午前7時20分、新幹線に乗って東京駅を出発、関西1泊2日の遠足へ出かける。車窓は青い青い空、絵に描いたような秋日和。
明治40年の『東海道線旅行図会』を見ながら、新幹線に乗って関西へ
田山花袋・小栗風葉・沼波瓊音・小杉未醒『東海道線旅行図会』(修文館、明治40年7月27日)。切符が図案化された表紙ににんまり。この本のゆくたてを綴った沼波瓊音の「分間紀行」というタイトルの巻末の文章がとびきりたのしくて、川村伸秀さんの編集による、国書刊行会の《知の自由人叢書》の沼波瓊音『意匠ひろひ』(2006年8月刊)で初めて読んだときから大好きな文章だった。このたびの東海道移動を記念して、ずっと念願だった本書を購った。
『大辞林』は「分間絵図(ぶんけんえず)」を、《実測図をもとに、絵画的な表現を取り入れて作製した絵地図。江戸時代、主に旅行案内地図として用いられた。一六九〇年刊「東海道分間絵図」が有名。》と定義している。『東海道線旅行図会』巻末の沼波瓊音による「文間旅行」によると、瓊音が「明治の分間図」を作ろうではないかと大いにハリきったのは、ここに名前の挙がっている菱川師宣の『東海道分間地図』がきっかけだった。
僕が文部省に居た時同僚の人が昨夜古本屋で分間図を買つたと言つて誇りかに卓子の上へ置いたので、僕等は寄つてたかつて繰りひろげて見たが実に居ながら旅をする様で言ふべからず趣味を覚えた。そして此時僕は今の汽車旅行も斯ういふ組織の絵図を持て行つたら奈何に趣味があるだらうと偶と思つた。それから道楽気が出て帝国図書館へも行き種々な分間図を見たがその内菱川師宣の「東海道分間絵図」といふのが最も気に入つた。これは大きな折本で五冊になつて居り、筆意も雄大で実に心持のよい出来である。
そして、明治39年秋、沼波瓊音と小栗風葉が塩原へ紅葉を見に行ったとき、瓊音が「一つ我々が明治の分間図を作ってみようじゃないか」と言いだし、風葉はすぐさま乗り気になる。帰京後まもなく瓊音と風葉は、《天下の旅仙で、日本中の各駅の名を殆ど空で知つて居り、地図を見ても何処と何処との間が凡そ何町といふと迄一目で解るといふ大通》の田山花袋を訪れ、花袋も仲間に加わる。明けて明治40年、瓊音に話を聞いた小杉未醒は、《面白い是非遣る助手は要らぬ一人で遣るという意気込み》。
これで愈役者は揃うた。正劇で行くと「汽笛一声新橋を」の楽隊で幕開く、本舞台一面新橋停車場一二等待合室の場、ストーブの前に弧を画いた四人、髭もぢやの顔して耳まで附いた狐の皮を頸に巻附け紫の風呂敷包を抱へた大の男が花袋君、鳥打を冠つた色艶の馬鹿に好い小の男が風葉君、ひよろひよろと背が高うて、よく頭の取れる杖を今日も突いて居るのが未醒君。而して顎の尖つた総領面をして至極御安直にズック鞄を肩に引懸けたのが斯く申す拙者奴だ。
というふうにして、明治40年の雛の節句、4人は東海道線に乗りこんだ。「明治の分間絵図」であるところの修文館刊の『東海道線旅行図会』のそもそもの発端は、沼波瓊音なのだった。
未醒の絵がキュートで頬が緩むことこの上ない。たとえば、はじまりの新橋附近はこんな感じ。このページには、「東京」という前書付きの子規の句「紫の灯を灯しけり春の宵」が下部にあしらってある。というように、全編にわたって古今の句を見られるのもゆかしい。
新橋停車場を離れると、右に芝の家並、其向ふが愛宕山、左に東京湾、煉瓦建の製造所が相櫛比して、夜になれば電気や瓦斯の光で昼を欺くやう。自分は「大都の入口」と云ふ事に就いて、嘗て恁う書いた事がある。「一体大都の入口と云ふものは妙に人の心を騒がすもので、始めての者なら無論恐と不安とを感じやう、然し住慣れた者が余所から帰つて、活動の元気の充渡つた大都の姿を入口から望んだ時には誰しも心強い一種の快感を覚えるものだ。其癖町へ入つて了ふと何でも無くなる。」云々と。是は他から東京へ入る者の感じである。東京から他へ出る者も、東京市中に居る中は何とも感じないが、さて汽車に乗つて新橋を離れる、而して、品川間近に行く間に品川間近に行く間に振返つて東京の市街を眺めると、つくづく大都と云ふ感が起る。失意の者は此時始めて苦痛から脱却し得たやうになつて息を吐くだらう、得意の者は頼もしい恋人とでも別れるやうに後髪を引かれ、且つ前途に対して一種の寂寞な感を覚えるだらう。
鳥 が 鳴 く 吾 妻 男 の つ ま わ か れ
悲 し く あ り け ん 年 の を な が み
(万葉集)
絵地図はすべて未醒が引き受け、紀行文は、はじまりの新橋から程ヶ谷までを風葉が執筆し、大船から江の島までを花袋が書いて……というふうに、花袋、風葉、瓊音の3人が分担している。
遊郭、海苔とり、並行する京浜電車、やがて富士の山。其角の「品川も連に珍らし雁の声」の句が添えられてある。
新橋より東海道線に乗つて来た者は、品川駅を離れ、加茂真淵翁や沢庵和尚の墓所の前を過ぎ、広濶なる野外に出づれば始めて富士の山嶺を見るならん。嬋妍たる美人が帳を掲げて半面を現すが如し。
東海道新幹線の線路は、品川で東海道線の線路を離れて、小田原前でふたたび合流する。新幹線に乗るときはいつも、多摩川を渡るあたりでいつのまにか居眠りをしている。
「風雅でも無く洒落でも無くしやうこと無しの山科に由良之助が侘住居」の山科。「ムヽ又御無用と止めたは、修業者の手の内か、振り上げたこの手のうちか」の挿絵が嬉しい。いつも居眠りばかりだけど、浜名湖の景色やら、名古屋近くの独特の町並みやら名鉄の様子など、それなりに新幹線で好きな車窓はあるのだけれど、今回はコンコンと寝入ってしまい、京都直前でやっと目が覚めたというていたらく。
せっかく明治40年の『東海道線旅行図会』を購ったばかりだというのに、今回の新幹線の東海道移動では品川から京都直前まで睡眠に熱中してしまい、車窓に思いを馳せるということをほとんど出来ず、無念であった。ま、なにはともあれ、無事京都着。
ちなみに、沼波瓊音とおなじように、昭和10年代、明治製菓の宣伝部長、内田誠が菱川師宣の東海道分間絵図に大いに魅せられていたのだった。
東海道分間絵図
奈良、京都への旅行の直前に、偶然、「東海道分間絵図」を見たのだからおかしい。格別珍づらしいものでもあるまいから不思議でもなんでもなからうが、これも何かの因縁のやうな気がした。
元禄三年の刊本で、折本仕立五冊、表紙を紺地に金泥の模様にした美しい本で、最後に「紙御望みの御方は御誂次第何紙にしても仕追上可致候」と記してゐる。近頃一時豪華本など称するものが流行したが、いまだ何紙にしても御誂次第と壮語したものあるを聞かない。如何にも泰平逸楽のさま手に取る如く見えるやうに思ふ。
内容は菱川師宣の筆、地図を絵にかいたやうなもの、「三分、一町之積り」の割であるらしい。
武家町人貴賤貧富通行の情景、閑雅素朴の山河、なまじいな旅行記を読むよりは旅心をそゝること大である。
各巻毎に一、二ケ処は見せ場あり、一巻江戸と近郊、二巻富士山、三巻大井川の渡、五巻近江八景(大津のせいらん。ゑい山ぼせつ。石川秋月。やぼせのきはん。せ田夕照。から崎夜雨。かた田らくがん。三井ばんせう。)がそれなのだ。大津を過ぎ、京に近く、大谷のところには、「此へん池川とて針、仏絵いろいろ有」と書き入れて、道中の塵埃をあびてゐる大津絵の数々をしのばせ、後世の我々を羨ましがらせる。
かういう図会を懐中にして、東海道を旅行するたのしみは、「つばめ」の展望車に、コロナの煙をふかすの比ではあるまい。
大の古書好きだった内田誠の面目躍如たる一文。この内田誠の東海道分間絵図と、わたしの『東海道線旅行図会』に対する思いはまったくおんなじ。これから先、東海道を旅行するたびに内田水中亭よろしく懐中にしのばせたいくらいに、沼波瓊音の肝入りの『東海道線旅行図会』が大のお気に入りなのだった。
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午前9時40分。起き抜けで頭がぼんやりしたまま、新幹線を下車して、近鉄京都線の改札へと向かう。
無事に近鉄京都線のホームに到着。「遷都1300年」の奈良行きの電車が停車するホームは、秋の行楽の人びとで大混雑だった。新幹線での睡眠で頭がぼんやり。ホームのコーヒーショップでエスプレッソをすすって、目を覚ます。
これから乗る午前10時00分発の近鉄京都線の特急電車はすでにホームに停車中。ヴィヴィッドな発色の車体がチャーミング。去年年末の上本町から乗ったビスタカーを思い出す。すばらしき関西私鉄! と車体を目にしたとたんに、目が覚める。
近鉄ホームから、JR京都駅方面をのぞむ。青い青い空の、絵に描いたような秋日和。空を見上げて、正真正銘バッチリ目が覚めた。
近鉄京都線で京都から奈良へ。昭和3年11月開業の奈良電車にのって「モダン関西」をおもう。
『東海道線旅行図会』の明治40年当時、京都から奈良へ向かう電車は奈良鉄道だけだった。田山花袋『日本一周 前編』(博文館、大正3年4月)には、
京都から奈良に行く汽車は、七條から南に向つて走つてゐる。先づ伏見の町を掠めて、伏見、桃山、木幡などといふ停車場を通つて、そして宇治に行つてゐる。
伏見の町は、今、人口三萬以上を算してゐる。電車が京都の東寺前から札ノ辻、稲荷、初世橋、竹田、榛島、丹波橋を経て、小橋の終点まで行つてゐる。賃銭はわづかに七銭である。今では、伏見は殆ど京都市の一部を成してゐると言つても好い位である。
というふうにして、当時の奈良鉄道沿線の遊覧が綴られている。
図録『JR奈良線111年記念 パノラマ地図と鉄道旅行』(宇治市歴史資料館、2007年9月29日発行)。《宇治市域における鉄道の歩みと観光地・宇治の近代を振り返ります。》という趣旨の展覧会。明治から戦前昭和にいたる鉄道旅行にちなむ紙モノと吉田初三郎の紹介、宇治市域を走る奈良鉄道・京阪宇治線・奈良電車について、モダン関西における宇治観光、巻末に大正11年の宇治・京都の地形図……といった内容で、ハテどうだろうと申しこんだ図録であったが、いざ届いてみたら、なかなかの逸品で満足、満足。
と、このたびの奈良電での宇治近郊通過を記念して購ったこの図録によると、明治22年8月、東海道線全通の翌月に京都と奈良を結ぶ奈良鉄道の設立が認可され、京都岡崎で第4回内国勧業博覧会が開催された明治28年に、9月の京都・伏見間を最初に次々に開通してゆき、翌明治29年4月18日に奈良まで開通した。それまで、京都・奈良間は明治23年に乗合馬車が開業し5時間で結んでいたが、奈良鉄道の開通により両者の距離は1時間50分に短縮されたという。明治38年に関西鉄道と合併し、明治40年10月、国有鉄道の奈良線となった。宇治市域の茶園を縦断することで奈良鉄道の買収に手間取ったこと、明治33年には茶園が汽車の煤煙により焼失して賠償問題に発展……といった挿話もここに合わせて紹介されている。《茶園を横切り一直線にすすむ汽車。まさに宇治ならではの光景なのだが、あまり相性が良いとは言えなかったようだ。》。
……などと、取り急ぎ先行の奈良鉄道に思いを馳せたところで、さて、これから乗る電車は、昭和3年11月に開業の「奈良電気鉄道」、通称「奈良電」は、昭和38年10月1日に近鉄に合併されて「近鉄京都線」となった電車。「奈良電車が開業したのは昭和3年11月、折しも御大典の真っ最中。「モダン関西」探索の真似ごとをするたびに、毎回必ず「御大典ブームをとりまく京阪神モダン都市文化の形成」といったことに思いを馳せる機会がある。新京阪の高槻と京都西院間が開通したのも昭和3年11月だった。阪神沿線では「御大典阪神大博覧会」の会場として阪神パークが開業している。奈良電」は、いつも馬鹿の一つ覚えで心ときめかしている「モダン都市とその行楽」の典型なのだった。
電車に乗っての遠足のたびに、その行程や行き先にちなんだ戦前の紙モノをいくつか見繕うのが毎回のお決まり。紙モノからうかびあがる「モダン都市の行楽」「郊外の拡大」といったことに、馬鹿の一つ覚えで夢中なのだった。このたびまっさきに購ったのが、この《奈良電車沿線案内》。
印行年月の記載はないけれども、裏面に「自昭和三年十二月五日 至昭和四年三月末日 大阪(上六)京都間 割引賃金 六拾八銭」という記載があるので、昭和3年11月3日の奈良電車開業当時の発行とわかる。
開業当初の十一月は、ちょうど天皇即位礼と大嘗祭、すなわち昭和の大典期間中で、終了後これらの会場が翌年三月まで一般公開された。全国から京都や桃山御陵・橿原神宮などへの参拝者がおとずれたこともあって、予想以上の乗客を集めた。だが、沿線人口の少なさからその後は乗客が伸びず、「カラ電」と呼ばれたことは今も地元の語り草である。
というくだりが、上掲の宇治市歴史資料館の図録にある。この沿線案内は、大典後の昭和4年3月までの多くの参拝者、すなわち観光客を対象に配布されていたとみてよさそう。
全体を広げると、こんな感じの鳥瞰図が眼前に広がる。左下に作者として「S.UCHIDA」の名が記されている。内田紫鳳の作品。
宇治市歴史資料館の図録には、吉田初三郎による『奈良電気沿線名所図絵』が実物大で紹介されている。おなじく昭和3年の開通時に配布された沿線案内であり、このたび購った内田紫鳳による沿線案内とおなじく、昭和3年年末から翌年3月までの御大典後の沿線を訪れた人びとの多くが手にしていたに違いない。これら1920年代後半の「モダン都市の行楽」にちなむ紙モノを目にしているうちに、京都から奈良までの近鉄京都線での移動がますます待ち遠しくなり、胸が躍ることこの上なかった。
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午前10時00分発、近鉄京都線の特急電車の指定席に乗りこんで、発車を待つ。コーヒーショップでエスプレッソをすすったおかげで、先ほどまでの新幹線での睡眠の余波によるぼんやり状態を脱することができて、すっかり頭がクリアーに。愛用の『日本鉄道旅行地図帳 大阪』(新潮社刊)所載の地図を広げて、虎視眈眈と発車を待つのだった。
上掲の《奈良電車沿線案内》より、京都から伏見を拡大。観光客で満載の近鉄京都線の特急電車の車内では、電車が発車して車窓から東寺が見えたとたんに、どよめきが広がって微笑ましかった。関西の電車に乗ると、車窓から見える山の連なりを見ただけで、いつも心がスーっとなる。
上鳥羽口駅を通過して、鴨川を渡って、次は竹田駅。『日本鉄道旅行地図帳』所載の地図を見ながら電車に乗るときは、いつも川を渡る瞬間がたのしくって仕方がない。竹田駅は、沿線案内にあるように昭和3年11月の開業当時は「城南宮前」という駅名だった(昭和15年4月に「奈良電竹田」、昭和38年10月の近鉄合併時に現在の「竹田」となる)。
この写真は、宇治川を渡る直前に見えた京阪宇治線の高架。近鉄京都線に乗りこんで『日本鉄道旅行地図帳』の地図を眺めて、まず心が躍ったのが、JR奈良線と京阪電車とが並行したり交差したりしているということ。そんなわけで、車窓に京阪やJRの線路が見えてくると、それだけでなんだかとても嬉しかった。
上掲の《奈良電車沿線案内》より、伏見駅から宇治川付近を拡大。桃山御陵前の奈良電車本社と宇治川の鉄橋、というふうに、近代建築的に大興奮ゾーン。そして、中書島で本線と宇治線とに分岐する京阪電車、奈良電と並行している奈良線のサマに感興が湧くのだった。
一方、上掲図録所載の吉田初三郎による『奈良電気沿線名所図絵』より、伏見から宇治川の鉄橋を拡大。こちらでは、堀内駅から宇治川を渡るまでの線路が高架になっていることがリアルに表現されている。宇治川左岸から京都までは計画当初は地上線だったが、監督官庁から参道は通行人が多いからと反対を受け、地元の酒造業界からは地下水が枯れるからと反対を受け、最終的に高架線が採用された……という来歴を知ったあとに眺めると(参考文献:『関西の鉄道 No.44 近畿日本鉄道 特集 Part10 京都線 懐しの奈良電』(関西鉄道研究会、平成15年1月))、初三郎描く高架がひときわ味わい深い。
《奈良電車本社》(竣工:昭和3年10月、設計:増田建築事務所)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。
《澱川橋梁正面(左岸側)》と《完成した澱川橋梁》、奈良電気鉄道株式会社編『奈良電鉄社史』(近畿日本鉄道株式会社、昭和38年12月10日発行)より。
心待ちにしていた宇治川の鉄橋を渡る瞬間は「あっ」という間に終わってしまって、もう一度渡りたい! と悶えてしまったほど。いつの日か、特急ではなくて普通電車で近鉄京都線に乗って、じっくりと澱川橋梁を渡る瞬間を味わってみたいなと思った。
真ん中に木津川を渡る奈良電車、ほぼ並行するように奈良線が走り、大阪からのトンネルを経て弧を描くように関西本線が走る。のどかな盆地の風景。
近鉄京都線は3つの川を渡る。鴨川、宇治川を経て、ここは木津川。
木津川を渡ってすぐの新田辺に近鉄の車庫がある。一見どうってことがないけれども、この車庫は奈良電開通前の昭和3年5月20日竣工のまぎれもない近代建築! 『関西の鉄道 No.44』所載の高山禮蔵「奈良電雑記帳」に、《屋根が半円形なのはかつての京王電鉄井ノ頭線(旧帝都電鉄)永福町車庫の収容庫が有名であったが、現在は他に移転し、バスの車庫に転用されている由。これは昭和8年の建築であり、新田辺車庫の方が5年も早く建っているのが注目される。》というくだりがある。残念ながらその永福町の車庫はすでに取り壊されているようだ。
次の停車駅、西大寺に向かって疾走しているときの車窓。奈良に近づくにつれて、心なしか車窓も「まほろば」感を増しているような気がする。折口信夫を読みたくなってきたなア、などと適当なことを思いながら、ぼんやり眺める。
西大寺の1つ前の駅、平城の奈良県営競輪場を車窓から無事にのぞむとができて、こんなに嬉しいことはない。今日も空にはアドバルン。奈良電沿線で一番たのしみにしていたのは実はこの競輪場かもしれない。西大寺の競輪場といえば、小津安二郎の『小早川家の秋』で長らくわたしのなかでおなじみだった。というわけで、競輪には特に縁のない人生を過ごしている身ではあるけれども、かねて西大寺の競輪場には愛着たっぷり。こんなに嬉しいことはない。
小津安二郎『小早川家の秋』(東宝・昭和36年10月29日封切)より、浪花千栄子と鴈治郎が西大寺の競輪場へゆくシークエンス。京都祇園に住む浪花千栄子と伏見の造り酒屋の鴈治郎。真夏のある日、ふたりは奈良電車にのって競輪場に出かけたに違いないッ。
上掲沿線案内より、西大寺から終点奈良付近を拡大。
西大寺から奈良に向かう途中、新大宮から平城京跡が見えて、一気に奈良気分が盛り上がる。「遷都1300年」、たくさんの人びとが青い空の下、巨大な建物に向かって歩いていた。
午前10時34分、終点奈良駅に到着。たくさんの乗客が一斉に地上に上がったあとの、閑散とした地下のホーム。近鉄奈良線と京都線とが並んで停車中。このあと午後はこの奈良線に乗るのだ。
内田誠に思いを馳せながら、奈良ホテルで閑雅な昼食。初三郎の鳥瞰図に導かれて、奈良駅へ。
たいへん心待ちにしていた奈良電での移動は格別であったなアとハイになって地上に出る。いつもながらに、関西遊覧においては、関西私鉄での単なる「移動」が、戦前の沿線案内を参照しつつの「移動」がたのしくってしかたがない。もはや、行き先よりも移動そのものが遊覧のメインになっているのであったが、さてさて、なにはともあれ無事に奈良に到着。子供時分に一度行ったきりで、東大寺やら興福寺やら鹿やらを見たのは覚えてはいるものの、奈良はほとんど未知の土地なのだった。近鉄奈良駅の改札を出て、地上にあがり、このたびの目的地である奈良ホテルの方向へとテクテク歩いてゆく。
鳥瞰図《奈良》(奈良市観光課発行、昭和8年4月15日)。このたびの関西遊覧にあたって購った戦前の紙モノ・その2。この鳥瞰図をわが奈良歩行の導き手としたい。
外国人の遊覧客のために英語での表記が添えられている。奈良は古代日本を色濃く印象づけるゆえに、今も昔も多くの外国人が観光に訪れる。そのことでかえって、独特のモダンさが醸し出されているような気がする。
このたびの目的地は奈良ホテル。近鉄電車を下車して地上にあがり、まずは猿沢池に向かって、歩いてゆく。土産売場が軒を連ねるアーケードの商店街がどこかひなびていて、なかなか味わい深い。子供時分に奈良を訪れたときに親にねだったものの買ってもらえなかったビニール製の動く鹿のぬいぐるみが、今もなおたくさん売られているではないか……とひとり懐かしむ。
駅前のひなびた商店街を直進して左折。ところどころ古い建物や近代建築が残っているのが嬉しくて、手元の戦前の鳥瞰図の頃からある建物かなあと思いを馳せる。
そして、猿沢池が視界に入ると、絵に描いたような奈良風景が眼前に広がる。
鈴木信太郎『お祭りの太鼓』(朝日新聞社、昭和24年4月25日)の表紙と裏表紙に描かれた《奈良公園 猿沢池》。絵に描いたような奈良風景を鈴木信太郎が絵に描くと、この本の表紙になる。
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ほとんど未知の土地の奈良へこのたび出かけようと思ったのは、近鉄京都線に乗りたいというのもあったけれども、数か月前のとある古書展で入手した奈良ホテルの観光案内がきっかけだった。
《奈良ホテル御案内》(鉄道省直営奈良ホテル発行)。印行年月は明記されていないけれども、戦前であることは確実。観光案内や沿線案内といった戦前の紙ものが体現するところの「モダン都市の行楽」にはいつだって胸躍る。この小冊子の冒頭に、
奈良驛から眞直に公園に入つて、猿澤の池から少し先きの、春日神社の一の鳥居の前を右へ折れると、寶池を隔てゝ美しい宮殿風の建物が見えます。それが奈良ホテルでございます。
と「ホテルの位置」の説明があるので、このとおりに猿沢池を背後に右折して一の鳥居を確認して直進すると、荒池の水面が眼前に開ける。
木立の向こうにうっすらと見える奈良ホテルの建物をのぞんで、うっとり。
上掲の《奈良ホテル観光案内》の表紙を広げる。この写真の中央に写る橋の上あたりで、上の案内板を眺めていたということになる。
奈良ホテルの入口にたどりついた。
見るからにクラシカルな奈良ホテルの建物が視界に入ってきた。
戦前の《奈良ホテル御案内》で見ていた写真とまったくおんなじ風景が眼前に現出して、ますます気が逸るのだった。
戦前の奈良ホテルというと、谷崎潤一郎の『細雪』に悪しざまに描写されているのが強く印象に残っていたものだったけれども、ここ数年は、奈良ホテルというといつもなんとはなしに明治製菓の宣伝部長、内田誠のことを思い出している。昭和16年3月に『遊魚集』を刊行後、内田誠は佐々木茂索、宮田重雄、益田義信と古美術鑑賞のため、奈良・京洛を訪れたのを機に、古美術に夢中になり、その後、関西を頻繁に訪問するようになった。以降、その随筆も『遊魚集』とはがらっと違う古美術を対象としたものが多くなり、明治製菓宣伝部の部下で『遊魚集』の編集を担当した戸板康二を寂しがらせた。戸板青年は、『遊魚集』が体現するところのモダン都市東京が通底している内田誠のディレッタントぶりが大好きだったのだ。
内田誠『いかるがの巣』(石原求龍堂、昭和18年6月20日)。表紙・扉題字:幸田露伴。
「いかるがの巣」は「遊魚集」(小山書店版)に次ぐ内田さんの五冊目の随筆集であります。主に法隆寺・東大寺など古社寺にゆかりのある最近の短章を収めました。なかの写真も御自身で撮られたものです。装釘は豪奢を避け簡素を旨としました。表紙は厚い鳥の子に木版で、胡粉で刷りました。蓋ひの薄紙をとつて、ためつすがめつすると光の加減で鹿の絵が見えたりかくれたりします。時がたつにつれて胡粉は錆び、鹿は自然に浮きだしてきます。矯激な文字に疲れを覚えるこのごろ珍しく閑雅な随筆集です。
と、これは本に挟み込んであった読者カードに記載の出版書肆による文章(全文)。今はすっかり表紙の鹿は浮きだしている。
暮色が天香久山、耳無山に迫つてゐた。新口村のあたりは雪であつた。三輪の里も白かつた。奈良についた時は闇の中に氷雨の音がきこえてきた。
一日中ニュースを聞かなかつた我々は夜のラジオを待ちかねてゐた。奈良ホテルの階段下の人気のない一隅で、我々は刻々に傾きつゝあるマニラの運命を知つた。それは正月二日のことであつた。
三日の朝、部屋のカーテンを開けると、興福寺の塔、若草山のあたりは寒ざむと曇り、窓に近く雪がちらちらと舞つてゐた。食事を済ませ玄関に出た頃は、既にして粉雪がふりしきつてゐた。
遠い薄墨をはいたような山の下、彼方には法隆寺、此方には薬師寺などがあると指さしてゐる耳に階段下のラジオが時ならぬに、ぽんぽん、ぽんと鳴りだしたその音は何か喜びにみちてゐた。
戸外の雪もしんしんと、朝の玄関は塵も立たず静かだつた。
皇軍がマニラを落としたのであつた。マニラが陥落したのであつた。ラジオに拍手し、万歳をさけぶも一人ではもの足りず、昂奮してだれでもよいから手を握りあつて、喜びを分ちたかつたのだが、合ひ憎くあたりには、帳場で熱心に事務をとつてゐる一人の男の外、だれもゐなかつた。……中略……
間のなく雪は小やみとなり、やがてからつとした天気になつてきた。我々は春日神社に詣づるためにホテルをでかけた。
『いかるがの巣』所収の「三日の九時」と題された文章には、太平洋戦争下の当時の情勢と合わせて、昭和17年の正月の奈良ホテルが登場している。
それから、竹中郁が堀辰雄に奈良ホテルをすすめたという挿話も嬉しいかぎり。近畿日本鉄道宣伝課発行の『真珠』で、竹中郁と足立巻一の対談に以下のくだりがある。
足立 奈良ホテルはどうです? 堀辰雄が奈良へ来たときはあそこに泊っていますが、お会いになりましたか?
竹中 いや、しかし堀君に奈良ホテルをすすめたのはぼくのような気がする。あの天平ふうを加味したところはいい意味でハイカラで、よくある植民地ふうの和洋混淆より上等だ。それというのも天平文化が本質的に西洋くさいものだからと思うよ。それに設備があまり能率的でなくできているところもいい。
そんなこんなで、内田水中亭と竹中郁に思いをはせつつ、奈良ホテルへと足を踏み入れる。
昼食の時間までまだしばらく間がある。ゆるりとホテル散策をすべく、資料室があるという2階へと歩を進める。シンと静まりかえる室内。
資料室を見学して、そこに展示のあった数々の紙モノを目にして、古書展での蒐集を夢見つつ、ふたたび廊下に出る。窓から外を見ると、先ほどから見上げていた建物の新たな視覚を得ることができて、目にたのしい。
廊下を歩くだけで、滞在客の気分を味わって、悦に入る。上掲の戦前の《奈良ホテル御案内》に「眺望の美と閑静なる境域」というサブタイトルのもと、
何と申しましても奈良ホテルが第一の特長と致しますところは、俗塵を離れた、閑静にして頗る眺望の優れた境域を占めて居る点でありまして、ヴエランダの椅子に腰を降し、或は客室の窓に倚つて春日山や若草山を背景とした奈良公園の翠緑に対しますと、心身ともに清雅な自然の美と静けさに溶けゆくでありませうし、月明の夜、遠近に鳴く鹿の声が聞える時など一層の静寂を感ぜられる事でありませう。
というふうに紹介がされているけれども、まさにその通り、廊下を歩いているだけで「眺望の美と閑静なる境域」なのだった。
上掲《奈良ホテル御案内》に掲載の客室写真を眺めて、内田水中亭の奈良滞在に思いを馳せる。「都会生活の方々に」として、
日々黄塵万丈の都会生活をせられつゝある方々にとりまして、心身の御休養、御気晴らしの為めに、週末の一両日を割いて、塵煙を断つた静寂の地に、自然を楽しまれることは、極めて緊要のことでございますが、其の御安息の場所として、奈良ホテルは何時でも、平和と静穏を保つて御待ち受け致して居ります。
という旨招待がある。内田誠もまさしくこんな感じに奈良ホテルでくつろいでいたのだろうなあと思う。
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廊下を歩いているだけで滞在客気分を味わっていい気持ちになり、窓からのあちこちの眺望を満喫しているうちに、すっかり「眺望の美と閑静なる境域」に陶然なのだった。
などと、内田誠気分にひたっていい気持になっていたところで、階段の吹き抜けのところに到着。ソファに座って、休息。
壁には絵画が陳列されている。吉田初三郎の奈良鳥瞰図の原画が展示されている!
額の表面にラベルで場所が表示してある。これまで歩いてきた、猿沢池、一の鳥居、荒池、そして奈良ホテル。
奈良線の奈良駅の建物(竣工:昭和8年12月)が描かれているので、昭和9年以降の鳥瞰図ということになる。初三郎の鳥瞰図に描かれた奈良駅を見て、モクモクと奈良駅の見物に行きたくなったところで、昼食の時間。予約している1階の「メインダイニングルーム『三笠』」へと向かう。
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昼間っからワインを飲んで、サンルームからの眺望と閑雅な昼食を満喫したところで、ふたたび外に出る。
廊下を歩いたり、窓からの景色を眺めたり、ロビーのソファに座ったり、壁面の吉田初三郎の鳥瞰図を眺め、そしてレストランでのひととき。ごく短時間の滞在だったけれども、奈良ホテルでの非日常のひとときはたいそうすばらしいことであった。鹿の脇を通って、その糞を踏みながら、入口近くの高台からホテルをのぞんで、奈良ホテルを見納め。
ホテル前から、12時55分発のバスにのって、JR奈良駅へと向かう。先ほど歩いた道を今度はバスの車窓から見下ろす。はとバス気分で奈良市街を満喫。バスの車窓から、猿沢池とは逆の方向から五重塔が見えて、その前には公園の景色が広がり、鹿が思い思いにくつろいでいる。そんな絵に描いたような奈良風景が嬉しい。
『ホームライフ』第4巻第5号(昭和13年5月1日発行)。表紙:鈴木信太郎。絵に描いたような奈良風景を絵に描いた鈴木信太郎。内田誠とともに奈良というと思いだすのは鈴木信太郎だ。
奈良ホテルの壁面の吉田初三郎描く奈良市鳥瞰図に思いを馳せながら、バスは奈良駅へと向かい、あっという間にバスは奈良駅前に到着。
バス停の正面には、吉田初三郎の鳥瞰図そのまんまの奈良駅の建物が! と興奮のあまり、つい小走り。
奈良ホテル同様に、和洋折衷の独特の建築に興味津々。
全体的は和洋折衷でありながらも、細部の意匠はなかなかモダンだったりもする。現在の奈良駅の駅舎は隣りにあり、かつての奈良駅は観光案内所として保存されている。建物のなかに入り、高い天井を見上げる。窓から見る空が美しい。
《鉄道省奈良駅》、『工事画報 昭和十年版』(株式会社大林組、昭和10年9月20日発行)より。
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奈良駅を思う存分満喫したところで、先ほど下車した近鉄奈良駅に向かってテクテク歩く。ほんの少しの奈良訪問ではあったけれども、いかにもな奈良風景のまっただ中にいるだけで、絶好の気晴らし、ずいぶん和んだ秋日和のひとときだった。
編集工房ノアの『海鳴り 21』(2009年6月1日発行)を、去年8月と12月に三月書房を訪れた折に2回続けて頂戴していて、そのあとはいずれも新京極のスタンドでいい気分で繰っていたものだった。その二度にわたるスタンドでの『海鳴り 21』にて、庄野至さんの「夜行列車と蜜柑」を読んだ。庄野至さんの文章を通して二度にわたってうっすらと奈良散策への憧れが喚起されたところで、今年2010年になった次第だった。
庄野至の「夜行列車と蜜柑」は奈良散策が情景として織りこまれている。その書き出しは、
私たち夫婦が奈良に出かけたのは、二月の風のない、暖かい日だった。
これといって目的がある訳ではないが、あまりにも天気がいいので、好きな奈良にでも行って少し歩きたくなった。近鉄奈良駅に着いたら、もう十二時過ぎ。
「今日は、どの辺りを歩こうか」
「新薬師寺にでもする?」と妻が。
「それなら、破石の蕎麦屋に寄ろう」
このあと、新薬師寺に近い破石というバス停留所、その前にある「観」という古い蕎麦屋、寺の帰りに寄る高畑の旧志賀直哉邸横の「ガーデン喫茶店」へと夫妻は移動してゆく。そして、喫茶店での語らいの場面となる。
喫茶店のご主人の父君は、昭和初期、大阪の株屋だったそう。気分は一気に横光利一の『家族会議』(佐野繁次郎の挿絵)なのだったが、父君は奈良の上高畑の住宅地が気に入って、玉出から引っ越してきたのだという。と、ここで、土地不案内のわたしは地図で「玉出」の位置を確認する。あっ、帝塚山近くの阪堺線のあたりだと、去年2月の関西遊覧の折の南海電車と阪堺線に乗った日のことを懐かしく思い出す。そして、庄野至の掌編に登場する喫茶店の父君が奈良に移住してきた昭和初期という時代に思いを馳せる。モダン都市の周縁、郊外住宅地の拡大の典型がここにある。
喫茶店のご主人との語らいのなかで、著者の昭和二十年代の著者が語られてゆく。「奈良」が通過点として登場する。
「私が会社に入って間もない頃でした。昭和二十年代の終わりです。初めての東京出張の帰りのことです。その時代、たしか急行大和といって東京を夜十一時発の夜行列車で、名古屋までは東海道線を走り、名古屋から関西本線になって四日市や亀山、そして奈良を通り最後は大阪の湊町に到着する列車があったんです。二月の終わり頃だったと思います。私は一人で東京駅からその夜行列車に乗ったんです」
と、この「眠っていても明日の朝には天王寺に着く」夜行列車でのボックスシートにおける、東京から大阪に帰る語り手と静岡から奈良へ向かう少女とのひとときの会話がとても素敵なのだった。
この掌編の庄野至さんのように、《これといって目的がある訳ではないが、あまりにも天気がいいので、好きな奈良にでも行って少し歩きたくなった》というふうにして、大阪や京都を起点にしつつも、ちょいと足を伸ばすというふうにして、近鉄電車に乗って、少しずつ奈良を歩いてみるということを今後続けていきたいな思った。そして、大正から昭和初期にかけての「モダン関西」探索を徐々に深めていければと思う。このたびの秋日和の奈良ホテルはその絶好の前奏になった気がする。
ふたたび西大寺を通過して『小早川家の秋』をおもう。生駒ケーブルにのって、生駒山上へ。
奈良ホテルでの閑雅な昼食のあとの午後は生駒山ピクニックという計画。
《大軌参急沿線案内》、このたびの関西遊覧を記念して購った紙もの・その3。関西遊覧の一番のたのしみは、関西私鉄で京阪神と奈良を移動することにあるといっても過言でない。わたしの近鉄乗車は、去年の年末に上本町からビスタカーにのって橿原神宮へ出かけたのをきっかけにはじまった。これから少しずつ、「モダン関西」における近鉄沿線を追究したいのだった。
【「日用帳」関連記事 →去年12月の関西遊覧での近鉄電車:id:foujita:20091230#p4】
大阪、京都、奈良、三重を「大軌」傘下の路線が、まさに網の目のように張り巡らされている。山の間を線路が敷設され、いくつものトンネルを通過する。明治43年設立の「大阪軌道鉄道」は、昭和19年6月に現在の「近畿日本鉄道」となった。
そんなこんなで、「奈良電」の近鉄京都線のあと、午後は「大軌」の近鉄奈良線だ! と張り切って乗りこんで、電車は奈良駅を出発。目的地は生駒山。奈良と大阪の県境の生駒山のてっぺんには飛行塔。このあと、ケーブルカーにのってこの飛行塔の真下へゆくのだ。
電車が西大寺に近づいたところで、こうしてはいられないと立ち上がって、先頭車両から窓を凝視。京都線と奈良線と橿原線が分岐する大和西大寺駅の線路が思っていた以上に目にたのしくて、ワオ! と大興奮の瞬間。
と、ここでふたたび、小津安二郎『小早川家の秋』(昭和36年10月29日封切)より、鴈治郎と浪花千栄子が西大寺の競輪場へゆくシークエンスを思い起こしてみる。伏見の造り酒屋の主人・鴈治郎と京都の女・浪花千栄子はおそらく奈良電にのって西大寺の競輪場へ行ったのだろう。
このあと、暑いなか出かけたというのに競輪はハズレ、気晴らしに大阪にでも行こうかというようなことを鴈治郎は言う。結局鴈治郎の体調が思わしくなく、京都に戻ったということがあとで判明するのだが、なるほど、西大寺は京都へも大阪へもどちらへゆくにも好立地なのだなあと、ただそれだけのことが、土地不案内の身にとっては、実際に出かけてみるとイキイキと実感できて、小津安二郎唯一の関西映画であるところの『小早川家の秋』のリアリティがいいな、いいなと思った。伏見の造り酒屋の末娘・司葉子は大阪城の見えるオフィスに勤めている。京阪電車通勤生活、かな。
電車が西大寺を発車したところで、ふたたび先頭車両から虎視眈眈と様子をうかがっていたら、近鉄奈良線と近鉄京都線の分岐点を目の当たりにして、ふたたびワオ! と大興奮。それぞれの線路から、それぞれの電車がこちらに向かって走っている!
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奈良駅では閑散としていた車内は西大寺で急に混雑。昭和初期、遊園地や温泉のみならず、市川右太衛門プロダクションの撮影所のあったあやめ池を通り過ぎて、電車は生駒駅に到着。上掲の戦前昭和の《大軌参急沿線案内》の裏面に記載の観光案内の「生駒山」の項は、
大阪府と奈良県との分水嶺で、西麓は神武天皇御東征の古戦場。山腹には霊験を以て聞えた聖天さんが鎮座ましまし、畿内の霊峰とされてゐる。
山上には海抜六百四十二米、広さ三十万坪、十一ケ国を展望し得る遊園地で大飛行塔、ベルグ・ハウス、航空灯台、最新の運動具、無料休憩所があり、その間に縦横に遊歩道が開けてゐて、理想的な高原の楽園である。市内は三十度以上の炎暑に喘ぐ盛夏でも、この山上は廿五度内外の暑さ知らずでテント村も開設される。
山上から仕貴山、又は高安山に至る約九粁の縦走路は、大和河内を脚下から見る壮快なハイキング・コースである。
というふうに紹介されている。生駒はあやめ池と同じく、大軌、すなわち戦前の近鉄沿線における「モダン関西の行楽」の典型だった。さあ、生駒の「モダン関西」探索だ! とつい駆け足になって改札を出て、生駒ケーブルの乗場に向かって、小走り。
《奈良・あやめ池・生駒山》(大軌参急電鉄発行)。上がモダンガールと鹿、まん中が女学生とあやめ池遊園地の観覧車、下が生駒山上の飛行塔。A3強のサイズの一枚紙を折りたたんだリーフレットを開くと、一面全体が奈良、その裏面の上半分があやめ池で下半分が生駒山上の紹介、というふうになっている。今はなき、あやめ池遊園地の詳細がわかって、たいへん興味深い。
戦前の観光リーフレットを参照しながら、「モダン関西の行楽」探索をするのは格別だ。このリーフレットを開くと、生駒山上でピクニックをたのしむモダンガールたち。草の上のモダンガールの向こう側にはバンガローやテント村といったキャンプ施設が見え、そのさらに向こうには生駒山上のシンボルの飛行塔。この写真の下には、
二千五百年の日本歴史をその懐に育んだと云ふ山。大阪の山と云ふ感じの最も深い峯通り……。
それが生駒山である。続いて生駒と云えば聖天とトンネルが連想され、天幕村とベルグハウスが……。夏と生駒……。
生駒の景観はその山頂の展望だ。奈良一帯の古都がすぐそこに眠つてゐる。木津、宇治、桂の三川合流点から、山崎、男山の隘路が見下ろされる。天気のよい日は遠く京洛の巷。淀川の流域を引いて遠く煙る大阪の市中。飛んで六甲の山々。更に遠く紀和山脈の連亘。葛城、金剛、二上の山々と、殆ど近畿のすべてが、眼下に集る。やがて夜ともなり、航空標識灯がその閃光を四方に投げかける頃、奈良三條通の灯火が一線を引き、遥に京の街も明るんで、脚下には大阪の大都市が間近にルビーとまたゝくネオンの光をちりばめ星をバラまいたやうに点滅を見せる。遠く神戸の街は暗黒の海に映え輝いて見える。
春 風 に 生 駒 の 山 の 峯 は れ て
へ だ て ぬ 雲 や 桜 な る ら ん 法印定為
生 駒 山 か げ ま だ 峰 に 別 れ ぬ を
浪 華 の 海 は 月 に な り け り 上田秋成
というふうな文章が添えらている。生駒山を中心に語られる関西地勢が、大軌の宣伝部の文案家によってイキイキと綴られているのを目の当たりにすることで、現在の観光への思いをも喚起される。愉しきかな。
同じく、大軌発行の観光リーフレット《生駒山上御案内》を広げると、草の上のモダンガールたちの座っていた位置を俯瞰するような構図になっている。奈良から急行15分(上本町からは20分)、生駒で下車してケーブルカーにのって15分で生駒山上。山のてっぺんには飛行塔があり、山の斜面の広大な敷地に、テント村、サンマ―ハウス、バンガローの設備がある。
さらに大阪毎日新聞社による、生駒山の俯瞰写真、《生駒山遊園地》、『西日本現代風景』(「大阪毎日新聞」附録、昭和6年9月5日発行)より。《大軌電車が経営して、海抜六四二メートルの山麓からケーブルカーを通じこゝに飛行塔、サンマ―ハウス、ローラースケート場などを作り数万本の桜樹を植栽した》とある。
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去年8月に深い考えもなくその場の思いつきで乗った叡山ケーブルにたいへん感激してからというもの(当時の「日用帳」:id:foujita:20090815#p2)、関西のケーブルカーにもう夢中、関西遊覧の大きなたのしみになっている。町中からすぐに山の麓まで行けて、山上ハイキングをたのしめるという山に囲まれた関西ならではの都市構造が、関東の人間にとってはしみじみおもしろいのだった。このたびの生駒ケーブルは、去年12月の極寒の六甲ケーブルに引き続いて(当時の「日用帳」:id:foujita:20091229#p3)、三度目のケーブルカーとなる。
前々から六甲ケーブルの次は生駒ケーブルと心に決めていたので、上掲のとおりに、手元には戦前の紙ものがだいぶ溜まってきていて、準備はバッチリ。乗る前から乗った気になってしまいそうな勢いであったが、六甲ケーブルから数カ月を経て、本日の秋日和、ケーブルカーに乗るのにもっともふさわしい天候だ! そんなこんなで、近鉄奈良線を生駒で下車して、ケーブルカーの乗場へ小走り。
生駒ケーブルは、大正7年8月29日開業。大正11年1月25日に大阪電気軌道の経営下に入り、以後、行楽地として開発され、ここに典型的「モダン関西の行楽」が展開してゆくこととなる。生駒山上遊園地の開業は、昭和4年3月。
本線は大正十一年一月生駒鋼索鉄道より譲受後同年八月十四日其の終点宝山寺より延長して生駒山嶺に至る五十鎖の単線電気鋼索鉄道敷設免許を申請し、同十三年二月二日に至り免許されたのである。
と、この一節は『大阪電気軌道株式会社三十年史』(昭和15年12月刊)にある。『大正期鉄道史資料 第2期 第11巻 大阪電気鉄道三十年史』(日本経済評論社、1992年9月20日)に翻刻されている本書が、このたびの生駒ピクニックの参考書。
大正7年の生駒山ケーブルの開業時は、鳥居前から宝山寺の一駅だけだった。ケーブルカーが生駒山上まで延長したのは昭和4年3月27日、生駒山上遊園地の開業と時を同じくしている。その名残りで、山頂まで行くためにはいったん宝山寺で下車して、乗り換えねばならない。ウムなるほどと、まずは鳥居前から宝山寺までのケーブルカーに乗りこむのだった。
午後2時00分、鳥居前をケーブルカーが出発。線路が徐々に傾斜を強めてゆく斜面を見下ろすのはいつもたのしい。下山する犬の形をしたケーブルカーとすれ違った直後の写真。
先ほどすれ違った下山中のケーブルカーはすっかりはるか麓へと行ってしまった。線路の形が感興たっぷり。この線路については、『大阪電気軌道株式会社三十年史』に、
此の延長戦の竣功と同時に当社が豫ねて造成中の生駒山上遊園地が完成したので、両者相俟つて、多くの乗客を迎ふることゝなつた。
また是れより先鋼索線鳥居前、宝山寺間の単線を複線に変更することゝなり、大正十三年九月九日施工認可を受け同十四年十二月工事に着手し、翌年十二月下旬竣功した。それで同月三十日運転を開始して、生駒聖天参詣の為益々増加する乗客に備へたのである。
とある。つまり、これは、生駒山上遊園地の竣工に先立って、昭和への改元とほぼ同時に複線化した線路なのだった。ちなみに同年の、大正15年8月には上本町に大軌ビルヂングが竣工していて、また6月にはあやめ池遊園地が開園している。破竹の勢いの大軌の「モダン関西」。
鳥居前から5分、ケーブルカーは宝山寺駅にあっという間に到着。下車したあとの急勾配の階段がいつも嬉しい。
山上行きのケーブルは4分後に出発の次の電車ではなくて、その次の20分後の電車に乗ることにして、いったん外に出て、駅舎のあちらこちらを観察。宝山寺の時点ですでに絶景かな、絶景かな、なのだった(高低差は146メートル)。古びた駅の屋根が嬉しい。
近鉄生駒ケーブルは、開業の生駒鋼索鉄道により大正7年8月29日に鳥居前・宝山寺間にて開設されたことを発祥とする。生駒鋼索鉄道の役員は創立当初から大軌役員の大部分が兼務しており、大正11年1月に合併に至った。
同線は既記の如く大正二年九月十九日現在の鳥居前宝山寺間に鋼索鉄道を敷設する免許を得て居たが、愈々其の機熟して大正三年七月十日生駒鋼索鉄道株式会社として創立せられたのである。然しながら当時に於ては我国は勿論東洋に於てもケーブルカーなるものは香港に唯一ケ所あつたのみで、之に関する設計資料などは勿論文献も殆んどない有様であつたので之が計画実施には非常な苦心を払ひ、独得の考案を以て我国最初のケーブルカーを完成したのである。我国開国以来殆んど総ての文明の利器が輸入品を以て充てられた中にあつてケーブルカーに限つて、其の最初のものが全く独自の設計製作によつて生れたといふことは、斯界のため万丈の気を吐くものといつてよからう。
さらに、鳥居前・宝山寺間は日本最古のケーブルカーなのだった。宝山寺駅の細部の意匠は、大正7年の開業時のものなのかなと、あちらこちら観察をたのしむ。
《開通当時の生駒鋼索鉄道ケーブルカー》、『近畿日本鉄道50年のあゆみ』(近畿日本鉄道株式会社、昭和35年9月16日)より。
大正7年8月に開業の日本最古のケーブル、鳥居前・宝山寺間の「宝山寺線」の次は、昭和4年3月に生駒山上遊園地の開業と同時に開通した、宝山寺・生駒山上間の「山上線」。鉄道会社による「モダン都市の行楽」の典型の生駒山上遊園地は今も「スカイランドいこま」の名で健在。鉄道会社の経営による古き遊園地が大好きだ。山上線を目の当たりにして、さらにハイになる。
午後2時29分、宝山寺を出発して、次の駅は梅屋敷。しばしトンネルを通過する。
いよいよ、生駒山上はすぐそこ。
午後2時36分、念願の生駒山上に到着。青い青い空の下、飛行塔がグルグルまわってい る! わーいわーいと、生駒山上遊園地に向かって、小走り。
生駒山上遊園地の飛行塔。上空から関西をのぞむ。生駒山上の鉄塔群と旧天文台。
奈良から近鉄電車にのって、京都線との分岐点である西大寺で興奮したりして、大阪との県境となる生駒山の手前に位置する生駒で下車して、生駒ケーブルにのって、午後3時前、山上に到着した。
前掲の《大軌参急沿線案内》より、生駒山附近を拡大。生駒山の下を長いトンネルが貫通している。現在の近鉄奈良線は、大正3年7月に開通している。大阪と奈良を最短距離で結ぶためにはどうしても生駒トンネルを掘る必要があった。明治44年6月に着手された工事の難事業については、近鉄の社史に詳しい。昭和39年7月にルート変更されるまで、生駒と石切の間に「鷲尾」という駅があった。そして、生駒山の斜面に沿ってケーブルカーが敷設され、そのてっぺんには飛行塔がグルグルまわっている!
『旅』第10巻第11号(昭和8年11月1日発行)に掲載の、村上昭房「スタムプの旅 大軌・参宮電車の巻」より。上の生駒駅のスタンプにはトンネルとケーブルカーと遠くに見える飛行塔が、下の生駒山上駅のスタンプにはケーブルカーと間近に見える回転中の飛行塔が描かれていて、なんともチャーミング! 生駒トンネルが完成して、大正3年7月に大阪・奈良間が晴れて開通し、大軌における「モダン関西」の拡大、すなわち「郊外」の開発や「行楽」の建設といった事業が展開してゆくこととなったのだ。昭和4年3月の生駒山上遊園地のチャーミングな飛行塔は、大軌すなわち近鉄における「モダン関西」の絶好のシンボルといえそう! と、馬鹿の一つ覚えの「モダン都市の行楽」に夢中になるあまりに飛行塔を思うとそれだけで胸が躍ってしまい、行く前から大はしゃぎしていたものだった。
ケーブルカーを下車して生駒山上に到着、改札をでるとそこは「スカイランドいこま」、すなわち生駒山上遊園地。鳥居前での看板の印象、ケーブルカーの閑散とした車内とは裏腹に、いざたどりついてみたら、いかにも近所の家族連れといった行楽客が気ままにくつろいでいて、のんびりと賑わっている。古きよき遊園地の典型がそこにあった。
飛行塔に向かって、わーいわーいと駈け出してゆくその前に、遊園地の入口附近に位置するかつての生駒山宇宙科学博物館(1999年に閉館)の建物は吉阪隆正の設計(昭和44年)。吉阪はアテネ・フランセでおなじみの建築家。
そして、満を持してという感じに、飛行塔に向かって歩を進める。昭和4年3月の開業以来、飛行塔は今も現役。極上の「モダン関西」資料なのだった。
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昭和4年3月開業の生駒山上遊園地の大飛行塔は、日本にある最古の遊戯機械であるという。この飛行塔に関しては、とびきりの名著、中藤保則著『遊園地の文化史』(自由現代社、昭和59年9月)の「第二章 大型遊戯機械の父 土井万蔵氏」に詳述されている。
生駒山の開山自体が、大飛行塔の完成と時を同じくしたのだから、工事には大変な労力と苦労が必要だった。山麓の石切から強力がすべて資材を肩にかついであがったという。この飛行塔は構造そのものもきわめてユニークな特色をもっていた。上部はエレベーターであがる展望台になっているのである。その頂上から4本のアークがのび、定員12名の飛行機が4機吊り下げられている。発注は大軌電気鉄道(株)(現在の近畿日本鉄道(株))。生駒山上に高さ40メートル、直径20メートルの偉容をあらわした時は、ちょっとしたセンセーションをまきおこしたに違いない。
鉄骨部分は松尾橋梁、エレベーターは日立製作所が分担したが、飛行塔の製作は土井万蔵氏の(株)土井文化運動機製作所が請け負い、《当時名を高めつつあった“土井の飛行塔”の精華ともいうべきものである。》
《建設中の飛行塔》、中藤保則著『遊園地の文化史』、「第二章 大型遊戯機械の父 土井万蔵氏」に掲載の写真。《張り出したアームの上に、人間が4人乗っている。鳶職と思われるが、工事の雰囲気が伝わってくるような貴重な写真である。》と著者の中藤氏は紹介している。
そして、隣りのページに掲載の写真、《完成した大飛行塔 昭和4年3月》。著者も注目しているとおり、「森永ミルクキャラメル」の広告にワオ!
同書によると、土井万蔵氏は大正半ばより大型遊戯機械の製作を手がけるようになり、大正7年の東京電気協会主催の「東京電気博」にサークリングウェーブを出品したのを皮切りに、大正9年に京阪電鉄千里山山頂に設置された飛行塔が最初の大型遊戯機械だった。その後、各地の遊園地に遊戯を設置し、あちこちの博覧会に出展を重ねて、昭和4年の生駒山頂大飛行塔へと至った。土井万蔵氏による大型遊戯機械の多くは現在はほとんど失われているけれども、今も生駒山頂に飛行塔が健在であることのすばらしさ! 戦前のモダン都市を取りまく紙もの資料でおなじみの飛行塔を今も見られることのすばらしさ!
「モダン都市」時代の一側面として、各地の博覧会や遊園地の存在がある。鉄道会社をはじめとする、多くの企業や実業家が関係して、それぞれの利害が形成されて誕生した、モダン都市の「装置」に興味津々なのだった。たとえば、開業当時、生駒山頂の大飛行塔には「森永ミルクキャラメル」の広告がほどこされることで、その広告費が遊園地の財源の一部になっていた。そんな近代日本の産業の連関に目がはなせない。
絵葉書《躍進日本大博覧會子供の國》。飛行塔のみならず、博覧会に設置された物体のすべてに森永製菓の広告がほどこされている。中藤氏の『遊園地の文化史』に掲載の生駒山頂の大飛行塔の「森永ミルクキャメル」の写真を見て、かねてより私蔵していたこの絵葉書を思い出した。
現在の大飛行塔には森永製菓の広告は設置されていない。遊園地の案内板には、アサヒビールとコカコーラの広告。
飛行塔の入口。乗車券は500円。奥の三角屋根の売場へ乗り物のチケットを買いにゆく。
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そして、まっさきに飛行塔に乗り込んだ、と言いたいところだったけど、「空中ダンボ」にたいへん惹かれるものがあり、まずはこちらに乗って、のんびり空中遊覧をしてみたいと思った。ダンボは400円、500円の飛行塔と合わせて、計900円のチケットを買う。
わーいわーいと、レールの上を移動するダンボの下に吊られた観覧車のような車で空中を移動する装置、に乗りこむ。ギコギコと古びたレールの下を古びた車体がゆるやかに移動する。と、発車したとたん、窓からは先ほど眺めていた、遊園地の入口にある宇宙科学博物館の建物が見える、屋根はあんなふうになっていたのだなあとはしゃぐ。
時折風に揺られる車体にそこはかとなく恐怖心をおぼえつつも、素晴らしすぎる絶景に心が震える。風が吹くたびに身体も震える。
やがて、視界には大阪湾の水面が! 海面がキラキラ輝いている。それにしても、なんて素晴らしいのだろう! 気分はすっかり空中遊泳。
眼を遠く放つと、前方は生駒に限られてゐるが、その左の方は、緩やかな山や丘が濃藍に煙つて、その間の平地から、淀川が二、三度屈曲して。ゆるりと流れてゐるのが見える。京都は、もとより雲霧に包まれて望めない。晴れても見えないだらう。――近畿の平野は、思ひの外に廣くない。たゞ水田が多いのが、豊饒な感じを与へる。
機はその水田に蜻蛉のやうな影を落として、一気に生駒の右肩をめがけた。
生駒はなかなか馬鹿に出来ない山だ。大軌の線路が、山麓の彼方で、フッと消えてゐる。あの長いトンネルに入つたのだらう。吾らも初めての山を、上げ舵を取つて飛んだ。
右手には、河内の山続き、高野の方まで藍鼠の山波が見える。ふと気付くと、見送りのブレゲー機がその藍鼠の山波の上を濃鉛色の翼を伸べて、ほど近く雁行してゐる。が、暫らくすると、だんだん遅れて見えなくなつてしまつた。
生駒ほどの山でも、山にかゝると機体に鳥渡揺れが来る。少くとも来るやうな気がする。山の形なりに風が吹くからださうだ。僅かだが、前進してゐる機が、時々スッスッと落される。ランチに乗つて、波を越える時位の感じだ。――最初のこの上下動に接して、私も少し気持がよくなかつた。が、生駒は無事に裏へ越えた。聖天様を祀つた中腹と、ケーブル・カアの上り路とが、左りに斜走して見える。大軌の線路が、その下あたりから、又電柱の毛を植ゑて続く。
いよいよ大和平原だ。春ならば菜種咲く、慕はしの大和平野だ。今は矢張り緑一帯。
奈良が思ひ做しか、古色を帯びて見える。……
と、これは久米正雄が大阪から朝日新聞社の飛行機にのって、東京朝日の「ドイツ船のやうな」建物の上を一旋回したりしつつ、立川の飛行場に到着した日のことを綴った空中遊覧日記(初出誌を見たい!)。生駒山頂のダンボの下をギコギコと移動しながらの関西の絶景は、まさにちょっとした空中散歩だった。
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ふだんはまったく食べないのに、遊園地に来ると、なぜかむしょうにソフトクリームが食べたくなる。ベンチに座ってペロリと、チョコレイトとバニラのツートンカラーのソフトクリーム(250円)でのどをうるおしたところで、さア、いよいよ大飛行塔へ!
飛行塔の入口の係員待機スペース。飛行塔と同じく昭和4年当時からあったに違いない。ほどこされた補修が味わい深い。映画館の切符売場のような小窓がふさがれていて、左の窓が現在使用中。三色に塗られた建造物はかつては石造りの灰色をしていたのかな。
大飛行塔の本体は昭和4年当時のものが現役だけれど、車体の方がさすがに新しくなっている。下部に「SKYLAND IKOMA」と印字されている。
飛行塔に乗りこんだ直後の写真。先ほど楽しんでいたダンボがすぐそこに見える。
鉄塔のまわりを車体がクルクル回りつつ、徐々に速度を速めて、徐々に高度を増してゆく。あっという間に、先ほどのダンボのはるか上方に来ていることに気づく。
絶景かな、絶景かなと、馬鹿の一つ覚え状態で大喜び……と言いたいところであったが、ギコギコと鈍い音が塔の周りに響き渡り、高度と速度を増すばかりでなく、次第に傾斜を強めてゆく車体。その車体には強風が容赦なく吹きつけ、さらに揺れを激しくさせる。恐怖心におののいているうちに、絶景なのはもうわかったから、早く地面に戻りたいと、そんなことばかり思っているのだった。無念。
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ふたたび無事に地面に戻ることができて、こんなに嬉しいことはなかった。気を取り直して、遊園地の外へと散歩する。飛行塔に勝るとも劣らないくらい、たのしみにしていた鉄塔見物へと歩を進める。
《寒冷線上のテレビ塔群》、カメラ:入江泰吉、季刊『真珠』第35号(近畿日本鉄道宣伝課、昭和35年7月1日)に掲載のグラビア。《寒冷線生駒山は、海抜642メートル。山上には左からNHK、NHK教育、毎日、関西、朝日、読売の6本のテレビ塔が聳え、中央にあかるく輝いているのが、生駒山のシンボルの東洋一の飛行塔。左手の山を縫って見えがくれしているのが、大阪、奈良を結ぶドライブウェイです。》
テレビ塔のグラビアのある『真珠』第35号の表紙画は石川滋彦によるもので、大阪と名古屋を結ぶビスタカーが桑名の水郷を通過するところをスケッチしたもの。
去年12月末、上本町からビスタカーに乗って橿原神宮へ行ったときのよろこびは今でもとっても鮮烈。上本町を出発して、さっそく感激だったのが生駒山の鉄塔郡だった。低山の連なりに向かうようにしてなだらかに走り、布施で線路は二又に分かれて、ビスタカーは生駒山からどんどん遠ざかってゆく。やがて鉄塔が視界から消える。この一連の車窓がいつまでも忘れられないものがあって、いつかあの鉄塔の真下に行ってみたいなと思ったものだった。いよいよ今日、その夢が叶うのだ。
と、胸を熱くしながら、青い空の下、そびえたつ鉄塔を見上げる。アホみたいにいつまでも見上げる。
林立する鉄塔の前には「abc ch6」や「朝日放送生駒送信所」といったプレートがある。フムフムと次から次へと歩を進めては、振り返ったりする。
このあたりは登山コースの砂利道になっているけれども、通行人はほとんど見られず、いたって静かな昼下がりだった。遊園地の喧噪のあとではなおのこと。
ジャリジャリと歩いて視界から鉄塔が消えた頃、かつての「生駒山天文博物館」の建物が眼前にあらわれる。右が博物館で、左が戦前からある京都大学天文台。
《生駒山上》、近畿日本鉄道発行のパンフレットの表紙に写る「生駒山天文博物館」は昭和26年7月7日の開館。京都大学天文台に隣接していた航空道場の建物を転用したという。戦後の復興のシンボル的存在だったのかも。《飛行塔から稜線を南へ約300m、京都大学天文台に接して最近開設されました。天文学の初歩を非常にわかりやすく理解出来るとともに、特種の題目についての研究指導も受けられる「僕らの科学教室」です。》
とりわけ、旧京大太陽観測所の建物が実に味わい深いのであった。
旧天文博物館の建物の前でぐるっと右折して、遊園地の方角へと戻る。いつのまにか車道に出ていて、新鮮な気分でふたたび遊園地の敷地へと入る。
昭和14年4月に開業の「生駒山観光ホテル」のパンフレット。テレビ塔、旧天文博物館をめぐって、裏口から遊園地の四季に入ったとき、ふとこのパンフレットの表紙に描かれている絵を思い出した。
当社は生駒山上に疾く遊園地を造成したが、最近に於ては山上及び附近に既記の如く当社をはじめ各方面の新施設が続々実現するに伴ひ登山客の一層増加を見るに及び、之等登山客及び夏期避暑客のため豫て計画中の観光ホテルを癒直営することになつたが、ホテルの本格的建築は現下時局のため支障あるから、暫定的に山上に於て久しく営業を続けて来た料亭大市全館を昭和十三年夏譲受け、その内外に改装を施し、更に新設備を整へ全く面目一新の上昭和十四年一月開業した。
現在の客室は和洋両間合せて十八室を有し、別に大食堂の設けあり、又別館として当社の山の家三十余の建物をも便宜使用してゐる。開業以来当社の乗客本位をモットーにしての勉強振りは一般に好感を与へ、利用者は日と共に増加する盛況である。
と、この生駒山観光ホテルについての資料は、開業1年後に刊行の『大阪電気軌道株式会社三十年史』(昭和15年12月刊)くらいしか今のところ見ておらず、正確な位置についてはよくわからない。
上掲パンフレットに掲載の、ホテル前面を写した写真。向こう側にうっすらと飛行塔が見える。
宝山寺から生駒駅へ歩く。生駒オペラと花街の風情。小野十三郎の詩を読みながら、夜の大阪市内へ。
生駒山上からケーブルにのって、宝山寺で下車。まだまだ時間はたっぷり。帰りは、宝山寺からテクテク参道をくだって、散歩がてらのんびり生駒駅まで歩いてゆくことにした。
生駒といえば、大正10年のほんの一時期上演されていた「生駒歌劇」を思い出さずにはいられない。浅草オペラ、蒲田映画を経て昭和4年、沢田正二郎没後に新国劇に入った秋月正夫によるメモワール『蛙の寝言』(山ノ手書房、昭和31年8月)には、秋月正夫が「生駒歌劇」当時、
……浅草時代と違って日曜祭日以外は一回公園でしたから、暇もあって久しぶりにのんびりとした日を送ることが出来ました。参道から一歩裏路へ入れば、生駒山頂の樹木の緑は美しく、眼も醒めるような景色が連って空気は良し、鴬や名も知らない小鳥の囀りを耳にしながら下駄履きで山へ入り、時には小指程の松茸を見つけて子供のように喜んだり、鼓滝? のある遠い裏山へまで散歩に出かけました。またこの辺りには灌漑用の池が所々にあるので、粗末な釣具で小鮒を釣ったり泳いだりしました。
というふうな休日を過ごしていたことを綴られている。また、《劇場の近くには呑屋の別嬪さんが大勢網を張っているのですが、そのような所には誰一人出入りする者はなく……》とも書いている。
このたびの、生駒ケーブル観光にあたっては、鈴木勇一郎氏の論考、『生駒山宝山寺前の形成と大阪電気軌道の郊外開発』(「ヒストリア」第205号(大阪歴史学会、2007年6月)所収)が読み応えがあって、たいへん面白かった上にたいへん勉強になり、ますます「モダン関西」探索への思いがふつふつと沸きあがる、嬉しい文献だった。
鈴木勇一郎氏の『生駒山宝山寺前の形成と大阪電気軌道の郊外開発』を読んで目から鱗だったのが、郊外の私鉄においてはかねてより社寺への参詣が重要な行楽となっていたが、社寺参詣には得てして遊郭などの花街が結びついていたということ。大軌の生駒の場合は、昭和4年3月の生駒山頂遊園地開業前は、
他の私鉄各社が「グラウンドや遊園地」といった当時の新たに勃興しつつあった俸給生活者をはじめとする郊外での住民を主な対象とする衛生的で健康的な家庭を背景とした郊外行楽開発を本格的に展開し始めていたのに対して、大軌では宝山寺と生駒芸妓という旧態依然とした参詣と花街という遊楽に依存した状況が続いていた。
という状況だった。しかし、生駒ケーブルの延長とともに遊園地や避暑地の造成といった「衛生的で健康的な」行楽地の開発が進んでいる一方で、
……生駒は奈良県内にありながら、「繁枯も大阪の影響を鋭敏に感受」する「全く歓楽と信仰の都市であり換言すれば、大阪市民の歓楽と迷信の対象」となっていたのであった。こうして門前町としての生駒の展開は、都内大阪の動向に大きく左右される構造を持つようになっていった。それが端的に表れたのが、ダンスホールの設置をめぐる経緯であった。
というふうにして、昭和2年3月24日に規制により大阪市内のダンスホールが閉鎖され、昭和4年10月にはカフェーの規制も強化されたことで、昭和5年4月、生駒新地に生駒舞踏場が開場している。大阪での規制に合わせて、生駒の歓楽地としての側面はさらに強化されていたのだった。ダンスホールというと、尼崎のそれをまっさきに思い出すけれども、そんな大阪の周縁の歓楽地をも合わせて、「モダン都市とその周縁」を今後少しずつ追究していきたいなと思う。
ケーブルカーを宝山寺駅で下車して、参道に出ると、「観光生駒」の文字。生駒ケーブルの沿線には、山頂の子供たちの遊園地と、宝山寺参道の花街が併存しており、その古くからの「行楽」の両極が昔も今も健在なのだなアと、感心しきり。
風情ただよう参道は時折階段状になっていて、まっすぐに下方に伸びている。なにやら艶めかしい旅館が散見できる。
ゆっくりと下りながらの建物見物がたのしい。色町特有の建物が味わい深い、などと、何を見ても「色町特有」に見えてしまうのだった。
あまりに長い下り坂、時折後ろを振り返ると、今まで歩いてきた道がはるか遠くに見える。そろそろ夕刻が近づいている。
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生駒駅前でコーヒーを飲んで休憩したあと、近鉄電車に乗って、大阪へ向かう。生駒から長いトンネルを通過し、次は石切。持参の『日本鉄道旅行地図帳 関西1』(新潮社刊)を参照すると、石切から瓢箪山にかけての線路上に「車窓絶景100選」として、《身構えよう、ドーンと開けるなにわ平野の大眺望》と注記されている。こうしてはいられないと、電車が石切を出発して、本当に身構えていると、本当にもう見事な絶景だ!
車窓から見える遠方の大阪の町並みはニューヨークのよう。それにしても、なんてすばらしかったことだろう。
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石切・額田間の車窓の興奮冷めやらぬまま、電車はどんどん大阪に近づいてゆく。花園にラグビー場が作られたのは昭和4年、生駒山上遊園地の同年のことだった、また同時期、昭和4年から7年にかけて、同じく大軌の沿線開発の結果、今里新地が花街として急速に発展したという、と、上掲の鈴木勇一郎氏の『生駒山宝山寺前の形成と大阪電気軌道の郊外開発』を思い起しているうちに、ふと去年の冬休みに、上本町からビスタカーに乗ったときのことを思い出した。あのとき、ビスタカーから見えた生駒山上の鉄塔の真下に今日行ってきたばかりだけれど、では近鉄電車からの生駒山上の眺めはどんなだったっけ、もう一度見たいなと急に思いついて、いてもたってもいられなくなったそのとき、電車はちょうど布施に到着。
まだ日没までには間がある。布施で突発的に下車して、あのときのビスタカーと同じ線路を走っている電車に乗り込む。次の駅は俊徳道。かろうじて、車窓から生駒山の鉄塔がはるか遠くに見えた。冬のあの日、もうちょっとクッキリ見えていた印象だったけれども、冬の空気が澄んでいたからなのか、わたしが鉄塔に過剰に反応したからのか、どうか。
俊徳道という駅名で思い出すのは、後藤明生の『しんとく問答』。上本町から近鉄電車に乗って、長瀬の近畿大学へ通って文学を講じていた後藤明生に思いを馳せるべく、長瀬で下車して、大阪行きの電車に乗り換えることにする。と、長瀬で下車してみたら、駅のホームに古本屋の大きな看板があって、こうしてはいられないと、せっかくなのでその古本屋に行ってみることにした。近畿大学に向かう途中にある古本屋、日之出書房。後藤明生も買い物したことあったのかな。
日之出書房にて、急に読みたくなったしまい、家に絶対にあるのに「現代詩手帖」の小野十三郎の詩集を買ってしまった。長瀬駅に戻ったら、もうすっかり日が暮れていた。
車内で小野十三郎の詩集を繰っていたら、いつのまにか電車は地下に入っていた。堺筋線に乗り換えるべく、日本橋で下車。文楽のポスターが嬉しい。いつか国立文楽劇場で文楽を見たいと思い続けて十年以上だけれど、いまだに機会がめぐってこない。たまにしか来る機会のない大阪では、今はどうしても劇場よりも町に興味津々。いつの日か、大阪で文楽を見たい。
大阪で初めてお好み焼きを食べたのは、淡路の「ふじ」というお店だった。なんておいしいのだろう! と感激のあまり、大阪ではどこでもおいしいに違いないのに、お好み焼きはいつも「ふじ」なのだった。というわけで、阪急京都線沿線の淡路駅近くでビールをグビグビ飲んだあとで、梅田に出る。夜なので十三からの淀川の車窓がよく見えなくて今日は残念。我ながらしつこいけれども、梅田駅の改札はなんてすばらしいのだろう! と関西に来るたびにしょうこりもなく大興奮なのだった。
京都で始まった本日の関西遊覧、終着点は梅田なり。たくさん歩いて、ずいぶんくたびれた。イソイソと定宿へと向かう。