『日本映画縦断』のとなりに高田保『青春虚実』。神保町で沢島忠。

朝。朝から雨がザアザア降っていて、週明けだというのに意気あがらず、いつもよりも動作に時間がかかり、出る時間が遅くなるも、それでも時間はたっぷり。喫茶店でコーヒーを飲んで、ふうっとひと休み。高田保『青春虚実』(創元社、昭和26年12月)をのんびりと繰る。先日の五反田古書展にてふらっと見かけて手にとって、竹中労『日本映画縦断1 傾向映画の時代』(白川書院、1974年9月)の隣りに並べるのにぴったりッと悦に入って、ホクホクと買った(200円)。思えば『日本映画縦断』を1巻目だけぽろっと買ってしまったのも五反田古書展でのことだった。




高田保『青春虚実』(創元社、昭和26年12月)。装釘:三岸節子高田保は27年2月20日に喀血死。車谷弘編集長の「オール読物」に連載されたもので、病床にいたので口述だったとのこと。あとがきには、《車谷君との約束は青春期の自伝めいたものを書く事だったが書き上げたものは決して自伝ではなかった。ほんの処々に実際あった事も書き入れたが大方は嘘である》なんて書いてある。

獏与太平。喜歌劇「トスキナア」の作者、彼と私とはまったくの奇遇だったのだ。「トスキナア」が浅草の観音劇場に上演された大正八年、私は「オペラ評論」と称する極めて小さな歌劇雑誌の編集記者をしていた。たまたまその「トスキナア」の諷するところに感動して、その脚本全部を、その小さな雑誌大半の頁を喰ってしまうのもかまわず掲載して原稿料を払った。その獏与太平が、しかしこの時はもう獏さんではない。古海卓二、これが本名だが、この本名だとああ彼かという人も多かろう。かつての映画監督で鳴らしたものである。その監督もやめて後に故山九州に帰り、鉄工場の主人となりながら「九州文学」の同人として今もペンをとっている。だが私にとっては、古海君では感じがでない。


高田保『青春虚実』(創元社、昭和26年12月) - 「トスキナアの歌」より】


現在たまたま図書館で借りだし中の『安藤鶴夫著作集 第6巻』を寝酒代わりにチビチビ繰っていた折、「演劇界」に寄せた高田保の追悼文を読んでジンとなっていたばかりだったので、いっそうのこと、『青春虚実』、手にとって朝っぱらからジンとなる。昭和27年2月20日の逝去のあと、安藤鶴夫の企画で、高田保の追悼放送が《有楽街のざわめきが這い上がってくるラジオ東京》から送られた次は、『青春虚実』を伊志井寛三島雅夫とが読むという企画を出すも立ち消えになるかと思ったところで、《高田保氏の“青春虚実”シリーズの企画をラジオ東京に出したぼくは、同時に二人のタレントを候補者として挙げたのだが、それが転じてぼく自身に読めという話になり》、安藤鶴夫の本読みで放送されることになった。ラジオ東京のスタッフ、すなわち「初代制作部長だった金貝省三の集めたその相談相手」は安藤鶴夫のほか、佐々木孝丸、菊岡久利に、「鳴滝組の親分」三村伸太郎、という、たまらない顔ぶれなのだった。安藤鶴夫の読んだ『青春虚実』の冒頭、「飛ばした紙鳶」はどんなふうだったのだろう。ちょっと思い浮かべただけで、胸が詰まる。浅草の、言問からずっと上って、白髭橋近くの河っぷち。竹中労による《浅草のニオイすなわち大正期のアナーキズム、「美的浮浪者の群れ」の無頼なモダニズム》という一節をおもう。




高田保いろは歌留多』(文藝春秋新社、昭和27年1月15日初版)。装釘:安井曾太郎。保ッちゃん、生前最後に刊行の本。巻末に、永井龍男による「高田さんのこと」なる一文がある。『青春虚実』のあとがきの車谷弘といい、この二人の文春人からつながるあれこれが前々からたまらなく好きだ。《高田さんは、目下療養中である。その療養術も、高田流に著しく変ったもので、病気をあやし、病気をだますといった方法だそうである。私達は、高田さんの再起を一日千秋の思いで待っている》。




高田保『我輩も猫である』(要書房、昭和27年4月10日初版)。装釘:宮田重雄。本書が没後最初の刊行。この中篇小説は、終戦の翌年の「新大阪」に「猫」と題して連載されたものと、連載時の挿絵および装釘を担当した宮田重雄によるあとがきにある。このコンビがたまらない、などと、高田保自身のこぼれんばかりの魅力と彼をとりまく人物誌にうっとり。装釘の、三岸節子安井曾太郎宮田重雄という、昭和25年の創刊時から数年間のA5サイズの「芸術新潮」の誌面(が日頃から大好き)を見ているかのような顔ぶれも嬉しい。




日没後。雨がやんで、よかったよかったと、神保町に向かって歩きはじめるも、突風吹きすさび、しみじみ寒い。なんとか前方に進み、やっとのことで神保町にたどりつき、神保町シアターで『家光と彦左と一心太助』(昭和36年東映)を見る。昨日の『殿さま弥次喜多』(昭和35年東映)に引き続いての沢島忠。と、チラシを初めて手にしたその日から心躍らせるばかりだった《時代劇、罷通る!》特集の神保町シアターでは見逃したものも数本あったけれども、沢島忠監督の2本、錦之助主演映画で無事締めくくりと相成った。おもえば、今年最初の映画館行きは、フィルムセンターのマキノ雅弘特集、『長谷川・ロッパの 家光と彦左』(昭和16年東宝) であった。そのとき時代劇熱が再燃しそうだなと思ったものだったけれども、この三ヶ月間はまさしく、時代劇熱にうかされた日々であった。ああ、たのしかった! それから当時、大久保彦左衛門ということで、いつの日か沢島忠一心太助をスクリーンで見たいッとしみじみ思ったものであったが、早くも夢がかなうとは! と、チラシを見たとき歓喜にむせんだものであった。……というような次第で、今回の沢島忠はわたしのなかでは、この三ヶ月間の時代劇熱の締めとなるべき絶好の機会でもあった(どうでもいいが)。


昨日の『殿さま弥次喜多』に引き続いて、本日の『家光と彦左と一心太助』、屈託のなさすぎる、天真爛漫でデタラメな東映時代劇を心ゆくまで満喫。錦之助がまばゆいばかりにすばらしい。その輝きは見事なほどに、東映時代劇の絶頂期というか爛熟期とパラレルなのだなあとなにかと胸がいっぱいだった。いったい何人いるのだろうかという感じのとてつもなく大勢の群衆が一斉に駈けてゆくその群舞感を目の当たりにして、しつこく「東映時代劇はタカラヅカである」と思う。 野望がくずれゆくのを目の当たりにしたところの、ここまでただよう必要はないのではというくらいに妖気ただよう薄田研二の顔面と山形勲の巨大な顔面とピクピク震える二の腕が大写しになった瞬間、東映時代劇のよころびここに極まれり、というような心境になり、見ているこちら側も歓喜のあまり身体がピクピクと震えるのだった。当時蓑助の八代目三津五郎の品格ただよう横顔を見たとき、見逃かさないでよかったッと嬉しかった。昨日の『殿さま弥次喜多』では、なんでもやる大河内伝次郎が嬉しかった。……などと嬉しかったことを挙げるとキリがない。またぜひ近いうちにスクリーンで東映時代劇をまとめて何本か見る機会が来るといいなと思う(あんまり見すぎるとすぐに飽きそうなのでホドホドで)。