フランス風序曲

終日在宅。あまりお正月っぽくなく、ふつうに起きてお茶を飲んだり本を読んだりして音楽を聴いたりで、静かに一日が終わった。と言いつつもやはり新年を意識し、午前中はモーツァルトの『魔笛』をひさしぶりにまさしく1年ぶりに通して流した。お正月の音楽はダンゼン『魔笛』なのだ。なんとなくいい1年になりそうな気がする、これを聴くと。夜は毎年のお約束、ウィーンフィルニューイヤーコンサートを流しながら、本読み。タンタララタン……と、ラストの《ラデツキー行進曲》になると本を置いて思わず一緒になって手をたたいてしまった。昨日今日で、年末年始にも飽きてしまったので明日からは通常モードにしたい。と思ったら明日はもう金曜日で土日と、お正月休みも残すところあと3日であった。

何年か前のお正月にバッハの何かの音楽を聴きながら『バッハ事典』を参照して、バッハが「フランス風序曲」を新しいものの開始の象徴としてしばしば用いている、ということを知って、新年にぴったりとますます気分上々だった。「フランス風序曲」は《ゴルドベルク変奏曲》の後半のはじめの16曲目で用いられているということも初めてしっかりと認識した。あらためて聴いてみると、そういえばここでいつも違うところから光が射し込んで「あっ」と顔を上げたような感覚で、いつも動きを止めて耳で音を追っていたなあということに気づかされて、あらためてグールドのディスクにひったりした。

今日はいろいろな音楽を聴いた。こんなに思う存分音楽を聴いたのはひさしぶり。このところのお気に入り、鈴木秀美無伴奏チェロの第3番では、ワクワクしっぱなしだった。で、ふとその「フランス風序曲」のことを思い出して、新年なので、今までもっともじっくりと聴いている第5番をあらためて姿勢をただして聴くことにした。5番のプレリュードは6曲中、唯一フランス風序曲の形式をとっている。それにしても、どこを聴いても、鈴木秀美さんのチェロにはわくわくしっぱなし。

あまりきちんと解剖しきれてはいないものの、少しずつ無伴奏チェロに立ち向かっているここ数年。そのきっかけは、四方田犬彦の文章だった。で、ひさしぶりに読み返して、鈴木秀美さんのディスクを前に、新しい気持ちでもう一度無伴奏チェロに対峙しようというところ。

無伴奏チェロ組曲』は、まことに聴くたびに新しい発見のある作品である。第1番では、あたかも高い断崖を見上げ、また深い谷底を覗きこむかのようなプレリュードが、いかにも厳粛に、巨大な書物の扉が開かれるかのように開始される。やがて荘重なアルマンド、野原で猟犬が飛び回っているようなクーラントへと、めくるめく世界が変わってゆく。第2番はいくぶん憂鬱そうな調子のプレリュードで始まる。だがクーラントに至って、スケートの回転のように敏捷となり、気がつくと堅固な均衡をもったメヌエットまで来てしまっている。第3番では、ジークの挑むような誇りの高さが、今のわたしにはもっとも好ましい。第4番では、どこまでも伸びてゆくプレリュードのスラーと、組曲のなかでもっとも小さい曲であるクーラントの潔さがいつまでも印象に残っている。正直にいって、第6番はまだよくわからない。もともとチェロの傍らにあった別の楽器のために編まれた組曲であるからかもしれないが、これからの愉しみという気がしている。第5番のサラバンドについては、別に語るべきかもしれない。現世に別れを告げるにあたって、『組曲』の全部を通して聴いている時間がないからと死神にいわれたとしたら、わたしは躊躇なくこのサラバンドを選ぶだろう。6つあるサラバンドのなかでもとりわけ単純に見えるようでいて、どこまでも奥深く進むことのできる不思議な魅力をもっていて、聴く者をしてかぎりない内密性の世界へと連れ去ってしまう。(四方田犬彦『心ときめかす』より)