上野から宇都宮へ。杉浦非水展を満喫して、東武電車に揺られて浅草。

午前8時半。浅草行きの銀座線を上野駅で下車して、上野発宇都宮行きの電車に乗るべく、JR の上野駅改札へと向かう。




昭和2年開通の地下鉄、銀座線の上野駅の観察はしょうこりもなくたのしく、たまに下車する機会があると、それだけで嬉しい。開通当時の煉瓦の壁と杉浦非水のポスターのパネルが上野駅の渋谷行きのホーム、今日下車したホームの向こう側にあるのが視界に入り、これから宇都宮へ杉浦非水展を見に行く身にとっては、ますます気分がもりあがるというもの。写真は、浅草行きのホームから階段をあがるところ。




過日胸躍らせていた(id:foujita:20090919)、地下鉄の線路の天井部分の鉄筋部分が階段まで貫通して、現在も残っていることが見てとれて「おっ」だった。今日初めて気づいた。このところ、開業当時の地下鉄というと、天井の鉄筋のストライプについ注目してしまう。




ポスター《涼しい地下鉄》大塚均(1935年)、図録『視覚の昭和 1930―40年代展』(松戸市教育委員会・1998年発行)より。このポスターでも鉄筋ストライプがグラフィカル。この図録は1930から40年代の各ジャンルのグラフィックデザインを、大正10年創立の東京高等工芸学校の教授陣および出身者の作品を通して概観する展覧会を収録したもの。眼のたのしみはもちろんのこと、東京高等工芸の卒業生はあちらこちらの錚々たる企業の宣伝部で図案の仕事に従事しているので、戦前の宣伝広告を追っている身にとって、この図録は絶好の資料でもある(発行元にて定価で購入可能)。明治製菓宣伝部で内田誠が片腕にしていて戸板康二とも親しかった牛島肇も東京高等工芸学校の出身(1940年卒)、ということをこの図録で初めて知って嬉しかった。ちなみに、このポスターの大塚均は逓信省で切手のデザインに従事。




と、地下鉄ホームを満喫したところで、省線と構内連絡ということで、JR に乗りかえるべく、上野駅の改札に出てみると、今度は一気に「旅情」のようなものが盛り上がって、そこはかとなく気分は非日常、そういえば、上野駅から上野駅発の電車に乗るのは、今日が初めてなのだった。上野駅のホームにたどりついて、前々からおなじみのだだっぴろい改札、往年のターミナル駅の空間といったものが、これからまさに上野発の電車にのってちょいと遠出をするという瞬間に立ち会ってみると、ひときわ格別なものがあって、ふつふつと嬉しい。




と、上野駅の改札に入ろうとしたまさにそのとき、突然、『江戸川乱歩「魔術師」より 浴室の美女』(「土曜ワイド劇場」1977年1月7日放送)における天知氏を思い出して、ひとりでニヤニヤ。「榛名レークサイドホテル」での静養を切り上げて東京に戻った天知茂扮する明智小五郎(一度見たら忘れられないインパクトのコート)、明智小五郎は何線にのって上野駅に到着したのかな、今もその電車は走っているのかな、というようなことを思いつつ、すでにホームに停車中の宇都宮行きの電車に乗りこんで、午前9時、上野駅を出発。





上野駅」(鉄道省・鹿島組・昭7)、「上野駅鳥瞰」。都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より。松葉一清『帝都復興せり! 『建築の東京』を歩く』(平凡社、1988年2月)に《大味な外観よりも地下鉄への通路など内部の見所が多い。自動車のためのロータリーの採用など配置も興味深い。そうした立体構成が昭和の駅を代表するにふさわしい》とあって、うなずくことしきり。内部の写真も欲しかった。いまもって内部の細部観察がたのしい上野駅





藤森静雄《うへの駅》(1931年)、版画集「新東京百景」より。





上野でポツポツ降っていた雨は、電車の北上とともに消えている一方、曇り空のどんより具合は北上とともに深まっている気がする。と、電車の進行とともにいつのまにか居眠りをしてしまい、たまに目を覚ますと、そのたびに車窓は見渡すかぎりの一面の畑なのだった。日頃食料品店で仕入れる野菜は、埼玉県産とか栃木県産が多かった気がする、車窓の畑はその供給源なのだなあ、湧き立つ感謝! というような心境になってはまた居眠り、ということを幾度か繰り返して、10時半ころに宇都宮駅に到着。宇都宮の地に降り立つのは今日が初めて、わーいわーいと改札を出るも、美術館行きのバスが来るまでまだだいぶ時間があるので、まずは駅構内の土産物屋を視察して時間をつぶすことにする。売場全体を見渡したところによると、「餃子」と「苺」と「日光」が宇都宮ないしは栃木県の売りらしいということがわかっただけで、土産物売り場はどうということもなくあっという間に見終わってしまい、駅の外に出ると、空はあいかわらず一面の曇り空、明らかに東京よりも気温が低い。ちょっと北上しただけでここまで寒さの密度が増すのは驚異的であった。




高橋壽惠『東京郊外楽しい一日二日の旅』(九段書房、大正14年5月15日)の函。つい最近古書展でなんとなく気が向いて買った本。著者によるはしがきには、《其処には万丈の紅塵がたちまようている!(中略)其の中に集中している人達は日夜生活に営々としている! そして疲れている! これが都人士の生活の状ではあるまいか。併しながら一歩都門の外に踏み出せ! 其処には大自然が展開している! その美!(中略)まして其の間名勝史跡を探らんか、自然の極美に身も心も溶け入り、溢るる懐古の情緒に身は歴史中の人と化してしまう。げにや都人士が生くべき道は郊外に遊ぶにある。行け行け海へ山へ! 道連れは此の書!》というふうなことが、「!」連発で記されている。そういう次第なので、これから遠足の度に折に触れて参照したいのだった。宇都宮周辺についても、「小山、宇都宮附近」として

古河から北に延びた東北線の貫く小山・宇都宮地方は、思川・鬼怒川両河の流域に当り、水戸線両毛線(小山)、日光線(宇都宮)の連絡するあり、現在栃木県下の重要な地点となっているが、昔時に於ても亦奥羽街道の通ずる地方として其の主要な駅路にあたり、重要な歴史の跡を多く留めている。

という導入のあとに、縷々解説されている。



午前11時過ぎ、30分に1本のバスにのって宇都宮美術館に向かって、出発。駅前の大通りを右折して、しばらく直進して、次第にバスは市の郊外(と思われる)高台へとクネクネと向かってゆく。



と、その途中、車窓からアドバルーンが見えた瞬間、そこはかとなく胸躍るものがあった。なんだか妙に嬉しかったので、思わず写真を撮ろうとしたけれども、電線が邪魔してうまく撮影できず。宇都宮の記憶と結びつくアドバルーン。今日も空にはアドバルン。





正午前、宇都宮美術館(http://u-moa.jp/jp/index.html)に到着。無事にたどりついてなにより。わーいわーいと、バス停から小走り。かねてよりたびたび図録の通信販売でお世話になっていた宇都宮美術館は期待どおりのすばらしさ。この美術館だけでもはるばる宇都宮に出かける価値があるというもの。ゆったりとした丘の中腹、自然公園のまっただなかに位置していて、建物はとても立派だけど威圧感のようなものは皆無、贅沢でありながらもつつましく上品な印象で、空間に居合わせてすっかりいい気分、低層の建築がたいへん好ましい。展覧会が目当てというわけではなく、近隣の人びとがレストランでの「閑雅な昼食」目当てで訪れているのがうかがえる。それでも混雑というほどではなくて、適度に人びとが集っているというサマがよかった。そして、開催を知ってからというもの待ち遠しくて待ち遠しくて、張り切って開催初日に見物にやってきた、本日のお目当ての杉浦非水展は間然するところのない素晴らしさで、もう叫びたくなるほどすばらしかった。「キャー! キャー!」と何度も何度も心のなかで絶叫しながら、展覧会場を練り歩き展示物を凝視する一連の時間の、なんとすばらしいかったことだろう。


杉浦非水展のエントランスにたどりついてまず目にすることになるのが、明治45年の3月から4月にかけて日比谷図書館にて開催の「書籍装幀雑誌表紙図案展覧会」の会場風景。展示室の壁一面に「非水アルバム帖」に貼りつけられていたという会場写真があしらってある。ワオ! と見上げて圧倒されたところで、杉浦非水展の幕が開く。なんとも見事な導入で、このあと明治45年の春先の日比谷図書館さながらに、壁一面に飾られた非水による雑誌の表紙や、ガラスケースに絶妙な配置で展示されている数々の装幀本を目にすることになって、この高揚感は実際に展覧会の場に立ち会わないと絶対に味わえない感覚だと、むやみやたらに嬉しかった。明治45年の日比谷図書館での展覧会について、図録(p51)には、

同展の開催には、当時まだ庶民一般に生活習慣として浸透していなかった読書文化あるいは書物趣味の普及を目指した同館側が、当時新進気鋭の図案家であった非水の仕事に白羽の矢を立て、一方非水は自らの作品発表の場として、さらには「図案とはなにか」ということを、広く社会にアピールする機会として積極的に活用しようとしたと考えられる。

といったふうに極めて懇切に解説されている(宇都宮美術館の学芸員・前村文博氏による解説)。また、巻頭の同氏による解説の註釈には、日比谷図書館の設立については当時の東京市議会議員坪谷善四郎の建議によること、坪谷は博文館で要職についていた経歴がありそこで非水との直接的なつながりが予想されることが指摘されていて、このあたりの「明治の東京」をとりまく諸々の連関がいとおしくて、モクモクと刺激的なのだった。こういった杉浦非水からつながる日本の近代あれこれに、展示会場のあちらこちらで目を見開かされるひとときは、このあとも綿々と続いていった。


みんな大好き杉浦非水。日本の近代文化あれこれ、書物な美術や広告や商業美術をとりまくグラフィカルなものあれこれ、ひいては「海野弘」的なものあれこれに惹かれている多くの人にとって、まっさきに出会ったのは杉浦非水だったのではないか。もう何年も前に、杉浦非水のポスターに心惹かれて図録を何度も何度も陶然と眺めていても、たまに展示室でおなじみの地下鉄や三越の大きなポスターに対面するたびに、わかっているはずなのに感嘆せずにはいられない、わかっていたはずなのに魅了されるばかりの眼の歓び、そんな感覚をあちらこちらで味わった時間だった。今回の展覧会は、あらためてまっさらな気持ちで「杉浦非水とその時代」に対峙した時間だった。それは、宇都宮美術館という舞台装置が完璧だったおかげなのは確実。デザイン史に強い美術館だけあって、展示の方法そのものがなかなかの手だれだった。初日の閑散とした展覧会場で、ゆっくりくつろいで展示を満喫して、本当にもうなにもかもが完璧だった。





図録『〈写生〉のイマジネーション 杉浦非水の眼と手』(宇都宮美術館、2009年発行)。図録購入者に展覧会ポスターのプレゼントがあって、嬉しかった。図録のカバーとして使用して悦に入っているところ。この図録はもとはプラスチックケースがついていて2500円の瀟洒なたたずまい。ケースをはずして、図録にこんなカヴァーをかけたのは、わたしにとっては「読む」図録だから。見逃さないで本当によかった! という一語に尽きる今回の展覧会は、図録も間然するところのない素晴らしさ。展覧会場に居合わせないと味わえない、展覧会に立ち会った人しか知りえない素晴らしさがある上に、図録は「一冊の本」として最上の完成度。巻末の「杉浦非水著作選」で全文読むことのできる『自伝六十年』は「広告界」昭和10年1月から12月にかけて連載されたもので、これまで本になったことはない貴重な文献。非水の1923年滞欧日記や雑誌に寄稿した図案論もあり、杉浦翠子宛て書簡もある。今回の非水展は、杉浦翠子に焦点をあてたコーナーもあって、初めて杉浦翠子の存在に眼を見開かされたのがわたしにとっては収穫だった。




杉浦非水《響》大蔵省専売局、昭和7年。図録『図案の変貌 1868-1945』(東京国立近代美術館工芸館、1988年発行)より。杉浦非水の名前に胸躍らせるようになったばかりのころ、東京国立近代美術館(工芸館やフィルムセンターを含む)で断片的にポスターに対面するとそのたびに興奮していたものだったけれども、近代美術館と並んで好きだったのが、たばこと塩の博物館における非水。昭和5年に大蔵省専売局の嘱託となり煙草のデザインに従事するようになった非水、1930年代モダン都市における非水を思う。





木村伊兵衛《煙草屋》、『小型カメラ写真術』(誠文堂新光社昭和11年刊)所収。煙草屋における非水というと、思い出すのがこの写真。1930年代モダン都市のこんな感じの煙草屋で、いくつも非水デザインの煙草、口付紙巻たばこ「響」(昭和7年)、婦人向けたばこ「麗」(昭和7年)、葉巻たばこ「パロマ」(昭和8年)、パイプたばこ「桃山」(昭和9年)両切紙巻たばこ「光」(昭和11年)、両切紙紙たばこ「扶桑」(昭和12年)といったタバコが陳列されていたのかな、などと妄想するのは愉しい。

 四月初旬に「さかえ」と云う薄荷煙草が発売された。煙草の味はしなかったが、薄荷の味はした。朝の寝床での一本は、たしかにハミガキ的効果があり、食後の一服はうがい薬のように清涼であった。しかし、珍らしがって人々が競って求めたせいか、それとも試供品的に僅少発売だったのか、二三日ばかり店頭に姿を見せたきりで一ヶ月以上品切れのままなんてのは意味がない。それと、どう考えても十六銭と云う値段はぴったりしない。と云っていくら位いが程合いかしらと考えると一寸わからなくなるけれど。それから四月中旬に発売した土耳古煙草の「扶桑」の意匠と色合いは、近頃すっきりした図案であった。ちょっと、ウエストミンスターの味がして悪くない。杉浦画伯の構図だとか聞いたが、やっぱり餅屋は餅屋の感を深くした。それと反対に「つばさ」の意匠は、どうも厭なのだ。三台の飛行機が黒煙を吐いて墜落しかけたように見えるのは、僕ばかりの僻目ではなさそうだ。地のグリインも空色の方が引き立ったろうに、現在なら吾荒鷲を図案化したら、それこそ飛ぶように売れるだろうし、平時になったら、大型旅客機にでも直したら面白いだろう。コバルトとホワイトとブラックの配合を希望するものだ。
 「みのり」の意匠は、そのまま拡大して書物展望社版の馬場孤蝶氏の随筆集の外箱の意匠にも利用してあったが、どこか画手本みたいな稚拙な図案で好きである。「あかつき」の意匠が現在では一番よいと思う。何か清々しい爽快さを覚えるのだ。「チェリー」と、それから「バット」の箱も親しみが持てる。「錦」は何が芸妓の長襦袢みたいだし、「敷島」「朝日」はもはや古風すぎるようだ。この間の値上げに際して、値上げ後に製造する煙草の箱や袋の意匠を、みんな新しくしたらよかったろうにと考えた。


岩佐東一郎「煙草の外装」- 『随筆 茶烟亭燈逸伝』(書物展望社昭和14年2月18日)所収】


ポスター《みのり》杉浦非水(昭和5年)。たばこと塩の博物館で買った絵葉書。岩佐東一郎曰く《どこか画手本みたいな稚拙な図案》の「みのり」のパッケージは非水ではないけれども、ポスターは非水がデザインしている。




馬場孤蝶『野客漫言』(書物展望社、昭和23年9月23日)。岩佐東一郎も言及の、大の煙草好きの馬場孤蝶の随筆集。齋藤昌三による「吉例巻末記」に《外函は馬場さんの常用煙草「みのり」を廓大にして、著者の趣味の一端を出したつもりである。》とある。「みのり」の絵葉書は、『野客漫言』のページの間に挟み込んでいる。





杉浦非水展をめぐったあとは、レストランで「閑雅な昼食」。最後にコーヒーを飲んでから、常設展示を見にゆく。最初のコーナーの十数点の洋画が好きな画家、好きな絵ばかりで、常設展示でも「キャー!」と心のなかで絶叫だった。長谷川利行の《上野廣小路附近》(昭和11年)をウルウルッと凝視、上野から宇都宮までやってきた身にとって絶好の贈り物だった。山口薫の《画室の首》(昭和25年)をいつまでもいつまでも見つめて、なかなか去りがたかった。レストランでの窓の外、展示室へ移動する窓の外、その木立も視覚の歓びに満ち満ちていて、スーっと心が浄化されるよう。受付や売店といった係員の方々の対応も気持ちがよくて、宇都宮美術館はなにもかもがすばらしい美術館だった。次回の来訪が早くも待ち遠しい!


午後2時過ぎ。美術館前のバス停から、宇都宮駅方面へと戻るべく、ふたたびバスに乗り込む。買ったばかりの図録『版画をつづる夢』(宇都宮美術館、2000年11月発行)をホクホクと眺めているうちに、バスは出発。それにしても、宇都宮美術館は美術館そのものがたいそう素晴らしかった、またなにがしかの興味深い展覧会が告知されたらイソイソと出かけたい、1年か2年に1回くらいそんな機会があるといいなア、というようなことを思いながら上機嫌で図録を眺めていると、池田信吾の《宇都宮百景》という1930年代のシリーズが、版画を通して宇都宮近郊の都市風景を見るというのが格別で、とりわけ嬉しかった。地方都市のモダニズム。今はほとんど未知の宇都宮だけれども、この版画を実感をもって眺めることができるように、今度はよいお天気のときに来訪したいなあと思う。『版画をつづる夢』は、日頃から興味津々の創作版画あれこれとあいまって、グイグイと読み込みたいすばらしい図録。あらためて川上澄生に開眼しそう。一度だけ行ったことのある鹿沼市立の川上澄生美術館のことを思い出して、あのときも東武電車に乗ったなあと懐かしくなる。モダン都市と東武電車、ということも折に触れて追究したいのだった。




図録『版画をつづる夢―宇都宮に刻まれた創作版画運動の軌跡―』(宇都宮美術館、2000年11月発行)より、川上澄生《桜花小景―スケッチブック8より―》、1928年頃。




同じく『版画をつづる夢』より、川上澄生《風景(宇都宮中学校講堂)―スケッチブック9より―》、1929年頃。



復路は東武電車で東京へ戻る計画なので、バスが JR の宇都宮駅に着いてしまう前に、JR 宇都宮駅正面の大通りを左折する直前にバスを降りねばなるまいと、図録を閉じて虎視眈眈と車窓を伺って、無事にちょうどよいところで下車して、テクテクと大通りを右折、東武宇都宮駅方面へと向かう。駅に近づくにつれて、付近が賑やかになってきて、歩いているだけでなんだかたのしい。アーケード商店街の合間合間にひそむ古い町並みの残骸(商店建築とか看板とか)の観察はいつもたのしいなあと上機嫌。一見したところでは、JR よりも東武の方が駅周辺が活気があるというのが、なんだかおもしろかった(気のせいかもしれないけど)。やはり栃木といえば日光、日光といえば東武電車ということで、県庁所在地宇都宮も東武の駅を中心にした都市構造になっているということなのかな、今回は駅と美術館の単なる往復になってしまって、初めて降り立った宇都宮の都市構造(のようなもの)をまったく把握できないままなのがちょいと残念だったので、追々解明してゆきたいのだった。


と、駅周辺は活気があるけれども、東武宇都宮駅を始発駅として発車する東武電車、すなわち「東武宇都宮線」、新栃木行きの電車は30分に一本というローカル色みなぎる本数、というわけで、電車が出発するまでまだまだ間があったので、改札口前のベンチに座って、持参の「日本鉄道旅行地図帳3号 関東1」(新潮社)を眺めて、フムフムと路線を確認する。現在の東武動物駅公園駅から日光をつなぐ「東武日光線」の開通は昭和4年4月、その「東武日光線」のほぼ中間地点に位置する新栃木駅東武宇都宮駅をつなぐ「東武宇都宮線」の開通は昭和6年8月……ということを確認しただけで、関西遊覧のときとおんなじようにモダン都市形成における鉄道網の整備ないしはモダン都市の観光、といったものを実感した気になって、ふつふつと嬉しい。「日本鉄道旅行地図帳」を参照しながら初めての電車に乗るというだけでも、遊覧のよろこび全開なのだった。


というようなことをしているうちに、電車はとっくに駅のホームに停車中ということにやっと気づいた。うすら寒いベンチに座っている場合ではなかったとイソイソと電車に乗りこむ。電車の発車を待ちながら心穏やかに「日本鉄道旅行地図帳」を眺めて、このあとの行程をたどる。「東武宇都宮線」を新栃木で下車して、ここで浅草か北千住行きの東武電車に乗り換えるのだけれども、せっかく未踏の地宇都宮にやってきたというのに、このまま電車に乗り続けて東京に戻るというだけではちとつまらない気がしてきたところで、「日本鉄道旅行地図帳」を参照すると、東武宇都宮駅の隣駅の南宇都宮駅に燦然と「名駅舎」マークがついているのが目にとまって「おっ」となった。

地元産の大谷石をめぐらせた不思議な駅舎は昭和8年、近くに完成した野球場に合わせて開設されたという。軒にはボールとバットを表す模様が。

とのことで、この解説を読んで、いいな、いいなと、せっかくなので南宇都宮駅の駅舎見物をしてみたいなと思った。昭和8年の建物が今も残っているというのもいいし、野球場に合わせて開設という来歴もいいじゃありませんか。東武宇都宮線の開設は昭和6年8月で、翌昭和7年4月に「野球場前」という臨時の停車場ができて、これが翌年12月に晴れて「南宇都宮」という駅になったとのこと(「野球場前」と「南宇都宮」の間には「花房町」という駅が「野球場前」と同時に開設されているけども昭和29年9月に廃止されている)。




というわけで、30分に一度という本数もなんのその、時間のロスを気にすることなく、待ちかねていた東武宇都宮線の発車のあと、迷うことなく一駅目の南宇都宮駅で途中下車。




わーいわーいとこじんまりした改札口を通り抜けて、まずは外観を眺める。2階部分は補修がほどこされているけれども、1階部分の古色蒼然とした外壁が風情たっぷり。これが「地元産の大谷石」なのかな。どこから運ばれてきたのかな、貨物列車で運ばれてきたのかな、などと妄想がとめどなく広がってゆく。




しかし、「日本鉄道旅行地図帳」で解説されていた《軒にはボールとバットを表す模様》をいまいち実感できず、しばし上部を見上げてモンモンとなるのだった。





言われなければわからないけれども、2階の軒の円形状のものが野球のボールで曲線はバットを表しているということなのかな、うーむうーむ、これが「ボールとバットを表す模様」なのか、うーむうーむと、いつまでもモンモンとなる。




と、「名駅舎」という入れ知恵がなかったら、そのまま気に留めることなくただ通り過ぎてしまいそうな小さな駅だけれども、ちょっと観察をしてみると、たとえば「ボールとバットを表す模様」の下部にある二階窓も、ちょっとした幾何学的配置がそこはかとなくしゃれているのだった。




一階の軒を拡大。一階の外壁の古色蒼然とした風合いがいいな、いいなとあらためて思う。「ボールとバットを表す模様」よりも「地元産の大谷石」にうっとりの南宇都宮駅の駅舎であった。




とはいうものの、南宇都宮駅の観察はあっという間に終わってしまい、次の電車が来るまでの30分間、せっかくなので駅界隈をしばし散歩する。どんよりと極限まで曇った空の下、人っ子ひとりいない静かな静かな町。駅正面の道を直進すると、右手に蔵か倉庫かなにかを改装したギャラリーのようなものがあって、外観だけ建物見物。南宇都宮駅と外壁が似ているような気がする。時間があればもうちょっと細部見物したかった。駅へとイソイソと戻る途中、和菓子店を見かけた。気が向いて店内に入り、適当にお土産をみつくろって、駅へと戻る。



駅のベンチで電車を待ちながら、おやつの時間とする。駅前の和菓子店は「蛸屋」という栃木県下に幅広く営業しているお店の支店だった。日光とかイチゴを冠したお菓子が何種類かあって、栃木はなにがなんでも「日光」と「苺」を内外にアピールしたいらしい、ということが痛いほど伝わってくるのだった。その気持ち、受けとめたッというわけで、本日のおやつは蛸屋の「いちごどらやき」なり。ようやく待望の東武宇都宮線が到着し、やれ嬉しやと乗りこんで、乗換駅の新栃木までぼんやりと電車に揺られる。




東武宇都宮線を下車して、新栃木駅で浅草行きの「区間快速」が来るのを待つ。気温は下がる一方で、空のどんより具合も極限まで進行し、ひたすら寒い。この写真は、浅草行きの電車を待ちながら撮影の新栃木の向かいのホーム。なかなかかわいらしい駅舎、ちょいと見物に行きたい気もしたが、寒いのと区間快速で座りたいという願望に全身が覆われるあまりに気持ちに余裕がなく、見物は断念。



と、ようやく待望の浅草行きの区間快速が到着、座れますようにッと数分前から祈っていた甲斐あって、無事に座れて歓喜にむせぶ。普通料金なのにボックス席なのがしょうこりもなく嬉しい。区間快速東武動物公園までは各駅に停車する、すなわち東武動物公園までの「東武日光線」は各駅停車で、東武動物公園で「東武伊勢崎線」に合流すると、電車はダイナミックに駅を通過し、春日部のあとは北千住までは通過、そして終点の浅草に到着する。フムなるほどと持参の「日本鉄道旅行地図帳」を眺めて、位置を確認したところで居眠り。東武日光線の新栃木から東武動物公園までがひたすら長い各駅停車で、何度か目が覚めてもそのたびに各駅停車はひたすら続いていて、ぐったり。しかし、東武動物公園からはビュンビュンと電車が走り、それまでの「ぐったり」が解消されるくらいに爽快、電車が各駅ではなくひたすら通過を続けることがこれほどまでに嬉しかったのは今日が初めてのような気がする。北千住で車内は一気に閑散となり、浅草駅にたどりつく直前の隅田川を渡る瞬間の徐行を心ゆくまで満喫、夜空の下、川面がキラキラ輝いている。


午後6時。浅草駅に到着。改札の外に出ると、雨上がりの空気。宇都宮よりも明らかに気温が高く、あまり寒くはないのが嬉しい。吾妻橋をイソイソと渡って、アサヒビールのふもとでワインをグビグビ飲んで、外に出る。夜空の下、業平橋まで歩いて、途中まで出来上がっている「東京スカイツリー」を眺める。あと何度、途中までのスカイツリーを見られるかなと思ったところで、地下鉄に乗りこんで、本日の遊覧はおしまい。


帰宅後、南宇都宮駅の外壁に使われていた宇都宮原産の「大谷石」が、坂倉準三設計の鎌倉の近代美術館に使われていること、宇都宮の地には大谷石の輸送に使用されていた「東武大谷線」という路線がかつてあったこと(大正4年に「宇都宮石材軌道」として開業。昭和6年6月に東武の経営化となり、昭和39年6月に廃止)を知って、ちょいと興奮だった。これを機になんだかもう「大谷石」に夢中。宇都宮市内に大谷石が使われている近代建築があるかもしれない云々と、宇都宮と大谷石について、追々追究してゆきたいと、現在メラメラと燃えているのだった。わたしにとっての宇都宮は、「苺」でも「餃子」でもなくて、「大谷石」である! と主張したい(誰に?)。






「宇都宮のおかしのデパート」、川喜田煉七郎『図解式店舗設計陳列全集1 パン菓子店(喫茶店)』(モナス、昭和15年1月15日発行)より。川喜田煉七郎による店舗設計の実用書で、モダン都市のお菓子・喫茶店資料としてかねてよりの愛蔵本。宇都宮の近代建築として「枡金菓子店」、この外壁も大谷石かしら! と興奮だった。そして現在も「マスキン」は健在と知り、さらに興奮だった(http://www.masukin-co.jp/)。次回の宇都宮来訪の折には、ぜひとも「マスキン」でお土産を買いたい! また「苺」のお菓子を買ってしまいそう。