山口瞳を読んでささま書店へ

foujita2004-11-05


いつのまにか「一の酉」が過ぎてしまっている。金曜日の朝、明日が休みだと思うと、毎週しょうこりもなく嬉しい。機嫌よくいつもより早くに外出して、コーヒーを飲みながら、武田麟太郎の『一の酉』を読んだ。堀切直人さんの『浅草』をあらためてじっくりと再読したくなってきた。日没後はバスに揺られて、とある図書館へ。あれやこれや作業して疲れ果てる。インプットばかりしていないでアウトプットもしないとなあと、ため息つきつつ帰宅。今日の図書館では、昨日ささま書店で見て急に欲しくなった本をじっくりと偵察するという目的もあった。結果、すぐさま手中に収めたいッと思ったものの、あんな酔狂な本を買うのはいかがなものかという気もするし、悩むところである(勝手にしろ)。

それから、『名作歌舞伎全集』の月報で八代目三津五郎が『関の扉』について書いていたこと、

「夫の形見の片袖に引かれよる身は陽炎姿」――ここで墨染の振りに、鳥のような振りがあるのが、子供の時から気になっていたが、女形の踊りには、「責め」が必ずあって、それは女の嘘で熊野の鴉にあの世で責められる、だから女の踊りの「責め」に鳥の振りがあり、女は死ぬと鴉に責められる。それがわかればなんでもないが、桜の精が鳥の真似をするのが、子供の時は不思議でならなかった。

これがとても面白いなあと思って、この件についていろいろ調べようと思ったのだったが、他の文献で裏づけが取れず無念であった。まあ、そのうち忘れてしまうのだろうけど。起請と熊野の鴉とで思い出して、帰宅後は志ん朝ディスクで「三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい」の『三枚起請』を聴きながら本棚の整理。そのあと、山城少掾の『葛の葉』を聴きながら台所で作業。


以下、昨日買った本のメモ。(連日、日記がドミノ倒し状態に……)

購入本

先週、教文館で見かけたとき、またこういうのが出たのかと特に気にとめたりはしなかった。それが、新・読前読後(id:kanetaku:20041030)を拝見して、「サントリークォータリー」の山口瞳追悼号が元になっていると知り、一転猛烈に欲しくなってしまった。「サントリークォータリー」の山口瞳追悼号は一度古本屋で見かけて、「サントリークォータリー」の表紙の感じといい、目次の並びといい、本全体の雰囲気がたまらないなあと非常に迷っていたことがあった(あと500円安かったら買っていた)。それが文庫化されたのだから大喜び。そういうわけで、計画どおりに昼休みの本屋さんで買って、そのあとすぐにコーヒーショップへ移動、さっそく読みふけって、さっそく止まらなくなった。ある部分では正直ちょっと引いてしまったのだけれど、関係人物による山口瞳に関する文章はやっぱりそれぞれとても面白くて、id:kanetaku さんの「山口瞳のことを書くと誰でも名文になる」という言葉に尽きる。

山口瞳そのものはもちろん、田沼武能が伝える山口瞳の名編集者ぶりとか、当時の文壇のこと、鎌倉アカデミアのことなどなど、いろいろと気持ちが駆り立てられる。と同時に、人に物を贈るのが好きだったといった感じのくだりを見て、山口瞳戸板康二に俳号「洗亭」の印をプレゼントして、戸板さんが愛用していたことを思い出したり、いつのまにか戸板さんのことを思ったりも。著書リストなど巻末の資料がありがたくて、その年譜で、「男性自身」以外の山口瞳の最後の原稿は「サントリークォータリー」だったということを知り、見事だなあと思った。戸板康二も死の直前に「サントリークォータリー」に短い原稿を寄せていて、亡くなったあとに出た掲載誌を音羽館で買ったことがある。などと、つい戸板康二へ行ってしまうが、わたしの読み始めは実は戸板康二より山口瞳の方が少し先だった。と言っても、系統だてて読んでいるわけではなくてピンポイント式に読んでいるだけだったので、今回『山口瞳の人生作法』を手にしたことで、『家族』とか『血族』を読みたくなったりと、また新たな気持ちで山口瞳に接する機会になったと思う。


と、昼休みに『山口瞳の人生作法』を夢中で繰ったあとの午後、ふと思い出したのが、最近ごぶさたのささま書店のこと。今まで買った山口瞳の本、ささま書店で入手したものが圧倒的に多くて、そんなときいつも帰りに喫茶店に寄ってまっさきに開くのは山口瞳だった。特に日記シリーズのときは嬉しかったなあと、わたしのなかの山口瞳の記憶はささま書店とつながっていたらしい。夜、神保町へ行くつもりだったけど、急に思い立ってひさしぶりにささま書店に行くことにした。丸の内線にのんびり揺られているうちにゆっくり『山口瞳の人生作法』を読み続けることができて、そうこうしているうちに荻窪に到着した。

と、ささま書店が近づいていくると、わが内なる獣性が目を覚まし、思わず早歩き。まずは店頭の100円コーナーをチェック。いつもの通りにいくらでも買いたい本がある。夜風が冷たく、早く店内に入りたいのだけど、なかなか入れない。100円コーナーで手にとったのは、

  • 金子信雄『新・口八丁手包丁』(作品社、1980年)

戸板康二が序文を寄せているのを見つけて、100円なら言うことなし、わーいと手にとった。帯には殿山泰司が推薦文を! と中身を見る前から大喜びだったけど、十二カ月ずつに記した料理エッセイに食味エッセイはいざ目を通してみるとなかなかおもしろい。江戸小咄とか佐藤春夫の詩を引いていたりと、矢野誠一さんが『戸板康二の歳月』で金子信雄のことを「文学青年の屈折」というふうに表現したいけれど、そのことが如実に実感できた。実用的でもあり、いろいろ勉強になる。

青蛙房の東京本「大正シリーズ」のなかでも前々から読んでみたいと思っていた本。それが100円なんて! 言うことなしである。玉川一郎戸板康二の『あの人この人』に名前を連ねているので、わが書棚の「あの人この人」コーナーにひさびさに新たな本が並ぶのも嬉しい。それが100円なんて! 言うことなしである(しつこい)。

  • 高橋輝次編著『誤植読本』(東京書籍、2000年)

高橋輝次さん編集のアンソロジーは図書館でちょくちょく借りて毎回必ずたいへん堪能していた。古本屋さんで安く見つけたら絶対に買おうと思っていたものの、今まで機会がなかった。この『誤植読本』は初めて手にとった本。ある種の本読みなら「誤植読本」というタイトルにすぐに反応するに違いない。森鴎外「鸚鵡石」、尾崎紅葉内田百間といった近代文学者、竹西寛子さん、森まゆみさんといった編集者、生方敏郎小林勇森銑三といった人たちから、高橋英夫さんや林哲夫さんなどおなじみの書き手まで。いつもの高橋輝次さん編集のアンソロジーと同じようにいかにも面白そうで、いかにも見事な並びで、この顔ぶれがたまらない。初めて知った本でしかも100円! 言うことなしである(しつこいなあ)。


このほかに100円コーナーでは文庫本を3冊引っこ抜いて、やっと店内に足を踏み入れることができた。と、100円コーナーだけですでに疲れてしまっていたけど、店内にも欲しい本がいろいろあって、いつもの通りについ長居。いろいろ迷ったけど、100円コーナーですでに大満足だったので今回はおとなしく。

都筑道夫の前々から特に読みたかった作品集と、そもそものはじまりの山口瞳。「男性自身シリーズ」を古本屋で見かけると単行本でも文庫本でも持っていたかもといつも一瞬迷う。『私の根本思想』を少し立ち読みすると、川口松太郎の追悼文が目に入って、初めて読んだ文章だったので(たぶん)、持っていないと気づいた。『私の根本思想』は帰りの電車のなかでさっそく読みふけった。林達夫に関する文章でますます鎌倉アカデミアに関心が。寺山修司など、いつもながらに追悼文が絶品で、M氏の追悼文の登場人物に戸板さんがいる。M氏という文藝春秋の重役の追悼文は新橋の酒場「トントン」を舞台装置としている。「トントン」は戸板康二も行きつけにしていて、山口瞳との初対面もこのお店。ほかの文章で、戸板康二についてちょっと詳しく述べている箇所があって、『私の根本思想』は今まで手にした「男性自身シリーズ」のなかでもひときわ戸板さん色の強い「男性自身」だった。新潮文庫の『山口瞳の人生作法』を読んで戸板さんのことを思い出していた絶好の締めになった。