが偏愛のゆえんを解き明かしてもらったような心持ちで、それはそれは至福なことであった。ベートーヴェンの方では前回の公演を聴いたあとでディスクも発売になって、そのあとで聴くというめぐりあわせ、その間の年月についていろいろと思うこと多々ありだった。「円環」ということを思った。そして、終わってみると、内田光子リサイタルの会場に居合わせる日がまたやってくるのを切望するのみなのだった。
阿佐ヶ谷で『霧の旗』の滝沢修を見る(2006年9月分補遺)
- 山田洋次『霧の旗』(昭和40年・松竹大船)/ラピュタ阿佐ヶ谷《昭和の銀幕に輝くヒロイン・倍賞千恵子スペシャル》(http://www.laputa-jp.com/)
内田光子さんのリサイタルの中日の日曜日、ひさしぶりにラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショウに出かけた。映画そのものは白黒の画面がうつくしく全体的に丁寧に作られている佳品であったけれども、松本清張の原作があまりにも突っ込みどころがありすぎて、映画のつくりが丁寧な分、いかにももったいないなあという印象。とにかくも風格たっぷりの滝沢修がすばらしく、新珠三千代との共演というのも嬉しい。と、役者見物に意識を集中すれば見る価値は大いにあるのだけれども、それにしても原作が……。しかし、理不尽な状況に追い込まれた弁護士・滝沢修、前半と後半のすさまじい変転を能のシテのように演じる滝沢修が見どころたっぷり。と、まあ、見る価値は大いにあった。
映画のあとはテクテクと中杉通りを歩いて、青梅街道へ向かう。書原で本を見て青梅街道をくだり、たどりつくはささま書店。庄野潤三の525円の本を2冊買って、テクテクと西荻窪まで歩いて、「どんぐり舎」でコーヒーを飲んでひとやすみしたところで、ポツポツと雨が降ってきた。「三月の羊」で明日の朝食用のパンを買って、中央線に乗った。
と、早起きして阿佐ヶ谷で映画を見ると、中央線の休日がたのしいのだった。
1965年(S40)/松竹大船/白黒/111分
■監督:山田洋次/脚本:橋本忍/原作:松本清張/撮影:高羽哲夫/美術:梅田千代夫 ■出演:滝沢修、露口茂、逢初夢子、新珠三千代、近藤洋介
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松本清張の同名小説を映画化。冤罪と知りながら、弁護を断った弁護士への復讐に燃える女――。親しみやすい庶民派のイメージだった倍賞千恵子が、強烈な復讐心にとらわれたヒロインをみごとに演じている。
【チラシ紹介を転記】
デュフィ展と長谷川町子美術館(2006年9月分補遺)
- ラウル・デュフィ展/大丸ミュージアム・東京(http://www.daimaru.co.jp/museum/index.html)
- 長谷川町子美術館(http://www.hasegawamachiko.jp/)
デュフィ展はごくふつうのデュフィ展かと思いきや、テキスタイルデザイナーとしてのデュフィに重点をおいた展示がとても新鮮で、思っていた以上に満喫だった。
急に気が向いて、何年ぶりかで長谷川町子美術館へ出かけた。ここの常設の岸田劉生の麗子像とか岡鹿之助の風景画が結構好きなのだ。ひさしぶりの再見をたのしみに出かけたのだけれども、今回の展示は新収蔵作品が中心で再見かなわず、がっかりであった。心の隙間を埋めるべく、サザエさんコーナーで放映中のサザエさんのアニメ番組を十年ぶりくらいに見ていたら急に、波平の頭部が前週に見たばかりの滝沢修に似ていなくもないことに気づき、サザエさんの実写版をつくるとしたら、波平はぜひとも滝沢修に演じていただきたいと天啓のようにひらめいた。と、ひらめいたところで、サザエさんのアニメ番組の画面は、波平が近所の老人たちと居酒屋で一杯やっているところを映している。うむ、かれら老人は文学座の面々(龍岡晋、三津田健など)にゲスト出演してもらおう……以下略、などと、サザエさんの配役のことで頭のなかはいっぱいになり、いてもたってもいられなくなる。ハテどうしたらよかろうなあと、配役を思案して眉間にシワを寄せつつ、桜新町の駅にもどり、バームクーヘン屋でバームクーヘンを買って家路についたのだったけれども、このとき思案のサザエさんの配役は、波平の滝沢修以外はほとんど忘れてしまった。まあ、どうでもいいけど。