木村伊兵衛と土門拳

12月、河野鷹思の展覧会に大興奮した直後に、名取洋之助と日本工房に関する展覧会を見学することができた。そして、今回は、第一次・第二次の日本工房にそれぞれ登場する、木村伊兵衛土門拳の写真展を見るという巡り合わせとなった。展覧会のチラシにある通り、小型のライカを使って自由なアングルで何気なく写真を撮った木村伊兵衛と被写体をギリギリまで見据えて挑むようにシャッターをきった土門拳、江戸っ子の木村伊兵衛に東北生まれの土門拳、といった感じに、両者の鮮やかなコントラストに着目した展覧会となっていて、同じ被写体にそれぞれの写真を並べるという構成でとてもわかりやすくて見物がたのしかった。対照的でありながらもどこかで共通するところもあったりして、写真の面白さのようなものをしみじみ味わった幸福な展覧会だった。

展覧会は被写体別に、沖縄、東北、子供、歌舞伎・文楽、東京下町、職人、肖像写真……といった感じに並んであって、それぞれがとてもよかった。沖縄や東北地方では、日々の暮し、日常生活の中の永遠のようなものを写す木村伊兵衛と、社会派! といったふうな迫力の土門拳。映画を見るように1枚の写真にそこの風景を封入している木村伊兵衛、と説明書きがあって、なるほどなと思った。

特に面白かったのが、高峰秀子を写した2枚の写真。銀座の街かどで「映画女優!」な高峰秀子を写した土門拳と、室内ですっぴんで黒無地の結城のきものの一瞬の表情を写した木村伊兵衛。パネルに高峰秀子自身の回想が添えられいる。梅原龍三郎と同じように、「被写体の内側に土足で入り込む」土門拳に撮影当日困惑したこと、いつのまにかさらっと撮ってしまったおしゃれでいなせな木村伊兵衛高峰秀子自身が木村伊兵衛の写真を見て「私とは似ても似つかない美女」というふうに書いている。まさしく、ちょっと奇跡的な写真だった。でも、銀座の路上で、映画女優を見つめる通行人の表情を鮮やかに切り取ると同時に人工的な女優の姿を捉えた土門拳の写真もとても面白くて、現在これらの写真を見ることができる幸福を思った。

同じ被写体というと、久保田万太郎谷崎潤一郎といった肖像もあり、木村伊兵衛の万太郎(向島百花園でたたずむ)は何度も見ているけれども、土門拳の万太郎はあまり見る機会のないもので、いかにも「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」と詠みそうな万太郎で、内面の奥底が写っているような感じがした。文士の風貌というと、里見とんと泉鏡花が向かい合っている写真、木村伊兵衛の写真も嬉しかった。キセル遣いがきまっている!

あと、ウルウルだったのが子供を写した写真の数々で、目にうつるすべての写真にうっとりだった。うっとりといえば、その究極が歌舞伎と文楽のところ。ここでも木村伊兵衛土門拳の対照性が際立っていて、江戸っ子の芝居好きの木村伊兵衛はライカを使って様々な場所から舞台を自在に撮影していて、見る方はその写真のなかの観客のひとりになったような気分になるような仕上がりになっている。文楽を映した土門拳は固定のカメラを多用していて、その仕上がりはまさしく図鑑のよう、当時の文楽にまつわる諸々が真空パックのようにパリッとおさまっている。

順路は、木村伊兵衛の歌舞伎の写真が先になっていて、そのあまりの素晴らしさは「キャー!」の一声だった。六代目菊五郎極楽寺山門の場の弁天小僧の身体! 花道の白拍子花子の後ろ姿! と、菊五郎の写真がとりわけ嬉しかった。満席の劇場、観客のすべてが花道に立つ菊五郎白拍子花子を見つめている。ただうっとりと見つめている。河原崎長十郎の写真が2枚、勧進帳と鳴神があって、その歌舞伎十八番なショットが美しかった。と、歌舞伎写真にウルウルしていると、ほどなくして土門拳文楽になってしまって、「もうちょっと見たかった」と歌舞伎に後ろ髪をひかれる思いだったのが、土門拳文楽もすばらしかった! 文五郎に栄三、山城少掾と清六、などなど、気分は一気に三宅周太郎の『文楽の研究』だった。人形、床、舞台などを映す数枚の写真、文楽の独特の陰翳のようなものがひとつの美となって昇華していた。

などなど、結構ありきたりな写真展かなあと思っていたのが、いざ見てみると大興奮だった。これはぜひとも図録を買わねばと売場に突進してみたら、展覧会が始まってまだ1週間もたっていないのにすでに売り切れていた。たしかに図録を買いたいと思わせる展覧会だったのだと思う。予約すれば、来週郵送してくれるとのことなので、嬉々と申し込みを済ませた。というわけで、来週、図録が届くと思うと、とても楽しみ。まっさきに開くのはやっぱり菊五郎白拍子花子かな。