年の瀬の浅草。2012年の東武ビルディングの外観リニューアルのこと。


2012年の年の瀬のある日。古書展と映画館をはしごして、夕闇の神保町からイソイソと半蔵門線に乗りこんで、三越前で銀座線に乗り換えて、浅草へ。年末になって初めて銀座線の新型車両に遭遇する。




地下鉄から浅草の地上に出るときは、古びた地下商店街を通り抜けて狭い階段をあがって松屋のまん前に出るコースもたのしいし、木村伊兵衛荷風を写した写真でおなじみの出口から吾妻橋を正面に地上に出たあと、松屋神谷バーが同時に視界に入る瞬間も捨てがたい。今回は木村伊兵衛コースで地上に出た。これから神谷バーで今年最後の忘年会なのであった。



2012年という年は、東京駅のレンガ駅舎の復元が巷の話題になっていた一方で、浅草駅の東武ビルディングが5月のスカイツリーの開業に合わせて、昭和6年の竣工当初の姿を彷彿させるコンクリート装へと模様替えをした年であった。かなりの改修をほどこされながらも昭和6年の建物が現在もそのまま残っているということにここ数年極私的に執着していて、東武ビルディングにはかねてより愛着たっぷりだった。2011年の春先にコンクリート装への改装のニュースを知ってから*1浅草名画座へゆくたびに東武ビルディングの観察に出かけては、2階の半円アーチ形の連続窓が姿を現わすのを心待ちにしていたものだった。そして、東武ビルディングの復元が5月に完成した一方で、10月には浅草名画座の方が閉館してしまった2012年であった。




久松静児『渡り鳥いつ帰る』(昭和30年6月21日封切、製作:東京映画)のスチール。浅草松屋東武ビルディングの前の吾妻橋交差点で立ち話をする田中絹代岡田茉莉子。昭和6年の竣工時のコンクリート壁が残っている頃の東武ビルディング。吾妻橋交差点をたくさんの車と一緒に都電が走っていて渋滞している。かつて吾妻橋交差点には、吾妻橋線(上野駅前―浅草)と千住線(駒形二丁目―南千住)の2路線の停車場があった。この写真に写る千住線が吾妻橋を渡ると次の駅は隅田公園。浅草松屋東武ビルディングのコンクリートがアルミのカバーで覆われたのは昭和49年の改修工事のときのことだったので、2012年5月に38年ぶりにコンクリート装に復帰したということになる。




山本薩夫『戦争と人間 第一部』(昭和45年8月14日封切、製作:日活)より。昭和6年9月18日の満州事変を機に大陸に渡り、のちの戦死することになる伊藤孝雄と弟の少年、伊藤孝雄の友人の画家・江原真二郎が3人で隅田川の蒸気船に乗って語り合うシークエンスに写りこむ東武ビルディング。昭和49年の改修工事の前の昭和40年代の東武ビルディング。かつて隅田川の対岸から東武ビルディングが全面見える時代があった。徐々にビルが建ち始めて2階の半円アーチの連続窓の視覚が遮断されてゆくようになっていたサマが伺える昭和40年代の状況を、奇しくも東武ビルディングの竣工した年の昭和6年が時代設定の映画が如実に伝えているという次第。




「浅草駅ビルのリニューアル工事」着工の約3か月後、2011年6月下旬に撮影の写真。東武ビルディングの外観は昭和49年の改修工事の際にほどこされた「カバー材(アルミルーバー)」で覆われている。




同じく2011年6月下旬の撮影写真。正面の「浅草駅」の仮の看板の後ろをのぞいてみると、円形にくりぬかれた昭和6年のコンクリート壁。近代建築の解体工事ないしは改装工事の作業途中は、竣工当時のモダーンな外壁があらわになることがままあるのでこまめに見物に出かけるべきである、ということを第4次歌舞伎座の解体工事のときに戦前の別館の外壁が姿を現わしたときにくっきりと心に刻んだものであった。




昭和49年の改修工事の際に建物全体がアルミカバーで覆われてからも、吾妻橋交差点正面の裏、2階のホームから飛び出した東武電車の線路の上方はコンクリートの外壁のままだった。屋上の煙突ともども竣工時の面影が濃厚に残っている。東武ビルディングに執着するようになった当初からこの煙突が大好きだった。そして、高梨豊の写真みたいに、浅草駅を出発した直後の東武電車が隅田川を渡る直前に通る高架下から東武ビルディングを見やるのが大好きだった。




高梨豊《浅草・東武伊勢崎線ガード》(1986年)、図録『高梨豊 光のフィールドノート』(東京国立近代美術館、会期:2009年1月20日-3月23日)より。『高梨豊 写真集 都の貌』(株式会社アイピーシー、1989年7月15日)に収録されている写真。本書に栞として挟み込まれている大竹誠による解説には、《東武伊勢崎線浅草駅のプラットホームは松屋(昭和六年に建てられた東武ビル・設計は久野節)の二階にある。そのプラットホームを出た電車は、すぐに、下の江戸通りにかかるガードへ達する。その頑強なつくりの鍛鉄製ガードの支持橋脚柱頭には、アールデコスタイルの三角形レリーフが三段重ねに飾り付けられている。》というふうに記されている。



2011年3月に着工された「浅草駅ビル」の外観リニューアルが完了したのは、翌2012年5月18日*2。そして、5月22日に東京スカイツリーが華々しく開業。しかし、スカイツリー開業よりもずっと嬉しかったことは、スカイツリーの開業に合わせるようにしてひっそりと「浅草松屋古本市」が催されたこと。ひさびさの浅草松屋での古本市が嬉しくて、こうしてはいられないと古本市初日、すなわちスカイツリーの開業日の日没後にさっそく浅草に出かけて、かねてより大好きだったモダーンな階段をのぼって3階の古本市に出かけたのは、たいへんたのしい思い出。




スカイツリー開業の5月22日火曜日、すなわち浅草松屋の古本市の初日はあいにくの雨降りだった。古本市では昭和初期の『演藝画報』1冊300円を何冊か買えたから、それなりに満足。吾妻橋を渡ってワインを飲みにゆくとき、傘の下から見るスカイツリーが青く光っている眺めが目にたのしかった。




そんなこんなで、5月26日土曜日。休日の昼下がり、雨の吾妻橋スカイツリーの眺めの余韻とともに、リニューアル後の東武ビルディングの観察をすべく、ふたたび浅草へ。リニューアル完成直後の東武ビルディングの全景。白昼に目の当たりにすると、コンクリートが新しすぎて、ちょっとばかし違和感を覚えるものの、昭和6年の竣工当時の東武ビルディングもこんな感じに真新しかったのかなとも思う。




江戸通りの対岸から半円アーチの連続窓の側面を見物する。半円アーチの連続窓はビルディングの2階部分に位置している。この窓の向こうに東武電車の浅草駅のホームがある。その開業は昭和6年5月25日、ここに東京発のターミナルビルディングが華々しく誕生した。




2階部分の半円窓の上方、すなわち3階から最上階の7階まで四角い窓が連続している幾何学的配置もいいなあ。と、上を見たり下を見たりしながら、歩を進めてゆく。『東武鉄道百年史』(東武鉄道株式会社、1998年9月30日)では、

 設計の基本は、当時流行したネオ・ルネサンス(近世復興)様式で、日本のアール・デコ建築のひとつにあげられている。アール・デコは1925年(大正14)パリで開催された装飾美術展(レ・ザール・デコ)に由来する様式である。この設計は、前述のとおり久野建築事務所で、ほかにも大阪・難波の南海鉄道(現南海電気鉄道)の南海ビル(昭和7年7月竣工)なども手がけた。
 東武ビルディングは当時、哲学、美術、文学などの各ジャンルに流行したモダニズムの影響下に設計されており、柱間に整然と窓が並び、2階の駅部分にはアーチ形の大窓が17個、連続して並んでいるのが特色である。南海ビルは、東武ビルと同じ建築様式によっているため、6階部分に連続アーチが見られる、などの共通点もある……

というふうに解説されている東武ビルディング。昭和6年5月竣工の浅草松屋東武ビルディングと、同じ久野節による翌昭和7年7月竣工の難波高島屋の南海ビルディングとにパラレルに思いを馳せるのはいつもとてもたのしい。モダン都市と郊外鉄道と百貨店。




東武ビルディングの駅部分である2階に並ぶ半円アーチ形の大窓は全部で17個。正面から歩いて、半円窓が5個連続したあと、出入り口があり、そのあと再び半円窓が7個連続したあと、もう一つ出入り口、最後に5個半円窓が連続したところで、建物の末端にゆきつく。この写真は、建物側面に設けられた2つの出入り口の上方部分の装飾。




半円アーチ形の窓が17個並んでゆく、その半円と半円の間のくぼみ部分の上方にほどこされている装飾。




半円アーチの中心の真下、すなわち、東武ビルディングの2階と1階の境目部分にほどこされている装飾。




2階の半円アーチの窓がひとつ現われるごとにその上方に、1階ごとに3列の窓が3階から6階まで並んだあと、6階と7階の間に区切り部分があり、7階部分に3列の窓が1列並び、その上が屋上となる。この写真は7階部分の3×1列の窓と窓の間の装飾。すなわち、2階部分のの半円アーチ形の窓と窓の間を見上げると、7階部分にこの装飾がほどこされている。




『新建築』第7巻第12号(昭和6年12月15日発行)より、《東武鉄道浅草停車場、東側側面図》。などと、上述のように建物の装飾を説明しようとするとまわりくどくなるだけだけれども、この側面図を参照すれば一目瞭然! 半円窓の間の装飾、半円の中心の下に位置する装飾、ひとつの半円窓の上部にひと固まりになっている3×4の四角い窓、半円窓と半円窓の間の柱の上部の7階部分の装飾……。それらの装飾のことを、このたびの外観リニューアルで初めて目の当たりにできて、興奮だった。細かく観察すると、もっといろいろと凝った装飾が見つかるかも。




などと、リニューアル後の外観を目の当たりにした当初は真新しいコンクリート壁面に違和感を禁じ得なかったものの、いざ半円アーチ形の連続窓を有する建物の側面の観察をしてみると、竣工時の装飾が忠実に再現されているという事実に直面して、大感激だった。半円アーチ形の窓が17個続くと、東武電車の線路がニョキッと巨大なビルディングから飛び出る地点にゆきあたる。『東武鉄道百年史』にて、《隅田川沿いに細長く建築された同ビルは、左岸から見て、巨大な船が川に浮かんでいるようで、その腹部から電車が出発していくさまは、空母の射出装置カタパルトから航空機が飛び出てくるさまにたとえられた。》という記述に出会ったときは、たいそう胸が躍ったものだった。1931年型ウルトラ・モダン!




かねてより大好きだった東武ビルディング屋上の煙突。アルミのカバーで覆われていたころから、半円アーチ形の窓の連続が終了し、電車が飛び出て建物がへこんでいる部分、すなわちビルディングの末端部分にのみ、かつてのコンクリート壁面が残っていて、その古色蒼然としたたたずまいが大好きだった。このたびのリニューアルですっかり外壁とてっぺんの煙突が塗り直されてしまった。でも、やっぱり煙突の眺めが大好き。東京中央郵便局の煙突が建て替え後も残されていたことも嬉しかった。と、なぜかビルヂングの屋上の煙突がいつも琴線に触れる。





東武ビルディングの2階、半円アーチ形の17個の窓の向こう側のホームを出発した東武電車は高架を通って、隅田川の鉄橋へと向かう。その高架の下の江戸通りから、東武ビルディングの後方部分を眺める。しみじみ琴線に触れる都市風景!




と、東武ビルディングから飛び出る高架線に興奮のあまり、東武電車に乗って隅田川の鉄橋を渡りたい! と突然思い、イソイソと浅草駅へ。各駅停車に乗ってひと駅の業平橋駅改めとうきょうスカイツリー駅で下車。群衆とともにスカイツリーを背後にしばし歩を進め、絵葉書のようなスカイツリー東武電車の風景を眺める。




そんな絵葉書のような風景も、電車が通り過ぎた源森橋のたもとから、北十間川とともにスカイツリーを眺めると、その河川と高架とスカイツリーとがなかなかの風情。




《浅草松屋東武電車》、『大東京写真帖』(好文閣、昭和7年10月1日発行)より。それまでは業平橋が終点だった東武伊勢崎線隅田川を超えて、現在の浅草駅が開業したのが昭和6年5月25日。この写真に写るのは、枕橋。浅草―業平橋間の隅田川の脇にかつて隅田公園駅があった。隅田川対岸のこの駅からも東武ビルディングはなんて巨大なこと!




源森橋から隅田公園駅のあった枕橋まで、業平橋・浅草駅間の高架の下を歩いてみたいなと前々から思っていたものだった。これはよい機会と、業平橋駅改めとうきょうスカイツリー駅を背後に隅田川に向かって、高架沿いを歩く。正面に隅田川に沿った高速道路の赤い高架が見える。右手は隅田公園、左手がこの高架線。






隅田公園を背後に、業平橋ー浅草間の高架に目をこらすと、昭和6年の開通時のものと思われるいかにもモダンな窓を見出すことができるなあと、古色蒼然とした風情が嬉しい。




北十間川を渡り、高速道路の高架の下から、東武電車の鉄橋をのぞむ。この角度から鉄橋を眺めたのは初めて。




隅田川の対岸から東武ビルディングをのぞむ。竣工当時は《左岸から見て、巨大な船が川に浮かんでいるよう》といわれ、昭和40年代も2階の半円アーチ形の連続窓が対岸から見えた巨大なビルディングも今では右岸沿いの建物に阻まれて、その一部が見えるのみ。




吾妻橋左岸の袂から東武ビルディングの時計台にズームイン。「建設当時、駅ビルのシンボルとして設置されていた大時計を、当時のデザインを参考にしながら復元 *3したという時計台。戦前の東武ビルディングの写真を見ると、いつもこの時計台の上には高々と松屋の社章(明治40年から昭和53年までの長きにわたって松屋のシンボルとなっていた松鶴マーク *4)が描かれた旗が翩翻とひるがえっている。そして戦後、昭和49年の改修工事まで時計台のかつて時計のあった部分には松鶴マークが埋め込まれている。この時計台のことも、このたびの外壁リニューアルで初めて気づかされた。




隅田川より浅草松屋を望む》、浅草松屋開店を伝える「松屋グラフ」(昭和6年11月1日発行)に掲載の写真。先ほど観察していた東武ビル東側側面に、松鶴マークとともに「十一月一日開店浅草松屋」の文字が記されたたすきが4本垂れ下がっている。少なくとも昭和40年代までは、東武ビルディングの広大な側面が隅田川から見渡せていた。





と、吾妻橋を渡って、神谷バーと外壁リニューアル完成直後の東武ビルディングを眺めたところで、2012年5月26日、東京スカイツリー開業直後の東武ビルディング見物を切り上げて、銀座線に乗り込んだ次第。




《淺草雷門驛と百貨店松屋》、『大東京寫眞大觀』(好文閣、昭和7年9月)より。昭和6年5月に竣工した東武ビルディングし、同年11月1日に浅草松屋が開店。この写真帖が出版された当時、吾妻橋交差点の都市風景はもっとも今日的なトピックのひとつだった。写真に添えられた解説には、《浅草雷門附近にある百貨店浅草松屋の全景である。この二階より東武鉄道が発車し、日光及び高崎方面に至る。地下には地下鉄道の始発駅となっている。帝都で最も人出の多い所として知らる。》とある。80年前も今も人出が多いのは変わらない。




そして、2012年の年の瀬。吾妻橋交差点に立ったのは、ここまで長々と書き連ねてきたスカイツリー開業直後の5月末の土曜日の東武ビルディング見物以来のこと。





2012年最後の忘年会は数年ぶりに神谷バーへ。1階の「神谷バー」は満席だったので、2階の「レストランカミヤ」にゆく。階段の天井を見上げると、電灯と影の形状がそれだけでアールデコ


--------------------

*1:東武鉄道株式会社が東武ビルディングのリニューアルを発表したのは2011年3月2日。同年3月2日付けのニュースリリース「浅草駅ビルをリニューアルします」:http://www.tobu.co.jp/file/pdf/99805e13b82b86d1005c128d062e2e55/110302_1.pdf?date=20120313093839

*2:東武電鉄株式会社・2012年5月11日付けニュースリリースに「80年前のモダンな姿に再現 浅草駅ビルの外観完成」:http://www.tobu.co.jp/file/pdf/743c1162e9b68cfbd4b6f944a08367cd/120511_1.pdf?date=20120511124559

*3:東武電鉄株式会社・2012年5月11日付けニュースリリース「80年前のモダンな姿に再現 浅草駅ビルの外観完成」:http://www.tobu.co.jp/file/pdf/743c1162e9b68cfbd4b6f944a08367cd/120511_1.pdf?date=20120511124559

*4:松屋公式ウェブサイト(http://www.matsuya.com/) > 企業情報 > 沿革(http://www.matsuya.com/co/enkaku/index.html