東京落語会

お誘いいただいて初めてあこがれの「東京落語会」へ出かけた。イイノホールはひさしぶり。ロビーでコーヒーを飲みながら、入口でいただいたパンフレットをめくると、矢野誠一さんの「落語家の袴」という文章が載っていた。コーヒー片手に矢野誠一さんの文章を読みながら落語会の開演を待つ、というひとときがたまらなくよかった。「落語家の袴」の最後の一節はこんな感じ。

落語家が袴をつけて高座にあがった最初は、1905年(明治38年)3月の第1回落語研究会だったと言われている。会場は日本橋の常盤倶楽部で、初代三遊亭圓右・初代三遊亭圓左・四代目橘家圓喬・二代目三遊亭小圓朝・四代橘家圓蔵・三代目柳家小さんと名人上手が名を連ねている。当時の珍藝流行をにがにがしく思っていた正統落語の伝承者たちが、格調高い落語を演ずるよすがにもと、袴姿で高座にのぞんだのだった。このとき、自前の袴を持っていたのは三代目小さんただひとりだった、というのは、彦六の林家正蔵からきいたはなしだ。(矢野誠一「落語家の袴」より)

東京落語会は NHK のキモイリで昭和34年に始まったらしい。久保田万太郎全集第11巻に東京落語会パンフレットに掲載された小文がいくつか収録されていて、どれもこれもが大好きな文章だった。思えば、東京落語会にあこがれていたのは万太郎がきっかけであった。久保田万太郎の願いどおりに長らく続いている東京落語会、久保田万太郎が最初に文章を寄せた公演パンフレットでは現在、矢野誠一さんの文章を読むことができるという、このことをとても幸福に思う。

久保田万太郎も第1回東京落語会に寄せた文章で「落語研究会」のことに言及している。

 「……東京には洋燈(らんぷ)の時代から電燈(えれくとりっく・らんぷ)の時代へうつるしばらくの間をつないだ瓦斯燈(がす・らんぷ)の時代があったのである。……そうだ、"明治四十二年" は、あの蒼白い、水のような懐疑的な光のなかに浮んでいたのだ」と、ぼくは、嘗て "明治四十二年" という作のなかで、明治の末期のひとこまを……ぼくの少年時代から青年時代にかけてのひと時代を、明治四十二年とうある一年をとおして追懐し、たまたま以上のようにいったのだが、その蒼白い、水のような光を浴びて生まれたものの一つに "落語研究会" というものがあった。
 圓喬、圓右、小さん、圓蔵、小圓朝。……そのころにあっての、三遊、柳、両派の、こうした大看板を月々、一堂にあつめての競演会は、小学校のころから寄席がよいにうき身をやつしたぼくをどんなによろこばしたか知れない。そのころ、すでに、中学生になっていたぼくは、毎月、その日のくるのを待ち兼ねた。……のは、一つには、その会によって、それまでの寄席がよいで身につけた、落語に関するもろもろの知識の仕上げがしてもらえたのである。
久保田万太郎「東京落語会」より)

このあと万太郎は「東京落語会」にむかしの「落語研究会」のたましいを吹き込みたいと書き、岡鬼太郎、今村次郎とともに「落語研究会」を20年にわたって維持した功労者、石谷勝という、NHK の前身東京中央放送局文芸課での万太郎のかつての同僚の名を出して、この文章を締めくくっている。

などと、前置きが長くなってしまったけれども、久保田万太郎矢野誠一さんという流れが嬉しかったのだった。

ホールの外に出ると空気がひんやりといい気持ちだった。『親子酒』や『うどん屋』を聴いて、急に熱燗気分が盛り上がった。これからがますますたのしみな季節だ。今回の落語会、嬉しかったのはやっぱりなんといっても小三治さんの『金明竹』。去年にマクラできいた28000円で買った金明竹の鉢植の、その後の話がおかしくておかしくて、そのあとに本当に『金明竹』がきけるという流れが嬉しくてしかたがなかった。『金明竹』は今まで何度も前座できいているおなじみの噺なので、おなじみのあの箇所はこんな感じに! と、小三治さんで聴くとまたあちこちが絶妙で、全編たいへん堪能だった。おなじみの「先度仲買いの弥市がとりつぎました道具七品のうち……」の節まわしがとても気持ちよくて、音楽を聴いているよう。その長口上が何度か繰り返されるその度にうっとり。使いの男が帰ってしまうところのおかみさんの「お待ちになってッ!」という切実な叫びのところなどなど、本当にもうあちこちが絶妙だった。またじっくりと小三治さんを聴ける夜があるといいなと、次回の小三治さんがとてもたのしみだと切に思う。