一口坂をのぼり九段坂をくだって、神保町へ。「スヰート」の池部鈞。

今日も朝からどんより曇っていて、モームの『人間の絆』におけるロンドンの空のよう。正午過ぎ、ふと神保町に行きたくなって散歩に繰り出したとたんに、雨がポツポツ降ってきた。用心のためにとかばんに入れてあった傘をさっそく取り出す。


新見附橋を渡り、一口坂をのぼり、靖国通りに出る。このあたりは、ここ数年来お気に入りの、休日の午後の散歩コースなのだった。小雨ぱらつくなか、いい気分で歩く。前々から、市ヶ谷界隈に住んでいた網野菊を思って悦に入っていたものだったけれども、このごろは、戦前の野口冨士男に夢中なので、ますますこの散歩コースに愛着をもつようになった。野口冨士男は昭和9年8月から翌年にかけて一口坂近くに住んでいて、この時期、吉行あぐりの美容室の裏手に下宿していた十返肇となかよしになって、近所の友人としてさかんに往来していた。


野口冨士男の自筆年譜で、昭和28年に和木清三郎編集の雑誌「新文明」に『いもあらい坂』というタイトルの文章を寄せていると知ったときは歓びのあまり、いてもたってもいられず、さっそく図書館に閲覧に出かけたものだった。野口冨士男の一口坂時代。

 電車の車掌もヒトクチ坂といっているが、あの停留所の所から外濠を越えて新見附のほうへくだって行く坂は、イモアライ坂というのがほんとうだと教えてくれたのも、そのお爺さんであった。坂上の右角には和泉屋というパン屋があって、小さな店であったが、何時買いに行っても温かいパンをよこすので評判を取っていた。一日に何度となくパンを焼くというのが、この店の自慢であった。坂の中途には金光教の会堂があって、そこの前を通ると拍子木の音がきこえた。その先には九段の電話局と木下正中氏の経営する産科医院があった。後に私の長男を取上げてもらったのはこの病院である。三輪田高女はその先にあった。此処の女生徒は、午の時間になると和泉屋へ温かいパンを買いに来ていた。電車局の黄色い建物の筋向いには高橋という歯科医院があって、門の中の玄関先には百日紅の樹があった。


野口冨士男『いもあらい坂』(「新文明」昭和28年9月号)】

いつもながらに、それだけで「東京資料」となってしまうような、野口冨士男ならではの緻密な風俗描写がすばらしい。一口坂のふもとの女学校と坂の中途の NTT で、当時をわずかにしのぶことができる。たぶん、野口冨士男の書く百日紅のある歯科医院のあたりに以前、お気に入りのワインバーがあって、半地下の窓から見える坂の傾斜の眺めがとてもよくて、トリュフォーの『日曜日が待ち遠しい!』をいつも思い出していたものだった。ワインに開眼したのは思えばあのお店がきっかけだった。今年の早春に店じまいしていたことに気づいた。近所の2階のワインバーに通ったりして、一口坂からちょっと足が遠のいた間にお店はなくなってしまった。一口坂でワインを飲むということはもうないのだという事実はことのほか大きな喪失だった。


 いもあらい坂。今も私にはなつかしい地名の一つである。あのあたりも大正十二年の震災からはまぬがれてしっとりと落ち着いた山ノ手の町の一つであったが、今度の戦争では一めんの焦土と化してしまった。私が煎餅屋の二階に移った時分には、あのあたりもまだ三番町と呼ばれていて、九段三丁目とあらためられたのは、半歳ほども経ってから後のことである。私はその家の二階で大ぶりの丸い厚焼の煎餅をバリバリと噛りながら、友人や知己に宛てて町名変更を報らせるハガキを何枚も書きしたためた。
 この折の町名変更は甚だ杜撰なもので、私などには腹立しいよりも呆れ返るというほかはないようなものであった。三番町が九段三、四丁目、土手三番町が五番町、五番町が三番町と機械的に差替えられたぐらいまでのところは、まだしも恕せられぬではない。が、富士見町一丁目を九段一、二丁目とあらため、かんじんの富士山などは見たいといっても見られぬような飯田町あたりへ富士見町の名称を移したことは、何としても無謀のきわみであった。九段坂上と一口坂の停留所の中間には、当時、富士見町一丁目招聘社脇という長い名前の停留所があって、このあたりから市ヶ谷駅に至る電車通りの真正面には、何の遮ぎるものものなく、雄大な富士山の威容がありありと望まれた。恐らく、東京中の何処から望まれる富嶽よりも巨大であったろう。みごとな眺望で、さすがに大きな山だなァという感嘆が、誇張でなく、見る度ごとに切実な実感をともなった。このあたりこそまことに富士見町の地名にふさわしかったのである。
 私は雑誌記者として、或は俸給生活者として、かならずしも忠実な人間ではなかった。夜更かしをするために、朝も遅刻をすることがしばしばであったし、退社後も真直ぐ帰途につく日など算えるほどもなかった。が、冬の朝の真白な富士、夕陽に染められた赤い富士、背後に光線を背負った黒い富士、朝な夕なに望まれる富士の英姿はその日その時の心象の鏡として、私の胸に或る時はすがすがしいさわやかさを吹き込み、或る時は野心と英気とを盛り立て、別の或る時にはふかい失望の切なさを刻みつけずにおかなかった。私は恍惚として富士の姿に惹かれた。私は煎餅屋の二階に起居していたあの当時ほど、単なる地球の隆起にしかすぎぬ無心の自然と自身との間に、密接不可分な感情の交流を見出した一時期のあったことを知らない。曇って富士の見えぬ日は、私の心も私には見えぬかのようであった。そのくせやはり私の哀しみも歓びも、富士などとはまったくかかわりもない、人間世界の卑小なまじわりのうちにしかなかった。


野口冨士男『いもあらい坂』(「新文明」昭和28年9月号)】

野口冨士男の昭和9年から翌年にかけての一口坂時代に書かれたエッセイに、「九段四丁目」という文章がある。紀伊國屋書店出版部での雑誌編集の同僚として、野口冨士男十返肇の交流がはじまったばかりのころ。

ぼくはいま十返君について論じたくない。十返君にほうでも論じられたくはないだろう。彼は、まだ出発したばかりなのだ。彼のすべてが、これから先にある。そういう意味で、将来いろいろなことを試みてくれるといいと思っている。ただぼくが十返君に望みたいことは、ぼくや十返君は行っていた学校の関係で、いわゆるアカデミックな勉強をしていないから、これから精ぜいそういう勉強をして貰いたいと思うことである。ことに批評家の生命は、基礎的なものが築かれているか否かでずいぶん変ってくるのではないかと思う。アカデミックな批評を望みはしないが、すぐれた画家がデッサンを尊ぶように、そんな勉強を望むのである。


野口冨士男「九段四丁目」(「翰林」昭和9年9月)→『文学とその周辺』(筑摩書房、1982年8月)所収】

九段坂にさしかかるあたりの、松岡九段ビル(参照:http://home.j00.itscom.net/takana/ken-page/ken-van.htm)の窓枠の半円の感じがいかにもモダン建築! とぐるりと建物を観察。1階の素敵な喫茶店http://www.cafe-miel.jp/)は日曜日はお休み。近々またここでじっくり本を読みたいなと思う。今月の岩波文庫の新刊が出たら、行方昭夫訳『モーム短篇選』の下巻が出たら、ここに来ようかな……などと思いながら、九段坂とくだる途中で、徐々に視界に入ってくる軍人会館が実にいい眺めだった。




川上澄生《新装の九段坂》(昭和4年)、図録『近代版画にみる東京 うつりゆく風景』(東京都江戸東京博物館、平成8年7月29日発行)より。



いい気分で神保町にたどりつく。日曜日の午後に来るのはひさしぶり。ちょくちょく平日の日没後に通り抜ける神保町も、休日はいつもとちょっと気分が違う。ほんの気まぐれで書泉グランデのエレベーターに乗りたくなって、最上階の鉄道コーナーへ。このエレベーターからスイスーイとガラス越しに靖国通りを見下ろす瞬間がたまらない。などと、エレベーターに乗るためだけにやってきた書泉の鉄道売場は、いつもながらの濃密な静寂さに包まれているのだった。ここに来るのはずいぶんひさしぶり。適当に棚をめぐっていると、『東急の駅 今昔・昭和の面影』JTBキャンブックス(asin:453307166X)というのが平台にデンと積んであって、ガバッと手にとり、こんな本が出ていたなんて! と大興奮。奥付を見ると今年9月に出たばかりだった。書泉に来なければずっと存在を知ることはなかったのは確実。こんな本が出るのを待っていたのだ。ジーンと迷わずレジに直行する。


東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介 (キャンブックス)


戸板康二は1930年代後半より1993年1月に他界するまで目蒲線(現目黒線)の洗足の住人だった。東急沿線の昔の風景は戸板康二が見ていた東京、ということになる。書泉に来るたびに、パリッとビニールでコーティングされている昔の東急の写真集を見上げていたものだった(上の方の棚にある)。欲しい気もするがさすがに散財する勇気はわかぬと、書泉に来るたびにあきらめていたのだったけれども、今回晴れて「JTBキャンブックス」として発売になった東急本の著者宮田道一氏は、いつも見上げていた写真集『回想の東京急行』の著者でもあるのだった。目蒲線、池上線など、昔の車両を見るのも面白いし、昔の駅舎もおもしろい、駅それぞれの来歴がコンパクトにまとめられているのもありがたい。池上線の昔の車両は戦前の小津安二郎(『生れてはみたけれど』等)でおなじみ。小津安二郎といえば、『秋刀魚の味』で佐田啓二岡田茉莉子が住んでいる「郊外の団地」の最寄りは石川台(本書でしっかりと言及されている。偉い)。岡田茉莉子といえば、『秋日和』に出てくる目黒の鮨屋目蒲線沿線なのかな。というわけ、「東急の駅 今昔」を思うということは戸板康二のいた東京を思うことでもあり、小津安二郎の映画を思うことでもある。目黒と五反田はちょくちょく出かける町なので、これからも折に触れて休日、池上線や目黒線にのって遊覧に出かけたいものだと、ペラペラとページを繰っているうちに、生きる歓びすら沸いてくるのだった。……などと、東急の本でなにをそんなにはしゃいでいるのか自分でも謎なのだった。



まさか、書泉の鉄道本コーナーで買い物することになるとは思わなんだ、としみじみとなりながらふたたびエレベーターに乗って1階にくだり、次は東京堂へ向かう。と、その途上、小宮山書店のガレージセールの前を通りかかった。未熟者ゆえこれまでここでよい買物をしたという記憶が皆無で、このごろは足を踏み入れることはとんとなかったのだけれども、東急の本を買ったばかりで機嫌がよかったせいか、今日はめずらしく気が向いて、ちょいと見てゆくかと足を踏み入れる。


「3冊500円」の棚でさっそく、岡田茂『小説 泡沫』(東京アド・バンク、昭和55年1月)なる本の背表紙が視界に入り、こ、これは三越の「何故だ!」の岡田茂の小説だろうか、その臆面のなさについ笑ってしまうのだけれども、岡田茂といえば慶應国文科で戸板康二と同級生だったので、無視はできない、もしや? と、函から取り出して中身をチェックしてみると、それはやはり三越の「何故だ!」の岡田茂の小説であった。総勢10名による序文の先頭に戸板康二の名前があって、いざ読んでみると、他では読んだことがないような三田在学時のちょっとした回想が書いてあって、なかなか貴重。こんな本が図書館にあるわけもないし、「3冊500円」だし、とりあえず買っておくとするかと手に取る。残りの2冊が見つからず苦悶するというのがいつものパターンなのだけれど、岡田茂を手に取った瞬間、紅野敏郎『昭和文学の水脈』(講談社、昭和58年1月)が視界に入る。戦前の野口冨士男を調べる際に役に立つことがたくさん書いてあるありがたい本。図書館で借りてくまなくノートにメモしたものの、手元に置いておくべき本だと思っていた。あまりにも頻繁に古書展で見かけるのでかえって買う機会を逸していた本だった。と、紅野敏郎を手に取った瞬間、恩地孝四郎の装幀がそこはかとなく素敵な、日本読書新聞編『私の読書遍歴』(黎明書房、昭和27年11月)が視界に入る。あっという間に3冊になった。



東京堂を経て、最後は古書モール。ガラスケースのなかの、池部鈞の本に心奪われ、夢遊病患者のようにふらふらと買ってしまう。




池部鈞『すぐ出来る漫画の描き方』(崇文堂出版部、昭和6年11月10日)。池部鈞は、明治製菓の戦前の広報誌「スヰート」に毎号、漫画を寄稿していて、戸板康二『思い出す顔』(講談社1984年11月)の「『スヰート』と『三田文学』」には、

 ぼくが「スヰート」を担当するようになって、毎号かならず頂いたものに、瀧口修造氏の夫人の綾子さんの童話、池部鈞氏の漫画で描いた広告があった。
 池部さんの場合、御自身が来ることもあったが、そうでない時は、長男がクルクルと巻いてゴム輪をかけた画用紙を持って、宣伝部のカウンターの向うでていねいに挨拶する。この金ボタンの大学生が、まもなく映画俳優の池部良になるわけだ。 

という一節がある。戸板康二昭和14年4月に明治製菓に入社し、宣伝部で「スヰート」の編集に携わるようになった。池部良は、昭和14年東宝に移っていた島津保次郎による丹羽文雄原作『闘魚』で映画俳優としてデビュウした。封切は昭和16年7月なので、上の戸板康二の回想と合致する。



「スヰート」第十五巻第二号(昭和15年3月25日発行)より、池部鈞の広告漫画。戸板康二が入社して1年過ぎたころの「スヰート」の誌面。この号の内田百間は「バナナの菓子」。水木京太の「マクロン談義」が、いかにも戸板康二の依頼という感じがして、にっこり。イプセンの『人形の家』の幕開けでノラが口にするお菓子についてのエッセイ。



池部鈞は「スヰート」にほぼ毎号広告漫画を寄稿し、明治製菓の新聞広告もたくさん手がけていた、というわけで、1930年代の池部鈞の著書、しかも「漫画の描き方」とくれば、戦前の明治製菓宣伝部を追う上で、これはもう絶対にはずせぬ「スヰート」文献! と、古書モールで散財した次第だった。




池部鈞『すぐ出来る漫画の描き方』には「新聞広告漫画」への言及もあり、例として描かれるのは「明治ミルクキャラメル」。やっぱり買ってよかった「スヰート」文献、と帰宅後発見して大いによろこんだ。モダン都市における漫画とその周辺、については長年の懸案。追々追求してゆきたいとにわかにハリきる。



古書モールの外に出てみると、もう雨はほとんど降っていない。日曜日の午後の神保町、ほんの短時間でなかなかのいい買い物ができた。いつもだったら、このあとコーヒーを飲んでのんびりするのだけれども、このあとちょっとした所用のため、ゆっくりはしていられない。傘をかばんにしまって、錦橋方面へ歩いてゆく。