『東京行進曲』と山脇巖・道子の「1930年代東京」に心躍らせる。

今日も窓の外は青い青い空……なれども、なぜだか今日は冬ごもり気分。終日在宅。昼下がり、ミルクコーヒーを用意して、忘年会で頂戴したままそれっきりになっていた、念願の溝口健二『東京行進曲』(昭和4年5月封切・日活)の DVD をじっくり見ることにする。残っているフィルムは断片のみで30分足らずで終了。ああ、もうちょっと見ていたかった……。であるので、もう一度、じっくり見る。またもや30分足らずで終了、ああ、もうちょっと見ていたかった……(以下、繰り返し)。





勝手な思いこみで、『東京行進曲』に心ときめかすようになったのは、かねてより愛蔵の展覧会図録、『第3回資生堂ギャラリーとそのアーティスト達 銀座モダンと都市意匠 今和次郎前田健二郎、山脇巖・道子、山口文象』(資生堂企業文化部、1993年3月16日発行)がきっかけだった。《資生堂・銀座にゆかりの作家として忘れられない人々のなかに、建築家の山脇巖とテキスタイル作家の道子夫妻がいる》という書き出しではじまる、苫名直子さんによる『三岸好太郎のアトリエをめぐって』という論考ページで、山脇巖による舞台版『東京行進曲』の舞台デザイン画を目の当たりしたときの、心のときめきといったらなかった。




『銀座モダンと都市意匠』図録より、《菊池寛原作「東京行進曲」舞台デザイン画・藤田(山脇)巖 1929・山脇コレクション》。「第八場 武蔵野館附近」というふうに書いてある。中央に満月、武蔵野館をその下に配したモンタージュ的な新宿風景がまばゆいばかり。徳川夢声はのちに、昭和2年を「説明者黄金時代最後の年」、「サイレント映画全盛の極点」、「武蔵野館でも最大の栄光を有した年」としている(『くらがり二十年』)。この舞台背景の武蔵野館は昭和3年12月に落成した「新武蔵野館」。




上の舞台デザインの場の舞台写真も紹介されている。三越のところの「京王電車」の看板が「酒ハ菊華」に変わっていて、上手のビルに大きく「小田急」の文字。




溝口健二『東京行進曲』(昭和4年5月封切・日活)冒頭の主題歌部分。



山脇道子『バウハウス茶の湯』(新潮社、1995年4月)という本がある。刊行当時、大学の帰りに代官山に寄り道した昼下がり、駅前の文鳥堂で見つけてガバッと衝動買いして、同潤会アパートの公園の桜の木の下のベンチで繰ったのを今でも鮮やかに覚えている。と、それはさておき、『バウハウス茶の湯』によると、山脇巖(旧姓は藤田)は1926年に東京美術学校図案科第二部(建築科)卒業後、1933年まで横河民輔の横河工務店に勤務(1930年から32年までの留学中も在籍)。美校在籍時から築地小劇場で舞台美術の仕事に携わっていたという。……と、このあたりに登場の、河野鷹思、仲田定之助、川喜田煉七郎といったおなじみの固有名詞にクラクラしつつ、あらためて、『東京行進曲』の舞台デザインにうっとりなのだった。


『銀座モダンと都市意匠』に収録の、苫名直子さんの論考『三岸好太郎のアトリエをめぐって』に、

……山脇巖の関心は建築のみではなく、絵画、各種デザイン、写真など多方面にわたっている。なかでも自分で撮影した写真や、新聞・雑誌などの写真から切り抜いたものを貼り合わせて、時にそこへ線描や彩色を加えて制作したフォトモンタージュの作品はたいへん興味深い。

という一節があり、

これらからは、山脇の一般の建築作品からはあまり感じられない彼の側面が見えてくる。フォトモンタージュで表わされるのは、まさに不合理、シュルレアリスムの感覚であり、また舞台も現実の素材を取り入れながらも、現実とはまったく別の次元の世界である。

というふうに続き、《山脇は一面ではきわめて機能的な建築をつくり、他面では現実の合理性や良識とは正反対の、妖気ともよべる世界に浸ったのである。》というふうに展開してゆく。


山脇巖による『東京行進曲』の舞台デザインもまさしくフォトモンタージュ的で、いかにも「モダン都市東京」だなあと思う。1930年9月に念願のバウハウスに夫妻そろって入学した。1932年9月30日をもってデッサウのバウハウスナチスの台頭によって閉鎖を余儀なくされ、翌月にベルリンで再開のバウハウスに入ることはなく、デッサウの閉鎖を機に、山脇夫妻は帰国する。




山脇巖《バウハウスへの打撃》(1932年)。『銀座モダンと都市意匠』でも『バウハウス茶の湯』でも大きく紹介されているフォト・モンタージュ作品。



1932年末に帰国し、1933年1月から8月まで銀座の徳田ビルに居を構えていた山脇夫妻は「1930年代東京」そのものだなあと、いつもいつも感心するばかり。「昭和八年という年は興味ある年だと思うのである by 高見順」というわけで「東京昭和八年」を軸に「1930年代東京」を日頃からしつこく追っている身からすると、山脇夫妻の東京生活の再開が昭和8年のはじまりと同時というのは、なにかと象徴的な感じがして、いいぞいいぞと思う。芋づるは尽きない。小林多喜二が築地警察署で惨殺されたのと同月の昭和8年2月、銀座東三丁目に明治製菓銀座売店が新装開店する。「東京昭和八年」を追う上で、昭和8年前後の建築、という観点で東京を概観するのも日頃のおたのしみなのだった。


そんなここ2、3年の道楽の「東京昭和八年」探索。溝口健二の『東京行進曲』の DVD 入手を機に、10年以上も前に架蔵の『バウハウス茶の湯』をひさしぶりに手にして、あらためて新しい気持ちで読むことになったのだけれども、ひさしぶりに繰って、びっくり。ここに紹介の、昭和8年に制作の山脇道子による「とろけた東京」というタイトルのフォト・モンタージュ作品に目が釘付けだった。「真夏の銀座で撮影した二十一枚の写真で構成」のフォト・モンタージュに、威風堂堂、明治製菓売店の建物が!




山脇道子《とろけた東京》、「アサヒカメラ」昭和8年8月号(第16巻第2号)、「カメラは踊る夏のステップ(特集2)」より。《真夏の銀座の人種は雑多だ》、《汗でゆだった銀座のスナップを、鋏と糊でモンタージュして居る間だけは確かに暑さを忘れています》。



昭和8年1月から8月までの徳田ビルに居住のさなか、5月1月より山脇道子は仲田定之助夫人の仲田好江の世話で、資生堂画廊で《山脇道子バウハウス手織物個展》を開催する。『バウハウス茶の湯』で山脇道子は、

資生堂画廊での個展の前後から、ずいぶんいろいろな雑誌から執筆を依頼されたり、取材を受けたりするようになり、ついには婦人雑誌のファッション・モデルまで務める羽目になりました。当時二十三歳の私は、モダンガールの代表として、ジャーナリズムの寵児のように扱われましたが、私自身はあまりそれを気にすることはありませんでした。

というふうに当時を回想している。そんな「マスコミの寵児」であったさなかに、寄せたのが「アサヒカメラ」の《とろける東京》であったわけだけれども、「東京昭和八年」のキーパースンのひとり、山脇道子の作品に明治製菓銀座売店が写っているというが、極私的に嬉しい。「明治製菓売店」(東三丁目大正13年3月開業、昭和8年2月新装)と、「森永キャンデーストア」(大正12年12月に東六丁目に開店後、西五丁目に移転、昭和10年12月第4次新装)が併存していた時代の、戦前銀座にしょうこりもなく夢中なので、あらたな資料が見つかって、いいぞいいぞと思う。




山脇道子の《とろけた東京》が掲載の「アサヒカメラ」昭和8年8月号には、《大東京・夏・雲・月》(佐野正和)というタイトルの銀座の写真があった。ここでも、左の隅っこ、伊東屋の隣りにほとんど切れてしまっている明治製菓売店をわずかに伺うことができる。



さっそく古書店に「アサヒカメラ」を注文して、年末に届いていたところで2009年が始まって、やっと満を持して、溝口健二の『東京行進曲』を見た、という次第。明日はまさしく「待ちかねたわやい」という感じに、都立中央図書館が新装開館するので、さっそく出かけるとしようと、図書館の準備にいそしみつつ今日は一日冬ごもり。福原麟太郎の『春興倫敦子』(研究社、昭和10年9月)の序文、

 日曜日には完全に遊ぶがいい。これは学期の末に限らない事である。なるべく義理ある会以外、会にも出ないがいい。音楽会はいいが芝居はいけない。野球を見にゆくのはいいが、活動写真はいけない。出来るなら遠足がいい。奥多摩までゆくと緑が美しい。日曜は他人を訪問しないがいい。訪問はお互にくたびれる。そして菓子をくいすぎ紅茶を飲みすぎて胃をわるくし、煙草をすいすぎて喉をそこなう。私は日曜日に人を訪問しませんといって方々触れて廻って置くことも必要である。そうすると他人もまたその人が智慧を持っている限りは日曜日には来なくなる。そうすると君は日曜日を全く解放される。そこで君はゴルフを習いはじめるのもよい。雨がふったら、二階のソーファの上にひるねをするのもよい。
 勉強することは教師の喜であり責任である。然しのべつ勉強しているのは決して策の得なるものではない。一日に二時間でいい。一日二時間だけは、本当に勉強する。本当の勉強の中には、英国の新聞を読んだり、下よみをしたり、たのまれ仕事の註釈を書いたりすることは含ませない。本当に勉強していることというものは誰でもはっきり言い出せないものである。ひそかな喜にして誇である。その時間を二時間とする。その二時間は夜の十時から十二時まで、又は十一時から一時まで、又は十二時から二時まで。そうきめて置けば君はいかに酔っぱらって帰っても、如何に長座の客がいても、何かの会合に出ていても、決して妨げられることはない。

という一節をなんとはなしに思い出して、いい一年になるといいなと思っているうちに、一日が終わった。