大正7年、青木堂でチョコレートを飲む沼波瓊音。帝国図書館の瓊音。

夏の大学図書館は休館中だったり開館時間が短かったりで不便だし、駅からの灼熱の道のりを思うと近代文学館へゆくのも億劫だ、この季節は他に行き先が思いつかぬ、というわけで、ここ2か月はかつてない頻度で国会図書館へ出かけていた。閲覧机で調べもの合間にチビチビと繰っていたのが、『瓊音全集』の端本。


何か月か前に「おっ」と買ったきり、それっきりになっていた(銀座旭屋のカバーがつけっぱなしのまま書棚に埋もれていた)、森銑三小出昌洋編『風俗往来』中公文庫(asin:4122050081)はホクホクと繰っていた折、

明治大正の俳人の内で、食べ物の句を最も多く作っている人といったら、沼波瓊音さんを第一に挙げてもよいのではないだろうか。それほど沼波さんには、食べ物の句が多い。「瓊音全集」第四巻の「句集」の部を通読すると、その食べ物の句ばかりが、百を越していようかと思われる。

という書き出しの「蕎麦の句そのほか」という文章で見ることのできる、沼波瓊音の「食べ物の句」とそこに添えられる森銑三の評釈に「いいなあ……」と頬が緩みっぱなしだった、ということを、ある日の国会図書館でなんとはなしに思い出して、申込冊数に余裕があったので、ほんの気まぐれで『瓊音全集 第四巻 和歌俳句篇』(奥付なし)を閲覧したのがはじまりだった。以来、国会図書館にゆく度に、『瓊音全集』第四巻を一緒に申し込んで、閲覧室の上に置き、なんとなくダレてきたらページを繰る、というのが絶好の気晴らしとなった。


柴田宵曲『文学・東京散歩』こつう豆本41(日本古書通信社、昭和55年1月)の「大学図書館」の項の、

 大学図書館にたて籠り、書斎よりもここで多くの筆を執ったこと沼波瓊音の如きは稀であろう。彼の異色ある「徒然草講話」はここで稿を起しここで書き了った。
 「白日下の涙」をはじめ、瓊音の作物に散見する図書館なるものは多くは上野でなしに大学図書館のようである。彼は大学図書館の特別室を以て我が為の理想郷なりと云い、室内の様子、窓外の眺などを細叙している。大正震災より十年も前の文章だから、今の建物ではない。「図書館の吉野桜」という彼の長詩は、「新聞包みの麺麭、番茶入れし水筒」を携えて日々ここに通う感慨を詠ったものである。

というくだりを目にして以来、ずっと気になっていた沼波瓊音の「図書館の吉野桜」という詩も、『瓊音全集 第四巻』で初めて全文読むことができた。これと同年同月の大正7年4月作の詩が、「図書館の吉野桜」の次に掲載されている「チヨコレートの歌」。

チヨコレートの歌


とろりとろとろチヨコレート
熱帶の、濃き味
肉汁如して浮く脂
どつしりと重い甘み
痲れる程熱く煮立てた
チヨコレートのとろとろと

舌の用心して
そろそろと
とろりとろとろと
チヨコレートを君と飲む
青木堂の二階
六年ぶりの會合嬉しく

泥だらけの床
ひびのいつた壁
気味惡くべたつく卓
無愛想な小僧
しかしチヨコレートはうまい
とろりとろとろと

聲高な學生連を背に
伊太利亞の酒屋のビラの下に
君と我と語る
孤獨の毒の滲みて来た我と
教鞭を棄てゝ北海道の農に赴く君と
チヨコレート飲みつゝ語る

附燒のバカ貝を肴に
久しぶりに盃を交はして
半日語り暮らし
若竹を中入まで聞き
なお盡きぬ興を
こゝのチヨコレートにて結ばむとす

お互に角帽つけし昔の
その昔ながらの味かな
アマゾンの川邊のカヽオか
エクアドルの森のカヽオか
種を炒られて碎かれ煉られて
こゝで煮られたチヨコレート

とろりとろとろチヨコレート
あどけない奴えらくはなれぬ
と、あきらめた君と我
相も變らずあどけなく
話して遊ぼよ暮さうよ
チヨコレートのとろとろと

青木堂二階が舞台の沼波瓊音の「チョコレートの歌」。モダン都市におけるお菓子をとりまくあれこれを常日頃追っている身(自称)にとっては、沼波瓊音が「とろりとろとろチョコレート」とチョコレートの詩を書いているという、ただそれだけのことに、極私的に大喜びだった。「図書館の吉野桜」における「新聞包みの麺麭  番茶入れし水筒」といい、この「チョコレートの歌」といい、沼波瓊音はその詩作でも食べ物の登場具合がステキ。


と、そんなこんなで、沼波瓊音の「チヨコレートの歌」がすっかり気に入ってしまい、沼波瓊音の「チヨコレートの歌」の文字を何度も何度も追っては、大正年間の本郷の青木堂を思ってひとりいい気分になっていた。と、そうこうしているうちに、大正7年当時、沼波瓊音はいかなるチョコレートを飲んでいたのか、とうことが急に気になり、池田文痴菴『日本洋菓子史』(社団法人日本洋菓子協会、昭和35年9月)を繰って確認してみたところ、初の国産チョコレートは明治11年風月堂とのことで、チョコレートが急速に普及したのは明治30年代、主として輸入品が、銀座亀屋、明治屋、函館屋、そして本郷の青木堂で供給されていたという。明治30年代にして、すでに青木堂ではチョコレートが提供されていたのだった。輸入品のチョコレートが。


国産チョコレートの普及の嚆矢は森永。明治36年、森永製菓の前身、森永西洋菓子製作所が大阪市における第5回内国勧業博覧会にチョコレート・クリームを出品し、3等賞を受賞している。そして、大正7年1月、帝国ホテルにおいてチョコレート製造の新企画を発表、同年6月、田町にチョコレート工場を設置、8月に市場向けの商品としてのチョコレートが初めて製造された。価格は輸入品の7割安。その完成とほぼ時をおなじくして、森永ミルク・チョコレートの大広告が各新聞に高らかに掲げられた(大正7年8月)。


沼波瓊音が本郷の青木堂の二階で輸入品のチョコレートを飲んでいた大正7年という年は、森永においてチョコレートの大量生産が始まった年で、そして、森永によるチョコレートの PR が開始されるのと同時期だったということになる。「広告の森永」の黎明期。……といったようなことを、池田文痴菴の『日本洋菓子史』をひもとけば、豊富な図版と切り貼りされた当時の資料とで、ヴィヴィッドに当時のことを体感できて、なんとも胸躍るひとときだった。『森永五十五年史』(昭和29年刊)を同時に参照すれば、さらにたのしい。





「森永ミルクチョコレート」ポスター(大正7年)・池田永治(原画)、片岡敏郎(構成)、図録『図案の変貌 1868-1945』(東京国立近代美術館工芸館、1988年9月20日-11月6日)より。大正7年当時、片岡敏郎は森永のアドライターだった。このあと大阪の寿屋へ転職、大正10年2月、広告史の本にかならず掲載される「赤玉ポートワイン」の広告を制作している。




おなじく、図録『図案の変貌 1868-1945』(東京国立近代美術館工芸館、1988年9月20日-11月6日)より、大正後期のポスター。制作者は不明のようだけれども、プリティー




「森永月報」大正12年7月15日号掲載の「森永ミルクチョコレート」広告。《チョコレートの製造は我国に於ては我社の創始にして其の代表的製品たる本品の効果は古来数多の世界的伝説及記録を有す。今や完備せる最新式機会力に依る大量生産は本品をして其名声を益益高らしむるに至れり。》。大正12年4月、新築の丸ビル入り口に「森永キャンデーストア」開業、同年12月銀座6丁目に銀座キャンデーストア開業、森永製菓はますます隆盛する。同年6月、明治製菓は PR 誌「スヰート」を創刊、翌年3月、初の直営売店である銀座売店を開業。常に、森永のあとをゆく明治製菓であったけれども、この頃から森永に次ぐ地位を獲得し、両社の熾烈なライバル関係が始まることとなった。「森永月報」の創刊も大正12年(5月創刊)。各小売店、関係筋に配布する社内報的な新聞形式の小冊子で、大正15年7月まで全38号を刊行。元報知新聞記者高浜二郎、池田文痴菴、寺田光子が編集にあたっていた。





はじめは、第4巻の「和歌俳句篇」ばかりだった、国会図書館の閲覧机の上の『瓊音全集』は、このごろは続きの巻もたのしみで、「和歌俳句篇」とおなじくあちらこちらでニヤニヤしている。


たとえば、第六巻「随筆篇 上」(瓊音全集刊行会、昭和10年7月)所収の「或時の感」という文章の書き出し、

 帝國圖書館の夏の晝、我は特別室の一隅に、窓帷(カーテン)越しの日光を背に浴みつゝ、數十冊の書籍を繰展げ拔萃の筆を走らせてあり。暑しと呟くあり、溜息洩らすあり、扇使ふあり、痒きを掻くあり、これ等の音を煩しと思ふは我が倦みたる徴なり。暫く筆を差措きて汗拭ひつゝ四邊を見る。試験の準備に惱まさるゝ者、講義の下調に苦む者、書肆に命ぜられし編纂に忙しき者、皆或物に使役せられて餘儀なく此處に讀書の人となれるなり、餘儀なしといふことは彼等の活氣無き顔色にも著しからずや。窓の外は乾きたる櫻の青葉押重なりてそよともせず日盛を、心よしと鳴頻る蝉の聲まことに時雨のやうなり。蝉は暑きを喜びて唱へるなり、遊べるなり、樂しめるなり、人は暑きを厭へるなり。そを避くる術を知れるなり、知りつゝもなほ避け得ずして此處に書讀めるなり、遊び得ざるなり、樂み得ざるなり。蝉心あらば如何にこれ等の人を嘲るならむ。我も亦その嘲らるゝ一人なるか。あらず、我はあらずと信ず、我の此處に在るは自由意思による、他に使役せられてには非ず、絢爛なる徳川文學全體に渡れる或主要なる題目を捕へて其が解決に殆ど寢食をも忘れつゝあるなり、赤帝の威力いかに酷烈なるも我に於て何かあらむ。この論の完成に對する希望、唯其の希望の光をのみ直視して他を顧りみざるなり。我は彼の木立に於ける蝉の如く此處にしも遊びつゝ樂みつゝあるなし、何ぞ我が高きや、もとよりこの館内我と同じき人一人も無しとは言はざれど、そは必ず極めて少數なるべし。斯る誇りに勵まされて我は更に筆取上げて材料の拾集を樂しと續けたり。


【「或時の感」 - 『瓊音全集 第六巻 随筆編 上』(瓊音全集刊行会、昭和10年7月10日)所収】

と、こんなくだりにしみじみ「いいなあ」と思う(このあとの文章も面白くて、最後まで抜き書きしたいくらい)。図書館では、いつも心に瓊音を! と思う。




都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より、「東京帝大図書館」(ジョン・ロックフェラー・図書館建築部・昭和3年)。森銑三は『噫瓊音沼波武夫先生』(瑞穂会、昭和3年)所収の追悼文で《夜分や夕方に、帝国図書館の特別閲覧室でよくお目にかゝつたりした。大学の図書館が焼けてから、先生は上野まで調べ物にお出になるのだった。》と書いている。沼波瓊音は、震災で焼失した帝大図書館の新しい建物を見ることなく、昭和2年に51歳で他界。