うらわ美術館のあと、王子から都電にのって早稲田へ。演博の梅幸展。

正午過ぎ、浦和へ。うらわ美術館にて《誌上のユートピア 近代日本の絵画と美術雑誌 1889-1915》展を見物する。神奈川県立近代美術館の葉山館で開催されると知って以来、ずっとたのしみにしていたものの、いざ会期が始まってみるとなんやかやで行き損ねる、といういつもの展開になっていた。が、ほどなくして、うらわ美術館に巡回してくると知り、大喜び。葉山とおなじく浦和も、美術館目当てに出かけるのがもっぱらでありつつも、休日の午後をのんびり過ごすのがたのしみな町なのだった。今度こそは見逃してはならぬと、雨降りもなんのその、南北線で王子に出て、京浜東北線に乗り換えていざ浦和へ出てみたら、すっかり雨があがっていて、ぬめっと蒸しているなか、サンサンと日が射している。必要なのは、雨傘ではなくて日傘であった。


本の美術、本と美術、といったものがテーマの展覧会はそれだけで魅惑的。幕開けは、世紀末ヨーロッパの「本の美術」あれこれ。「イエロー・ブック」のビアズレーを見て、山名文夫を思うと同時に、つい最近たいへん感銘をうけた江藤淳『なつかしい本の話』(新潮社、1978年5月)のマンスフィールドのくだりを思い出した。(と思っていたら、漱石と橋口五葉のところでも江藤淳の『なつかしい本の話』の香気あふれる散文を思い出して、読み返したくてムズムズだった。)ウィリアム・モリス装幀の『ジェフリー・チョーサー作品集』ガラスケースのところで一生懸命眼をこらして、秋に開催の、埼玉県立近代美術館の《アーツ・アンド・クラフツ》展がたのしみだなあと思った。…とかなんとか、いつものように、展示を凝視しながらも、いつのまにか別のことを思い出しているのだった。




三越明治44年8月(第1巻第6号)。表紙:杉浦非水。今回の展覧会の興奮のひとつは、杉浦非水による「三越」の表紙をズラッと一望できたこと。ここまで一度にまとめて見たのは初めてだったような気がする。三越の PR については、神野由紀著『趣味の誕生』勁草書房asin:4326651563)がたいへんすばらしい。非水の「三越」の表紙については、

……様々なヨーロッパのデザインから間接な影響を受けたにもかかわらず、非水の作品の最も大きな特徴となっているのは、日本画の要素とアール・ヌーヴォー、セセッション、ドイツの商業美術などを巧みに融合させた、“日本的セセッション”あるいは“日本的モダニズム”とも呼べる非水独自の様式を生み出した点である。折衷的な、しかも高級感のある彼の図案こそが、普通の人々にとっては受け入れやすいモダニズムであった。


【神野由紀『趣味の誕生 百貨店がつくったテイスト』- 第2章「つくられるイメージ」より】

とあって、フムフムとうなずくことしきりだったことを思い出して、帰宅後、図録を参照しながら読み返すのも愉し、だった。



最近刊行された、瀬崎圭二著『流行と虚栄の生成』世界文化社asin:4790713040)も嬉しい本だった。論考もさることながら、巻末に「三越刊行雑誌文芸関連記事一覧」なる資料が完備してあるのがすばらしい。というわけで、帰宅後、図録を参照しながら、この号にはどんな「文芸記事」が載っていたのだろうと確認するのも愉し、だった。「三越」は明治44年に創刊されて昭和8年まで刊行されている。明治44年の創刊号では、鴎外とともに、小泉きみ、森しげや国木田治子といった名前を散見できるのだけれど、彼女たちはいずれも同年に発刊の「青鞜」の賛助員として名を連ねている人たちというのが、なんだかとっても興味深い。沼波瓊音の「意匠ひろひ」は大正元年12月号の掲載。「三越」の宣伝活動に胸躍らせたのは、なんといっても山口昌男著『「敗者」の精神史』がきっかけだったなあと、帰宅後、ちょいなと「復習」するのも愉し、だった。



ここ1年ほど、意識的に、明治製菓の PR 誌が刊行されていた「スヰート」の時代、すなわち震災後の大正13年から昭和18年までを強化しているので、今回の展覧会は、全体的には、「スヰート」の時代の前史と捉えて、自分のなかであれこれ思う、というひとときだった。わたしにとってもっとも興味津々なのは、「明治四十二年」前後。ちょうど4年前の今時分、明治44年から大正2年初頭までの日記を詳細な注釈と解説付きで読むことのできる、『木村荘八日記』中央公論美術出版asin:4805504277)に刺激される格好で、谷崎潤一郎の『青春物語』やら野田宇太郎『瓦斯燈文藝考』(東峰出版、昭和36年6月)に書かれている諸々に夢中になったことがあった。野田宇太郎の『瓦斯燈文藝考』を読んだことで、第一次「三田文学」が初めて実感としてよくわかった気がしたものだった。野田宇太郎の『瓦斯燈文藝考』は、函が木村荘八、表紙が石井柏亭、口絵が小林清親、扉絵が織田一磨という代物なのだけれど、まさしく、このたびの《誌上のユートピア》展を体現するような一冊。あのときの一連の読書での快楽が実在化した展示の数々に、胸躍る。そんななかで、木村荘八の《パンの会》(1928年)に何年ぶりかで対面した瞬間はたまらなかった。




織田一磨新橋演舞場》(大正15年8月)、『新東京風景』の内、『織田一磨展図録』(町田市立国際版画美術館、2000年9月30日発行)より。後半、織田一磨の『東京風景』(大正5年)を何点か見られたのもたいへん嬉しかったこと。ここでは今回展示のなかった『新東京風景』(大正14-15年)より、新橋演舞場を。《誌上のユートピア》展の後半は、「美術」と「書物」に合わせて、「演劇」も重要な要素になっているのが見てとれて、いかにも「大正」! この「大正」を経て、「 "スヰート" の時代」となるのだなアといろいろと心に刻むのだった。





水島爾保布《死の捷利より》(1914年)。今回の展覧会でもっとも嬉しかった作品のひとつとして。ずっと以前、「キャッ、モダン都市文献」と深い考えもなく買ったもののそれっきりだった、水島爾保布『新東京繁昌記(抄)』(リキエスタの会、、2001年12月)を思い出して、帰宅後、ゴソゴソと本棚を物色するのだった。現代ユウモア全集の『見物左衛門』はまだ持っていない。



うらわ美術館はひさしぶりだったので、行きしな、うっかり道に迷ってしまった。桐生とおなじように、浦和も路地を歩くと、古い建物があちらこちらに残っていて、町全体がそこはかとなく感じがよい(夜だったら一杯飲んでみたいような居酒屋もあった。)。その通りがかりに見つけた古風な洋菓子店が気になったので、美術館のあとはぜひともここでひと休みしようと目をつける、なんていうことができたのも道に迷ったおかげだった。と、そんなこんなで、美術館のあとは、埼玉県庁方面へ歩いて、古風な洋菓子店の2階で珈琲を飲んで、サヴァランを食べた。日曜日の午後ならでは閑雅な時間がいいなアと、ホクホクと買ったばかりの図録を繰った。



ふたたび京浜東北線に乗り込んで、王子で下車。駅のホームから見える「さくら新道」なる一帯がひどく気になるので(参照:http://www.asahi-net.or.jp/~GR4T-YHR/wagamachi03.htm)、見物に繰り出したあと、突発的に都電荒川線に乗りこんで、わーいわーいとはしゃぐ。王子から早稲田行きの都電荒川線に乗ると、ちょうど道路上をしばらく走ることとなる。いわば都電荒川線のハイライトともいうべきところをすぐさま体験することができるのだった。大塚を通りかかる瞬間は、いつも野口冨士男の『風のない日々』が思い浮かぶのも嬉しい。わたしのなかでは、王子電車の一番のハイライトは、大塚をぐるりと通りぬける瞬間。



とかなんとか、はしゃいでいるうちに早稲田に到着。まだ少し時間があることだし、ちょうどよいので、演劇博物館へ出かけるとするかと、《近代の名女形 六世尾上梅幸展》の見物にゆく。


衣裳とか公演ポスターとか舞台写真といったものが時系列に並べてあるだけだろうと、そうは期待せずに展示室に足を踏み入れたのだったけど、これまた、思っていた以上に満喫することとなった。しょっぱなで目にすることになる、梅幸の肖像写真がたいへん見目麗しく、舞台姿以外の梅幸の写真を見たのは初めてだったかも、こんなにまで見目麗しかったなんて! と、しょっぱなから見とれてしまった。


展示点数は一見したところそう多くはないけれども、明治の團菊と共演し、帝劇の座頭になり、晩年は十五代目羽左衛門と名コンビを組んでいた六代目梅幸の足跡は「歌舞伎の近代」そのものだなアというふうな、きわめて陳腐な感慨にひたるのがなによりたのしい、というひととき。明治21年10月中村座の『一谷嫩軍記』の錦絵の見事な顔ぶれにうっとりしたり、明治34年の『紅葉狩』の映画撮影の前に、十五代目羽左衛門と『二人道成寺』の映画を撮っていたことに「おっ」となったりとか、大正3年9月初演の『お夏狂乱』にまつわる展示を演劇博物館という場所で見ているという臨場感が嬉しかったりとか、羽左衛門との共演の、現在も頻繁に上演されるいつくかの演目のことなどなど、なにかとたのしかった。


印象的なのは、五代目菊五郎が生涯ただ一度の与三郎をつとめたときに共演していたのが梅幸だったということ。明治25年9月歌舞伎座の上演に際しての写真をひさしぶりに見たことで、あらためてしみじみ感じ入るものがあった。菊五郎の与三郎に関しては、以前に三木竹二の『観劇偶評』岩波文庫asin:400311731X)で当時の劇評を読んでしみじみ感じ入って以来、ずっと心に残っていたことだった。初役当時の梅幸はどんなだったかしらんとあとで確認したら、三木竹二は、

名にしおふ書卸しの梅幸丈以来、諸名優が仕残したる大役。いかがと思ひしに、これも御容貌のよいのと背の高いのが箝りて、よい年増振りであつたり。相合傘の出より藤八を伴ひ這入るまではさしたることなし。身仕舞をしながら藤八をあしらつて居るところ、故人のはちよつと筒持せのやうな腹が見えてよほど面白かつたよしなるが、丈のは一と通といふまでなり。安がねだりに来てびくともせず。とど一分出してやるまで、門閥だけにさして見劣りのせぬのは不思議。与三郎に「さういふお前は」と尋ね、顔を見て「えゝ」とびつくりする形、疑ふも尤もと言訳する辺、さすがに荷が勝ちすぎたり。多左衛門に面目ないとの思入、与三郎に「亭主といふのはお前の事だあね」といふ色気は相応に出来たり。しかしこの役も本筋にては長脇差の妾にて、与三郎の色になり、後には安をも与三郎をも殺すほどの女にて、与三郎を可愛がるも人形くひといふような訳なれば、ぜひ凄味なところも、あばずれたところもなければならず。さればこの丈にはつまり無理な役廻りなれば、大した見劣りなくやつて退けらるれば先づお手柄の方なるべし。

というふうに、書いている。展覧会の後半で目にした、羽左衛門の与三郎と名コンビを組んでいるころの梅幸の舞台写真のころのお富は、ここからどう進化したのかなと、しみじみ。同月に上演の、『仕立卸薩摩上布』に際しての、菊五郎と二人で写っている写真が『切られ与三』の隣りにあって、この写真の梅幸もまあ、なんと美しいこと。三木竹二が《作りたつて出られたところは、大府ならぬ人も一様に美しいものぢやと見惚るるは御仕合せなことなり。》と書いていて、うなずくことしきりだった。


そして、梅幸というと、まっさきに思い出すのは、昭和9年11月のその死に際する戸板康二のエピソード。当時、慶應予科3年に在学中の戸板康二が、所属する歌舞伎研究会において三田祭の飾りつけをしていたら、先輩が「梅幸が倒れた」といって駆けこんで来て、びっくりというくだり。昭和9年の戸板康二というと、阪神間で藤木秀吉の知遇を得たり、「演芸画報」の菊五郎論の公募論文に当選していたりしていた頃。


六代目梅幸の他界の翌年の、昭和10年に「三田文学」に劇評を書くことで、戸板康二は世に出た。いわば、梅幸は、戸板康二の劇評家の一生の前史にいた。戸板康二梅幸の劇評を書くことはなかった。戸板康二が仰ぎ見るようにしていた先輩の劇評家が、梅幸の数々のすばらしき舞台を劇評というかたちで記録している。……というような、わざわざ記すまでもないようなことを、今回の演博の展覧会で実は初めて実感したような気がするのだった(なにかの舞台写真を見て急に三宅周太郎を読み返したくなってウズウズしたりしているうちに。)。六代目梅幸の足跡は「歌舞伎の近代」そのものだなアというふうな、陳腐なことを思うのが、なによりも格別だったというふうな展覧会だったのだけれれども、わたしにとって「歌舞伎の近代」というのは、戸板康二前史の劇評家の系譜のことを指すのだ、ということが実感としてよくわかった気がした。




山本鼎尾上梅幸の栗原幸之助》(1911年)。実は先の、《誌上のユートピア》展で梅幸を目にしたばかりで、タイミングがよかった。この梅幸は、帝劇の明治44年9月狂言、益田太郎冠者作『心機一転』。明治44年、東京版画倶楽部を開設した山本鼎は、坂本繁二郎と組んで、版画集『草画舞台姿』を刊行している。同年に開場の帝国劇場に出演した俳優の似顔絵版画集で、第三集まで刊行。この《尾上梅幸の栗原幸之助》は第三集より。山本鼎坂本繁二郎の『草画舞台姿』(明治44年)は、一集につきそれぞれ2枚ずつ担当し、4枚1組・30銭で販売された。翌明治45年に山本鼎が渡仏したため、第三集をもって発行は中止になった(参考:上田市山本鼎記念館図録『山本鼎生誕120年展』2002年発行)。演博でかつて見たなかで、もっとも心に残っている展覧会はなんといっても《よみがえる帝国劇場》展(2002年9月から12月開催)。今回の梅幸展は、当時の帝劇展に思い馳せることができたのも格別だった。展覧会の快楽は、かつて見たすばらしき展覧会につながることでモクモクと刺激を受けることにあるのだなあと、いつまでもしみじみ。うらわ美術館と演劇博物館とで、「今日は帝劇、明日は三越」の時代を思う日曜日の午後となった。