岩佐東一郎と山本信雄の『春燕集』と内田誠のお菓子随筆。

ウェッジ文庫の新刊で、かねてよりの愛読書、岩佐東一郎の『書痴半代記』をあらためてじっくりと読んだおかげで、このところ、いろいろと嬉しいことがあった。




岩佐東一郎『書痴半代記』ウェッジ文庫asin:4863100469)。装丁:上野かおる。ウェッジ文庫は内容もさることながら、まずは本全体の手ざわりがとても心地よく、紙や活字の感じとか、天が不揃いなところとか、手にとっただけで惚れ惚れなのだった。スピンは使わないようにしているけれども(きれいなままにしておきたくて)、でも、付いていると断然嬉しい。


というわけで、本としての手ざわりといい、内堀弘さんの解説といい、間然するところのない見事な一冊の文庫本として岩佐東一郎著『書痴半代記』を手にすることになってホクホク。そして、じっくり読みなおしてみると、前回は特に気にとめていなかったであろうことに、「おっ」とあちらこちらで刺激を受けて、ソワソワしっぱなしだった。なぜ以前に読んだときは気にもとめなかったのだろうと、己の不明をもどかしく思うのは、いつものこと。




「開化草紙 2」(開化書舗、大正14年6月1日発行)。表紙:竹久夢二《黒船出帆譜》。先日鴎外展に出かけた折に、神奈川近代文学館の閲覧室で「開化草紙」を1冊だけ閲覧できて、嬉しかった(記念にカラーコピーをとった)。ウェッジ文庫で『書痴半代記』を読み直して、特に心惹かれたくだりが、震災後の同人雑誌のこと。大正13年に刊行の日夏耿之介を囲んだ同人誌「東邦藝術」が2冊出たあと、それを改題して翌14年に日夏耿之介監修のもとで「奢灞都」が出る。「東邦藝術」だけで「サバト」の仲間には入らずに正岡容がはじめたのが「開化草紙」で、大正14年3月が創刊号……といったくだりが、翌年以降の正岡容の「演藝画報」でのありようを思い出しもし、胸躍るものがあった(大阪の正岡容を思う)。『書痴半代記』の「『開化草紙』のころ」によると、「開化草紙」の第3号(大正14年11月発行)は「今は空しかる寄席号」という特集なのだそうで、吉井勇、木下杢太郎、木村荘八徳川夢声といった顔ぶれが非常に気になる……と思ったのだったが、「木下杢太郎文庫」を有する神奈川近代文学館でも「開化草紙」は第2号のみの所蔵なのだった。



さて、今回、岩佐東一郎の『書痴半代記』を読みなおして、ひときわ目にとまったのが、山本信雄の句集『春燕集』をとりまくあれこれ。「『春燕集』の人」という文章の、

 三四年ばかりに前のことになるが、届いたばかりの「春燈」のページを楽しくめくつていると、俳句欄の中でひとりの名前を見て、はてなと思つた。あの人かしら、だが私の知つているあの人が句作をするとはきいたこともない。それに同名異人ということもある。わざわざ問い合わせるのも妙なものだろう。
 私の知つているその人は、百田宗治氏主宰の詩誌「椎の木」の同人のひとりで、昭和八年に『木苺』という清楚な詩集を出している。高祖保も前後して『希臘十字』を出したのだ。私はその当時、城左門と二人で編集発行していた「文藝汎論」十一月号の「詩誌散見」で、『木苺』について「多くの詩集が翻訳された詩集の感を与える今日、氏は判然と別途を辿つているのであつた。かかる詩境は、よほどの透徹した心情でない限り、詩の香気を失いがちになる。氏の詩型は、田中冬二氏に似ている。その散文詩鈴木三重吉氏を憶い出す。これらの例証は、悪意なしに、一見平易に見える氏の詩境の前途の困難であることを示したものである。装幀、印刷ともに美しい」と書いた。その後、その人の詩を「文藝汎論」に度々、寄稿してもらった。
 その人とは、山本信雄さんである。……

という書き出しを目にしただけで、もう、いてもたってもいられないものがあった。


去年6月、届いた石神井書林の目録で、龜鳴屋(http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/)から、外村彰編『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』(龜鳴屋本第八冊目、平成二十年五月四日発行)という本が出たことを知った。龜鳴屋本を手にするたびになんてうつくしい本なのだろうと感嘆しっぱなしだったから、十分予想していたけれども、しかし、いざ届いてみたら、予想の範疇を超える美しさで、さらに、いざ繰ってみたら、昭和9年から高祖保が応召される昭和19年までの書簡を編者の詳細かつ懇切な註とともに時系列に辿ってゆく時間の重層性に酔いしれるばかりで、書物の美しさに感嘆した瞬間以上の感激に呆然となるばかりだった(安藤鶴夫の「感動する夫」状態)。それは、1930年代の詩人たちの小出版をとりまく雑踏のようなもののまっただなかにポトンと身体全体にほうりこまれたような感覚。本を読んでいるというよりも、日常から遮断された暗い映写室でスクリーンを眺めている感覚に近かった。


と、夏に龜鳴屋の高祖保書簡集を、秋にはちくま文庫の新刊として内堀弘著『ボン書店の幻』を増補改訂版という形で手にすることになり、2008年という年はなんという年だったのだろう! と思っているうちに、2009年になって、1月の浅草松屋の古本市では、岩佐東一郎の『茶煙閑語』(文藝汎論社、昭和12年4月)を買った。緩慢に愛読している岩佐東一郎の未読の随筆集で、あまり高くなかったからというだけで、深い考えもなく買ったのだけれども、いざ繰ってみたら、あんまりに素晴らしくてびっくり。「茶煙閑語」なるタイトルで、自らが主宰していた「文藝汎論」に連載していたエッセイが収められているのだったが、最初のページの昭和9年4月号掲載の文章から順繰りに繰ってゆくと、おのずと「文藝汎論」をとりまくあれこれを時系列に追っているような時間になって、深い考えもなく読み始めてみたら、とたんに夢中になった。『茶煙閑語』のページを繰っているうちに、「文藝汎論」と同時代の詩人たちと小出版のありようを岩佐東一郎の軽妙な筆致とともに体感したかのような気分になって、心は躍るばかり。と、『茶煙閑語』をホクホクと繰っているうちに思い出したのが、去年夏の、外村彰編『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』を繰っていたときの一連の時間のこと。岩佐東一郎の筆致を通して「文藝汎論」の周囲の1930年の詩人たちのことを体感しているうちに、龜鳴屋の『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』での一連の時間を思い出すのは必然だったのだろう。岩佐東一郎をおしまいのページまで読んだあとで、翌日は早起きして、喫茶店で満を持してという感じに『高祖保書簡集』をあらためてじっくりと読み直してみたら、去年夏に初めて読んだとき以上のすばらしい時間だった。本は時間をおいて読み直してみると、ワインみたいに熟成する。いつもそう思う。


などと、つい長々と書き連ねてしまったけれども、去年夏の『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』、年明けの岩佐東一郎の『茶煙閑語』と『高祖保書簡集』再読……といったことを経たあとで、このたび、ウェッジ文庫の新刊で、『書痴半代記』に対面した次第だったので、前回読んだときとは比較にならないほど、「『春燕集』の人」に反応してしまうのは当然のなりゆきだったといえる。



昭和8年に詩集を1冊出したっきりの山本信雄、「文藝汎論」の主宰者としてつきあいのあった山本信雄に、敗戦をはさんだ30年の時を経て、「春燈」を通して再会することになった岩佐東一郎は、《山本信雄さんが、こんど春燈叢書の一冊として、『春燕集』を出されたから、だれよりも一番よろこんだのは私かもしれない》と書いている。と、このくだりを見て、ウェッジ文庫片手にしばしジーンと放心、岩佐東一郎とおんなじようにわたしもなんだかとっても嬉しくなってしまうのだった。昭和9年からはじまる『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』の世界は高祖保の応召で幕を閉じ、翌昭和20年に高祖保はビルマで戦病死する。『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』で味わった幸福な時間は、戦争によってプツッと切れてしまった一方で、昭和8年に高祖保の『希臘十字』と前後して詩集を出した「椎の木」の山本信雄は、敗戦を経たあとで、関西で銀行員を続けながら、「春燈」に俳句を寄せていた。前々から「春燈」に思い入れがあった身としては、岩佐東一郎と山本信雄の再会が「春燈」だったというのが極私的に嬉しい。舞台装置は「春燈」。さらに、詩人と「春燈」というと、木下夕爾を思い出して、胸は躍るばかり。


というわけで、岩佐東一郎の『書痴半代記』所収の「『春燕集』の人」を読んで、「春燈叢書」の山本信雄の句集『春燕集』が欲しい! 欲しいったら欲しい! と、一気に物欲の塊と化すのは当然のなりゆきであった。




山本信雄『春燕集』春燈叢書第三十四輯(春燈社、昭和四十一年九月刊)。


『春燕集』の構成について、岩佐東一郎は《この一冊は、もちろん俳句が大半を占めているが、句の他に、散文詩や随筆も収めてある。どれもがしみじみと味わえる作品だ。》と書いていて、その随筆もたのしみだった。念願の『春燕集』が届いて、ソロソロとページを繰ってみたら、数篇の随筆が並ぶ「春燈雑記」に「内田誠氏のことなど」の文字があるのが目に入り、いきなり狂喜乱舞だった。ウェッジ文庫の『書痴半代記』で、岩佐東一郎の「『春燕集』の人」なる一文を読んだだけで、実際に手にとる前から、山本信雄の句集『春燕集』はお気に入りの1冊になるに違いないと確信していたけれども、いざ届いてみたら、ここまでいいことづくめでいいのだろうか、というくらいに嬉しいことだらけ。山本信雄の「内田誠さんのことなど」は、

 この間古いものを整理していたら、そのなかから内田誠さんから頂いた書信が出て来た。葉書の料金が五銭の時代のことである。
 それは、京都へ来たら、水野清一さんの案内で河内の吉村邸へ行くからとの速達で、晩春の小雨の降り灑ぐその日、私は勤め先のお休みを貰って吉村邸に出かけた。吉村邸は我国最初の国宝に指定された民家で私の伯母の嫁いでいた旧家である。
 私は内田さんの随筆が好きで「喫茶卓」「緑地帯」「銀座」「遊魚集」「いかるがの巣」「会社員」「惚々帖」などのことを戦後の大阪の新聞のブック・レヴュ欄に送ったらはからずも入選した。その切抜きを大磯の内田さんにお送りしたのがきっかけで、吉村邸でお目にかかったのが最初で最後であった。
 ぴ っ た り と 門 し め て あ る さ く ら か な
 差し出した雅帖にしたためて下さった。大和路の春もいいが、ひなびた河内路の平野は晩春の雨にけぶりながらも、いちめんの菜畑のあかるさ、ゑんどうの紅い花がそのなかに点々刺繍[ぬいとり]されていた。…………

という書き出しの小文。そして、「春燈雑記」の巻頭には、「久保田先生の色紙」というエッセイがある。伝法院での追善句会で受賞して記念に万太郎の色紙をもらって、大阪の自宅まで大事に大事に持ち帰ったこと、そして今は、壁間に掲げた「夏の夜やいのちをのせし風の冷え 万」と書いてある色紙を籐椅子に坐りながら眺めて、大好きな夏の季節が来るのを心待ちにしている、といったことが書いてある。


山本信雄が「春燈」に投句するようになったのは、戦前から安住敦の名前を知っていたという縁も考えられるけれども、かねてより内田誠久保田万太郎を愛読していたことが大きく起因していたということがわかった。さらに、安住敦の懇切な後記で知ったことによると、昭和8年に前後して詩集を刊行した、高祖保の『希臘十字』と山本信雄の『木苺集』の合同出版記念会が催されて、その会場は銀座の明治製菓売店階上だったという。戦前の明治製菓売店が書物に登場するとそれだけで大よろこびしている身としては、「ここまで嬉しいことが続いていいのかしら!」というくらいに極私的に嬉しい。岩佐東一郎の「『春燕集』の人」でも山本信雄のお菓子好きはすでに存分に伺えて、とてもほほえましかったものだった(『春燕集』には、三田の学生時分、銀座のコロンバンでむしゃむしゃケーキばかりを食べていたというくだりがあったりする)。『木苺集』の出版記念会が催されたのは昭和8年秋、銀座の明治製菓売店はその年の2月に新装開店したばかり。出版記念会が催される前から、山本信雄は明治製菓銀座売店を知っていて、お菓子をむしゃむしゃ食べて、店内で「スヰート」を手に取っているうちに内田誠に愛着をおぼえるようになって、昭和10年に双雅房の随筆を買ったのかな……などと、妄想はとめどなく続いてゆく。昭和8年に詩集を1冊出したきり、心に「詩」をたぎらせながら市井に埋もれていったかにみえた山本信雄にとって、「会社員」のまま瀟洒な造本で何冊も随筆集を出していた内田誠の存在はさぞかし輝いて見えたことだろうと思う。というか、もともとお菓子好きだった山本信雄にとって、「お菓子随筆」を職業がらとはいえたくさん書いている内田誠には、それだけで共感たっぷりだったのかもしれない。




宮田重雄《巴里で見た菓子屋のガラス畫看板》、内田誠『遊魚集』(小山書店、昭和16年3月20日)より。このカラー図版の隣りには、「プチ・フール」と題した小文で、《久保田万太郎先生は近作の小説に、プチ・フールという題をつけられた。プチ・フールはひと口菓子とでもいふか、小型の綺麗な洋生菓子をよぶのだから、珠の如く愛すべき短篇にもつてこいと申すべきだ。》というのがその書き出し。こういった小文と挿絵がかもしだすムードが、山本信雄は大好きだったのだろうなあと思う。『遊魚集』は、内田誠の随筆集ではもっとも豪華な装本(表紙:梅原龍三郎、見返しと扉:木村荘八、挿絵とカット:宮田重雄)で、450ページにわたる大著で、食べ物随筆が盛りだくさんで、内田誠のエッセンスをたっぷりと味わえる。当時、明治製菓の宣伝部にいた戸板康二が編集の雑務を担当したので、隠れた戸板康二編集本でもある。




京都の和菓子司「末富」の札。岩佐東一郎の「『春燕集』の人」に、山本信雄から贈られた「末富」の「野菜煎餅」の引き札を紹介するくだりがある。ここを目にしたとたん、末富の野菜煎餅が欲しくなってしまい、日本橋高島屋の地下に支店があるのを知って、嬉々と買いに行った。野菜煎餅の「風雅な」引札の文章は、岩佐東一郎が紹介していたときとまったく同じ文章で、嬉しかった。日本橋丸善に定期的に立ち寄っていて、そのついでに高島屋の地下にもちょくちょく行っていたので、「末富」での買い物がこのところのたのしみになっている。京都の本店に行きたいなあと思う。これに限らず、『春燕集』は今後の関西遊覧のよき手引きにもなりそうな1冊でもあって、そんなところも嬉しいところ。とりあえず、次回の関西遊覧の折りには、近鉄電車にのって吉村邸へ!  



去年6月に、外村彰編『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』(龜鳴屋本第八冊目、平成二十年五月四日発行)を手にしたことからはじまった一連のひとときは、12ヶ月後の今年5月に「春燈叢書」の『春燕集』を手にしたことで、偶然か必然か、日頃の最大の関心事であるところの「戦前の明治製菓とその周囲」へと帰結したのだった。いろいろな意味で、山本信雄の句集『春燕集』がわたしの手にたどりついたのは必然だった、と勝手に決めつけて、悦に入っていた次第だった。


【追記:四季・コギト・詩集ホームぺージ(http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/index.htm)の「近代詩集目録」に格納されている、山本信雄のページ(http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/library/ya/YamamotoNobuo.html)で、昭和8年の詩集、『木苺』の詳細を知ることができて、感嘆するばかりだった。インターネットってすばらしい! こちらに紹介の、田中冬二「セレニテの詩人」は、岩佐東一郎の「『春燕集』の人」と同じく、初出は「春燈」昭和41年12月号。】





《昭和三十四年七月、風呂敷包みを背負う井上多喜三郎(京都の朝日会館前) 撮影/依田義賢》、外村彰著『近江の詩人 井上多喜三郎』別冊淡海文庫10(サンライズ出版、2002年12月)の表紙写真。外村彰編『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』(龜鳴屋本第八冊目、平成二十年五月四日発行)を読んで、買った本。それにしても、依田義賢撮影のこの写真、なんていい写真なのだろうと見とれるばかり。多喜さん、かっこいい! 山本信雄『春燕集』には「井上多喜三郎氏逝く」という前書きの「死とは一葉の紙片れ春暮るる」という句がある。『春燕集』に感激の余韻とともに、この句集の出版年の昭和41年前後の「春燈」を夢中になって閲覧したのもたのしかったこと。井上多喜三郎は『春燕集』と同年の昭和41年4月1日に他界。昭和41年5月号の「春燈」の、安住敦による編集後記「柿ノ木坂だより」は、《一日の夜、遅く岩佐東一郎さんから電話がかゝった。これはエープリル・フールではありませんとの前置きで、近江の詩人井上多喜三郎氏さんが死んだとの知らせだった。》という一節を交えて、井上多喜三郎を偲んでいる。




伊藤信吉・野間宏選『銀行員の詩集 1953年版』(全国銀行従業員組合連合会文化部、1953年7月25日)。先月のとある古書展で、「銀行員の詩集」という文字が目に入ったとたんに、山本信雄のことを思い出し、ガバッと手にとったら2篇収録されていて、嬉しかった。石垣りんの詩に胸打たれた。