1930年代の都会新風景・空の広告風船玉。鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》からはじまる、アドバルーンにまつわる走り書的覚え書。

昭和6年の『都新聞』の縮刷版を眺めていたら、昭和6年4月23日の紙面にて、「都会新風景 空の広告風船玉」という見出しの記事が目にとまった。

「月もデパートの屋根に出る」の風情でビルデングやデパートの屋根に出る昼間の月――長い尾を曳いて大空にポツカリ浮んでゐる広告の大きな風船玉が、此頃卅一年型の都会風景の一つに数へられるやうになりました、さて、あの風船玉の正体は?
(中略)そもそも風船玉の広告の起因はアメリカださうですが、我国でも実は六年以前からあるのです、而し当時は経費の関係や其他で余り振るはず、従つて人目にも付かなかつたが、経費は安くなる、人間の空への興味は断然加速度的に加はる、そこで一九三一年には俄然、都会風景の尖端ものとして皆様の目にとまるやうになつたわけです、世の航空時代と相俟つて、この広告の立体化、空間化は、今後ますます宣伝の処女地「大空」を開拓して行く事でせう

というふうに書かれてある*1。そうか、アドバルーンが「俄然、都会風景の尖端ものとして」人びとの目にとまるようになったのは、まさにこの時期、昭和6年前半のことだったのだなあと大いに感興がわいたところで、まっさきに思い出したのが、鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》のこと。




鈴木信太郎《東京の空(数寄屋橋附近)》昭和6年、図録『鈴木信太郎展 親密な空間、色彩の旅人』(そごう美術館、2006年)より。


鈴木信太郎がこの《東京の空(数寄屋橋附近)》を完成させたのは昭和6年8月だったというから、『都新聞』に「都会新風景 空の広告風船玉」の記事が出た4ヶ月後。つまり、この作品は、「一九三一年には俄然、都会風景の尖端ものとして皆様の目にとまるやうになつた」という、まさにそのまっただなかの都市風景を描いているということになる。桑原住雄著『東京美術散歩』角川新書(角川書店、昭和39年4月30日)には、

八王子から出てきて荻窪に居を構えてまもない鈴木信太郎は銀座にアドバルーンが上がったといううわさを聞いて、今年の第十八回二科展の絵はだれよりも先にアドバルーンで行こうとひそかに心にきめた。八月も上旬のある日、荻窪からタクシーを拾って数寄屋橋まで乗りつけた。料金は一円五十銭なり。値切れば五十銭でたいていのところに行けた時代のことだ。展望のよくきく朝日新聞社の四階の応接間の窓から素早くスケッチをとった。新聞社のカメラマンに頼んで写真もとってもらった。スケッチをしているうちに、すぐ近くにもアドバルーンが上がった。彼はその大きさに眼をみはったものだ。こうして銀座に通うこと三度、搬入の間ぎわにやっと完成した。

というふうに当時のことが語られている(典拠は未見。上掲のそごう美術館の図録の解説にも同じ内容が書かれている。)。鈴木信太郎は意図的に「都会新風景」としてのアドバルーンを自らの作品のモティーフに取り入れたのだった。


鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》を初めて見たのはちょうど七年前、2006年12月に出かけた八王子夢美術館で開催の《親密な空間、色彩の旅人 鈴木信太郎展》でのことだった(その後、2008年10月に東京都庭園美術館の《1930年代・東京 アール・デコの館(朝香宮邸)が生れた時代》展でも再会している)。この作品はそごう美術館に所蔵されていて、鮮やかな色彩の大きな画面で(サイズは130.3×193.9)、この絵を見ることができる機会は今後もきっと訪れることであろうと思うとふつふつと嬉しくなってくる。画面の上半分では東京の空に浮かぶ風船玉がふんわりと幻想的な雰囲気を醸し出している一方で、昭和4年5月に架橋の数寄屋橋*2、河岸の泰明小学校、その手前の数寄屋橋公園といった都市風景、画面の下半分の町並みは結構リアルに描かれていて、昭和6年時点のこの界隈の都市風景が鮮やかに記録されているという点でも興趣が尽きない。なかでも数寄屋橋公園は、「都会新風景 空の広告風船玉」の記事の2か月前、2月13日付けの『都新聞』の紙面にて「橋のほとりの小公園」という見出しで、日本橋川河畔の神田橋公園とともに近日の開園が予告されていていたばかり*3。つまり、数寄屋橋公園も空に浮かぶアドバルーンとおなじく、この界隈のできたてほやほやの都市風景であった。そして、注目なのは、画面左端のアドバルーンが「しかも彼等はゆく」の広告になっているということ。溝口健二監督の日活京都太秦撮影所作品『しかも彼等は行く』の下村千秋による原作が昭和4年晩春から初夏にかけて『都新聞』に連載されていたことにちなんで、昭和6年6月11日、封切にあたっての無料鑑賞会が都新聞社の主催で賑々しく催されている。その会場となった日比谷公会堂も画面右中央部にかすかに見えるような、見えないような……。




溝口健二の『しかも彼等は行く』のアドバルーンのかかっていた日動画廊の屋上。伏水修監督の『東京の女性』(昭和14年10月封切)の撮影時のスナップ、《「東京の女性」銀座ロケ・スナツプ/明眸原節子が自から自動車を駆つて自動車会社のセールス・ウーマンとして颯爽と登場です。右より君塚水代・江波和子、タイピストたま子・水上怜子、君塚節子・原節子に演技指導をする。演出・伏見修。》、『東宝映画』第3巻第11号・昭和14年10月15日発行より。


日動画廊の建物の正式名称は「日本動産火災保険東京支店」。昭和6年1月竣工だから、実はこの建物も数寄屋橋公園とおなじく、鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》ではできたてほやほやの都市風景として描かれていたのだった。戦前昭和の清水組施工の建物を抄録した写真集、『震災復興〈大銀座〉の街並みから』(銀座文化史学会、1995年12月12日)によると、日本動産火災保険東京支店が竣工した当時の現在の外堀通りはビルがまだ少なく、震災後のバラックが依然残る淋しい場所だったという。それから8年後、昭和14年の上掲の写真の向かいにそびえたっているのが昭和9年9月竣工のマツダビルディング、屋上の右端に見える特徴的な塔屋がかつてはこの建物のシンボルだった(つい最近まで数寄屋橋阪急の入っている建物として骨組だけは竣工当時のまま残っていたものの、現在は工事の真っ最中でこの場所は更地)。鈴木信太郎が《東京の空(数寄屋橋附近)》を描いた昭和6年当時は、数寄屋橋公園日動画廊の間は低層の建物が並んでいて、朝日新聞社からこの方向を望むと、6階建ての日動画廊がもっとも高層の建物だった。鈴木信太郎の絵の3年後の昭和9年9月、朝日新聞社日動画廊の間を隔てるようにして、マツダビルディングが竣工したのだった。




昭和9年11月10日にマツダビルディングの屋上から塔屋の対角線上の銀座3丁目方向を望んだ写真、『震災復興〈大銀座〉の街並みから』(銀座文化史学会、1995年12月12日)より。鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》から3年後、アドバルーンのある都市風景はますます都会の人びとに定着していたことを伝えるこの写真は白黒だけれども、青い空が目に鮮やかに見えるかのよう。アドバルーンを見るということは空を見るということだということに気づく。


そして、マツダビルディングの竣工した昭和9年という年は小林一三による宝塚の東京進出が実現した年であり、東京宝塚劇場(昭和9年1月)、日比谷映画劇場(昭和9年2月)、有楽座(昭和10年6月)が次々と開場していった。その有楽座で全盛時代を謳歌した古川ロッパは、マツダビルディングの最上階の8階のレストラン「ニューグランド」を行きつけにしていた。つまり、鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》は東宝の宝塚進出前夜のこの界隈を記録しているということにもなる。有楽座の跡地は日比谷シャンテとなり、東京朝日新聞日動画廊東京宝塚劇場の建物も建て替えられて、つい最近まで健在だった三信ビル(昭和4年竣工)もマツダビルディングも取り壊されて跡地は現在工事中だけれども、昭和4年6月竣工の泰明小学校だけは昭和6年に鈴木信太郎が描いたのと同じ姿で今も残っていて、向かいのオー・バカナルでこの建物を眺めながらワインを飲むのがいつも大好き。平日の日没後、丸の内の職場から有楽町を迂回して、かつて三信ビル、日比谷映画劇場、有楽座のあった場所を歩いて、右手に東京宝塚劇場、手前に帝国ホテルとなったところで左折して、煉瓦の古い高架をくぐって、泰明小学校を建物を左手、その奥に東京朝日新聞の場所にそびえたつマリオンをのぞんで、銀座に出るというコースをここ十余年折に触れたのしんでいる。そんなこんなで、鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》の都市風景は極私的にかねてより愛着たっぷりなのだった。来年は東京宝塚開場80年の年。




昭和6年8月24日の『都新聞』に掲載の「上野へ上野へ=二科展出品の搬入」の記事。《秋の美術シーズンが来た 廿三日は二科会の搬入第一日目である 昨年予定を超過して四千点を突破したので、例年よりは搬入の日を早めたのである……》というふうにはじまり、《作品を運ぶ看守嬢の汗が滝のようである 室外につくづく法師が激しく鳴いてゐる》というふうに締めくくられる二科展の搬入の喧噪。この年の二科展は9月3日から10月4日まで東京府美術館で開催された。




佐野繁次郎《休日》、『美術新論』第6巻第10号(昭和6年10月1日)より。白黒画像で残念だけれども、鈴木信太郎が《東京の空(数寄屋橋附近)》を出品した二科展に佐野繁次郎が出品した作品。同誌掲載の仲田定之助「モダーニズムの部屋」では佐野の作品に対して、《佐野繁次郎君の作品には建築的な主題を取扱つた「朝」「休日」がある。白、灰、黒等の統一された色態はシツクではあるが、累積された建築群の構成は気取つた描線が弱々しくつて頼りない。》という論評がある。


この年の二科展の第3室は小出楢重の遺作室で、《裸女》や《枯木のある風景》、《鏡と裸女》といった作品が展示されていた。小出楢重は昭和6年2月13日に死去。図録『佐野繁次郎展』(2005年発行)所載の柚花文編「佐野繁次郎略年譜」によると、佐野は大正13年4月に信濃橋洋画研究所に通いはじめている。信濃橋洋画研究所について佐野は後年、《小出楢重さんが他の人の絵も見た方がいいとすすめてくれたからだ。東京はそれから赤坂にアトリエをもってこんど焼失するまでいた。》と綴っている(「わが青春期」、『東京新聞』昭和31年3月7日)。図録『佐野繁次郎展』巻頭の橋秀文氏の文章によると、《佐野繁次郎の戦前や戦中の二科会に出品された作品は、その後、行方不明となりどこに所蔵されているのか、判らずじまいであった。》とのことで、2005年に開催の佐野繁次郎展で展示されていた戦前の作品は、横光利一『機械』(白水社、昭和6年4月)の原画と昭和14年の第26回二科展出品作《アトリエ》(鶴岡市蔵)の2点のみだった。上掲の《休日》は横光の『機械』の原画とほぼ同時期の作品ということになる。




炎天下の舗道で制作に励む佐野繁次郎、『アサヒグラフ』昭和7年8月3日号のグラビア記事「『二科』のお歴々 炎天下の制作ぶり」より。

濾過されたパリ風景
上衣もネクタイも取り、シヤツの袖をまくりあげてブラツシユを鷲づかみに、真夏の日盛りをペーヴメントの上で百号の大物と取つ組み合ひをしてゐる佐野君の精進ぶりは悲壮だ、涼しさうに自動車を走らしてゐた綺麗な女がニコリつと笑つて過ぎて行く

なる一文が添えられている。この記事は「やらせ」感みなぎるグラビアがご愛敬で、佐野繁次郎が前にしているキャンバスをよくよく見てみると、まぎれもなく前年に二科に出品の上掲の《休日》なのだった。



1930年都市風景にまつわる散文、絵画、映画、写真等をつらつら眺めていると、ちょくちょくアドバルーンのある風景が登場し、おのずとここ数年、アドバルーンのある風景にそこはかとなく心惹かれるようになっていた。アドバルーンを初めてはっきりと意識するようになったのは、槌田満文著『文学にみる広告風物誌』(プレジント社、1978年11月5日)がきっかけだったかと思う。この本を手にとったのは、2006年年末に鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》に対面した直後だったから、なおのこと印象は鮮烈だった。この本のなかの一篇、「ふわふわ人生」と題された文章は、

 「空にゃ今日もアドバルーン、さぞかし会社でいまごろは、おいそがしいと思うたに……」という歌い出しの「ああそれなのに」は、星野貞志(サトウ・ハチロー)作詞、古賀政男作曲の流行歌で、昭和十一年から翌年にかけて、レコードが五十万枚も売れる大ヒットとなった。
 坂本英男編『広告五十年史』(昭和26年刊)によれば、アドバルーン(広告気球)をあげたのは大正五年一月に米国の飛行家アート・スミスが来日して飛行ショーを行なったときが最初とされているが、まだ高層ビルが多くなかった昭和初年には、いつも何個か空にただよう都会風物として、その姿は市民の目に新しいものとなっていた。
 「白い雲。ぽっかり広告軽気球が二つ三つ空中に浮いてゐる。――」と書き出された武田麟太郎の「日本三文オペラ」(昭和7年作)は、その近代的なアドバルーンをあげている浅草公園裏口のぼろアパートが舞台。広告文字の綱が「汚い雨ざらしの物干台」につながっている不似合いな光景が、当時の時代相を示しているようだ。

というふうに書き出されて、「アドバルーン」と聞けば誰もがまっさきに思い出すにちがいない織田作之助の短篇『アド・バルーン』へとつながってゆく*4。「今日も空には軽気球[アドバルーン]……」とぼそぼそと口ずさむところで終わる、十吉の「ふわふわ人生」を描いた短篇。その「今日も空にはアドバルーン」は、久保田万太郎の短篇『花冷え』(初出:中央公論昭和13年6月)にも、《……今日も空にはアドバルン。……花ぐもりといってしまへばそれだけの、その空に雲が濃く……》というふうにさりげなく取り入れられていることも、槌田満文は指摘している。


昭和6年4月23日付け『都新聞』に「都会新風景 空の広告風船玉」の記事が出て、その年の二科展に鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》が出展されて、アドバルーンがますます「俄然、都会風景の尖端ものとして」、人びとの目に触れることとなっていたのが、1930年代の都市風景だった。




昭和7年の1月31日の『読売新聞』朝刊に政友会本部に掲げられたアドバルーンの写真が掲載されている。「32年型政戦風景」の見出しとともに、《政友会本部では廿九日「不景気退治の此の一戦」と記した広告風船をあげた 黄色い気球に赤の文字 それが屋上高く漂つてゐるのも三二年式政戦風景の一つ》の文字が添えられている。昭和7年は五・一五事件の起こった年でもあった。




河野鷹思の挿絵、沙門八郎「気球[バルーン]と少女」、『報知新聞』昭和7年4月28日掲載、川畑直道監修・文『青春図會 河野鷹思初期作品集』(河野鷹思デザイン資料室、2000年7月14日)より。「懸賞短篇小説」の1等に入選の本作品は、P百貨店宣伝部入社1年目の「デパートの風船上げ」と自嘲している青年と丸の内のタイピストを目指すエレベーターガールのささやかな恋物語。青年はバルーンを誤って空に飛ばしてしまったことで失職する。この短篇の1年後、昭和8年4月2日の『読売新聞』には「浮かれ広告気球 春空に消ゆ」の見出しで、帝劇で上映中の『お蝶夫人』のアドバルーン木挽町のビルの屋上から飛び去ったことが報じられている。「地上の都人士は何れも手をうつての大喜び」とあるから、宣伝効果がかえって大きくなったかも。アドバルーンにはちょくちょく起こりがちな事態だったのかもしれない。





鈴木信太郎霞ヶ関風景》昭和7年、図録『鈴木信太郎展 親密な空間、色彩の旅人』(そごう美術館、2006年)より。今和次郎『新版大東京案内』(中央公論社・昭和5年7月1日→ちくま学芸文庫)の「動く東京」の「一、官衙」の書き出し、

官衙の文字からして連想は直線的である。曲線ではない。だから、したがつて官衙から柔軟な美を発見することは困難で、そこにあるものは無味乾燥な御役所風、と云つてしまへば、それまでゞあるが、鳥瞰して描写する官衙にも、また時代の変化からきた面白さはある。

という一節をなんとはなしに思い出す霞ヶ関風景。昭和6年の《東京の空(数寄屋橋附近)》に引き続いて、翌昭和7年の二科展に出品の《霞ヶ関風景》でも鈴木信太郎は今度はかすかにではあるけれども、引き続きアドバルーンを描いていたのだった。堅固なお役所の建物の奥にかすかに見えるアドバルーン河野鷹思の挿絵に描かれた「P百貨店」のバルーンなのかもとちょっと妄想したくもなる。




牧義夫《朝(アドバルーン)》昭和7年11月以前、『生誕100年 藤牧義夫』(求龍堂、2011年7月20日)より。同書の作品目録によると、現在は東京国立近代美術館に所蔵されているこの作品は清水正博の旧蔵品。新版画集団の仲間であった清水正博は昭和9年6月、上野松坂屋の中二階で開催の新版画集団四回展の折にに「朝」というタイトルの作品の刷りを藤牧に注文、その際に藤牧が6月16日消印の葉書で「朝はバルーンのとんで居る奴だつたと思ひますが」と返答していることから、当時の目録では図版の確認できない第1回新版画集団展(昭和7年10月15日〜20日に銀座4丁目川島商店楼上で開催)に出品の《朝》がこのアドバルーンの描かれている作品であると推定されているとのこと。




清水正博《バルーン》昭和9年、図録『近代版画にみる東京―うつりゆく風景―』(東京都江戸東京博物館、1996年7月29日)より。白黒の図版で残念だけれども、アドバルーンをモチーフとしたこの作品(和歌山県立近代美術館所蔵)は、もしかしたら、昭和9年6月に清水正博が刷りを依頼した藤牧義夫の《朝》に刺激されて描いた都市風景なのかも。ちなみに、『生誕100年 藤牧義夫』所収「藤牧義夫・略年譜」には、昭和9年6月の項に、《六月初旬 新版画集団員・清水正博が「雑誌部ニュースNo.六」(ガリ版摺り、二枚)に「浅草祭浅草浮世繪集 浅草今昔展より 六月十-三十日」を作成する。その展覧会に鶴岡蘆水の《隅田川両岸一覧》が展示されていた。藤牧はこの展示を観ていたのかもしれない。》という記述がある。藤牧が《隅田川絵巻》の試作に着手したのは、この年の9月中旬のことだった。二人は「新版画集団」の昭和7年4月の設立当初以来の仲間であり、お互いに影響を受け合っていたのだと思う。




『大東京百景版画集』(日本風景版画会、昭和7年10月1日)。昭和7年10月1日、東京市は郊外の隣接町村を合併して15区から35区に広がり「大東京」となり、大正14年4月1日成立の「大大阪」をしのぐ日本一の大都市となった。「大東京」実現を記念して刊行の本書のチラシには、《……東京の現在を後世に遺す目的にてこの画集を計画致しました。版の様式は、ヂンク版とし、我が洋画界の権威者に作を希ひました。作者は去る梅雨の頃により幾多の苦心と大なる努力の結果漸く大東京版画集が出来致しました。収むる内、新市域二十ヶ所は、都新聞の編纂にかゝるを当会がその発行権を譲受け、旧市内十五区四十図を加へて百景と致しました。》とある。

足立源一郎、有島生馬、木下義謙、木村荘八、小島善太郎、小林徳三郎、津田青楓、中川一政、中川紀元、中村研一、硲伊之助、橋本八百二、林倭衛、林武、正宗得三郎、南薫造、森田恒友、矢島賢土、安井曽太郎、山崎省三、山下新太郎、山本鼎、横堀角次郎の計23人の画家による「大東京百景」と個々の風景に対する小文を収録した本書の表紙を飾るのは、「と」の字のサインが添えられたアドバルーンのある東京風景。昭和6年春先に『都新聞』に「都会風景の尖端もの」として報じられていたアドバルーンは、昭和7年成立の「大東京」の都市風景の象徴といってもよいのではないかしらと、ここであえて図式化してしまいたい。

そして、画家たちが「大東京百景」を描き始めたという、昭和7年の梅雨の頃に発表されたのが、槌田満文著『文学にみる広告風物誌』にも紹介されていた、武田麟太郎の『日本三文オペラ』(初出:「中央公論」昭和7年6月)。その書き出しは、

白い雲。ぽっかり広告軽気球が二つ三つ空中に浮いている。――東京の高層な石造建築の角度のうちに見られて、これらが陽の工合でキラキラと銀鼠色に光っている有様は、近代的な都市風景だと人は云っている。よろしい。我々はその「天勝大奇術」又は「何々カフェー何日開店」とならべられた四角い赤や青の広告文字をたどって下りて行こう。歩いている人々には見えないが、その下には一本の綱が垂れさがっていて、風に大様に揺れている。これが我々を導いてくれるだろう。すると、我々は思いがけない――もちろん、広告軽気球がどこから昇っているかなぞと考えて見たりする暇は誰にもないが――それでも、ハイカラな球とは似つかない、汚い雨ざらしの物干台に到着する。

というふうになっている。『大東京百景』の表紙に描かれている「広告軽気球」のふもとはどんなふうになっているのだろう。




牧義夫《新版画集団第2回展ポスター》1933年2月以前、『生誕100年 藤牧義夫』より。前年の新版画集団第1回展に上掲の《朝》を出品した(と推定されている)藤牧は引き続き、このポスターにアドバルーンを描いている。独特のレタリングとレイアウトが冴える。ポスターという広告媒体のなかに、アドバルーンとメガホンをもつ男という二つの広告媒体が描かれているのがどこかユーモラスでもある。藤牧義夫は昭和4年に館林から上京、『きつつき』第3号(昭和6年6月28日)に、《朝霧》が藤森静雄によって「第一回応募作品優秀作」に選ばれたときが初めて版画家として世に出たときだったようだ。この《朝霧》は昭和5年11月9日の制作で、高架線が描かれていていかにも1930年代都市風景の気分がみなぎる作品。以後、藤牧は昭和10年9月2日に満24歳で消息をたつまで、1930年代前半を駆け抜けるようにして都市風景を描いたのだった。




山脇道子《とろけた東京》、『アサヒカメラ』昭和8年8月1日(第16巻第2号)、「カメラは踊る夏のステップ(特集2)」より。《汗でゆだつた銀座のスナツプを、鋏と糊でモンタージユして居る間だけは確かに暑さを忘れて居ます。――二面のフオトモンタージユは合計廿一枚の写真からなる――》。山脇道子作成によるフォトモンタージュのうちの1面には銀座東3丁目の松屋の並び、伊東屋明治製菓銀座売店の建物があしらわれ、明治製菓の後方にあがるアドバルーンには「冷房装置完備」の字幕が下がる。この年の2月11日に新装開店したばかりの明治製菓売店の広告なのかもしれない。銀座の鋪道をゆく暑さでとろけた人びとの目に触れていたアドバルーン


昭和5年9月、山脇巖と道子は夫妻そろって念願のバウハウスに入学したものの、昭和7年9月30日をもってデッサウのバウハウスナチスの台頭によって閉鎖を余儀なくされ、翌月にベルリンで再開のバウハウスに入ることはなく、デッサウの閉鎖を機に昭和7年末に帰国し、山脇夫妻は銀座の徳田ビルに翌昭和8年1月から8月まで居を構えていた。土浦亀城設計の徳田ビルは、鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》に描かれている泰明小学校の並びにあった典型的な近代建築。昭和7年竣工だから、鈴木信太郎の絵には描かれていない。2年余りの渡欧生活を切り上げて、昭和7年末に帰国した山脇巖と道子にとって、アドバルーンのある風景は東京の新しい都市風景として目に映ったのかもしれない。



『都新聞』に「都会新風景 空の広告風船玉」の記事が出たのは、昭和6年4月23日のことだった。昭和6年という年は、2月に『モロッコ』が封切られて、その半年後の8月に国産初のトーキー映画、五所平之助監督の『マダムと女房』が公開され、そして12月31日にはムーラン・ルージュ新宿座が開場した年であった、というわけで、アドバルーンがおなじみの都市風景となっていた歳月は、映画のトーキー化とそれにともなう弁士と楽士の失業と軽演劇の流動とパラレルの歳月ということにもなる。その後、昭和8年4月1日、古川緑波徳川夢声大辻司郎らによる「笑の王国」が旗揚げされ浅草常盤座で第1回公演が開催されて、やがて P.C.L.映画撮影所の映画が次々と封切られてゆくまで、すなわち昭和8年という年を軸に映画、ジャズ、軽演劇、ユーモア小説にまつわるあれこれを、1930年東京の気分ととともに眺めることがここ数年の道楽になっているのだけれども、そこでは、おのずとしばしばアドバルーンのある風景にゆきあたる。アドバルーンは1930年代東京の軽演劇をとりまくふわふわした気分にいかにも似つかわしいといつも思う。




《ナヤマシ会第8回公演プログラム》昭和6年11月29日・日比谷公会堂、原健太郎『東京喜劇〈アチャラカ〉の歴史』(NTT出版、1994年10月7日)に掲載の図版。大正15年10月の第1回以来、昭和7年まで計9回開催されたという「ナヤマシ会」の第8回公演プログラムの表紙はアドバルーン! 昭和6年11月29日午後6時開演(進行指揮:田中三郎、音楽指揮:福田宗吉)、第1部は徳川夢声松井翠声大辻司郎、井口静波の漫談、古川緑波声帯模写。第2部は、菊池寛作・古川緑波演出『父帰る』(装置は澤令花)、大辻司郎作・演出『拳闘時代』(「文壇の大家」の久米正雄が特別出演)、川口松太郎作・演出『寸劇』(鈴木伝明ら不二映画総動員)、山野一郎作・演出『人斬左膳』(装置は河野鷹思!)、古川緑波作・演出『又飛び出した二村定一』(ホンモノ二村定一特別出演! 装置は澤令花)、徳川夢声編集『吉例アヴアンガルド・モンタージユ』(ナヤマシ会全員総出演)……という感じに、プログラムを書き写しているだけて、表紙のアドバルーンさながらに心は浮き立つばかりなのだった。




『日の出』昭和8年12月1日発行号別冊附録、『漫談競演集』の見返しの「ファインゴム」の広告。「ファインゴム」なる商品は靴底もしくは足袋に使用して背を高く見せる道具、らしい。この『漫談競演集』の扉ページの岡本一平による似顔絵は、金語楼夢声大辻司郎、ロッパ、エノケン等々、この小冊子の目次を彩る人びとが重ね合わせられているという構図。漫談と軽演劇レヴュウの1930年代の時代相を体現するような顔ぶれに、隣の広告のアドバルーンがよく映える(ような気がする)。


アドバルーンが最初に映った映画もおそらく昭和6年に制作の映画なのだろうけれども(いつかきちんとコレクションしてみたい)、P.C.L. 映画においては、第1回作品の大日本麦酒タイアップの『ほろよひ人生』(昭和8年8月17日封切)に引き続く、第2回作品の明治製菓タイアップの『純情の都』において初めてアドバルーンが登場している。



木村荘十二『純情の都』(P.C.L.、昭和8年11月23日封切)より、古川ロッパが支配人をしている「明治スヰートショップ」の開店を知らせるアドバルーン。青い空にまずは花火が打ち上げられて、紙吹雪が散って、そのあとに高々とアドバルーンが掲げられる。P.C.L.映画においておそらく最初に登場したのが、たぶんこのアドバルーン




そして、翌年、麻生豊の漫画を映画化した、同じく木村荘十二監督の『人生勉強 続篇・只野凡児』(昭和9年7月12日封切)においては、藤原釜足演じる只野凡児が入社するのは「大日本風船株式会社」なる会社で(上司が徳川夢声、同僚の「茶狩君」が御橋公)、この会社はどうやらアドバルーン制作を請け負っている様子なのだった。事務に倦んだ釜足がふと窓の外を見ると、これでもかとアドバルーンがあがっている。明らかにセットのおもちゃみたいなアドバルーン。ちゃっかり、同年11月1日公開の P.C.L.映画、山本嘉次郎『あるぷす大将』のアドバルーンも紛れ込んでいる!


そんなこんなで、P.C.L.映画にはアドバルーンがよく似合うのだった。そして、いよいよ翌年、徳川夢声の初「主演」映画でもある、木村荘十二『三色旗ビルディング』(昭和10年7月11日封切)ではアドバルーンが大活躍する。



封切前日の昭和10年7月10日の『東京朝日新聞』に掲載の広告。舞台は、「三色旗ビルディング」という名の3階建てのアパルトマン。1階は夢声経営の「フランス軒」という名の洋食レストラン(見習いコックが岸井明)と床屋(親方が西村楽天、理髪師三島雅夫、常連客に元弁士で今は保険外交員の小沢栄)、2階には東屋三郎演じるインチキ牧師(この映画が東屋三郎の遺作に…)、ヘンリーという名の謎の男・佐伯秀男らが、3階には髭の書生・嵯峨善兵、漫才師のラッキー・セブン、関西弁の詐欺師・生方賢一郎とその妾の細川ちか子らが住んでいる。そして、屋上にはアドバルーンがあがり、風船上げの仕事を請け負っている加賀晃二が夢声の一人娘・神田千鶴子の恋人。この広告、映画の設定が実に正確にイラスト化されていて、見事。



木村荘十二『三色旗ビルディング』(P.C.L.、昭和10年7月11日封切)。タイトルバックは、登場人物が紙芝居屋の丸山定夫によって紹介されてゆくという趣向。絵は装置担当の山崎醇之輔によるものかな? 3階建てのアパルトマンで屋上には、つねにアドバルーンが常備されていて、翩翻とひるがえる「SB」マークの旗とともに、高々と大空に掲げられる。



映画の幕開け、屋上にはこのビルディングの持ち主の徳川夢声。「流線型の禿げ頭」とナレーションされる夢声の左後方に流線型のバルーン。空を見上げると小さく見えるアドバルーンも間近で見ると結構巨大。このあと、夢声は詐欺師にだまされて、アパートを乗っ取られてしまう。そんなことはつゆ知らず、のんきにパイプをくゆらす夢声



夢声の一人娘・神田千鶴子の恋人の加賀晃二がこのアパートの「風船上げ」に従事している(のちに市役所に就職)。垂れ幕にはちゃっかり「トーキーはP・C・L・」の広告。この映画、ビルディングの近隣に砧撮影所らしき近代建築がうっすらと見えるのもたいへん興味深い。夢声のアパートが関西弁の詐欺師・生方賢一郎(手下が森野鍛冶哉)の手に渡り、「三色旗ビルディング」は「万アパート」へとその名を変え、屋上の旗も「SB」マークから「万」マークへと変えられてしまう。傷心の神田千鶴子。屋上で加賀晃二と軽い口げんかをしてしまうものの、飛んでいきそうになったバルーンを戻すべく格闘しているうちに、「ああ、びっくりした」とふたりは仲直り。アドバルーンも繋留機も本物が使われている。



アパートの住人・藤原釜足の機転もあり、三色旗ビルディングはめでたく夢声の手に戻ることになる。夜、生方賢一郎と森野鍛冶哉は泥棒として侵入、アパート中の人びとが一丸となって、二人を屋上に追い詰める。神田千鶴子と加賀晃二は裏の階段から屋上に潜入、悪漢二人をアドバルーンに吊し上げることに成功!



めでたし、めでたしの大団円。万国旗ひしめく屋上。旗はこれでもかとひしめくものの、ラストは残念ながら、バルーンは見当たらず。加賀晃二の右に繋留機だけはしっかり確認できる。『徳川夢声のあかるみ十五年』(清流出版、2010年12月27日)にある、

 最終場面[ラスト]の「めでたしめでたし」のシーンでは、今まで登場した人物が全部集って、手をつなぎ歌を唄い、カーニバルのごとく踊ろうという、素晴しき豪華ショウとなる――筈なのだが、唄も知らなきゃァ、踊も知らない、ラジオ体操をやらしても揃うかどうか、という連中が、俄か稽古で、監督に叱られるからやるんだから、世にもお寒い貧弱ショーにしかなれない。何しろ、この大光景[ビックシーン]に飾られた、万国旗が、田舎の小学校みたいに、紙製のペラペラの旗で、折からの強風に、片っ端から千切れて飛ばされちゃったのであった。
 おゝ、世にもナサケナの最終場面[ラスト]よ!
 神田千鶴子嬢と、加賀晃二君とに左右から腕を組まれて、ピョンピョンと踊っている禿頭の私を、試写で見たとき、私は涙がこぼれそうであった。
 おゝ、世にもナサケナの吾が姿よ!

という、夢声自身の回想を反芻しながら見ると、またひときわ味わい深いラストシーン。夢声はこんなふうに書いているけれども、セリフなしで音楽だけで進行するパントマイムめいたシークエンスは稚拙ではあっても、今見てみるとそれはそれでとてもたのしい。この映画の音楽監督は池譲。


昭和10年7月封切の P.C.L.映画『三色旗ビルディング』の原作はサトウハチロー夢声は、アドバルーンで悪者をとっちめるシーンについては、

 このドタバタ中で、もっとも振っていた光景は、屋上に追いつめられた悪漢二名が、アドバルーンに縛りつけられて、空中高く昇るといふ珍趣向である。元来、アドバルーンといふもの、人間一人を吊り上げる程の浮力もない筈である。(例外に大きいのがあれば別だが)それが大の男二人までも、軽々と吊り上げようというのだから、土台無理だ。それは、撮影のことであるから、アドバルーンが、丸ビルをぶら下げるようにも撮れる事は撮れるだらう、然しさういふトリツクを使用しては、芝居によつては目茶苦茶に打ち壊しとなる訳だ。現にこの映画、途中頃までは酷くまともに、写実的[リアル]に芝居が進められてゐる。それが何の予告もなく、とたんにアメリカ・ナンセンス喜劇風な、ドタバタとなるのであるから、助からない。

というふうに、大いにクサっているのだけれども、昭和6年ぐらいから空にぽっかり浮かぶアドバルーンがおなじみの都市風景となっていったなかで、あそこに人が吊られたらどうなるかなとチラリと思ったことのある人はきっと多かったに違いない。この珍趣向は原作者のサトウハチローのアイディアなのかな、いかにもユーモア小説的、そして軽演劇的。サトウハチローといえば、「アドバルーン」と聞けば誰もがまっさきに思い出すに違いない、美ち奴の流行歌『あゝそれなのに』の作詞者でもある。空にゃ、今日もアドバルン♪ 1930年代の「アドバルーン文化史」というものがあるとしたら、サトウハチローはまっさきに語られる人物ということになろう。



昭和6年頃から都会の人びとの目に頻繁に触れるようになった、当初「広告気球」と呼ばれていた「空の広告風船玉」が、「アドバルーン」と呼ばれるようになったのは『世界大百科事典』の記述によると昭和8年ぐらい、もしくは、昭和11年に『あゝそれなのに』で歌われる直前の昭和10年頃ともいわれている。昭和11年という年は「二・二六事件」に際して、反乱軍将兵に「勅命下る 軍旗に手向ふな」と帰順を呼びかけるアドバルーンが人びとに強烈な印象を残した年だった。野口冨士男著『私のなかの東京』(文藝春秋・昭和53年6月25日→岩波現代文庫)によると、このアドバルーンは掲揚されたのは、築地座をはじめとする新劇の公演場所にちょくちょく使われていた昭和4年6月竣工の飛行館の屋上、田村町交差点のすぐ近く。


その「二・二六事件」の起こった昭和11年に撮影されたジャズ映画が、鈴木伝明が監督した、中川三郎とベティ稲田主演の『鋪道の囁き』。去年秋にインディーズで発売された DVD の瀬川昌久氏による解説によると、《加賀四郎の独立プロダクション第1回作品として、昭和10年中に撮影し、11年5月に封切予定だったが、封切館を契約できず、オクラになってしまった本作品は、戦前の日本制作の音楽・ダンス映画として、最も内容の充実した本格的な作品に仕上がっている》。清流出版で復刊された、瀬川昌久著『ジャズで踊って』(2005年10月23日)の表紙にもこの映画のスチールが使われていて、それがいかにもぴったりな、1930年代のジャズとダンスの資料という点でみどころたっぷりの仕上がりで、初めて見たときは大感激だった。



その『鋪道の囁き』のタイトルバックでは、ベティ稲田の似顔絵とともに、映画の主題歌『鋪道の囁き』が心地よく流れる。ベティ稲田とリキー宮川の唄う『鋪道の囁き』は、藤浦洸作詞・服部良一作曲、コロムビア・レコード(番号28888)から昭和11年6月に発売された。この唄の終盤、「優しい心 強い腕 若い僕らはジャズが好き 青空高くアドバルーン あれは僕らのシンボルだ 風のまにまに流れているが 夕日に映えて赤く燃ゆ」という歌詞がある。



と、『鋪道の囁き』のタイトルバックで「青空高く アドバルーン〜♪」の歌詞が唄われる頃、静止していたベティ稲田の似顔絵が動き出し、この似顔絵が実はサンドイッチマンだったという展開となる、とても洒落た演出。この画面の右奥にうっすらと本物のアドバルーンが見える。そして、正面左奥の大きな建物はよく見てみると、東京宝塚劇場なのだった。「ロザリータ」の文字が書かれた垂れ幕がかかっている。『東宝十年史』(昭和18年12月5日発行)所載の「東京宝塚劇場興行年表」を参照すると、昭和11年6月3日〜28日の雪組公演の演目のなかに、東信一作『ロザリータ』があるから、その頃の撮影ということがわかる。このあと、右方向へくるっとカメラが移動し、三信ビルの特徴的な建物が映って、本篇がはじまる。当時、三信ビルと東京宝塚劇場の間は空き地になっていた。右奥にうっすらと見える本物のアドバルーン日比谷公園霞ヶ関の方角にあがっているということになる。


昭和11年にはすっかり「アドバルーン」という言葉は定着していて、年末には、十一谷義三郎の『あど・ばるうん』(改造社昭和11年12月13日)という作品集が刊行されている。そして、そのちょうど2年後には、林二九太の『人生アド・バルーン』と題されたユーモア小説集が刊行されている。



林二九太『人生アド・バルーン』新版ユーモア小説全集第6巻(アトリヱ社、昭和13年12月25日)の表表紙(上)と裏表紙(下)。装幀:小野佐世男

他愛ないと言ってしまえばそれまでの、1930年代東京を舞台にしたユーモア小説集で、同時代の映画を見ている時間のような、さわやかな読み心地。古本でしか読めない作品ならではの特になんということもない感じだからこそ、かえって味わい深い。「小説」というよりも「読み物」という言葉がぴったり、そして、よい匂いのようにしてただようモダン味に心地よくひたりながら、紙上の1930年代東京に思いを馳せる時間が格別。たとえば、ある読み物では、東京劇場で曾我廼家五郎劇を見たり、銀座三越で見合いをしたり、銀座のコロムバンの2階でお茶を飲んだり、「近頃流行のハイキング」という言葉が出てきたりする。

表題作の『人生アド・バルーン』は、四谷塩町から東京駅に向かうバスのなかで、大学は出たけれどの「ルンペン学士」のお人よしの青年と小田急沿線の参宮橋の郊外住宅に住む令嬢がひょんなことから知り合い、親しくなってゆくというお話。令嬢は、「これからの人間は、人がいゝばかりぢやア駄目よ。アド・バルーンみたいに、人の目に付くやうなことをそなきやア、出世しないわよ」と、ルンペンの青年を一生懸命励ます。そして、別の読み物では、「今日も空にはアド・バルーン」と酔っ払って歌う場面もあって、ここでは「時代遅れの流行歌」というふうに形容されている。これらの十数篇の読み物は後半になってゆくと、だんだん戦時色がただよってくる。大正4年生まれの戸板康二は昭和の年に十を足した数が年齢になるのだが、「わが十代」(初出:「毎日新聞昭和32年3月→『ハンカチの鼠』三月書房・昭和37年11月15日→旺文社文庫)というエッセイで、自身の十代のことを《戦争に突入する前の小春日和とでもたとえたい、わが十代であった。》というふうに書いている。アドバルーンが掲げられていた時代は、戸板康二言うところの「戦争に突入する前の小春日和」の時代とぴったり重なるのだった。



アトリヱ社の「ユーモア小説全集」には、小野佐世男の挿絵が実によく似合う。林二九太著『人生アド・バルーン』にもとびきりチャーミングな装画を描いた小野佐世男。扉ページも見逃せぬ、ウィットあふれる挿絵にアドバルーン好きは大喜び。『三色旗ビルディング』の屋上にあったのとおんなじ、アドバルーンの繋留機。



『三色旗ビルディング』が封切られた昭和10、この年の1月、大阪歌舞伎座の初春興行に出ていた花柳章太郎は『演劇随想 映鏡夜話』(「演劇新派」昭和10年2月5日・第3巻第2号)にて、以下のように綴っている。

 歌舞伎座の三階の私の部屋は北向きになつてゐます。窓の外には麗かな空がひろがつて気球[アドバルーン]に初詣の広告が長閑に浮んでゐるのも正月らしい感じです。家根を超えた向ふの古風な赤煉瓦の中座の楽屋からしらじらと昼の電灯が灯つてゐるのが見えます。
 やつぱり真昼の落つかない白つちやけた景色――
 ――かうした景色をぼんやり眺めながら私は弁天小僧の顔をこしらへてゐるんです。
 春芝居特有なのんびりした気持ちです。

このあと花柳は、まだアドバルーンなどなかった三十年近く前の明治期の道頓堀の正月興行、中座では成駒屋以下の大歌舞伎が、朝日座では高田、喜多村らの新派が人気を競っていた時代の道頓堀のことをチラリと思い出すのだったが、その鴈治郎は前月に倒れて入院し、この翌月の昭和10年2月1日に他界する。このとき花柳が見ていたアドバルーンは千日前の歌舞伎座の北側、道頓堀の中座の方角の空高くに浮かんでいたのだった。




『プレスアルト』第23号(1938年)、橋爪節也著『モダン心斎橋コレクション』(国書刊行会、2005年9月17日)の「第八章 アートづくしの心斎橋――美術・デザイン・写真・音楽・文藝」の章の《高島屋から見た大丸、そごう 今竹七郎「窓」》の項に掲載の図版。花柳が大阪のアドバルーンのことを書いた3年後の昭和13年、難波の高島屋の宣伝部にいた今竹七郎が見た「窓」の外にはやっぱりアドバルーン。《高島屋のデザイナー今竹七郎が難波の高島屋から北側を写したスケッチと詩。アクティヴで刺激的なデザイナーの日常が詩画に定着される。正面の建物は大丸、そして、そごう百貨店である。》という素敵な解説が添えられている。この「世紀のテレヴィ」の言葉のある詩の末尾には、「一九三八・一二・七」の日付。


昭和6年ころから「都会新風景」として如実に人びとの目に触れるようになったアドバルーンは、第二次大戦の進行とともに徐々に使用が制限されてゆき、昭和18年には全面的に禁止され、アドバルーンは軍用にのみ用いられることとなった。




中井赳夫《皇軍鄭州入城》昭和16年、図録『視覚の昭和 1930ー40年代展』(松戸市教育委員会社会教育課美術館準備室、1998年)より。」



アドバルーンが戦後復活するのは昭和24年6月だったから、銀座や新宿の盛り場に姿をひさしぶりに姿を見せたアドバルーンは平和の象徴して人びとの目に映ったのかもしれない。アドバルーンGHQ により正式に許可されたのは昭和24年11月25日のこと。昭和25年3月2日付けの『読売新聞』に前日の3月1日、「ヨミウリ放送創立事務所」のアドバルーンが銀座の本社屋上に掲げられたことが報じられている。そして、1930年代とおなじように、アドバルーンは1950年代以降の空にひしめくようになってゆき、それはいつのまにか、高度経済成長期のシンボルのような存在となる。小津安二郎成瀬巳喜男を典型にして、1930年代と1950年代とをその青年時代とその成熟という観点でパラレルなものとして概観するということは、蓮實重彦の文章を読んで以来、ずっと心にベタリと貼りついている。また、海野弘が「女性都市東京」(『日本の化粧文化 化粧と美意識』資生堂企業文化部・2007年2月発行)という文章で、1930年代と1950年代のそれぞれの東京とその女性たちの姿を語っていたのもずっと心に残っている。1930年代と1950年代、それぞれの都会の空の上にはたくさんのアドバルーンがゆらめいていた。




福田勝治『続 女の写し方』(アルス、昭和14年6月4日)より。「銀座七丁目にて、十月、晴、午後一時」に撮影の「銀座の流しのお嬢さん」の背後の服部時計店のあたりに、うっすらとアドバルーンが浮かんでいる。




図録『写真家/福田勝治展ー孤高のモダニストー』(山口県立美術館、1994年10月7日)より、福田勝治による戦後の銀座の写真。宵闇の銀座、ネオンサインはまだ点灯しておらず、アドバルーンがまだあがっている夕闇の銀座。ちなみに、銀座5丁目の森永製菓の地球儀型ネオンが点火されたのは昭和28年4月11日(『森永製菓五十五年史』昭和29年12月20日発行)。




同じく、図録『写真家/福田勝治展ー孤高のモダニストー』に掲載の銀座の写真。西銀座デパートのアドバルーン。撮影場所はマツダビルディングのあたりと思われる。

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*1:この記事では「風船玉の広告の起因はアメリカ」となっているけれども、広告気球=アドバルーンは日本独自の広告媒体であるようだ。『世界大百科事典』(小学館、2007年9月1日改訂新版)の「アドバルーン」の項には、《日本で生まれた広告媒体で、名前も ad(広告)と balloon(気球)を組み合わせた日本製の造語。日本における気球の実用化は、明治時代に山田猪三郎によって行われ、軍事偵察、高層気象観測、広告などに使われた。1913年には中山太陽堂、次いでレート化粧品が広告に利用している。広告媒体としての本格的な事業化は、21年水野勝蔵の引告堂によって行われた。彼は、ゴム引き気球に銀粉を塗布して美観を向上させるくふうをし、社名を銀星社と改めた。当初は〈広告気球〉と呼ばれていたアドバルーンだが、33年ごろには流行歌にも歌われてこの名が定着、33年から37年にかけて隆盛期を迎えた。(執筆:星野匡)》とある。中山太陽堂がアドバルーンの先駆けなのだった。

*2:土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブス内の「関東大震災復興工事関係写真(http://library.jsce.or.jp/Image_DB/shinsai/kanto/)」で数寄屋橋の写真(http://library.jsce.or.jp/Image_DB/shinsai/kanto/kyouryou/si022.html)を参照すると、橋の上に並ぶ外灯の形状を鈴木信太郎が結構リアルに描いていることがわかる。架橋後2年の真新しい数寄屋橋の姿。

*3:同記事に、《また市の復興小公園が二つ、竣工し近く開園する――数奇屋橋公園は数奇屋橋の銀座より泰明小学校に隣して設けられ、北詰の中央露壇上に日露戦役忠魂碑が立てられ、広場には露台飲用水栓等を配置し周囲は植込で囲んでゐる、西部は六百坪あり東側が自由広場西側が児童遊園場になつてゐる、露壇の瀟洒な休憩所が設けられてゐる……》。

*4:織田作之助の『アド・バルーン』の初出は「新文学」昭和21年3月。「ユリイカ」1989年3月臨時増刊《総特集 監督川島雄三》(第21巻4号)所載、「織田作之助の手紙」(初出:「東京」(新生社)昭和23年1月号)のうち、昭和20年6月30日付け川島雄三宛て書簡に、《さいきん「今日も空にはアドバルン……」の一句を以つてはじまる「ああそれなのに」といふ歌を、さる佳人(当年二十一才、志賀山流名取)よりならひ覚えて、もつぱら口ずさんでゐましたが、つひに気持昂じて「アド・バルン」と題する小説七十四枚書きました。なつかしの笠屋町、畳屋町など出てきます。》という一節がある。この年の3月13日の空襲で島之内は大きな被害を被っていた。ちなみに、織田作之助の『アド・バルーン』でも、《空には軽気球がうかんでいて、百貨店の大売出しの広告文字がぶらさがっていた。》という一文が登場するのは「満州事変が起った年」、すなわち昭和6年に設定されている。