『高見順日記』を繰って、戦時下の浅草と桑原甲子雄の写真をおもう。

朝の喫茶店で、コーヒーをすすってほっと一息ついたところで、今日は、図書館で借りては少しずつ繰っている「高見順日記」の続きを読み進めることにする。高見順が死の直前まで病床で注釈作業に没頭していた日記。今繰っているのは、昭和18年5月から昭和19年12月までの日記を収録している、『高見順日記 第二巻下』(勁草書房、昭和41年5月)。


昭和18年10月より東京新聞で、高見順の『東橋新誌』の連載がはじまる……というくだりが本日の読みはじめで、読み始めたとたんに、小説の取材に励む高見順の浅草彷徨のサマに心がスイング、ランランとページを繰る指がとまらないのだった。高見順は浅草を彷徨するのみならず、文芸ないし芸能文献の蒐集や読書にも余念がない(向島を舞台にしている小説して、鏡花の『鴛鴦帳』や芥川の『開化の良人』を読んだり)。「風俗小説」の書き手の矜持のようなものがみなぎっているのを垣間見て、同時代の野口冨士男に思いを馳せる。昭和18年10月26日付けの東京新聞の新連載紹介の記事に、高見順が「作者から」として、

風生氏の句に「黙々と息白く人等頼もしく」といふのがある。かうした感じの決戦下の頼もしい庶民の姿を書いてみたい。(中略)地理の関係から自然、浅草興行街の新しい姿の紹介などが出てくるだらうが、作者としては、出来るだけ娯しく面白く読んで貰へて、緊張の日々の、いくらかの心の慰楽と成るものが、うまく書ければ幸ひと考へてゐます。

という文章を寄せている(『高見順日記』は文字だけでなく、日記へのスクラップも丁寧に翻刻されている)、このところ強化している、昭和十年代の都会小説の書き手の系譜をおもって、しみじみ感じ入るものがあるのだった。


昭和18年10月9日に、《東京新聞、宮川氏来訪。近く尾崎士郎「人生劇場」のあとをうけて、連載をはじめるについての打合わせ。尾崎さんはひどく身体を悪くしているという。三雲祥之助、帰京とのこと。明日会えるよう宮川氏に手配たのむ。連載の挿絵を書いて貰うため》とあり、五日後の14日には《東京新聞の連載、浅草を背景にしようとおもう。ついては猫八(=木下華声)などと大いにつきあわねばならぬとおもう》とある。そして、翌日の日記は、

ビール会社へ寄る。僕とそっくりの人がいるとかで、紹介しようと猫八がいって、寄ったのだが、生憎く留守。
(中略)
吾妻橋に出て、ポンポン蒸気にのる。(中略)遺族章を胸につけた人々が大勢蒸気に乗っている。両国で降りる。ここが終点。ポンポン蒸気は両国、吾妻橋間だけになり、吾妻橋より上流は廃止になった。上流の船着場は取り払われて、吾妻橋にみんな集められた。

というふうなくだりがある。と、こんなちょっとしたくだりが日記読みの醍醐味だなあと、ますます上機嫌になる。その後どうなったかなと思っていたら、忘れかけたころの暮れも押し迫った12月28日に、

幸鮨に行くとネコがいる。ビール会社へ行こうという。自分にそっくりの社員がいるのだという。吾妻橋で都鳥を見る。ビール会社で自分にそっくりという人に会う。鈴木さんという。応接室にてビールを饗応される。ともに浅草「ニュー・トーキョー」へ行き、また、ビールを飲む。

とあった。高見順は翌年6月に陸軍の徴用を受けて、「報道班員」として満州にわたっている。甘粕正彦と面会したり撮影所を見物したり、海軍の「最下級兵」の野口冨士男とは待遇が雲泥の差なのだった。



高見順日記』に夢中になるあまり、『東橋新誌』を読みたくなってムズムズ、日没後はマロニエ通りをテクテク歩いて、京橋図書館へまいりましょう! といきたいところだったけれども、『如何なる星の下に』が読みさしのまま放置されていたことを思い出して、今日のところはスゴスゴと早々に帰宅する。夕食後、ミルクティを飲みながら、あともう少しというところで放置されていた『如何なる星の下に』を最後まで一気に読んだ。十返肇が愛してやまなかった、高見順の浅草風俗小説。次はいよいよ、『いやな感じ』を読むのだ。




『如何なる星の下に』の三雲祥之助による挿絵。高見順と三雲祥之助は典型的な小説家と挿絵画家の名コンビ。今回読んだのは、中央公論社版『日本の文学』第57巻の「高見順」(昭和40年5月初版)にて。挿絵が抄録されているのがたいへん嬉しい。この巻には『如何なる星の下に』と『いやな感じ』が収録されている。中公の「日本の文学」はちょくちょく100円で売っているし、月報の対談がなかなか面白いし、小ぶりで読みやすくて、日頃からひいきにしている。



高見順『如何なる星の下に』は昭和14年1月より翌年3月まで「文藝」に断続連載された(全12回)。『如何なる星の下に』を読んで思い出づるは、桑原甲子雄の浅草写真! と、読了後は本棚にある桑原甲子雄の写真をあれこれ眺めているうちに寝る時間になった。




桑原甲子雄浅草区隅田公園一銭蒸気乗り場・雷門駅》昭和14年。写真家の言葉として《永井荷風が、白魚が獲れると書いた明治の隅田川の情趣はこの頃すでにない。くさい川に変貌しようとするところである。隅田川の一銭蒸気は明治初期に登場し、その頃1区間1銭だったことからこう呼ばれた。水上バスと呼ばれるようになったのは戦後も10年程たってからだったと思う。》とある。




桑原甲子雄《浅草お好み焼き屋》昭和14年、『夢の町』(晶文社、1977年8月)より。桑原によると、ここは幼友だちの濱谷浩に誘われて行ったお好み焼き屋で、写っているのは吉本演芸場か花月劇場の踊子とのこと。このお好み焼き屋は「染太郎」ではないとのことだけど、そのまんま『如何なる星の下に』の世界! 




桑原甲子雄隅田川吾妻橋上》1950年代。「ビールといえば吾妻橋」ということで、右文書院ホームページ(http://www.yubun-shoin.co.jp/)にて『ほろにがの群像 朝日麦酒の宣伝文化とその時代』連載中の濱田研吾さんに献呈したい写真。