横浜、大森へ行き、目黒のウエストで山名文夫の図録を眺めて、日没。

昨日は頭痛で一日を棒に振ってしまい、無念であった。しかーし、三連休なので休日はもう一日残っているのだ。気を取り直して、今日こそはと張り切って早起き。バタバタと朝食とお弁当づくりを済ませ、洗濯が終わったところで、気が変わらないうちにソソクサと外出。京浜東北線に揺られて、石川町へ。本日の車中の読書は、書肆アクセスの「荻原魚雷の選んだ書肆アクセスの20冊」フェアにて一昨日購ったばかりの、杉山平一『詩と生きるかたち』(編集工房ノア、2006年9月)なり。



日傘片手に元町の裏道をテクテクと歩いて、神奈川県立近代文学館の閲覧室へゆく。お腹がすくまでカリカリと調べものにいそしんで、昼下がり、「海の見える丘公園」の「ローズガーデン」のベンチで持参の弁当をつかう。そんなこんなで、もと来た道を戻ってウチキパンで明日の朝食のパンを買い、元町の商店街に出て喜久家で好物のラムボールを買って、ふたたび京浜東北線に乗りこんで、杉山平一の続きを読む。



大森駅で下車するのはずいぶんひさしぶり。折をみて、内田誠の邸宅の跡地を見に行きたいなとここ数ヶ月ずっと思っていたのだった。やっと実現して嬉しい。

宣伝部長の内田誠さんの家の句会は、大森不入斗にあったその自宅で、毎月一回、催された。

内田邸はその父上が買ったもので、もと西園寺公望公の別荘だったという、せいたくな建物であった。庭は、かつて梅屋敷と呼ばれていた。純日本的な山水があり、句会の催される二階の二畳間の座敷のふすまは、小村雪岱画伯の四季の花を描いた肉筆画、ついでにいうと階下の客間のは、小杉放庵画伯の、これも肉筆であった。

戸板康二「大森の良夜会」 - 『句会で会った人』(富士見書房、昭和62年)より】

雪岱の肉筆のふすまの座敷で催される句会! 戸板康二明治製菓の宣伝部に入社した昭和14年中秋の名月の日より毎月一回句会が催された。その内田誠の邸宅の場所にはかつて西園寺公望の別荘が建っていたという。

省線電車の大森駅から、池上へ通ずる通路を行くこと五、六丁、池上へ向って左側、現在新しい大森郵便局の存在する処が、その位置である。

内田誠「望緑山荘の記」 - 『遊魚集』(小山書店、昭和16年3月)より 】

内田誠自身は記述している。というわけで、池上通りの商店街を直進して数分後、左手に見える大森郵便局の裏あたりが、内田誠の邸宅があった場所らしいのだと、かの地へ向かうべくテクテクと直進する池上通りの商店街はなかなか味わい深くて、よかった。大森郵便局のまわりをぐるっと一回りしてみると、裏手には明治製菓の社宅があって「おっ」だった。これにはなにか因果関係があるのだろうか。西園寺公望の別荘あれこれを含む大森不入斗の地誌ともども、追々調査していきたいと目には炎がメラメラ、もと来た道を戻る。





内田誠『父』(双雅房、昭和10年7月)より。《大森の私邸は明治三十一、二年頃西園寺公爵の建てられたものであったが、その後震災等の為に旧時の面影をとどめずになっても、このシャンデリアだけは応接室の飾りとなって今に我々の珍重するところのものとなっている。》とある。『遊魚集』の「望緑山荘の記」で、内田誠は《西園寺公は応接室で、窓外の梅花に眼を慰め、このシャンデリアの下で何を考え、どう云う書物を読まれたのであろうか。》というふうに書いている。




同じく、内田誠『父』より。《大森私邸の庭より撮影したるもの。震災後の建築。》とある。上の写真のシャンデリアのある応接室を庭の梅のあるあたりから写していると思われる。明治製菓に入社した昭和14年戸板康二が訪れた内田誠邸はこんな風情だったのだなあとジーン。



山手線に乗り換えて、目黒駅で下車。目黒区美術館へ《山名文夫と熊田精華展》の図録を買いにゆく。



山名文夫と熊田精華展 絵と言葉のセンチメンタル》(目黒区美術館、2006年6月24日-9月3日)。去年の広島原爆の日に出かけた展覧会。美術館への途上の正午、川沿いで追悼の鐘の音を耳にして、丸山定夫園井恵子を思ってしんみりしていたものだった。暑い中を出かけた甲斐あって、展覧会はとてもよかった。山名の作品や書簡を直接目の当たりにする興奮のみならず、資生堂や日本工房の封筒と便箋のデザインにも胸が躍った。いつもの通りにケチって図録は買い控えたのだったけれども、つい先日、HOUSE OF SHISEIDO のライブラリーでこの図録を見かけてなんとはなしに眺めてみると、急に欲しくなってしまって、いてもたってもいられなくなってしまった。巻末に収録されている山名文夫の熊田精華書簡で、森永キャンディーストアにいりびたる山名のサマを見たとたん、猛烈にこの図録を入手したくなった。と、そんなこんなで1年遅れでようやく入手した次第。


1925年4月17日、山名文夫は《プラトン社も堂ビルに変わりました。ここには森永のキャンディーストアがあるのでおひるはそこで食べられて便利ですが、ポケットがぐすぐす云って困っています。》なんて書いている。次の手紙ではキャンディーストアで「西洋婦人」に見とれて、その次は西洋人は長いこと見ないと書いていたりと、山名の手紙に立て続けに登場する堂ビルの森永キャンディーストア。これらのお手紙を、山名は昼休み、キャンディーストアの店内にて書いていたのではないかしら、と思って、たのしい。季節は春から夏へ、7月になると、《モリナガにはいい夏の食べものがなくて困っています。おひるのパンもちっともおいしくない。アイスクリームと来てはすっかり田舎式です。心斎橋の丹平ファーマシーのアイスクリームはおいしいですよ。夏がすぎないうちにあそびにいらっしゃい。》と書いていて、キャー! 丹平ハウス! と、ここで心はすっかり、橋爪節也著『モダン心斎橋コレクション』(asin:433604726X)なのだった。当時、心斎橋には森永キャンディーストアはなかった。『森永五十五年史』(昭和29年12月発行)によると、心斎橋に森永キャンディーストアが開業するのは昭和4年3月1日(「舞踊、音楽をステージよりサービス」)。前年11月、森永より一足早く、明治製菓売店が心斎橋に登場している……ということは先ほど、神奈川県立近代文学館の閲覧室で知ったばかりでニンマリ。プラトン社が東京に移転して、昭和4年に資生堂に入社する山名文夫、銀座の明治製菓売店や森永キャンディーストアには出かけたかな。とかなんとか、このところ、戦前昭和の明治製菓売店あれこれに夢中なのだった。


と、予定通りに《山名文夫と熊田精華展》の図録を入手して、にっこり。だいぶくたびれたことだしと、ウエストでひとやすみ。コーヒーを飲んで、「今月のおすすめ」の「ゴルゴンゾーラレモンパイ」を食べて、《山名文夫と熊田精華展》を隅から隅まで眺める。堂ビルの森永キャンディーストアにいりびたっていた1925年、山名文夫は丹平ハウスにおける展覧会で油彩を出品しているのだな。…などなど、いつまでも図録を眺めて、そんなこんなで、すっかり日が暮れた。