野口冨士男の歩いた道を歩いて「古書往来座外市」へゆく。

家事諸々が片づいてスッキリしたところで、時刻はちょうど午前8時。ラジオのスイッチを入れて、ベランダの向こうの曇り空をぼんやりと眺める。この連休は毎日晴天になるとばかり思っていた。今日は布団を干そうと、それだけをたのしみにしていた、しかしいざ当日になってみるとこんなに曇っているではないか、とてもではないけれど布団を干す気にはなれない、無念である……というようなことを思っているうちに、「音楽の泉」がはじまった。本日の曲目はブラームスクラリネット五重奏曲。曇り空を眺めながら耳をすませてみると、ブラームスの憂いたっぷりの旋律がますます胸にしみいる感じ、ブラームスの旋律と合わさってみると曇り空も格別なものがあるなあと、少しだけ機嫌がよくなる。


布団を干せなかった心の隙間を埋めようと、散歩に繰り出すことにする。数十分テクテクとひたすら歩き続けて、思うところあって戸山が原から坂道をくだるというコースをたどって、ようやく西早稲田界隈にたどりついた。



逸見亨《戸山ヶ原》1931年、版画『新東京百景』(1929-34年)より。

 わが家が面しているせまい横丁を出たところにあるバス通りは、「早稲田通り」という名称である。この辺は早大の裏門に近いからその名称も一応うなずけるものの、中野区を通りぬけて、杉並区のはずれまで「早稲田通り」なのだからあきれるほかない。あきれているうちに私の家あたりも昨年から西早稲田と地名変更されたが、以前は戸塚町であった。
 その「早稲田通り」を横断して真っ直ぐ行くと下り坂になっていて、坂下に面影橋電車停留所がある。(中略)
 線路を渡ると十歩ほど先が旧神田上水の江戸川で、新宿区と豊島区の境界であり、そこにかかっているのが面影橋である。


野口冨士男鬼子母神まで」(初出:「青春と読書」昭和51年4月) - 『断崖のはての空』(河出書房新社、昭和57年2月発行)】

と、このくだりを胸に、野口冨士男旧宅あたりから「早稲田通り」を横断して、面影橋から都電にのって、どこかへ出かけたいものだなあと、散歩コースを練って一人悦に入っていたものだった。というような次第で、念願かなってやれ嬉しや、野口冨士男の歩いた道を歩くのはいつも格別、早稲田通りを横断して、都電荒川線面影橋駅へ。ここまでの数十分の歩行の中休みを兼ねて都電に乗り込んで、2駅先の鬼子母神で下車して、明治通りにでて、「古書往来座外市」(http://ouraiza.exblog.jp/)へ突進し、箱ないし棚を隅から隅までズズーイッと眺めてゆく。


連休明けに昼休みの本屋で買おうと思っていた、平凡社ライブラリーの『素白随筆集』(asin:4582766390)が売っている、わーい! 図書館で借りて読んだときたいそう気に入ったのでかねがね手元において置きたいと思っていた、みすず書房大人の本棚」の『ジョンソン博士の言葉』(asin:4622048310)だ、わーい! これまた近々昼休みの本屋で買って読もうと思っていた、岩波現代文庫梶山季之『黒の試走車』(asin:4006021224)だ、わーい! 講談社文芸文庫中野好夫『風前雨後』は持ってなかったっけかな、とりあえず買っておこう、蓮實重彦江藤淳の対談集『オールド・ファッション』、「東京ステーションホテルにて」という副題に惹かれるのと江藤淳と聞くとつい反応してしまう昨今ということでとりあえず買っておくとするか……以下略、と、心のなかで「わーい!」と「とりあえず」を幾度か繰り返し、気がついてみると、両手に何冊も本を抱えこんでいた。わーいわーいとお会計を済ませて、ホクホクと明治通りを歩いて池袋へと向かう。ああ、楽しかった!



昼下がり、池袋から目白へ向かって、歩く。明日館のある界隈から目白通りへと至る道筋が好きだ。目白通りを越えて、おとめ山公園あたりから急な坂道をくだって、下落合、高田馬場へ至る道筋が好きだ。と言いつつも、かねてからお気に入りのこのコースを歩くのはずいぶんひさしぶり。とりわけ下落合2丁目は十返肇が昭和30年に家を建てて終の棲家となった場所ということで、十返肇散歩でもあるのだった。

 十返の本通夜の晩、私は船山と二人で地階のような位置にある十返の書斎にいた。十一時ごろ上にあがってみると、弔問客はすっかり引き揚げて私たちだけになっていることをはじめて知った。
 霊前に香をそなえてから遺族の方にご挨拶をして外へ出ると、激しい雨が降っていた。
 彼の家の前にある坂は、目白のほうへ出ようとすれば少しのぼりになるが、高田馬場方面へ出るためには急傾斜をくだらねばならない。私たちはズボンの裾をたくし上げて、傘をさしながらその坂をくだったが、坂をくだるという連想から、私は畑喜代司(?)という人の『黄昏時はよい時』という詩の断片を思いうかべた。たぶん西條八十氏が編んだ詞華集中の一篇で、中学生時代の記憶であるから前後はまったく忘れてしまったが、「たそがれ、君とくだる湯島切通し」という一節がぽかッと浮んできたのであった。
 六尺ゆたかの船山は十返と同年で私より三歳年下であるが、私はすでに五十二歳。まだ老人だという意識はなくても、すでに人生の黄昏にさしかかっていることは否めない。黄昏の時はよい時などとうたった畑喜代司(?)という人は、そのころまだ人生の真昼のような世代を生きていて、黄昏のしめつけて来るような寂寥を知らなかったのであろうと私は思った。船山とは、その前の晩も一しょにその坂をくだった。
 十返の死は、私たちの青春のまったき死であった。


野口冨士男「彼と」(初出:「風景」昭和38年11月) - 『暗い夜の私』(講談社、昭和44年12月)】

と、「彼の家のある坂」を一度あがってまた下って、氷川神社から新目白通りにさしかかる。武藤康史編『林芙美子随筆集』岩波文庫asin:4003116917)のことを急に思い出して、急に林芙美子記念館(http://www.regasu-shinjuku.or.jp/shinjuku-rekihaku/public_html/fumiko.html)を再訪したくなったりもしたのだけれども、今日のところは高田馬場駅に出て、地下鉄にのる。



十返肇を追悼した野口冨士男の短篇『彼と』の冒頭。

 国電高田馬場からすこし早稲田寄りの電車通りにめんしてい小学校がある。私の一人息子の出身校である。その息子も来春は大学を卒業する。私も、もう若いとはいえぬ年齢に達しているのだ。
 昭和三十八年八月二十九日、私はその小学校の筋向いにある喫茶店でコーヒーをのんでいた。
 あまりルックスの高くない照明が、ようやく仄暗くなりはじめた店内は一そう薄暗く感じさせるような錯覚におとしいれていたが、大きな窓ガラスを越して見える都電は電燈をつけずに走っていた。まだ夜ではないが、もう昼間でもない。そんな、あいまいな時刻であった。地下鉄工事のために木材の厚板が一面に敷き詰められている道路は、しのび寄る黄昏の薄あかりの中で、雨ともいえないような小雨に濡れながら、にぶい光沢を放っていた。
 ドアが開いて、また一人の客が入って来た。しかし、勿論、それは彼ではなかった。
「いくら待っていても、もう彼奴は永久にやって来はしない」
 そういう実感が、ふいに感傷となって私をおそって来たのは、その時のことであった。視界がうるんで、私は自身の唇がわずかにわなないているのを感じた。
 彼の家と、私の家とのちょうど中間点に、その喫茶店はあった。
 彼と私とは、幾度か打ち合わせて、その店で落ち合った。 

この喫茶店は「ユタ珈琲店」のことに違いない。むかし人に連れられて一度だけ行ったことがある。当時たまたま読んでいた常盤新平の『遠いアメリカ』に出ていて「あっ」とちょっと嬉しかったものだった。庄野潤三の本でも見たことがあった。その後再訪する機会はないまま、いつのまにか消えていた。野口冨士男十返肇がちょくちょく落ち合った喫茶店に一度だけ行ったことがあった、というただそれだけのことなのに、なんだかとても嬉しい。近年高田馬場に来るたびにいつもこのことを思い出している気がする。




松本竣介《N駅近く》1940年。帰宅後の夜、ふと思い立って、松本竣介展の図録(東京国立近代美術館、1986年)を眺める。松本竣介昭和11年淀橋区下落合(現・新宿区中井)に住んで、アトリエを構えた。題名の「N駅」は小高い丘の上にあった自宅から足下に見下ろせた中井駅とのこと。図録では麻生三郎の言葉が紹介されている。

彼の住居と彼の風景の多くの俯瞰図との関係は、これらの絵のなかにあって不思議な心理的な角度をもっている。空襲後に彼といっしょに歩いた中井駅付近から東中野の丘につながる俯瞰図は、肉や皮をはぎとった骨の結合の風景として、やはりかつての竣介の風景そのままであった。風が吹きまくってわきのしたを吹きぬける。風と人間と実体だけの風景、丘があった。画家は現実を直視していた。(「松本竣介回想」)