冬休み関西遊覧日記その2/宝塚文藝図書館と宝塚ホテルと古川ロッパ

2011年12月29日午後。梅田から十三までの阪急電車の3つの路線が並走するひとときに興奮しすぎて疲れてしまい、淀川を渡って十三を過ぎるとウトウトしてしまうのが阪急電車のいつものパターンで、今回の宝塚線でも十三を過ぎるとぼんやり。途中、「あ、飛行機」という車内の少年の声が耳に入って、つられて空を見上げるも見逃してしまった。ああ、そうか、このあたりは伊丹空港の近くなのだなと漠然と思ったところで、電車は蛍池を出た。と、ここで、急に山なみが眼前に迫ってきた感じがして、おっと目が覚めた。




阪神急行電鉄株式会社発行《沿線御案内》。戦前の沿線案内の表紙に描かれている宝塚大劇場のあった場所に向かって、梅田駅12時50分発の宝塚線の急行電車は終点の宝塚をめざす。




上掲の沿線案内より、石橋・宝塚間を拡大。箕面線宝塚線が分岐する石橋駅付近で、山が迫っているサマを実感したのだったけれども、戦前の沿線案内でもそれはヴィヴィッドに表現されている。宝塚大劇場といえば、武庫川沿いにそびえたっているというのが、かねてよりの第一印象だった。ああ、そうか、宝塚線武庫川を一度も渡ることはなく、武庫川を迂回するようにして、梅田から武庫川沿いの宝塚の地へと到っているのだなということに気づく。と、ただそれだけのことが、土地不案内の者にとっては、なるほどなあと面白いのだった。



そうこうしているうちに、電車はあっという間に終点の宝塚駅に到着。わーいわーいと下車すると、ホームの駅名看板の「宝塚」の文字の下に「(宝塚大劇場前)」とある。言われなくてもわかっている。次の上演は元日が初日の花組公演、トルストイ原作『復活』……ということを、梅田駅、阪急電車の車内およびホームのあちこちにこれでもかと貼ってあるポスターが告知していた。よって、宝塚大劇場は現在、新年にそなえて休演中であるので、駅の周辺はいたって静か。駅の周囲には高層住宅が林立、典型的な郊外住宅地の様相を呈している。遊歩道をしばらく歩いてゆくと、正面右手に大劇場の建物が見える。旧大劇場は戸板康二の亡くなる前月の1992年12月の公演を最後に建て替えられたので、古い建物だったら感興たっぷりだったに違いないけれども、大劇場は新しい建物だし、宝塚ファミリーランドはすでになくなっているしで、宝塚観劇のない宝塚駅下車の第一印象は、これといった感興がわいてこないというのが正直なところであった。




しばらく遊歩道を歩いていった先にあるこの土地にかつて宝塚ファミリーランドがあった。こんなところに遊園地があったなんて、なんだか夢のよう。南海難波駅前の大阪球場跡地、西宮北口の駅前の西宮球場跡地とともに、記憶にとどめておきたい夢の跡。阪神間在住の親戚に連れられて、東京郊外育ちのわたしも子供時分に一度だけ宝塚ファミリーランドに行ったことがある。小学1年生のときだったかな、夏休みの絵日記にキリンの絵を描いたことだけ覚えているけれども、そのほかはほとんど記憶に残っていない。ただ、宝塚の公演に行きたいと同行の母が言いだし、俄然その気になったら、その日は休演日で母と二人でたいへんがっかりしたことだけ鮮やかに覚えている。あのとき、宝塚を見ておきたかったと今でもたいへんがっかりである。それにしても、阪急電車の線路沿いに遊園地が広がる空間はいったいどんなだったのだろう。




と、これといった感興が湧いてこないなか、適当に周囲を見回していたら、いかにも古びた蔦の絡まる近代建築が残っているを発見して、ワオ! と急に興奮。この近辺で唯一の古びた建物。現在は中華料理店となっている。ハテこの建物はなんだろうと思っていたら、その夜にお会いした神戸在住のご夫妻に「宝塚図書館」の建物だと教えられて、さらに興奮だった。劇場も音楽学校も遊園地も様変わりしてしまったなかで、図書館の建物が残っているというのはとても嬉しい。このお店で閑雅な昼食をとりつつ、建築見物をするという手もあったかも。




《宝塚図書館》、『阪神急行電鉄二十五年史』(昭和7年10月)より。《主として文藝に関する書籍の蒐集に努め閲覧室の他に展覧会場、講演会場等を包含す。昭和七年一月一日開館》とある。昭和7年、阪急25周年という記念の年に開館した図書館の建物がいまも残っているということがかさねがさね嬉しい。しかも、よりによって残っているのが図書館の建物というのが嬉しい。




《阪急創立廿五周年記念 宝塚婦人こども博覧会々場全景図》、『日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄』(新潮社、2011年2月)に掲載。《昭和7年の宝塚。阪急線路の両側に大浴場、大劇場、動植物園が広がる夢の国だった。(池田文庫所蔵)》との解説が付されている。その「夢の国」には図書館もあった! 前掲の『阪神急行電鉄二十五年史』の刊行といい、阪急の創立25周年の昭和7年は素敵な印刷物が目白押し。




『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の宝塚航空写真。白亜の大劇場の少し上に「宝塚図書館」の白い建物を見ることができる。『近代建築画譜』には、大劇場の《本建築は昭和10年1月旧建築の半焼したるを復興せるものにして、旧建築は設計施工共、竹中工務店の手に依り工費800,000円を以て大正11年10月工を起し同13年7月竣工す、スケールは現建物と同様なり、又附属せる新温泉場は鉄筋コンクリート造2階及び平屋建、延坪1,100坪にして、工費450,000円を以て旧建物と同時に竣工す。》との解説が付されている。阪急創立25年の昭和7年のあと、昭和10年1月、大劇場は火事で半焼していたのだった。




上掲の戦前の阪急電車の沿線案内より、宝塚を拡大。宝塚大劇場の北側に「宝塚図書館」がしっかり描きこまれていた。図書館の東寄りには「宝塚植物園」。『阪神急行電鉄二十五年史』によると、東洋一の規模を誇っていたという。この阪急電車の沿線案内の裏面に記載の観光案内の筆頭はもちろん、「宝塚少女歌劇・宝塚新温泉」。

タカラヅカ
綺麗で無邪気で上品で家族打揃つて面白く遊べる日本一の娯楽の都。歌と踊りと音楽に演劇文化の薫りたかき風光明媚な歌劇の都。
健全な娯楽文化の粋を集めた大劇場、温泉、ルナパーク、動物園、植物園、文藝図書館、運動場、児童遊園と堂々数萬坪の輪奐を誇る明朗清新な四季清遊の都です。

午前中は動物園、植物園、ルナパーク、文藝図書館等に面白く時間を過し場内の和洋支那食堂にて御昼食後温泉にひたつて爽やかな気分になり、さて四千人大劇場にて歌劇見物、華やかな舞台の幕間には室内遊戯場、撞球場、ピンポン室、或ひは上品な喫茶室、武庫川沿いの納涼台等を御利用になり、歌劇終演は五時頃、暮れかゝる情緒豊かな湯の街を御散策といふ風に御遊びになれば誠に申し分ない一日の御慰安となります。或ひは場内にて御夕食後宝塚キネマ館に映画を御楽しみになるのも一興でございます。……

戦前の都市生活者の観光の祝祭感といったようなものを、沿線案内の簡略化された図版を見るだけでも鮮やかに体感できる気がする。


宝塚文藝図書館に思いを馳せる

宝塚の地にたぶん唯一残っている1930年代の建物が、かつての宝塚図書館の建物であることをその日の夜に神戸在住のご夫妻から教えられ、とにかく興奮だった。古い宝塚大劇場の建物も遊園地もなくなってしまったなかで、昭和7年1月に開館した「宝塚文藝図書館」が残っているということが、しかもよりによって残っているのが、図書館の建物ということがかさねがさね嬉しかった。年が明けて、さらに感激だったのは、宝塚文藝図書館から「宝塚文藝図書館月報」なる素敵な小冊子が長らく発行されていたことを知ったこと!




『宝塚文藝図書館月報』第2号(昭和11年8月10日発行)の扉を飾る図書館のスケッチを描いたのは小松榮。B5サイズの20ページほどの小冊子で、新着資料の紹介が主な内容だけれども、毎号掲載されるエッセイが実によい雰囲気で、香気たっぷり。丸善の『学鐙』とムードがどことなく似ている気がする。編集兼発行人は戸澤信義。その編集後記は、彼がホクホクとこの冊子の編集をしているサマが伺えてとっても微笑ましい。

元来雑誌の編集は好きな方である。趣味の為に雑誌を拵へ、いつか雑誌の為に趣味を忘れる程熱中した事もある。今度熱中すれば仕事を忘れるんぢゃないかと自らを危ぶんでおる。併しそれが為に月報が良くなり、従而図書館に良い結果を齎らすならそれ程結構な事はない。由来阪急と言ふ会社は何れの部課係でも日本一を目指して敢えて、自ら高しとすると共に他もそれと推す様にせよと云ふ……

と、彼は言う。創刊直後だからこんなにハリきっているというわけではなくて、月報は号を重ねるごとに充実しているのだった。以後、戸澤信義による図書館論的エッセイを柱に、演劇読み物や地誌エッセイが登場したりする。




『宝塚文藝図書館月報』第24号(昭和13年6月10日発行)。この号には、戸澤信義による「東京図書館見学記」が掲載。早稲田大学坪内博士危険演劇博物館附属図書館、帝国図書館帝国大学図書館、大橋図書館東洋文庫をめぐる。戦前昭和東京の図書館に思いを馳せてたいへん興味深い。たとえば、《九段軍人会館と相対して厳然と聳えておる》大橋図書館の《四階には休憩室一寸した食堂と売店が設置されておる、多くの図書館にては此の種の設備は小暗い地下に中訳的に設けられているのに対して斯かる見晴らしの好い室を当てがつた経営者の理解ある態度は嬉しい、そこから屋上遊園に出られて、小石川後楽園の翠滴る森陰が打ちならぶ瓦の中に思ひも掛けず近々と眺められた。》という。編集兼発行人の戸澤信義による「図書館人」ならではの文章はほかにもたくさん登場しており、『宝塚文藝図書館月報』の文章を一冊にまとめたら絶好の図書館文献になるような気がする。



第2号(昭和11年8月10日発行)の巻頭に掲載の、堤誠二「宝塚文藝図書館」によると、宝塚文藝図書館は昭和7年1月1日に開館後、当初は温泉入場客にのみの開放していたのが、昭和11年5月20日に場外の一般来場者にも開放することとなり、同年7月10日に『宝塚文藝図書館月報』が創刊した次第だったという。平日午前9時から午後6時まで、日曜祭日は午前8時半から午後6時まで開館。一般閲覧室と新聞閲覧室、雑誌閲覧室とに分けられ、入館者は無料で、新聞と雑誌は閲覧票を起票せずに自由に閲覧ができた。さらに、《歌劇記事、劇壇記事、劇評記事、東宝記事、映画記事、阪急記事、図書館記事、美術記事、文学記事等》の切り抜きを貼付したスクラップブックが用意。これらの記事は月報でリストが紹介されていて、今見ても、こんな記事があったのかと知ることができて結構重宝。戸板康二の各誌への寄稿もしっかりとスクラップされていて、戸板ファンも大いによろこんだ。



『宝塚文藝図書館月報』第12号(昭和12年6月10日発行)の巻頭言のタイトルは「一年の省る」。前年5月20日より誰でも自由に利用できるようになった宝塚文藝図書館は、

その発展過程が一私立会社の娯楽設備の中から起つたものである事とこの会社即ち阪神急行電鉄株式会社の年来の主張である利益三分主義、即ち公共事業なる当会社の利益は資本主である株主と従業員である社員と顧客である沿線居住者との間に均霑せねばならぬ、即ち三社の共存共栄の精神を以て経営せられておると云ふ事は最も特異な存在であると言わねばならぬ。

とあるように、小林一三の阪急王国の施設のひとつだった。昭和7年1月に開館し、昭和11年5月より一般開放した宝塚図書館。昭和13年6月10日発行の第24号の巻頭言では、「過日発行せられた図書館総覧」で宝塚文藝図書館が「一般図書館」に分類されていたことへの失望が率直に語られている。その名のとおり、「文藝図書館」の矜持と香気が毎月刊行されていた『宝塚文芸図書館月報』にもみなぎっているのを見るにつけても、その失望にはとっても共感。『宝塚文芸図書館月報』は戦時下でも順調に刊行されていて、昭和18年10月10日発行の号には、図書館員の辰井隆による「京阪神急行沿線伝説集(京阪線の巻)」なる記事があって、その冒頭は《京阪阪急合併記念として、この小篇を錦の秋におくる》。時局もなんのその、なんだか呑気で微笑ましいのだった。


宝塚文藝図書館の後身はもちろん、現在の池田文庫(http://www.ikedabunko.or.jp/top.html)。前々から池田文庫の館報が好きでちょくちょく仕入れていたものだったけれど、池田文庫の館報は『宝塚文藝図書館月報』の後身ともいえるわけで、かねてより無意識のうちに「宝塚文藝図書館」にわたしもささやかながらも触れていたのだなあと思った。




ごく初期の時期の『宝塚文藝図書館月報』の最後のページには、当月の宝塚大劇場、有楽座、東京宝塚大劇場の宣伝用のマッチラヴェルが貼付されている愉しいつくり。昭和12年9月の有楽座のロッパは「ガラマサどん」。向かいの東京宝塚劇場月組公演「グランドレヴュウ アラビアの王子」、宝塚大劇場星組公演「グラントレヴュウ 歌へモンパルナス」と「喜歌劇 将門の首」と「歌劇 桶の村」。




こちらは昭和12年11月号より。有楽座の古川ロッパ一座は「軍国喜劇 ロッパ若し戦はゞ」。東京宝塚劇場は「オペレッタレヴュウ 歌へモンパルナス」、宝塚大劇場月組公演、「白井鉄造新帰朝第一回公演 グランドレヴュウ たからじぇんぬ」と合わせて、「軍国バレー 砲煙」と「舞踊 龍刀」。昭和12年7月7日の事変を機に、興行も軍国主義色を強めていった一方で、それまでフランスを手本にしていた宝塚少女歌劇がジャズの流行にのって、アメリカへ演出家と作曲家を派遣、レビュウの視察を終えて帰国した彼らは次々とスウィンギーな演目を上演、昭和12年から翌年にかけて宝塚少女歌劇はスウィング時代の最盛期を迎えていた……ということが、毛利眞人著『ニッポン・スウィングタイム』(講談社、2010年11月)の「第九話 乙女たちは非常時にスヰングする」に明晰かつワクワクするような筆致で論じられている。その例に挙がっているのが、翌昭和13年7月に宝塚大劇場で上演の「ビック・アップル」。これらのマッチラヴェルの宝塚はそんなスウィング時代の全盛期!


宝塚の古川ロッパに思いを馳せながら、武庫川の川辺を歩く

旧宝塚図書館の建物と宝塚大劇場を背に、手塚治虫記念館の前を右折し、武庫川に架かる橋を渡ってゆく。阪急宝塚線を下車して、大劇場、遊園地跡の前を歩いていたときと打って変わって、武庫川の橋に立ったときの胸の高まりといったらなかった。宝塚駅を下車してから、まだ一度も武庫川を見ていなかった。初めて武庫川を見た瞬間の感激は自分でも予想外だった。武庫川沿いのこの感覚は戦前からずっと変わらないに違いない。この悠久の感覚というか、なんというか。スーっと気持ちが落ち着いてくるような川沿いの風と、橋からの大劇場の眺め、正面の山の連なりがすばらしい。ああ、本当になんてすばらしいのだろう!




橋の上に立って、向こう側の阪急今津線の鉄橋を眺めていると、ほどなくして電車がやってきて、歓喜! 終点の宝塚駅に入る直前の電車がガタンゴトンと心なしかのんびりしている。




あの鉄橋の下に行ってみたい! と武庫川の河原へと下りて、阪急電車の走るサマを高架の下から見上げる。高架線の独特の造形美がいつも大好き。




武庫川を渡って、しばし河原を歩く。正面には山の連なり、右手には川のせせらぎ。なんて、いい気分だろうと、いつまでも上機嫌。川沿いから見た宝塚大劇場の眺めにすっかり気持ちが和む。




武庫川沿いから見た宝塚大劇場、『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の写真。武庫川宝塚大劇場は切っても切り離せない。宝塚音楽学校の校歌には「希望は清し 武庫の川 流れはつきじ 永遠に」という歌詞がある。





昭和13年5月5日、古川ロッパ一座は梅田駅前の北野劇場で初日をむかえた。その一週間後、ロッパは約1年ぶりに宝塚を訪れ、「川万」という旅館に投宿し、翌朝の5月13日の日記に、

久しぶりの川万、河を見ながら、のんびり――兵庫県宝塚と書いて、ノンビリケンユメノクニとルビをつけた。昨日から考へてゐることがあって、八の字をよせっ放しだが、此の空気が八の字をやはらかくする。

というふうに書いている(『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』)。ロッパの気分が鮮やかに伝わってくるようだ。宝塚の武庫川の眺めは昔も今も人びとの心を和ませる。


ロッパにとって、宝塚はひときわ感慨深い土地だったはず。三十になろうとするロッパが初めて舞台人となったのは、昭和7年1月の宝塚中劇場だったのだから。菊池寛に「モダン曾我廼家をやれ、喜劇役者になれ」と励まされたロッパは小林一三を訪れ、さらなる激励を受け、昭和7年1月に初舞台を踏んだものの、この舞台は失敗に終わる。翌昭和8年4月、浅草常盤座で「笑の王国」が旗揚げされ、浅草の地で舞台人としてのロッパの活躍がはじまり、昭和10年7月、ふたたび小林一三のもとに入り、有楽町・丸の内を本拠とする東宝で最盛期を迎える。東宝入社後の昭和10年11月、宝塚中劇場で公演をしているものの、『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』(晶文社刊)では昭和10年の日記は欠落しているので、読むことができないのがとっても残念。昭和7年1月の初舞台以来の宝塚中劇場、ロッパは感慨ひとしおだったに違いない。


古川ロッパ昭和日記 戦前篇』に初めて宝塚の地名が登場するのは、昭和11年6月27日。宝塚の担当者から10月に宝塚でやってくれと依頼を受け、ロッパ座長は「松茸狩を条件に行かう」と応じる。そして、昭和11年10月31日、宝塚中劇場初日。11月2日には約束どおりに松茸狩に興じるロッパ。宝塚終点から行けるところまで自動車で行き、そのあとテクテク山登り。松茸の収穫はたっぷりで、かしわのすきやきを食べてロッパはご満悦である。公演前日の10月30日の日記に「昔懐かしき松楽館」に投宿したことが記録されているから、もしかしたら、昭和7年1月や昭和10年11月の公演の際に滞在した宿なのかも。その一週間後の11月7日、ロッパは麻雀に誘われて「川万」という宿を訪れる。そして、5日後の12日にの日記に「今日から川万へ移ったので橋を渡って帰る」とある。




絵葉書《宝塚 川万楼客室より新温泉ヲ望ム》。ロッパ一座は続いて、昭和12年6月に宝塚中劇場で公演をしていて、その際には最初から「川万」に滞在しているから、ロッパはよほどこの宿が気に入ったのだろう。昭和12年6月5日の日記には「川万の川添の部屋の朝は悪くない」とご満悦である。この絵葉書の写真よろしく、武庫川と大劇場の眺めを楽しんでいたのは確実。




絵葉書《宝塚 川万楼》その2。川沿いの川万、この絵葉書の向かって右の離れがロッパの部屋だったようだ。昭和14年6月28日に宝塚を訪れたときは「なじみのハナレはふさがってゝ。その二階」に投宿している。




絵葉書《宝塚 川万楼》その3。昭和11年11月以来、宝塚を訪れるたびにロッパが泊ったのは「川万」。昭和12年12月9日に北野劇場が開場し、昭和13年からロッパ一座の関西興行は北野劇場が本拠になった。北野劇場で初めて公演したのは昭和13年5月で、この公演の際に、宝塚に遊んだ際に川万に一泊している。その際の日記が、前述の《久しぶりの川万、河を見ながら、のんびり――兵庫県宝塚と書いて、ノンビリケンユメノクニとルビをつけた。》。昭和12年6月の公演以来の「川万」だったわけだが、町中の北野劇場で公演のまっ最中だったロッパにとって、宝塚ののんびりした空気がひときわ身にしみたのだと思う。




絵葉書《宝塚 川万楼》その4、「客室の一部」と「応接室」。川万は川の眺めは絶景だったけれど、その分、夏は蚊に苦しめられた。昭和14年7月20日の滞在時は、《蚊がワンワンと出て、たまらず蚊帳の中で食事》という有り様だった。また、昭和12年6月の滞在時には《雨の宝塚川に合羽着て魚を釣る人の姿が見える。》と日記(6月7日)に書いていたロッパは、昭和14年7月21日の日記には《川万楼の暁、ドーンパチパチといふ音、兵隊さんが前の河原で演習しているのだ。これが六時頃――それから又寝た。》と書くこととなった。事変のあとさき。




絵葉書《宝塚 川万楼》その5、「大宴会室」と「舞台」。昭和13年11月の北野劇場公演時、11月12日に「ロッパ・ガールズのすきやき会」が「川万の三階大広間」で開催! この絵葉書の大宴会室のことかな? しかし、この日のロッパの昼食は《あまり寒いからすき焼を食はうと、厚い外套を着て、守田へ行く。本みやけよりうまいといふが、土台関西のすきやきってもの、否定したい味である。》という次第だったから、「ロッパ・ガールズのすきやき会」では《昼間うっかりしてすきやき食ったのでもう食べる気なし。川万のもと泊った部屋で寝る。》という有り様だった。





モダン都市時代の古川ロッパの日記には本拠地の東京のそれとおなじように、関西の風物もたっぷり登場して、とりわけ宝塚中劇場、京都宝塚劇場、北野劇場公演時の日記では、モダン関西に思いを馳せる歓びも格別なものがある。関西のロッパ一座公演の折の日記のおなじみの人物、「ピス健」こと嘉納健治が初めて登場するのは、宝塚中劇場の千秋楽の昭和11年11月23日。「怖いようなありがたいような」と後に書くロッパと嘉納親分との交流もこのときにはじまる。こんなところもモダン関西のトピックとして大変興味深いのだった。





ダンスホール 宝塚会館》(設計:古塚建築事務所、施工:竹中工務店、竣工:昭和6年5月)、同じく『近代建築画譜』より。昭和11年11月と昭和12年6月の宝塚中劇場公演時に、ここ宝塚会館で「古川緑波一座交驩の夕」が開催されている。しかし《ダンスホールなるもの相変らず苦手で、たゞバーでのんでふらつく》とロッパは不興げ(昭和11年11月7日)。



昭和12年12月9日の北野劇場開業以降は、宝塚中劇場で公演することはなくなったけれども、関西滞在時のロッパはちょくちょく宝塚を訪れていた。その際の定宿は「川万」だった。が、蚊がワンワンと出たり、兵隊さんが河原で早朝演習をしたりしていた昭和14年7月以降は「川万」の文字を見なくなる。昭和15年10月の北野劇場公演時に宝塚を訪れた際には「昔なつかしき松楽館」に泊ったが、赤痢発生で大混乱、あわてて大阪の宿(竹川)に移ったあとで、《芸能生活に入って九年目、初めての大患》におそわれ、途中で公演を打ちきっている(翌年無事に復帰)。




東宝十年史』(株式会社東京宝塚劇場昭和18年12月5日発行)より、昭和12年12月9日に開場した北野劇場(並びの梅田映画劇場は同年12月29日会場)、こけらおとしは宝塚少女歌劇。阪急25周年の年であった昭和7年の8月12日に株式会社東京宝塚劇場の創立総会が中央電気倶楽部で挙行、昭和18年12月20日に株式会社東京宝塚劇場東宝映画株式会社の合併が正式に成立、東宝株式会社が発足した。この『東宝十年史』は昭和7年を起点にした東宝の社史であるけれども、東宝株式会社の発足直前の発行で、版元は株式会社東京宝塚劇場となっている。




昭和13年3月、古川緑波一座初の北野劇場公演の写真、展示図録『古川ロッパとレヴュー時代―モダン都市の歌・ダンス・笑いー』(早稲田大学演劇博物館、2007年5月18日発行)より。昭和12年11月に有楽座で上演されたロッパの軍事劇の最初のヒット作、『ロッパ若し戦はゞ』が上演中。次第に戦時色が強くなっていくなか、ロッパ一座の北野劇場での公演も続いていたけれども、昭和19年2月25日、政府から「高級享楽停止に関する具体的要綱」、3月1日に「興行刷新実施要綱」が発表され、その結果、東宝株式会社は東京宝塚劇場日劇、有楽座、帝劇、北野劇場、梅田映画劇場の閉鎖を命ぜられ、東京宝塚劇場日劇が陸軍経理部に貸与され風船爆弾工場となり、帝劇は都防衛局の庁舎になった。昭和19年7月21日、「海軍会館」なるところでロッパは公演をしている。「海軍会館」と名を変えた北野劇場における最後の公演だった。



ロッパは滞在場所は和風旅館を好むものの、外食はほとんど西洋料理。《大阪では洋食を食ってゐては損。日本食がいゝ、つまり関西料理》と書いているロッパだけれど(『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』所収「食べる人生(又ハ食欲自叙伝)」)、有楽町で公演中は帝国ホテルのグリルやマツダビルヂングのニューグランドに足を運ぶのとおなじような感じに、関西滞在中、ロッパはしょっちゅう宝塚ホテルのグリルへと足を運んでいる。宝塚会館の「古川緑波一座交驩の夕」の一週間後の11月15日には、ロッパは昼の部のあとに徳山たまきとグリルで食事、徳さんの恐妻家(愛妻家)トークに辟易したロッパは、夜の部の劇場に向かう途中、《夕やみ迫れる動物園を歩く、カンガルーに追はれて寝ぐらへ帰る有様が徳山だった》と一人思う。そこに《大阪の鸚鵡は「お早やうサン」と喋る。》と書き添えているのが、なんだか微笑ましい。昭和17年5月には愛息と宝塚動物園に遊ぶロッパだった。




東宝古川緑波一座 昭和十八年五月公演 脚本解説集》。昭和18年5月の北野劇場公演の上演プログラム。表紙に描かれている『ロッパの捕物帳』のほかに、夢声特別出演の『南方だより――徳川夢声の現地報告』と菊田一夫作の『父と大学生』。ロッパと夢声は5月13日、竹久千恵子とともに池田の小林一三邸を訪問している。




上掲の北野劇場公演時に宝塚に出かけた際の写真が、展示図録『古川ロッパとレヴュー時代―モダン都市の歌・ダンス・笑いー』(早稲田大学演劇博物館、2007年5月18日発行)に掲載されている。昭和18年5月17日の宝塚のロッパ。この日の日記には、宝塚で女座員と「兵隊さんに送るブロマイド」を撮影したことが書かれている。この日もロッパは宝塚ホテルのグリルで食事をしている。この日が、『古川ロッパ昭和日記』の「戦前篇」と「戦中篇」における最後の宝塚行き。


宝塚ホテルでアップルパイの午後

武庫川の河原でしばしくつろいで、1930年代から40年代前半にかけての古川ロッパに思いを馳せて、ずいぶん寄り道をしてしまったけれども、そろそろ、本日の最大の目的地のひとつである宝塚ホテルに参りましょう! と武庫川沿いを背後に阪急南口駅へ向かって、テクテク。




宝塚南口駅に迫るようにして建っている感すらただよう宝塚ホテルは、想像よりもずっと小ぢんまりしている。向かって右に旧館の建物が残り、左が新館。旧館の建物、特に三角屋根がとってもチャーミング!




《宝塚ホテル》(設計:古塚建築事務所、施工:大林組、竣工:大正15年1月)、『近代建築画譜』より。昔の宝塚ホテルは現在の旧館だけだったから、周囲はもっと広々としている。




新館の建物であるホテルの正面入口を入り、右折してほどなくすると旧館の建物となる。シャンデリアの下、赤絨毯の廊下を歩く。贅沢な空間だけど、全体の印象はとってもシックでつつましい。




旧館の建物をあちらこちら歩いてゆくと、あるところではこんなかわいらしい照明が。




中庭をのぞむ窓も実に素敵。





そろそろ午後の喫茶の時間を過ごしたくなったところ、このアーチ型の廊下と照明の調和が素敵な空間の左側が喫茶のロビーとなっている。




まさに夢心地で、ソファにこしかけて、休憩。コーヒーを飲んで、パイ生地の上に焼き林檎をスライスしたものが美しく飾られているお菓子を食べる。2年前の六甲山ホテルのアップルパイの午後を思い出して、さらによい気分になる。




戦前に印行の宝塚ホテルの宣伝冊子。外国人向けの英語冊子。『近代建築画譜』に掲載の写真とおなじように、現在旧館として残る建物の正面がエントランスの庭園となっている。




裏面には、ホテルへの交通案内が掲載。宝塚ホテル、大劇場、宝塚旧温泉から自動車で有馬温泉に向かい、六甲北口を通過して六甲山ホテルへ。阪神間の山間部に展開される観光名所。




そして、中を開くと、武庫川沿いの大劇場と宝塚ホテルの鳥瞰写真。現在は宝塚南口駅のまん前に位置し、周囲は住宅地なので、だいぶ印象が異なるけれども、かつては六甲山ホテルとおなじように、ちょっとしたリゾートホテルだった。人びとはここに静養に訪れる。




昭和12年4月24日の宝塚ホテルのメニュウは絵葉書が付されていて、《家族的で上品な宝塚ホテル》という惹句の横に、武庫川越しの宝塚ホテルの眺めを楽しみながら、カクテルを飲むモダンガール。ちなみに、この日のメニュウは、じゃがいものスープ、鱒のバタ焼、牛肉の煮物、季節のサラダ、ヴァニラのアイスクリーム、果物、、コーヒー。食事をたのしむロッパの姿が彷彿としてくるようだ。



宝塚ホテルの喫茶のひとときは、気持ちだけ、この絵の女性の気分そのまんまで、昔の宝塚ホテルの姿を眺めながら、くつろぐひととき。それにしても、なんて素晴らしいのだろう。と、心ゆくまで満喫したひととき。宝塚ホテルは、わたしのような観光客が殺到ということはまったくなく適度に人びとが憩っていて、とてもいい感じ。梅田駅周辺の喧騒とはまったくの別世界で、その上品な空間に埋没して、この一年のいろいろなことがスーッと浄化していくかのような時間だった。この一年、いろいろなことがあった。と、一年の終りの休日に、わたしもちょっとしたリゾート気分で、宝塚ホテルのクラシカルな空間で思う存分くつろいで、しみじみ至福だった。





『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の、宝塚ホテルの内部の写真。





喫茶コーナーがあまりに居心地がよくて、ずいぶん長居をしてしまった。まだまだ名残惜しいので、旧館をあともう一周めぐることにする。近代建築の内部は、いつも柱と階段の観察がとてもたのしくて、いつも「おっ」と立ちどまっている。




そして、思いがけず嬉しかったのが、かつて宝塚大劇場の使われていた緞帳が壁の一部として使用されている一角があったこと。さらに、緞帳の原画は小磯良平というので、歓びはひとしおだった。画題は《騎士の門出》。鐘紡株式会社の寄贈。




昭和51年1月から昭和56年5月まで、宝塚大劇場でこの緞帳が使われていた。




『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の、宝塚大劇場の舞台の写真。当時は「クラブ白粉」提供の緞帳が使われていた。昭和50年代の数年間、この舞台に小磯良平の緞帳が使われていたさまを想像して、うっとりしてしまう。




おなじく『近代建築画譜』に掲載の、宝塚大劇場の廊下の写真。この廊下の形状や照明の感じが、宝塚ホテルの旧館の様子によく似ている。宝塚ホテルは宝塚大劇場のかつての雰囲気を体感する空間でもあるのかも。



旧館には宝塚歌劇のトップスターのパネルを飾った一角があり、その正面の宴会室はディナーショーの会場にもなっているようだった。宝塚観劇のたのしみのある人生はなんという愉悦であることかと、心の底から羨ましくなってくる。そして、その宴会室の入口の近くには、「白雪」の酒樽が積み上げられていて、灘の酒蔵文化を思うと、いつも胸が熱くなる! 阪急と白雪の密接な関係は昔も今も変わらないようだ。





宝塚ホテルを心ゆくまで満喫して、気持ちが浄化したかのよう。いい気分で、宝塚南口駅から阪急今津線に乗り込む、その前に、ホテルの建物を外側から見物。




旧館の裏手にまわってみると、いかにも古びた文様が残っていて、嬉しい。窓の形状ににっこり。




『近代建築画譜』に掲載の写真で、裏手の装飾が古くからあったものと知る。




宝塚南口駅の改札に入り、これから阪急今津線阪神国道方面へと向かうのだけれど、ぜひとも阪急電車武庫川の鉄橋を渡りたいという誘惑に勝てず、宝塚駅行きのホームで電車を待っている間に高架のホームから、宝塚ホテルを見納める。いつかまた別の機会で訪れる日が来ることを、心より願う。



宝塚南口から宝塚行きの今津線に乗って、武庫川の風景を満喫し、その電車が折り返して、西宮北口行きとなり、阪急電車はふたたび武庫川を渡って、ふたたび武庫川の風景を満喫。すばらしき武庫川! と余韻にひたりながら、電車は西宮へと向かう。




絵葉書《阪神地方水害(上)西宮東口附近線路上に氾濫する濁水、(下)宝塚迎賓橋の流失》、宝塚から西宮に向かう阪急電車に乗ったとき、思い出した絵葉書。昭和13年7月3日から5日にかけての「阪神大水害」の、宝塚と西宮の惨状を記録している。大劇場界隈と宝塚ホテルの場所をつなぐ武庫川に架かる「迎賓橋」もこんな惨状! ロッパは翌月の8月に北野劇場で公演をしている。8月8日、ピス健の嘉納親分の案内で住吉まで行ったあと、住吉から省線で座に戻った際のことを《窓から見る芦屋辺の泥害水害、見なくちゃ分からぬ》とロッパは日記に書いた。8月19日、座員と宝塚見学に出かけた際も、水害の影響で急行は運休したままだった。8月23日、省線で神戸にゆくロッパ夫妻、《道々の水害の跡を窓外に見ながら――全くひどい》。この絵葉書にある西宮は、西宮のどの線路なのかな。

(追記:この絵葉書の「西宮東口」は阪神の今津〜西宮間にかつて存在した「西宮東口駅」とご教示いただきました。西宮東口は明治38年4月の阪神電車開通時から存在した歴史の古い駅で、平成13年3月に阪神本線の高架化とともに西宮駅に統合された駅。阪神の西宮に歴史あり! と、しみじみ……。)