続・『柳田泉の文学遺産』のこと。


毎年2月になると、岩波ブックセンターで「みすず」の1・2月合併号の《読書アンケート特集》(315円)を買うのが、数年来のおたのしみ。今年も1月はあっという間に行ってしまって2月になり、例年どおりにソワソワしはじめたとたん、神保町のとある古書肆にて長年の探求書(『春泥』第4号《小村雪岱号》・昭和15年12月30日発行)を購うという事態に直面したのだから、もう大変。


そんなこんなで、2月最初の金曜日、無事に古書肆を訪れたあとで、肩から羽根が生えて地上から30センチほど上をバタバタと飛んでいるような心境で、靖国通りに出て岩波ブックセンターの前を通りかかって、今年も「みすず」の《読書アンケート特集》を無事に入手、今日はなんとよき日ぞやと、九段坂上の喫茶店で濃いコーヒーをすすりながら、小村雪岱の図版をなめるように凝視したあとで、「みすず」の《読書アンケート特集》を最初のページからゆっくりと繰って、なんとも格別なことであった。




「みすず」《読書アンケート特集》(第52巻1号・2010年1・2月合併号)。表紙写真:宮本隆司。いつも美しい表紙の「みすず」。ひととおり繰ったあとは、本棚に立てかけて悦に入る日々がしばらく続く。




今年も「みすず」の《読書アンケート特集》では、嬉しかったことがもりだくさんだった。たとえば、岩波文庫の去年9月の新刊、中島賢二さんの訳が絶品の、アーサー・ケストラー著『真昼の暗黒』のことを常日頃からその仕事を敬愛している冨原眞弓さんが書いていらしたこと(p44)。同じ本をわたしもたいへん堪能したから、ジーンと感激だった。それからもうひとつ、三原弟平さんが柳田泉著『田山花袋の文学(1・2)』(春秋社、一九五七、一九五八年)を挙げ、

館林の沼や濠、そして秋元藩の名所だった躑躅の丘、それらを幾度となく詠う少年期の花袋。彼が最初に試みた文学形式は小説ではなく、士族の文芸である漢詩だったのだ。その花袋少年期のおびただしい漢詩を悠揚せまらぬ態度で、しかもじつに細かく解説してくれている本書は、当方の漢学への教養不足でわからぬところも多いが、花袋という人の過去にはこのようなことがあったのかと不思議な感銘をおぼえ、ために、読み終わったあとで読んだ短編「朝」の印象はよりいっそう鮮烈なものとなった。ただ、柳田氏のこの本はまだ書き継がれるはずで、すくなくとも(3)として「大自然に立つ花袋」が出されるはずだったことが巻末の広告から知れるが、著者の多病のため果たされなかったのはまことに残念である。当方、柳田氏の書くものが好きで、夏のおわり弘前に行ったとき、その実家とおぼしきあたりをさまよったりもしたが、偶然足を伸ばした黒石市に、氏の少年時代のゆかりがあったことは帰ってから知った。富山の山の奥に越中八尾があるように、岩木山がまた違った相貌で見えるさびれた通りを歩きながら、黒石は弘前奥の院だと感じた。(p24-25)

というコメントを添えているのを目の当たりにした瞬間も、ジーンと静かな感激にひたって「みすず」片手にしばし放心だった。



ここで挙がっている柳田泉著『田山花袋の文学』は未読だけれども、わたし自身の去年一年間の読書を思い起こしてみると、右文書院から三巻本として刊行された『柳田泉の文学遺産』を精読したことは、まさに「不思議な感銘」だったから、「柳田泉」と聞いただけで背筋がシャキーンと伸びて、なんだかもう不思議に嬉しくなってくる。と、勝手に三原氏のコメントに共鳴して、去年一年間の数か月にわたる『柳田泉の文学遺産』の日々をおもって、「みすず」片手にしばし放心だった。



新年度のはじまりと同時に東京堂で入手した内容見本の予告のとおりに、去年5月に1冊目が刊行され、最後の3冊目が9月に刊行、そして、附録の CD-ROM が師走に届いて、右文書院より刊行の三巻本の『柳田泉の文学遺産』は、間然するところのない完成度で世に送られて、2009年が終わった。


……のだったが、実を申すとわたくし、最終配本の9月に刊行の「第一巻」は、刊行直後に途中まで繰ったものの、カヴァーをかけっぱなしのまま本棚に放置、全巻読了前に師走に届いた附録の CD-ROM の方を先に読んでしまうという失態をおかしていたのだった。そんなこんなで、「みすず」の三原弟平さんの文章を目にして、背筋をシャキーンと伸ばしたとたんに、読みさしのまま放置されていた『柳田泉の文学遺産 第一巻』のことを思い出して、こうしてはいられないとハッとなった。



というような次第で、2月第2週の週明けから毎日早起きして喫茶店で、『柳田泉の文学遺産 第一巻』を最初のページからチビチビと読み進めるという日々がしばらく続いた。読みさしのまま数か月過ぎていたから仕切り直して、もう一度最初のページから読みはじめた。第1回配本の「第三巻」を手にした直後、第2回配本の「第二巻」精読時に引き続いて、姿勢をただして編者に敬意を払って、最初のページから几帳面に、手元には帳面を置いてカリカリとメモしながら。と、2月上旬から下旬にかけては、半年ぶりに柳田泉にどっぷりつかる日々。きっかけが「みすず」というのが嬉しいなアと、読みさしのまま放置していた失態もそれはそれでよかった気がする。




柳田泉の文学遺産 第一巻』(右文書院、2009年9月25日発行)。編集:川村伸秀。解説:黒岩比佐子。装幀:吉田篤弘吉田浩美。カバー・扉装画:小林清親画(矢野龍渓『浮城物語』より)。




最終配本の第一巻は、「自伝的回想」と「明治文学研究」を二つの柱としている。「明治文学研究」について編者の川村伸秀さんはその解題に、

主に柳田泉のライフワーク『明治文学研究』(春秋社、全十一巻、既刊九冊、昭和三十五年九月〜昭和四十九年七月)と同一のテーマのもとに書かれたもののなかで、文学史に重点を置いた文章を収録した。

と記し、

ここに集められた文章は、単に『明治文学研究』を要約しただけの価値しかないかと言えば、必ずしもそうとは限らない。本書に収録した文章の多くは、雑誌の特集などの際、依頼に応じて書かれたものである。そのため同じことについて述べたとしても、切り口や執筆時期が異なっており、自ずとそこに『明治文学研究』の記述とは別の視点が盛り込まれている。

というふうに結んでいる。したがって、「明治文学研究」は《折々の機会に書かれた本書の各文章は、個々独立してそれだけで完結しているため、ずっと読み易いという利点がある。》。「自伝的回想」で柳田泉の歳月を体感したあとで、ライフワークの「明治文学研究」へと至る『柳田泉の文学遺産 第一巻』。「自伝的回想」で、明治27(1894)年生まれ(福原麟太郎徳川夢声をはじめとして同年生まれの魅惑的な「文人」のなんと数多いこと!)で、柳田が明治文学研究というライフワークへと至る過程を体感したあとで、「明治文学研究」の各文章をカリカリとメモしながらじっくりとじっくりと読み進めていって、2月が終わるころにおしまいのページになり、『柳田泉の文学遺産』全3巻がわたしのなかでもひとまず完結した。



大正3年に上京して早稲田文科で英文学を学んだ柳田は、漱石の影響でメレディスについての論文を書いて卒業。卒業後の大正7年から震災の大正12年までは翻訳仕事に従事、内田魯庵と知り合ったのも春秋社で『トルストイ全集』が刊行されたときのこと。魯庵と知り合ったきっかけが明治文学ではなくて外国文学を媒介にしていたというところにむしろたいへんウキウキするものがある。そして、震災後の大正13年に「明治文学研究会」が成立。柳田泉のライフワークは「明治文学研究」となった。昭和初期の柳田の研究を助けたのは、円本流行による多額の印税であった。大学卒業後からの翻訳作品が柳田泉の明治文学研究を後押ししたともいえるわけで、そんなモダン都市文化の時代相にも胸躍るものがある。


既読の『柳田泉の文学遺産』の第3巻と第2巻とを精読して体感した柳田泉の一貫性、第1巻の「自伝的回想」の文章のページを繰ってすぐ、「明治文学十話」において、

 こうして私の場合、ついに明治文学研究に生涯をかけて今日に及んだという恰好になったが、よくよく考えてみるに、これは単に明治文学が好きで、ここにいたったというだけではない。たしかにそのもとは好きでこの道に深入りもし、特別な動機に動かされていっそう奮発もして今日に及んだにちがいないが、どうもこの好きという心の底には、もう一つ根本のものがあったと思う。それは明治文学ばかりでなく、いっさいの東洋文学、西洋文学をふくめて、文学全体を善いものと是認し、信頼する心である。この心があってこそ、私の明治文学への深い好愛心というものも不断に培養成長されてきたものといってよい。

という一節が端的に示しているような、柳田泉の一貫性を本全体でビンビンと体感して、『柳田泉の文学遺産』は読み進めてゆくにつれて不思議となんともいい気持ちになっているのだった。そうそう、この感覚と、半年ぶりに『柳田泉の文学遺産』を繰ったとたんに、既読の2冊を手にしていたときの歓びが鮮やかによみがえってきて、これからしばらく最後の1冊を読み進めることで、こんな時間がしばらく続く、そのことが素朴に嬉しかった2月の日々だった。



柳田泉の文学遺産』における、この気持ちのよさってなんだろう、なんて思うまでもなく、上掲の一節のあと、《もっとも手近にいて私の心に深い大きな感化を与え、文学の善ということについて不動の信心をたたき込んでくれた三人の偉い人》の一人として登場する幸田露伴の門を辞したときのことを、

……当時、先生のまのあたりこれを聞いた私には、文の心、文学という大きなものの力が躍然と動いて身に迫るように感じたものであった。そうして、こうした文学論を聞いて先生の門を辞するとき、しばらくは天空海闊なんともいえないいい気持になって、文字どおりわれを忘れたものである。

という柳田自身の回想を目の当たりにすることとなり、そうそうまさしくこれなのよ! とテーブルをドンッと叩きたくなるような、わたしが柳田泉を読んでいるときの感覚を、柳田自身の言葉でドンピシャリと表してくれている一節にぶつかる。そんな「天空海闊なんともいえないいい気持」を、前回と前々回の配本の第3巻と第2巻を精読しているとき、『柳田泉の文学遺産』のあちらこちらで体感していた。半年ぶりの『柳田泉の文学遺産』、最後の1冊の第1巻のページを繰りはじめたとたんに、半年ぶりに「天空海闊なんともいえないいい気持」になって、ウキウキしながら毎日朝の喫茶店で『柳田泉の文学遺産 第一巻』を繰っている時間のなんとたのしかったこと!



「明治文学の現代的意義」(初出:『國文學 解釈と鑑賞』昭和26年1月号)について、解題で編者の川村伸秀さんは、《「明治文学」を研究する意義を述べた文章で、『明治文学研究』では、こう正面から語られたことはない。戦後復興期のなかで、柳田が自己の思想的立場を前面に出して発言した珍しい文章である。》としている。この文章のなかに、次のような一節がある。

……明治文学ばかりでなく、明治文化東洋文化、西洋文学と、いろいろ手を出してをりますが、明治文学では、坪内逍遥幸田露伴の研究をいさゝかまとめてみました。もちろん、この二人も、また他の明治文学者のことも、今でも日夜調べてをるのですが、それは何ういふつもりか、その研究の現代的意義如何と聞かれると、正直ちと閉口なのです。それは、もちろん研究する以上、有意義なことは当然みとめるわけですけれども、私自身の場合、有意義無意義を超越して、それが面白くてたまらないのです。さういふ人々、たとへば、逍遥露伴の二人のことを研究して深く知れば知るほど、また他の明治文学者のことを知れば知るほど、さういふ人々が生きて私の生活に入つて来て、私自身の生き方を教へてくれるやうな気がするとともに、私自身の生活が何だか自分にとつて有意義なものになり、私の生活のつゝむ世界もそれだけひろがり、色彩になり、にぎやかになつて、正しい生きがひのあるものになります。その点がどうも何ともいへず面白いのです。いはゞかういふ人々を研究することによつて、私自身の生活が建設され指導されてゆく、それが現在を通して将来にわたり、幾分か私自身を向上の路に向かはしめてくれるやうに思ふのです。

と、このような柳田泉の仕事や交友や読書等々を、このたび右文書院より刊行の『柳田泉の文学遺産』全3巻の全体で体感したことは、わたしにとっても「有意義無意義を超越して」「面白くてたまらな」くて、そして、全3巻を精読したことは、「幾分か私自身を向上の路に向かはしめてくれるやうに思」ったのだった。



……などと、背筋を伸ばしつつ、胸を躍らせながら、いい気持ちになって精読した『柳田泉の文学遺産』は、最後の1冊の「第一巻」でも手元のメモはだいぶ大部になってしまって、明治文学ひいては明治文化の「お勉強」という点でも収穫たっぷり。なにかと目が見開かされっぱなしだった。明治10年代から当時の戯作文学を牛耳っていた格好の高畠藍泉を語る柳田の筆致、たとえば、

魯文のやうに、文章の間に奇をもとめず、大抵は平凡普通な人間の、生活や環境を、大した修飾もなく写してゐるのであるが、そう写された平凡人の人生といつたものに、さゝやかな満足と、淡いものゝあはれ、新しい生活への希望を覚えさせたところに、彼のつゞきもの文学が魯文とちがつた味ひを与へ、魯文文学以外に立派に別天地をひらいてみせたところがあつた。(「明治はじめの文学 戯作文学のはなし」p141)

といったくだりなんて、まあ、いいではありませんか! と、藍泉のもとに連なっていた文学者たち、右田寅彦、幸堂得知、饗庭篁村といった人物への興味がますますモクモクと湧いてくるのがたのしく、それはおのずと、近代日本における「『演芸画報』人物誌」的な観点をもっと深めていきたいと鼓舞されることにもなって、とにかくもワクワクだった。藍泉は篁村に近松西鶴といった文学を吹き込んだ人物でもある。藍泉は銀座の煉瓦家屋に住んで洋服、「新製ビスコイト(ビスケット)」や「ヂンヂンビア(ラムネ)」といった洋菓子を好んでいたというのもいいではありませんか! そんな藍泉は明治18年没、逍遥が文学革新を提唱したころに亡くなった。柳田泉が戯作文学についていろいろな視点で語っている文章を今回精読したことで、團十郎の「活歴」をとりまく明治前半の演劇史的なことが以前に増して面白くなってきたのも収穫だった。柳田自身が「明治文学研究会」を語るところで、

ここでは、名のごとく明治文化の研究というのが主であったから、政治とか法制、または歴史、風俗、習慣などとやることが分かれていて、文学が専門ではなかったけれども、そのためにかえって文学の母胎、背景というものをしっかりとつかむことができた。(「明治文学十話 明治文化研究会」p13)

と述べているような、広い意味での「明治文化」そのものに、なにかと目を見開かされっぱなし。とにかくも、ここには書ききれないほどいろいろと鼓舞されて、なんともたのしいことであった。『柳田泉の文学遺産』全3冊(と附録の CD-ROM )と合わせて、精読時のメモ書きもちょっとした宝物というような感じ。



第1回配本の「第三巻」を精読したあとに思ったことは、右文書院の『柳田泉の文学遺産』は手にする前、読んでいる最中、読了後のすべてにわたって、たいへん充実した時間をもたらしてくれる本で、存在しているということ自体がすばらしい本だということだった。『柳田泉の文学遺産』全3巻が完結して読了したあと、あらためておんなじことを思う。存在しているということ自体がすばらしい本、だということを。



2月末。右文書院の『柳田泉の文学遺産』全3巻を読了した記念に、何年も前から神保町の特価書籍に足を踏み入れるたびに、いつか買いたいものだなアと思っていた、東洋文庫柳田泉『随筆明治文学』全3巻をまさしく満を持してという感じに晴れて買うことができた(何度か図書館で借りて拾い読みして、いずれ入手してじっくりと読みたいと思い続けて早5年だったので、まさしく大願成就)。心持よくウカウカと、次に足を踏み入れたの岩波ブックセンターでは、岩波文庫の『明六雑誌』全3冊を買ったのも嬉しかったこと。



柳田泉の文学遺産』全三巻の第1回配本である「第三巻」を精読したのは、5月末から6月初めにかけてのこと(当時の記録:id:foujita:20090607)。そして、第2回配本の「第二巻」を精読したのは、夏休み明け、8月中旬から下旬にかけてのことだった。毎朝の喫茶店での読書がたのしいあまりに、「夏休みが終わるのもまた愉し」とウキウキしながら繰っていたものだった。




柳田泉の文学遺産 第二巻』(右文書院、2009年8月20日発行)。編集:川村伸秀。解説:池内紀。装幀:吉田篤弘吉田浩美。カバー・扉装画:後藤魚州画(幸田露伴『露団々』より)。



右文書院の『柳田泉の文学遺産』は全3冊を本棚に並べると、3種の「の」の字が色遣いが絶妙で、頬が緩む。第2巻は、露伴についての文章が満載なので刊行前からとりわけたのしみにしていたので、それはそれはじっくりと精読して、これまた当時のだいぶ大部なメモが手元に残っている。

 かつて僕の『露伴伝』で、露伴の文学的武器の一つともいふべき知的笑ひがメレヂスの喜劇の笑ひに似たといつたところから、島田謹二さんに、本誌第六号で、あれはちとメレヂスに引きつけすぎると評された。引きつけすぎるといふのは、程度の問題だが、露伴とメレヂスとは似たところがいろいろある。理想主義の作風、エゴイズムの征伐、笑ひの武器、楽天主義、古典への愛好心、時代に対する態度、人生に於ける苦労と、数へあげるといろいろな点で似たところがある。(「露伴文学の輪郭」p137)

という一節をはじめとして、今後の露伴読みに際して、いろいろな示唆をはらんでいて、興趣は尽きなかった。そして、柳田が露伴の文学を語るに際しての、

 普通に文学といへば、書いたもの、或は書かれたもので、書かれないものは、文学でないとなつてゐる。だが、現実にあたると、書かれない文学といふものは、あり得る。露伴文学のことを考へるとき、私は、いつも此の書かれない文学といふものゝ大きさにうたれるのであるが、露伴文学の書かれたものも偉大であるけれども、書かれずに終つた文学の方が、もつともつと大きかつた。

という「露伴文学の世界」の冒頭が示すような姿勢に胸打たれるものがあって、そういう人が書いた『幸田露伴』を、近い将来に精読したいものだと思う。



岩波文庫の十年がかりの『明六雑誌』完結とほぼ時をおなじくして、ウェッジ文庫内田魯庵の『貘の舌』が発売になったことも、僥倖であった。右文書院から『柳田泉の文学遺産』刊行予告のとおりに几帳面に1冊ずつ世に送られている真っ最中に、新刊文庫として魯庵本を手にするという奇縁。内田魯庵著『書齋文化』(桑名文星堂、昭和17年10月)の編者はしがきに、柳田泉は《此のごろ、若い人たちの間にも年をとつた人たちの間にも、一種の魯庵宗といつたものが再び燃えだして來たらしい》と書いているという。魯庵宗! まったくもって、柳田泉はうまいことをいう(と、この「魯庵宗」なる言葉は、筑摩書房の「明治文学全集」の『内田魯庵集』の月報に掲載の木村毅、中山榮曉両氏の文章で初めて知った言葉。わたしはまだ柳田泉編集による『書斎文化』をまだ入手していない。今年こそは……)。



柳田泉の文学遺産』の第1回配本を手にしたとき、わたしのなかで「再び燃えだした」「一種の魯庵宗」は、2冊目、3冊目ごとにますます燃えあがった。右文書院の『柳田泉の文学遺産』を精読するということは、「一種の魯庵宗」にとりつかれるということでもある。




内田魯庵『貘の舌』(ウェッジ文庫、2009年8月26日)。装丁:上野かおる。大正10(1921)年10月刊行の『貘の舌』(春秋社内杜翁全集刊行会)の文庫化。



『貘の舌』は「貘の舌」と「貘の耳垢」を収録していて、表題の「貘の舌」は大正9年5月31日から6月30日まで「読売新聞」に連載された。もう一方のコラム集「貘の耳垢」に関して、魯庵自身は巻頭で、

以前或る雑誌に連載していたものを基礎として殆んど全部に渡つて刪潤を施こし、更に若干を書添へ或は全く新たに補足したものもあるから會て発表したものとは全然相違してをる。且此旧稿は世間から余り注意されない雑誌に、シカモ匿名で発表したものだから、一部少数の人にしか読まれなかった。恐らく今では記憶しているものもあるまい。

というふうに書いているけれども、よくよく確認してみると、この『貘の舌』に収録された一連のコラム集「貘の耳垢」は、魯庵丸善入社(明治34年9月)の翌年の、明治35(1902)年3月から明治38(1905)年6月まで、『學鐙』に断続24回連載された「楼上雑話」(「善松」として匿名で執筆)を「殆んど全部に渡つて刪潤を施こし」たものなのだった。丸善入社直後の三十代の魯庵が『學鐙』に書いたコラムを、五十代の魯庵が全面刷新して、世に送っていると思うと、ますますたのしいじゃアありませんか! この「貘の耳垢」は、柳田泉編集による『書斎文化』にも再録されているとのこと。「明治文学全集」の『内田魯庵集』には、「初出に従って、刪潤以前の生のもの」が『楼上雑話』として抄録されているので(解題は稲垣達郎)、読み比べている時間の、たのしいことといったらなかった。ウェッジ文庫坪内祐三による解説の、《五十二歳でこのポップは脅威だ》という言葉が骨身にしみて実感する時間の、なんとたのしかったこと! 『柳田泉の文学遺産』でとりつかれた「一種の魯庵宗」はウェッジ文庫のおかげで、ますます燃える一方となった。





稲垣達郎『作家の肖像』(大観堂、昭和16年5月10日)。装幀:武樋貞波留。


柳田泉の文学遺産』全3冊を精読して、晴れて東洋文庫の『随筆 明治文学』全3冊を入手したその翌日に届いた本が、稲垣達郎の『作家の肖像』の初版本。いつも心待ちにしているとある古書肆の目録で4冊注文したうち唯一当選した1冊が稲垣達郎だった次第。『柳田泉の文学遺産』の第1回配本直前に、遅ればせながら初めて稲垣達郎の本を読んだ(講談社文芸文庫の『角鹿の蟹』)。柳田泉を手にする直前に、稲垣達郎と出会ったことにひとりで悦に入っていたので、このたびの『柳田泉の文学遺産』のはじまりとおわりを、稲垣達郎で飾ることになったことが嬉しかった。





藤田三男『榛地和装本 終篇』(ウェッジ、2010年3月25日)。装幀:寺山祐策。


稲垣達郎の『作家の肖像』の初版本ではじまった3月は、ウェッジの新刊、『榛地和装本・終篇』で締めくくられることになった。前著の『榛地和装本』(河出書房新社、1998年2月)をやっと書棚に収めたときは嬉しかったなアとなつかしい(5年前のこと。当時なかなか見つからなかった)。藤田三男さんの名前をクッキリと心に刻んだきっかけは『保昌正夫 一巻本選集』だった、いつごろのことだったかしらと懐かしくなって当時の「日用帳」を確認してみたら(こういうときだけブログは便利)、2004年12月3日に東京堂で買っていて、

保昌正夫さんの名前は今まであちこちで遭遇していたものの、まとめてじっくりと読むのは三回忌に編まれた本書が最初となった。保昌正夫さんは「こつう豆本」の『昭和文学歳時私記』を読んだのが最初だったので、「こつう豆本」でその名を刻んだあとでじっくりと遺稿集を読む、という展開が共通する徳永康元のことを思い出したりも。『一巻本選集』でまっさきに読んだのは「岩本素白一面」という文章。素白つながり、というところも徳永康元と同じだなあと、しみじみ嬉しかった。

というふうに当時の記録にあった。保昌正夫を買ったとき思い出していたのが徳永康元のことだった、ということは自分でもすっかり忘れていた。……などと、初めてウェッジ文庫を買ったときのこと、すなわちソロリソロリと岩本素白を繰っていたときのことを思い出してジーンとなり、ウェッジ文庫の「榛地和装本」として浅見淵を手にしたときのこと、岩本素白の章に深く深く感じ入った伊藤正雄著『忘れ得ぬ国文学者たち』(右文書院刊)のことなどなど、そんな一連の読書の連鎖を思ってぼんやりしているうちに、明日から新年度。



去年は、新年度早々に『柳田泉の文学遺産』の内容見本を東京堂で入手して大喜びしていたものだった。あれからちょうど1年。