昭和8年、京橋の空の下の明治製菓ビルと明治屋と、内田誠=水中亭。

岡田三郎『舞台裏』(慈雨書洞、昭和11年2月)に収録の「三枝子もの」2篇、『舞台裏』と『三枝子』の女主人公の勤務先は《京橋のほうの電気器具商会》。

 毎朝のように、東京駅の八重洲口から、三枝子もそのなかの一員となって一緒に続々と吐き出される人間の群れが、駅前の砂利をしきつめた広場から、橋のほうへと、思い思いの方角に散らばって、なかで三枝子は右側の舗道をまっすぐに、京橋の電車通にむかって行くのだが、彼女とおなじがわの方向に進んで行く人達も、横丁へ来るとぽつりぽつりと曲って消えて行ったり、或は広いアスファルトの車道をすっかいに横ぎって、向う側の舗道へわたって行くのもあったり、あとに残るはごくまばらな群れにしかすぎなくなって、しまいに電車のとおる京橋通の十字路で、向う角の交通信号の赤か青かを見きわめるために立ちどまるころには、もう八重洲口から一緒に吐きだされた、あんなにも多数の人達の誰ひとりとして、彼女の近辺には見られない。生活のために、みんなめいめいの行かなければならない処へ行ってしまうのだ。


【岡田三郎「三枝子」(初出:「新潮」昭和10年9月号)-『舞台裏』(慈雨書洞、昭和11年2月)所収】

と、このくだりを目の当たりにしたときは、昭和8年5月に明治製菓本社の新社屋が落成し、宣伝部では内田誠が采配を振るい、翌9年には藤本真澄が嘱託として入社、昭和14年には戸板康二が新入社員として入社し、宣伝誌「スヰート」の編集に携わり多くの文人、画人と交流……云々といった、かねてより執心している戦前の明治製菓宣伝部とその周辺、その本拠地としての京橋風景が髣髴とされて、ずいぶん胸が躍ったものだった。




絵葉書《(新大東京名所)京橋ヨリ日本橋通りヲ望ム》の裏面には、

京橋より京橋大通りを眺めたる姿、此街衢一帯は、手前の銀座大通りと橋一つ隔てゝ色彩を稍変へて居る。銀座の小売商店が軒を並べてウヰンドーにネオンにそれは華やかな装飾に対し、此所は卸売小売商大銀行、大会社の雑居であればなり、従而ビルヂングの建築も多く、近き将来には京橋から日本橋迄の間は大建築の聳立に大東京の壮観を文字通り現はす事であらう。

と解説されている。先日、『第一相互館物語』(第一生命保険相互会社、昭和46年10月13日)を手にしたことで、大正3年に東京駅、大正10年には第一相互館したあと、京橋地区の都市整備が徐々に進んでゆく過程、ということに初めて目が開かされたように思う。





平塚運一《八重洲口通》昭和6年、版画「新東京百景」より。




深沢索一《京橋》昭和7年、版画「新東京百景」より。





大正3年に東京駅、大正10年に第一相互館、震災を経て東京が復興し、モダン都市が形成されてゆく。そんな震災復興後の大東京における、京橋の都市風景の完成は、明治製菓の移転した昭和8年5月をひとつの境とすることができるかもしれない。




「明治ビル」(渡辺仁・昭8)、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より。ビルの1階右側部分に明治製菓売店。左側の敷地は普請中。明治製菓本社が丸の内から京橋の新築ビルに移転したのは昭和8年5月1日。この建物は2002年に取り壊されて、今は新しい本社ビルがそびえたっている。



戸板康二明治製菓に入社した昭和14年以降の京橋風景に思いを馳せるべく、戸板康二『思い出す顔』(講談社1984年11月)所収の「『スヰート』と『三田文学』」を参照してみると、

 ぼくは六十五円の月給だったが、内田さんは毎朝ハイヤーで出社し、ビル一階の売店の喫茶部でコーヒーをのむ。たまたま居合わせる部下あるいはほかの職場の社員の伝票をかき集めて席を立つのだが、その足でビルの裏の理髪店に直行、ひげを剃ってもらう。
 それから銀行へ行って、百円を新しい十円札で貰い、これがその日のポケットマネーであった。ぼくの給料で何とか生活できた時代、月々(休日を別として)二千五百円を日常の小づかいに使うのだから、びっくりするような話であった。
 家は大森の不入斗にあり、むかし西園寺公の住んだ梅屋敷のあとにある、じつに凝った和風の二階家であった。まもなく、その家に公私ともにいろいろなことでゆくのだが、階下の座敷の唐紙は小杉放庵、二階の居間のが小村雪岱の揮毫した絵だった。
 明菓の社員食堂が地下室にあり、売店のランチの半額ぐらいの食事代であったが、内田さんは明治屋ビルの東洋軒の隅のテーブルをずっとリザーブしていた。べつに、菊ずしという店にも行った。ほとんど毎日、部下の誰かを誘ってゆくのである。

と、今までこのくだりを何度も何度も読み返しているというのに、『第一相互館物語』を知ったあとで目にすると、またあらたな感興が湧いてくるからおもしろい。そして、《内田さんは明治屋ビルの東洋軒の隅のテーブルをずっとザーブしていた》というくだりに「おっ」と注目。上林暁が夜にビールを飲んだ東洋軒、ここで内田誠は毎日昼食を食べていたのね! と、先日の『第一相互館物語』を思い出して、なおいっそう胸躍るのだった。




『第一相互館物語』(第一生命保険相互会社、昭和46年10月13日)より、《東洋軒の大食堂》を再掲。




同じく、『第一相互館物語』より、《7階東洋軒の厨房》。




ついでに、『第一相互館物語』より、《屋上と鳩の小屋》。



……などと、『第一相互館物語』に胸躍らせた身としては、戸板康二の『思い出す顔』に「明治屋ビルの東洋軒」とあるのは「第一相互館の東洋軒」を誤記したのだろうと勝手に決めつけたいのだけれども、誤記は「東洋軒」の方で、内田誠が昼食を食べていたのは明治屋ビルの食堂という可能性が大いにある、という気がヒシヒシとするのだった。というか、位置からすると、明治製菓の建物から通りを渡らずに行ける明治屋ビルの方が、いかにも好立地であるので、明治屋の食堂の方が本当という気がする。内田誠が昼食を食べていたのは第一相互館の東洋軒なのか、それとも、明治屋ビルの食堂なのか、にわかには断定できず、しばし悶々としてしまうのだったが、内田誠の『緑地帯』(モダン日本社、昭和13年7月)を開いてみたら、謎はすぐさま氷解した。

物干台(全文)


 いつも昼食をとる某のビルヂング、六階の食堂から電車通りの方へ何気なく眼をやると、町々の屋根という屋根は油でりの、めくらめくような暑さをかんかんてりかえしていた。その中で間ぢかに、木の香のするような、新しい物干台が一つきわだって炎熱の大気に浮かんでいた。
 水を打ってあるらしい、ぐっしょり濡れた物干台には男女が二人寝そべっていた。二人とも紺の新型の海水着をきていた。殊に女の方は御丁寧にも緑色の海水帽をさえかむっているのだった。何をしているのかは分からなかった。時々起き上って膝を組んでいたりしているようだった。その内に女のひとだけ屋内へ入って行った。
 彼等の醸しだすその眺めは、旗や塔や看板の広告で埋めつくされた海水浴場なぞで感じるものよりは広々として美しかった。鴻大な都会の大空の下にあって、如何にも新鮮で生きいきとしていた。



内田誠 『緑地帯』(モダン日本社、昭和13年7月12日)所収】

と、「物干台」というタイトルの短いエッセイの冒頭に、《いつも昼食をとる某のビルヂング、六階の食堂》とある。第一相互館の東洋軒は7階なので、内田誠が昼食をとっていた食堂は、明治屋の「六階の食堂」かしらと、『建築の東京』の「明治屋ビル」の写真を見ると、6階から上階がいかにも食堂風! 




『建築の東京』より、「明治屋ビル」(曾彌・中條事務所・昭8)。昭和8年5月の明治製菓の本社ビルよりちょっとだけ早く、同年2月に施工。この写真を見つめれば見つめるほど、内田誠が昼食の席をリザーブしていたのは、明治屋の6階の食堂とみて、もう間違いないだろうと確信できる。『思い出す顔』に《ほとんど毎日、部下の誰かを誘ってゆくのである。》とあるので、内田誠の秘蔵っ子だった戸板康二も当然、相伴にあずかったことだろう。


こうしてはいられないと、京橋図書館へと走り、『明治屋百年史』(株式会社明治屋、昭和62年12月10日発行)を閲覧してみたら、「レストラン事業の経営」なる章があった。横浜居留地で働いていた渡辺鎌吉が西洋料理の名人とうたわれ、明治38年に「中央亭」を創業、明治40年に丸の内の三菱八号館の中に開店して以降、「中央亭」が世に広く知られるようになった、岩崎彌之助らがパトロンとなった……云々と続き、

「中央亭」の名の由来については面白いエピソードがある。当時、東海道線の始点は新橋であったが、いずれ丸の内まで延長し、ここに日本の中心となる駅を建設しようという計画があった。新駅は“日本の中央となる駅”の意味で、「東京中央停車場」と命名されることになっていたので、これにちなんで「中央亭」としたのである。ところが新駅の建設は日露戦争のため中断、着工から一〇年以上も経過した大正四年にようやく完成した。しかも、工事中は「東京停車場」と呼ばれていたのに、完成した後に、この名称では地方の人々にわかりにくいという意見が出て正式の駅名は「東京駅」となった。

とあり、第一相互館に思いを馳せていたときとおんなじように、東京駅の完成とともに駅周辺の都市風景が形成されてゆくサマが伺えて、ウキウキ。中央亭は大正4年に明治屋と共同出資となり、大正7年に「株式会社中央亭」が設立、このとき渡辺一族が経営から手を引き、明治屋の直営となり、以後、全国に支店を増やしてゆく。

 その後昭和八年、明治屋京橋ビルが完成し、その六〜七階に出店した(八階は調理場)。当時としては最も高層だった八階建ての近代的ビルの高層階レストランとして珍しがられ、高級レストランにふさわしく内装もこったもので、天井にはシャンデリアが下がり格調高いクラシックな雰囲気が銀座界隈の話題を集めたのである。

これぞ、まさしく内田誠の「いつも昼食をとる某のビルヂング、六階の食堂」! といつまでもおおよろこびなのだった。『第一相互館物語』で語られる東洋軒とおなじように、『明治屋百年史』の中央亭でも、そのいかにも誇らしげな筆致が微笑ましくて、にんまり。





「京橋中央亭 御會合之栞」。内田誠が昼食をとっていたビルヂングおよびレストランが「明治屋の中央亭」だと晴れて判明した記念に、さっそく買ってしまった紙モノ。いつものように「紙上のモダニズム」的歓びにうちひしがれるのだった。




結婚式の栞なので、ここに紹介されている写真は、内田誠が昼食を食べていた6階ではなくて、7階の「大ホール」の方。『明治屋百年史』に「嗜好」昭和8年7月号に掲載の「明治屋京橋ビルに出店した中央亭の広告」の図版が紹介されていた。いつの日かの、昭和8年の「嗜好」の入手を夢見る。



昭和8年の2月に明治屋ビルが完成し、同年5月には明治製菓の本社ビルが創業、ほぼ同時に京橋界隈に誕生した二つの近代建築。明治製菓は新しい建物になってしまったけれども、明治屋ビルはいまでも健在。前を通りかかるとたまにワインを物色するのがたのしみな明治屋。これからも、六階の食堂で昼食をとる内田誠=水中亭に思いを馳せながら、ワインを物色する日々がいつまでも続くといいなと思う。第一生命相互館はもうすぐ取り壊されて、再び新しい建物が作られてゆく一方で、明治屋ビルよ、いつまでも健在なれ! と心から思う。




野崎三郎《京橋際》(昭和5年)、『きつつき第二集』。図録『ゆかいな木版画』(府中市美術館、平成20年5月)より。






戸板康二は『思い出す顔』で、内田誠が「毎朝ハイヤーで出社」していたと書いているけれども、『緑地帯』を繰ると、「洋傘」というタイトルのエッセイで、《この頃は洋傘も、交通機関を巧みに利用しさえすれば、使わないですむ場合が多くなった。現に、大森から京橋の社に通勤するのに、省線電車を新橋で下り、構内を出ず、地下鉄に乗り換えただけで、ひょっこりと社の前に出られるのである。それで濡れなくてすむ。便利になったものだ。》というふうに、現代も共感大なことを書いていたりして、頬が緩む。『緑地帯』全体に通底している都市生活者の視線のようなものが、特にどうってことのないと言ってしまえばそれまでのちょっとしたモダン都市の気分が、読み返すたびに「ああ、いいな」と思う。





内田誠『緑地帯』(モダン日本社、昭和13年7月12日)の本体。装釘:小村雪岱。後記に《「緑地帯」に収むるところの拙文は、ざっと一年余りの間に、以上の雑誌、新聞へ掲載の栄を得たものである。》として、「中央公論。改造。文藝春秋。モダン日本。東京朝日新聞。ホーム・ライフ。三田文学。新興婦人。東宝。経済知識。日本電報。中外春秋。新装。流行新相。銀座。家庭新聞。三十日。広告界。春泥。春蘭。露出。」の誌名が挙がっている。1930年代の雑誌を繰って、内田誠の登場する雑誌の目次の並びを見るのが閲覧室でのたのしみとなってひさしい。





『緑地帯』にはライカ趣味のあった内田誠自身の撮影の写真が数枚挿入されていて、眼にたのしいのだった。初めてこの本を繰ったときから好きな写真が、この《サン・ルーム(久保田、渋沢両氏)》。この写真の前後は「サン・ルーム」と題したエッセイのページで、鎌倉海濱ホテルと川奈ホテルのサンルームのことが書いてある。この写真のサンルームはどちらだろう。川奈ホテルというと、内田誠の句会で戸板康二が何度か泊まったことがあったと書いているのを思い出して嬉しいし、鎌倉海濱ホテルだとしても、『明治屋百年史』に大正5年に明治屋が鎌倉海濱ホテルの経営を引き受けたというくだりが印象に残っていたので、臨場感があって嬉しいしで、いずれにせよ、好きな写真。





同じく『緑地帯』より、《河岸景色》。

 有楽橋から外濠に沿って鍛冶橋、鍛冶橋から東京駅の八重洲口、ついで呉服橋となるのだが、この鍛冶橋と八重洲口との間の、電車線路から見た向う側の景色、つまり東京駅の構内と云うことになるのだろう。真黒になったトタン張りの低いバラックが這うようにつづいていて、汚れぬいた影を寒々とどろ水の上に落としている。とうてい日本橋の大通りを間ぢかにひかえた風ではないが、妙に纏まった画面に出来上っていて、どういう訳か棄てがたく、一寸足がとめたくなる。