鎌倉の休日

foujita2004-03-13


とてもよいお天気でうららかな春の鎌倉だった。近代美術館の展覧会にたいへん堪能、そのあとにふらりと立ち寄った古本屋さんではいい本が買えて、そもそものお目当ての落語会も大満喫、なにもかもが完璧の鎌倉の休日だった。そのあとさきでちょっとした路地を歩くひとときがとても素敵だった。

かまくら落語会目当てに訪れる鎌倉、さて今、近代美術館ではどんな展覧会が催されているのだろうと調べてみて、松本竣介と麻生三郎の展覧会だと知ったときは狂喜乱舞だった。この展覧会だけでも鎌倉に行ってしまっていたに違いない。そして、展覧会そのものも期待以上にすばらしいもの。外の椅子に座ってぼーっと眺めた池の水面がキラキラと輝いていてうっとりだった。ひさびさにこの美術館の建築を思う存分堪能できたし、展覧会もすばらしいしで、言うことなしだった。

洲之内徹にメロメロになったまなしの頃、この美術館の別館で松本竣介と麻生三郎の小展示を見て大感激したことがあった。あのときの感動が鮮明に胸に甦って、まずはそのことが嬉しくてたまらなかった。展示が始まってすぐに見ることになる、昭和21年の日動画廊での写真、舟越保武松本竣介と麻生三郎の3人が写っている写真にさっそくぐっとなった。なぜだか胸が詰まる。そして、松本竣介の絵はいつ見ても素敵な絵ばかりで、初めて見た絵がほとんどだったので、その1点1点を凝視。青い色調の《駅》、東京駅の裏を描いた絵の凛としたスーッと胸に浸透してくる、松本竣介の典型にあらためてひたったり、初めて見た絵、たとえば《立ち話》、絵の具と線との混じり具合がいかにも松本竣介で、とてもよかった。松本竣介は線の感じがとてもおもしろくて、いろいろ観察だった。その松本竣介的「線」をヴィヴィッドに堪能することができるのが数々のペン画で、洲之内徹を読む以前に松本竣介っていいなあとうっすらと記憶に刻んだのがペン画だったので、そんな自分自身の松本竣介体験を振り返って、なにかと思いを馳せたりもした。ペン画の《街にて》とか《都会》、松本竣介の描く「都市」はいつもとびっきりモダンで、とびっきり寂しげだけで、とびっきり凛としている。この感覚がたまらなく好きだ。

そして、麻生三郎も、展覧会場で遭遇するとそのたびに嬉しい画家のひとり。今回はまとめてたどることで、麻生三郎の絵の根底にあるひとつの大きな特色みたいなものを漠然とだけど胸に刻むことができて、あらためて好きな画家だと強く思った。まずは人物画がとてもよくて、対象と背景との混じり具合が独特でいつ見てもいいなと思う。《人のいる風景》みたいな、具象と抽象との境界にあるような暗い色調の絵もとてもかっこよくて、この感覚はなんといったらいいのだろう、ベートーヴェン交響曲第7番のアレグレットを古楽器のオーケストラで聴いているみたいな、短調のメロディだけどもあまり感傷に流れずリズミカルでかっこいいあの感じによく似ている。展示室がかわると、今度は線描が続いて、これまたかっこいいのだ。洲崎とか木場とか、数寄屋橋運河、上野駅といった、東京風景が嬉しかった。線と点とが錯綜としていて、ちょっと佐野繁次郎っぽくもあった。そして大収穫だったのが、鉛筆やインクによる絵を見ることで、画家の創作過程みたいなものを知るたのしみもあったということ。おのずと先ほどまで見ていた油彩の見方も変わってくる。

などと、松本竣介と麻生三郎、絵だけでもたいへん満喫だったのだけれども、今回の展覧会のすばらしいのは、戦前戦後に両者がそれぞれ携わった雑誌、松本竣介の「雑記帳」と麻生三郎の「帖面」というふたつの雑誌が、ふたりの画家のところにパラレルのように紹介されていたこと。松本竣介の「雑記帳」は昭和11年から翌年にかけて発行された雑誌で、わりと短命だったけども、展示されている記事を見ると、アナトール・フランスの文章があったり、長谷川利行の詩作とスケッチがあったりと、ちょっと垣間見るだけでも「おっ」だった。その長谷川利行のスケッチの展示があったのも嬉しかった。そして、麻生三郎の「帖面」、こちらは昭和33年から発行の季刊誌でほぼ正方形の版型、麻生三郎による表紙をずらっと眺めて、実にかっこいい。そもそも「帖面」という名前がかっこいい。説明書きに「江戸っ子の粋」みたいなことが書いてあったけれども、まさしくそんな感じ。思い起こすと、洲之内徹の文章でも麻生三郎のそういうところがよく出ていた気がする。そして! 「帖面」、登場する人々が「おっ」の連続、麻生三郎の《隅田川》の挿絵の横には山本太郎の「酒場にて」という詩があったり、「手社札」という名前の愛読者カードには、森銑三の「子規と虚子」という文章があったり、渡辺一夫串田孫一が文章を寄せていたり。誌面には、麻生三郎による《ボリジョイバレエ》という挿絵があって、神彰のことを思い出した。なんて素敵な雑誌なのだろう。古本屋で手に入れたいなと将来の古本買いの夢が広がるのだった。

いつもながらに、鏑木清方美術館もたのしい。展示がたのしいだけでなく、椅子に座ってのんびりとお庭を眺めるのもいつもたのしみで、鎌倉散歩の絶好ののんびりスポットとなっている。美術館刊行の図録として、「挿絵画家編」としてあらたに1冊刊行されたばかりのようで、今日は近代美術館で図録を買ったばかりだったので見送ったけれども、いつの日かここで刊行されている図録をすべて手に入れたいなと思った。今手元にあるのは「卓上芸術編」の2冊、これがとびっきりのお気に入りなのだ。今回の展覧会は、「挿絵画家」として画家のキャリアをスタートさせた清方の挿絵に焦点を当てたもの。なじみの薄い明治の大衆作家の挿絵だとどうもあまりピンとこないのだけれども、広津柳浪泉鏡花の名前が登場すると、急に嬉しくなった。泉鏡花の挿絵がやっぱり一番似つかわしくて、《小説と挿絵画家》の下絵の展示も嬉しかった。「苦楽」の表紙絵もいつも凝視。泉鏡花をもっと読みこみたいなと思う。なんといっても「九九九会」の精神的支柱なのだから。鏑木清方に親しむようになって、まずワクワクだったのが挿絵画家としてのスタートというところだったから、ちょっと原点に戻った気分。何年か前に、弥生美術館へ嬉々と出かけたことを思い出す。「挿絵」というのもずっと関心事のひとつだから、これからも少しずつ追いかけてみたい。

購入本

あまりにハートに直撃の今回の展覧会、図録もハートに直撃だった。松本竣介と麻生三郎とで2分冊になっていて、とてもいい感じ。今回初めて心に刻んだ、戦中戦後の、両者による雑誌「雑記帳」と「帖面」に関する詳しい文章のみならず、それぞれの総目次まで載っていて、大感激だった。それぞれ目次を眺めるだけでも素晴らしかった。「雑記帳」には萩原朔太郎矢田津世子伊原青々園といった人たちが何度か登場していたり、戸川秋骨平田禿木といった名前もあって、長谷川利行三岸節子、海老原喜之助、もちろん松本竣介、麻生三郎といったデッサン陣も! 2年弱で終わったものの、びっくりするような豪華な顔ぶれ。「帖面」も福原麟太郎が何度も登場しているということだけでも、よい雑誌ということがわかるというものだけども、吉田健一山内義雄安藤鶴夫森銑三渡辺一夫網野菊さんなどなど、こちらも目次を眺めるだけでたのしくてしょうがない。岩佐東一郎もいた。

今回の展覧会、二人の画家のそれぞれの絵がとてもよかったのはもちろんだけども、松本竣介と麻生三郎の関わりにももちろん重点がおかれていて、それぞれの時代に思いを馳せることができたという点でもとてもよくて、「雑記帳」と「帖面」というふたつの雑誌で、二人の関わりとその時代を追体験できたのだった。二人の関わりというと、ぐっときたくだりが、昭和19年1月に麻生三郎が出征するにあたって、松本竣介が麻生三郎の詩編を直筆で写した本をこしらえて麻生三郎に贈ったというくだり。会場には、霜田橋の麻生三郎のアトリエでの写真も添えられていてとてもよかった。その松本竣介の直筆の詩編も図録にきちんと収録されていて嬉しかった。

今日は展覧会でお腹がいっぱいで古本屋気分は盛り上がっていなかったはずなのに、通りがかりにふらりと足を踏み入れた木犀堂と芸林荘で、それぞれ1冊ずつ網野菊さんの随筆集を見つけて値段も手頃だったので、嬉々と購入した。『時々の花』は木犀堂にて、『冬の花』は芸林荘にて。『時々の花』は、東京随筆に芝居見物などテーマがまず魅惑的で、瀧井孝作の題字がいい感じ。『冬の花』は三月書房の小型本。女流文学賞芸術選奨受賞を記念して編まれたとのことで、あとがきには、福原麟太郎の心遣いで刊行が予定より早まった、とあって、そんな三月書房小型本・人物誌がいつもながらにとてもいい感じ。部屋に帰って、ウィスキー入り紅茶を飲みつつ、さっそくぺらぺらと読んで、さっそく嬉しくてたまらなかった。網野菊さんの文章そのものがとてもよくて、全然飾り立てたところがないのに、なぜこんなによい文章になるのか、こういう文章が一番好きだと思った。ちょっとしたユーモアが散逸しているところがとてもよくて、網野菊さんもすっかりわたしにとって特別な書き手になっている。志賀直哉門下としては尾崎一雄という人もいて、里見とんと大のなかよしという志賀直哉の柄と徳にあらためて敬服、実は今まであまり親しんでいなかった志賀直哉のことも最近ずっと心に引っかかっている。先日、戸板康二の『ぜいたく列伝』の志賀直哉の項を読み返して、ますます志賀直哉のことが気になっている。

落語メモ

    (仲入り)

それぞれ一席ずつお召かえをしていた(たしか)さん喬さん、『中村仲蔵』ではもちろん黒紋付。『中村仲蔵』は去年の11月くらいから「圓生百席」を聴いて思いっきりハマっていた。スタジオ録音ならではにたっぷりと語られている『中村仲蔵』、なんとなくわかった気になっていた噺だけれども、あらためて「圓生百席」で聴いてみるととたんに胸がいっぱいになった。まがりなりにも歌舞伎のたのしみを知っている身にとっては、なにかとぐっとくるのだった。『中村仲蔵』の何にぐっとなるのかというと大きく分けてふたつあって、まずひとつが、子役からスタートして大人になってくすぶっていたのが四代目團十郎に見込まれたりして出世していくというその過程、そこに彩られる数々の挿話、芸道ものの美しさ、そしてもうひとつが、五段目の仲蔵の初演の様子を話芸で丁寧にたどることができるということ。現在の演出では、定九郎は花道から出ないけれども仲蔵の初演は本文通り、現在の歌舞伎では見ることはたぶんない演出を話芸では現在も伺うことができるということが、感激をうまく言葉にできないのだけれども、なんだかとっても感動なのだった。と、感激のあまり、ちょいと調べてみると、花道から出てくる定九郎は二代目左團次がしたことがあったのだそうで、「圓生百席」を機に歌舞伎に思いを馳せてずいぶんたのしかった。

などと、前置きが長くなってしまった。今回のさん喬さんの『中村仲蔵』は、先にあげたふたつのたのしみのうち、あとの方、五段目の演出を丁寧にたどることができたという点で大満喫だった。なんといってもびっくりは、音曲が入ったこと。テンテレツクと三味線の音が聴こえてきただけで、ジーンと感激で、そのあとしばらく舞台の進行が続いて、はねこみ蹴込み泥まぶれとかなんとか続いていく、三味線の音色を耳に、五段目の進行をたどるさん喬さんの語り口がとてもよかった。「圓生百席」でじっくりと追求していたのが記憶にあたらしいなかで、さん喬さんの高座を聴くことができて、あらためて『中村仲蔵』についていろいろと考えているところ。

新作落語『こわいろや』、ほんわかとしみじみとよかった。なんだかかわいくもあって、聴いていて幸せになってくる一席。ちょいと洒落た時代小説を読んでいるときの気分によく似ていた。声色を使うときの動作に大笑いだった。笑ったりジーンとなったりと、噺にひたりきった。

たっぷりとさん喬さんの高座を満喫することができて、会場の雰囲気もいつもながらにすばらしくて、鎌倉という場所もよいしで、ますます「かまくら落語会」のとりこになっている。次回は5月、志の輔師匠だ。未聴の噺家さんであることだし、今度も行かれるといいなと思う。