昼下がり、小田急線にのって町田へ。八木義徳展を見物する。

先週半ばの夜。届いたばかりの「日本古書通信」を心穏やかに繰っていたら(このひとときが毎月一番のおたのしみ)、町田で八木義徳展が開催されることを知り、いきなり大興奮だった。驚きと歓喜、まさに驚喜の一語に尽きる。今週末より開催という。こ、こうしてはいられない、初日の土曜日はやむにやまれぬ所用(母と宝塚観劇)ゆえ断念せざるを得ないのだけれども、しかーし、翌日曜日は万難を排してぜひとも町田へ行かねばならぬと、目には炎がメラメラ、さっそく手帳に大きくメモするのだった。


金曜日の日没後。発売を知って以来ソワソワしっぱなしだった、今月の文春新書の新刊、平井一麥著『六十一歳の大学生 父野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』(asin:4166606646)を無事入手してほっと一安心。期限どおり本を返してスッキリしたあとでじっくりとページを繰るとしようと、足どり軽くマロニエ通りを直進して京橋図書館へ行ってみたら、図書館の入口に当の八木義徳展のチラシが置いてあった。これだけでもここまでテクテク歩いてきた甲斐があったッと、ガバッと手に取って、ジーン。なんといい写真であることだろう。好きな文学者の展覧会、どちらかというと地味な(と思われる)文学者の展覧会が催される、その文学者が生活していた場所で催される、休日にひょいと出かけられるような近郊の地で催される……これほど嬉しいことはそうあるものではない。野口冨士男関係の本をなんと新刊として入手した直後に、八木義徳展へと出かけることになるとは、これこそまさに「盆と正月が一度にやってきた」と言うのではなかろうか(わたしのなかでは)。




町田市民文学館ことばらんど(http://www.city.machida.tokyo.jp/shisetsu/cul/cul08Literature/index.html)にて、2008年10月18日から12月14日まで開催の、《町田市制50周年記念特別企画展 文学の鬼を志望す 八木義徳展》のチラシ(「徳」の字は旧字)。写真は《1975年 新宿ゴールデン街にて 撮影:角田武》。八木義徳の立ち姿はまさしく古武士の風格。



日曜日の正午過ぎ。新宿から小田急線の急行列車にのって、町田へ向かう。本日の車中の読書は、高田保『河童ひょうろん』(要書房、昭和26年8月25日)なり。




高田保『河童ひょうろん』(要書房、昭和26年8月25日)。装釘:茂田井武。先週の展覧会のあと、引き続き部屋の本棚を探索したら、あらたにもう1冊、茂田井武装釘本を発見して大喜びだった(探せばもっと出てくるかも)。


高田保の文章はひとたび読み始めると、身も心も軽やかになる。あまりの心地よさに、ますます気持ちがフワフワしてくる感じ、せっかく小田急線に乗っていることだし、いっそのことこのまま小田原まで行って大礒まで足をのばすとするかな、内田誠の終焉の地でもある大礒へはぜひとも行かねばならぬとかねがね思っているのだけれども、なんやかやで機会を逸している、「高田保公園」へ行きたいと思って幾年月なのだった……というようなことを思っているうちに、乗っていた小田急線はあっという間に町田に到着。おっと降り損ねたら本当に小田原へ行ってしまうッと、あわてて下車する。町田に来るのは今日で二度目、数年前に国際版画美術館へ石版画の展覧会に出かけて以来だ(あのときは美術館の公園の紅葉が見事だった)。


そんなこんなで、駅から徒歩約10分、版画美術館と同じ方向だなあと懐かしがっているうちに、町田市民文学館にたどりつき、いよいよ《八木義徳展》を見物することとあいなった。展示はオーソドックスに八木義徳の生涯を時系列にたどるというもので、展示そのものもとても充実していた。好きな文学者であるので、その生涯と折々の作品を熟知している、各々の展示を実感も持ってじっくりと凝視することができて、密度の濃い時間を心ゆくまで満喫。もう言うことなしのすばらしい時間だった。図録(1000円)も刊行されていて、大喜び。文学館の入口あたりに、町田ゆかりの文学者とその地図がパネルで示されていて、土地不案内なのでたいへんありがたい。八木義徳が住んでいた場所を初めて知ることができて、ジンとなった。文学館とは駅の反対側だ。このあとは、駅の向こうの高原書店に出かけるダンドリなので、ちょいと思いを馳せてみようと思った。展示会場は2階で、1階には図書室があった。こちらもツボをおさえた充実した蔵書で「おっ」と次々と本を引っこ抜いて拾い読みすることしばし。……などなど、嬉しいこと目白押しの町田市民文学館だった。


八木義徳展は、自伝的作品『海明け』(河出書房新社、昭和53年4月)からはじまっていた。と、ここでさっそく、その読後感を3枚の便箋に綴った野口冨士男の八木宛書簡(昭和53年9月5日付け)が展示されていて、胸がいっぱいになった。《例の仕事が追い込み段階だったため》、《読後感おそくなってすみませんでした》とある。この「例の仕事」というのは、『徳田秋声の文学』(筑摩書房、昭和54年8月)の刊行の準備ということにすぐに思いが及んで、ますます胸がいっぱい。《俺の「かくてありけり」なんかとはまったく違う、おおらかな作品だな、という感想です》という一節も目にとまる。野口冨士男の『かくてありけり』と八木義徳の『海明け』、同年生まれの盟友がほぼ同時期に自伝的小説に取り組み、いろいろな意味でそれぞれにまったく違う作品であり、そしてそれぞれに完璧な小説となっている、両者ともまさに「文学の鬼」、ということを思って、ますます胸がいっぱい。ここに、池袋の仕事部屋で『海明け』を執筆中の八木義徳を写した写真が掲げられている。町田の自宅を離れて、池袋の仕事場で執筆した折の、「仕事部屋」を持ったよろこびと気分転換としての町歩きについて綴った八木義徳のエッセイが大好きで、折にふれ読み返していたものだった、ということを思い出して、ますますジーンとなった。


というふうに、このあとも展示のあちこちで、八木宛野口冨士男書簡と野口宛八木義徳書簡を交互に読むことができて、展覧会全体でちょっとした「野口=八木往復書簡集」というふうな体裁になっている感じもする。昭和23年に「文藝時代」の創刊の折に出合った二人、のちに「キアラの会」、紀伊國屋書店田辺茂一がスポンサーになった「風景」へとつながってゆく一連の歳月、「風景」終刊後のそれぞれの円熟期、というような、野口冨士男とともにある八木義徳の文学者の生涯、というふうな観点で見物してもなにかと尽きないし、八木義徳そのものの文学活動に焦点をあてて見ることで今後ますます八木義徳読みを深めていきたいというような敬虔な気持ちにもなる。八木義徳の字の美しさにもあらためて目を見張るものがある。その立ち姿とともにその字も古武士の風格なのだった。「古武士」、八木義徳を一言で表現すると、この一語に尽きる気がする。


わたしが野口冨士男を読むようになったのは、2003年の夏頃なのでもう5年になる。その折に手にした、新宿歴史博物館特別展図録『田辺茂一と新宿文化の担い手たち―考現学、雑誌「行動」から「風景」まで―』(1993年刊)に収録されている八木義徳のインタヴュウがあんまりに素敵で、それだけで八木義徳が大好きになってしまって、野口冨士男の直後に八木義徳を読むようにもなった。あれから5年になるのだ。この二人の「文学の鬼」のおかげで、この5年のわが本読みがいかに充実しただろうと思う。しみじみ思う。ジーンとどこまでも敬虔な気持ちになって、文学館をあとにするのだった。


野口冨士男八木義徳、わたしはこれから先、ますます彼らの「読者の鬼」を志望す、というような心境になって、目には炎がメラメラのまま、町田の繁華街を通り抜け、線路の反対側に出てみると、町はいきなり静かになった。八木義徳の歩いた町の雰囲気もこんな感じなのかなと、心穏やかに高原書店をめざしてテクテクと歩く。駅のこっち側にもドトールがあるのが嬉しいと、高原書店をめぐってずいぶんくたびれた、ドライフィグ(好物)を食べながらコーヒーをすすって、ひとやすみ。知らない町の、繁華街ではなくて主に近隣住民(と思われる)がくつろぐ生活感ただようドトールでひとやすみ、というのが、休日の午後のたのしみのひとつなのだった。一期一会のドトール。今回のドトールは落ち着いていて、なかなかよかった。日が暮れる前にふたたび小田急線にのって、新宿のジュンク堂で本を見る。新宿のジュンク堂に来るのはいつも日曜日の日没時。





八木義徳『七つの女の部屋』コバルト新書28(鱒書房、昭和30年12月10日)。カバー装画:阿部竜応。第一創作集の『母子鎮魂』(世界社、昭和23年3月)が欲しいと思って幾年月、目録で見かけるたびにその古書価格にがっくりと肩を落としている。わが書棚の八木義徳のうち、もっとも古い本はコバルト新書。八木義徳としては本意でないのは確実の「軽文学」作品集であるけれども、入手したときは嬉しかった。純文学作家の風俗小説集、というのが結構好きなので。




井上友一郎『銀座の空の下』コバルト新書(鱒書房、昭和30年7月15日)。カバー装画:生澤朗。ついでに、おなじくコバルト新書。こちらは1950年代銀座の資料として買った。森永ネオンサインが回り始めたころの銀座界隈が結構好きなので。