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先週末、竹橋の東京国立近代美術館の常設展会場に入場したとたん、以前はあんまり気にとめていなかった、文展関係の展示、小杉未醒の《水郷》や石井柏亭の絵がとても鮮烈だった。といっても、絵そのものに感激したというわけではなく、先日見物した芥川龍之介展の前に読んだ近藤富枝著『田端文士村』のことを思い出したからで、そんな本とのつながりに思いを馳せることで今まで見た絵が違ったふうに見えてきたような気がして思わぬところでウキウキだった。で、順路に沿って進んで、萬鉄五郎の《裸体美人》や岸田劉生の絵が目に飛び込んできた瞬間、さらに「おおー!」と心の中で大いにどよめいて、さらにウキウキだった。こちらは前々から好きな絵だったけれども、今回急にどよめいてしまったのは、現在目下借り出し中の『木村荘八日記』(ISBN:4805504277)で垣間見たいろいろなことが突然ヴィヴィッドに浮かんできて、いてもたってもいられなくなったから。そんなこんなで、今たまたま、部屋に『木村荘八日記』があるとはなんとグッドタイミング。美術館から帰ってきて以来、ずっと『木村荘八日記』を読みふけっていて、明治44年から大正2年初頭という収録期間はなんとまあ見事なことだろうとしみじみ感じ入ってしまうものがあった。

と、明治末期の「パンの会」とか「スバル」「白樺」「三田文学」といった自然主義に対抗する諸々の雑誌のこと、文学と美術のつながりみたいなものが急に面白くなってしまって、1年ほど前に買ってそれっきりだった野田宇太郎著『瓦斯燈文藝考』(東峰書院、昭和36年)の存在を思い出して本棚を物色、さっそく読み始めた。内容が思いっきりストライクゾーンのこの本、いつもの通り、京橋図書館へ行く途中の奥村書店で買ったもので、函が木村荘八、表紙が石井柏亭、口絵が小林清親、扉絵が織田一磨というのに惹かれてという、いわばジャケ買いだったのだけれども、寝かしておくと急に読む日がやって来たりするからやっぱり買っておくものだなあと思った。

このところ睡眠サイクルが乱れてしまって、毎日とても眠い。今日もふらふらと昼休み、本屋さんへ。『瓦斯燈文藝考』を読んで、急に木下杢太郎を読みたくなって、たしか岩波文庫で戯曲集が出ていたはずと偵察のためここまでやって来たのだったが、あいにく在庫なし。目録には載っているのを確認して安心し、そのあたりの棚を眺めて、最近の岩波文庫コーナーをふらりと見ていたら、急に購買意欲がモクモク。今日はずっと買い損ねているヴァレリーにしようかしら、ブレヒトもいいわねえ、ディケンズの『ボズのスケッチ』も面白そうだわ、まあどうしましょう! と、煩悶しているうちに(アホ)、『日本近代文学評論選 昭和篇』が目にとまった。ふらっと立ち読みしてみたら、またもや今すぐにこの本が欲しいッ、という気にさせられる1冊だった。パッと買って、そのままコーヒーショップへ移動して、あちこちめくって興奮だった。買い逃さないで本当によかった。

今日は喜多八さんの落語会を聴きに行こうと思っていたのだけれども、帰るのが遅くなってしまって無念なり。このまま帰るのもつまらない、せめて明日の朝食用のパンを買いに行くとしよう、と銀座までトボトボと歩く途中、急に思い立ったのが講談社文芸文庫の新刊の福田恆存のこと。木下杢太郎ともども、今日行き損ねた落語会の入場料分で買えるではないか、わーいと教文館へ。と、2冊のお買い物のはずが、うーむ、やっぱり落語会へ出かけた方が安上がりだったなあ。

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戦前「新潮」の編集者をしていた楢崎勤と戦前文壇のことを「挿話的手法」で綴っている、大村彦次郎著『ある文藝編集者の一生』(ISBN:4480823506)がとても面白くて、余波はまだまだ続いている。これまでもいろいろ波及読書があったけれども、『日本近代文学評論選 昭和篇』こそがまさしくストライクゾーンな1冊だった。今まで見逃していてとんだドジだった。時系列に雑誌掲載順に掲載されていて、詳しい解題とともに読むことで、文壇史として読めるという実に秀逸なつくりで大感激。以前から知っていた文章でもたとえば谷崎潤一郎の「饒舌録」は芥川龍之介の「文芸的な、余りに文芸的な」と合わせて読むことで臨場感たっぷりになったり、存在だけ知っていた宮本顕治「『敗北』の文学」は小林秀雄の「様々なる意匠」と合わせて読めたりする。どんじりにひかえているのが十返肇の「『文壇』崩壊論」というのも嬉しいかぎり。『ある文藝編集者の一生』を読んだあとだと、中村武羅夫高見順の文章に特に興奮だった。高見順の「描写のうしろに寝てゐられない」は、締切に間に合わずに矢来町の新潮社に程近い赤城神社境内にあった楢崎勤の家に連行されて書き上げたというエピソードがあって、それを思い出しつつ読んでニンマリ。それにしても、「描写のうしろに寝てゐられない」というタイトルがいいなあ。中村武羅夫の「誰だ? 花園を荒らす者は!」というタイトルも笑える。

『日本近代文学評論選 昭和篇』には福田恆存の「一匹と九十九匹と」が収録されていて、この文章を昭和22年という時代背景とともに読んだのは今回が初めて。坪内祐三の解説は講談社文芸文庫の文芸論集と同様、小林秀雄福田恆存を絡めて論じている。1912年生まれの福田恆存を19世紀のヨーロッパ文学と平行して明治大正期の日本の文学作品を読むことが可能だった世代として捉えているのを見て、おっ、1915年生れの戸板康二のことを考える際にもヒントになりそうだッ、と、すぐに戸板康二のことに頭が行ってしまうわたしであった。坪内さんの解説は《戦中戦後の批評に触れる前に、予定の紙数が過ぎてしまった》とあって、うーん、読みたかった! とムズムズだった。福田恆存の名前を知ったのは言うまでもなく坪内祐三の『ストリートワイズ』がきっかけだったので、なんだか懐かしい。あらためて、じっくりと福田恆存を読んでみよう。

と、予定通りに岩波文庫の木下杢太郎を手にとったあとで、ムズムズと『日本近代文学評論選』の明治・大正篇も購入することに。木下杢太郎は久保田万太郎を読むうえでも読んでおかなくてと前々から思っていた。「パンの会」関連のことをいろいろと読んで、上村以和於著『時代のなかの歌舞伎』のことを思い出したりもして、日本の近代諸々はなにかと尽きなくて面白い。と、「パンの会」の時代のことを読んでいる最中に手にした『日本近代文学評論選 明治・大正篇』、まっさきに折口信夫の「異郷意識の進展」、大正5年に「アララギ」に発表された文章を読んだ。大正8年執筆の永井荷風の「花火」もよかった。それから、扇情的なタイトルに惹かれて読んだ赤木桁平「『遊蕩文学』の撲滅」に大笑い。戦時中は国家主義的な軍事評論を書いていたというのがいかにもな言い回しが面白すぎ、久保田万太郎の作品は「如何なる点から見るも殆んど無意味に近いものがあって…」とのこと。まあ、たしかに無意味といえば無意味なんだけど。

前々から目をつけておいた土屋恵一郎さんは、急に思い立って『役者論語』とセットで買ってみた。岩波現代文庫版には、図書館でチェックしようと思いつつもずっと忘れていた『江戸文化の変容』という本に収録されていたという、市川團蔵の文章が最後に入っていて嬉しかった。というあとがきに、十一代目市川團十郎襲名のときの猿翁の素晴らしい口上、というくだりがあって、どういう口上だったのだろう。気になるなあ。