甲鳥書林の巴里本。冬休みの野田遠足の余波の浜口陽三と小津安二郎。

雨が降り強風吹きすさぶなか、「和洋会」開催中の小川町の古書会館に出かける。「和洋会」のときはいつもモーツァルト室内楽(たぶん)が流れているなあと思いつつゆったりと場内をめぐり、結果、本日のお買い物は全部で3冊(合計1700円)、と理想的なあんばい。悪天候のなかをわざわざやって来た甲斐があったというものだった。外に出てみると、雨は小ぶりだけど強風はあいかわらず、靖国通りの向こう側に渡る気が失せ、早々に半蔵門線に乗り込んで、水天宮で下車。昔好きだった喫茶店にひさしぶりに出かけてトーストで腹ごしらえのあとコーヒーを飲んで、ほっとひと息つく。買ったばかりの、九鬼周造『巴里心景』(甲鳥書林昭和17年11月)をおもむろに取り出して、なんと美しい書物であることよ(詠嘆)、としばし陶然となる。今夜は部屋でひさしぶりの「sumus」の第4号《特集・甲鳥書林周辺》(2000年9月20日)と第8号《特集・パリ本の魅力》(2002年1月30日)を繰るとしようと、急にたのしみになる。





九鬼周造『巴里心景』(甲鳥書林昭和17年11月)の函と本体。装釘・挿絵:児島喜久雄。岩波文庫の『九鬼周造随筆集』が前々からとびきりの愛読書だった、というのと、新潮文庫の新刊の高見浩訳で十年ぶりくらいにヘミングウェイの『移動祝祭日』を読んで急に「1920年代・パリ」気分が盛り上がっていた(おそろしく単純)、というのとで、ガバッと手にとった本。



ページを開いて、タイトルページはこんな感じで、嘆息するばかりの美しさ。


和田博文編『言語都市・パリ 1862-1945』(藤原書店、2002年3月)には、九鬼周造は、

 パリ大学で学んだ日本人は少なくない。「ソルボンヌ男をんなの学生の群に年経つひとり黙して」と、九鬼周造は『巴里心景』(甲鳥書林、一九四二年)で歌った。S・K名でこの短歌を『明星』に発表した一九二五年に、彼はすでに三七歳になっている。その翌年に九鬼は「『いき』の構造」を書き上げるが、ジャン=ポール・サルトルはこの頃、彼の家庭教師をしていた。ドイツでエドムント・フッサールやマルチン・ハイデガーの講義を聴き、パリではアンリ・ベルグソンと語り合った九鬼が、帰国の途につくのは一九二九年である。一九二〇年代半ばにパリ大学の別の教室では、西條八十がフランス文学を学んでいた。隣接するコレージュ・ド・フランスで、河盛好蔵がフランス中世文学を学ぶのは一九三〇年初頭である。(文・和田博文、『言語都市・パリ』p220)

というふうに、《「黄金の二〇年代」後半と日本人群像》に織り込まれている。

 私が初めてニースへ行ったとき写真の現像を頼んだ店へ三、四年ぶりに再び行ったところが、店の主人が覚えていて「時の経つのは早いものですネ」(ル・タン・パス・ヴィト)といった。時の経つのは早い。いつの間にか私は日本に帰ってきて、教壇に立って白墨の粉を吸ったり、教授会の末席に連なってしゃちこばるようになった。これが本当の私なのか。それとも藍碧の岸の冬の日を浴びながらコーヒーの匂いを嗅いだり、酒場の灯影に丁子を噛みながらコアントロウを味わったりしていた私が本当の私なのか。「汝の生をすべての方向へ発展させよ。内包的にも外延的にも出来るだけ豊かな固体であれ」というギュヨーの言葉を純な人達の胸に呼びかけることができるのであるとすれば、現在の職を呪ってはならないという声がどこかで聞えるようにも思う。


【菅野昭正編『九鬼周造随筆集』(岩波文庫、1991年9月)所収「藍碧の岸の思い出」より】



九鬼周造『巴里心景』(甲鳥書林昭和17年11月)の検印紙。




昼下がり、日本橋蛎殻町のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション(http://www.yamasa.com/musee/)へ出かける。冬休みの野田遠足(id:foujita:20081229)がことのほか楽しくて、ますます近代史における醤油会社に心惹かれる日々。このところ、「キッコーマン」のみならず、「醤油」と聞いただけでつい反応してしまう(アホ)。と、そんななかふと思い出したのが、ヤマサ醤油の御曹司の浜口陽三のこと。日本橋蛎殻町のミュゼ浜口陽三のもとの建物はヤマサ醤油の倉庫だったんですって! というわけで、こ、こうしてはいられないとイソイソと様子を伺いにやってきた。浜口陽三の版画は、吉祥寺に出かけるたびにかなりの頻度で吉祥寺美術館(http://www.musashino-culture.or.jp/a_museum/)の浜口陽三記念室に出かけているのですっかりおなじみ。ミュゼ浜口陽三にも行きたいなと思いつつもずっと機会を逸していた。「醤油会社」という思わぬ方向から急に出かけることになるとは奇縁であった。


浜口陽三の展示は1階で、地階では新人作家による版画展が開催中だった。地階に下る螺旋階段が倉庫の名残かなという勝手に決めつけて、胸躍るものがあった。地階の展示では、元田久治による、銀座4丁目交差点や東京タワーや日本橋といった東京のおなじみの風景を廃墟として描く、「現実」と「虚構」とが交じり合った作品に圧倒されて、惚れ惚れと凝視。元田久治の名前をクッキリと心に刻んだところで、ふたたび1階で浜口陽三の版画をじっくりと見て、強風吹きすさぶ建物の外に出る。建物の見物の方が目当てだったけれども、結果的には展示作品が眼福で、ささやかだけれども展覧会によろこびを満喫、すっかりいい気分になって、強風もなんのその、並びのヤマサ醤油の東京支店の前を行ってみる。日本橋界隈を歩いてしみじみと日本の産業というものにひたるのはいつもとてもたのしい。ぐるっと迂回して、水天宮に戻り、次はとある図書館へと向かった。古書展と図書館の合間の絶好の気分転換となった。



冬休みの野田遠足の一番の余波はなんといっても小津安二郎。さる方に教えていただいて、小津安二郎は野田とちょっとした縁があったということに遅ればせながら気づいて、「まあ!」と大感激だった。小津安二郎は昭和21年2月に復員後、昭和27年2月に北鎌倉に定住するまでの間、母の疎開先(次女が野田の醤油会社「キノヱネ醤油」の山下家に嫁いでいた)であった野田に居住していたのだった(野田町清水一六三)。そして、『秋日和』(昭和35年11月封切)に出てくるゴルフ場は、野田市にある「千葉カントリー」というゴルフ場とも教えていただいて、小津映画にもほんの少しだけど「野田」が反映している! と、とにもかくにも大感激だった。冬休みの野田遠足の思い出がいっそうキラキラと輝きを増した思いだった。嬉しいあまりに、『秋日和』はもちろんのこと、ほかにも次から次へと小津の DVD を見て、とまらなくなってしまった。ひさびさに小津映画に耽溺する冬ごもりの休日は格別だった。





小津安二郎秋日和』(昭和35年11月封切)のゴルフ場のショット。下のショットではコカコーラの赤がアクセントになっている。田中眞澄編『全日記 小津安二郎』(フィルムアート社、1993年12月12日)を参照すると、ロケハンは昭和35年10月31日から11月1日にかけて行われ、3日目にしてやっと好天となり、ゴルフ場を撮り終えて、晴れて11月1日に『秋日和』はクランクアップ。実際に映画を見ると、風景だけで実際のゴルフシーンはないのだけれど、日記では笠智衆と美術の浜田辰雄と弟の信三がゴルフに興じているサマが伺えて、微笑ましかった。小津信三・ハマ夫妻は小津安二郎と母が鎌倉に定住するまで野田では隣同士だった。





松竹編『小津安二郎新発見』(講談社、1993年9月)所収、小津ハマ(弟・信三夫人)「神経のこまやかな人」のページに掲載の写真、《1948年秋:野田市清水公園にて。筆者(中央)と母》。野田遠足のきっかけとなった戦前の「キッコーマン」の小冊子に掲載の清水公園を思い出し、「清水公園駅」を通過したときの東武野田線の車窓を思う。




おなじく、『小津安二郎新発見』に掲載の写真、《1947年春:弟信三とサイクリング》。これも野田かな。この本に掲載の小津ハマさんの文章に、《仕事が一段落して野田に帰った安二郎は悠々と昼寝を楽しんでいました》というくだりがある。年末にふらっと出かけたのだけれども、穏やかなお天気の季節にふたたび出かけて、これらの写真みたいにピクニックしたりなんかして、野田で思う存分くつろいでみたいものだと思う。休日の小津安二郎に思いを馳せながら。