鎌倉にて鶴岡政男と鏑木清方を見る、日曜日の午後。

正午過ぎ、横須賀線に揺られてトロトロと鎌倉へ行く。まずは、小町通りを直進して、神奈川県立近代美術館へ行き、鶴岡政男展をじっくりと見物。今年4月東京国立近代美術館で見物した靉光展にいたく感激したのだったけれども、立て続けに同年生まれの画家の回顧展(二人とも明治40年生まれで今年生誕100年)を見物できるめぐりあわせとなり、なにかと格別なのだった。


靉光も鶴岡政男も洲之内徹の文章を読んだことで心にその名を刻んだ多くの画家のひとりであり、谷中清水町の太平洋画会研究所とか団子坂の喫茶店リリオムといった固有名詞とともに、ずっと心に残っていたものだった。鶴岡政男展の展示室に足を踏み入れてさっそく、《1943年、靉光、寺田政明、松本竣介ととともに「新人画会」結成》のくだりで、胸がツーンとなる。戦前の作品が失われているということもあるけれども、敗戦後からはじまる鶴岡政男展ではそのはじまりで語られる「新人画会」は靉光にとっては最晩年の項目なのだなあと、しんみり。《死の静物松本竣介の死)》という昭和23年の作品や、翌年の《夜の群像》と題された松本竣介のアトリエに残されていた板を使用した油彩の前でしばし立ちつくす。昭和10年の作品でのちに失われた《リズム》は昭和29年にふたたび制作されて、渋谷の「南欧」という喫茶店に飾られたという。カンディンスキーの影響が色濃い作品。この作品が飾ってある空間、というのを頭のなかで思い描いて、いいなと思った。


鶴岡政男の作品を時系列に見ていくと、特にこの年代がというのではなくて、それぞれの年代にそれぞれピンポイント式にしみじみと好きだなあと思う絵が見つかって、ピンとこないのも多いのだけれど、好きな絵はしみじみ好きだという感じで、あちこちで驚きがあって、よかった。特に好きだったのは、昭和25年の《いちゞく》や新宿の「フーテン娘」のポコを描いた昭和38年の作品。どこか諧謔的な昭和40年の《窓》もよかった。「おっ」と嬉しかったのが、かつての愛読書、石川淳の『マルスの歌』の挿絵原画。松本竣介の雑誌「雑記帖」に掲載された素描、《髭》(昭和10年)なども嬉しかった。などと、同じく神奈川県立近代美術館でかつてたいへん感激した松本竣介と麻生三郎の展覧会を思い出して胸がいっぱいになったり、洲之内徹を読むようになってひときわ惹かれるようになった「鎌倉近代美術館好み」というようなものを思ったりと、嬉しいことがモクモクの鶴岡政男展だった。


はえらい暑いのだけれども、美術館のテラスのベンチにぼんやり腰かけて、八幡さまの池の蓮を見ていると、気持ちがスーッとする。つい昨日見たばかりの木村伊兵衛の蓮の写真を思い出してして、さらに気持ちがスーッとする。受付でいただいた美術館の小冊子、「たいせつな風景」第7号(2007年3月発行)の表紙は鳥海青児の《段々畠》(1955年)。あ、いいなと思って、学芸員の橋秀文氏による解説をフムフムと読む。いつの日か、この美術館で現物を見たいなと思う。この建物がこの鎌倉の地にいつまでも在って欲しいと願っているのだった。

私は、鶴岡政男という画家を絶対に買う。あんな仕事のできる画家は日本人には他にいない。いつだったか、私は「三彩」という雑誌に松本竣介のことを書き、松本竣介に抵抗の画家というレッテルを貼りつけるのが気に入らない、また、抵抗の画家ということで竣介と靉光を一対にして扱うのも気に入らない、どうしても抵抗の画家ということを言いたいのなら鶴岡政男を一枚加えてもらいたい、鶴岡政男のあの知性と諧謔と諷刺こそ、靉光も竣介も持ち合わせていない正真正銘の抵抗の精神ではないか、と書いたことがある。いまもそう思っている。

洲之内徹「前線停滞」-『セザンヌの塗り残し』(新潮社、昭和58年1月)より】



洲之内徹コレクションより、鶴岡政男《夜の町》1948年頃。



近代美術館を出て、もと来た道をトコトコと戻って、鏑木清方記念美術館へ。ひさしぶりの鏑木清方美術館でのひとときは、いつもの通りに、たいへんすばらしかった。今回の展示は、《『東北新聞』から「霽れゆく村雨」まで》というもの。展示室に足を踏み入れて早々、《明治三十年、『東北新聞』に掲載されたのを機に、十八歳の清方は挿絵画家として人気を得ました。》という紹介を目にしたとたん、キャー、東北新聞といえば岡鬼太郎の挿絵! と心の中で大はしゃぎ。鏑木清方とか岡鬼太郎とか、登場する固有名詞がたまらない。《霽れゆく村雨》は大正4年の文展で最高賞をとった作品であり、関東大震災で焼失してしまっているものの、下絵は残っていて、その大きな下絵を以前もここで見たことがあったので、そのときの記憶をもとに、《霽れゆく村雨》を描いたスケッチ帖にあらためて対面して、にっこり。挿絵画家から日本画家にいたる明治・大正初期の清方の年月をわが愛読書『こしかたの記』を胸に反芻しながら、ウィンドウ越しに作品を眺める。…と、この小さな美術館のいつもの通りの時間が、いつもの通りに格別なのだった。明治39年から居住していた大川端の風景、明治43年作の《新大橋風景》の絵が大好き。明治45年に鉄橋になったという新大橋、鏑木清方描く「失われた東京風景」というようなものに、いつもながらにうっとり。


今回の「おっ」は、村井弦斎『日の出島 朝日の巻』下巻(春陽堂明治35年)で使われたらしい口絵。黒岩比佐子さんのすばらしき名著『「食道楽」の人 村井弦斎』(asin:4000233947)で論じられていた明治文壇あれこれ、新聞小説あれこれを思い出して、帰宅後に読み返すのがたのしみだなあとホクホク。今回初公開だという、《砂浜少女》(明治45年)やいつもながらにすばらしい大正期の「卓上芸術」的作品など、展示点数は多くはないけれど、というかそれだからこそ凝縮されたひとときでなにかと眼福だった。いつもの通りに、備え付けの椅子にすわって窓の外の庭を眺めて(清方お手植えの紫陽花を思いつつ)、置いてある図録をフムフムと眺めるのもたのしく、今日もつい長居。外はいかにも暑そうだと、外界の喧騒を遮断した静かな時間にしばしひたるのだった。




鏑木清方が鎌倉に居を構えるのは昭和21年。久保田万太郎と同じく、戦災を機に東京を離れた。と、敗戦後の鎌倉人物誌も日頃から大きな関心事なのだった。というわけで、今回の画像は戦後の清方より、香取任平『鎌倉風物誌 花鳥亭日記』(昭和33年)所収の口絵、《昭和二十七年二月十日/食へぬ菓子を作る/藤浪さんを/清方写》。香取任平は戦前から明治製菓の宣伝部にいた人物で、谷譲次『踊る地平線』の「彼女」の実兄にあたる。「鎌倉茶話会」というものがあり、その会員でもあったらしい。清方によると、「鎌倉茶話会」というのは《諸国の名菓を会ごとに取り寄せて、その座で食べたり、それからそれへと甘い話で半日を過ごす。その間お茶とお菓子だけで瓶も徳利も姿を見せない。帰りにお汁粉でも飲み直そうとはどんな下戸でもいい出すまいから、ここには二次会はなさそうである。(「菓子の会」-『紫陽花舎随筆』所収)》というもの。ある日の鎌倉茶話会は芝居小道具の藤浪与衛兵宅にて、「こんどは食べられないお菓子を即席でこしらえて皆さんにお目にかけよう」と家の芸の巧みな小道具が次々と登場することと相成った。



美術館を出たあと、小町通りに戻り、木犀堂の均一台で、尾崎一雄『冬眠先生』(池田書店、昭和31年)の裸本を、タイトルに惹かれてなんとはなしに買って、「門」でコーヒーを飲みながら、途中まで読んだ。横須賀線に乗り込んで、北鎌倉を過ぎたところで、お土産の鳩サブレを買い忘れたことに気づく。『冬眠先生』を読み続ける。