神保町日記

日没後、ひさしぶりに神保町に突進。古本まつりに行き損ねてからというものすっかり足が遠のいていた。岩波ブックセンター書肆アクセス東京堂、とある喫茶店と、平日の寄り道コースをひさびさにたどって、乾いた喉がうるおった心持ち、すさんだ心が洗われた気持ち(でもすぐ汚れる)、神保町っていいなあ! とすっかりハイだった。

購入本

本日の神保町来訪の一番の目当ては、言うまでもなく『浄瑠璃素人講釈』の下巻! 帰宅後さっそくめくって、第二部の「義太夫虎の巻について」なる一文に涙が出るほど大笑いだった。大傑作。わざと面白く書いているのだろうけど、落語の『寝床』が何十倍も濃くなったような世界。解題によると、『浄瑠璃素人講釈』の岩波文庫化は、渡辺保さんのお考えによるものだとのこと。わたしが『浄瑠璃素人講釈』という書物のことを心に刻んだのは、何年も前に読んだ渡辺保著『昭和の名人 豊竹山城少掾』がきっかけだったけれど、めぐりめぐって事の発端は渡辺保さんであったことを知ることとなった。『浄瑠璃素人講釈』のことを教えてくれてありがとう、と前々から思っていたけれど、岩波文庫化の実現のきっかけを作ってくれて、さらにありがとうと感謝2倍となり、そうだ、三木竹二岩波文庫化のことを忘れてはならない、渡辺保さん、本当にありがとうと、感謝は256倍に。

巻末の解題と解説によって、今まで謎だった『浄瑠璃素人講釈』の位置というか、どういうふうに読めばいいかということもよくわかった(気がする)。上巻をめくって大笑いしつつも確実に心打たれるなにかがあるなあと感じた所以が、この本が「ものにとらわれない、芸の本質への謙虚な希求心に貫かれている」ところにあったのだということが、内山美樹子さんの解説でよくわかった。『浄瑠璃素人講釈』について、武智鉄二が「私の生涯を支配した本」と書いているとのこと。と、その『浄瑠璃素人講釈』で支配された武智鉄二の文章を今年に入ってから(少しは)知ったあとで、『浄瑠璃素人講釈』を実際に手にする運びになったことをとても幸福に思う。渡辺保さんの『昭和の名人 豊竹山城少掾』で、武智鉄二の『「風」の倫理』が紹介されているのが『引窓』の項だった。内山美樹子さんの解説は『引窓』のことで結ばれてあって、『昭和の名人 豊竹山城少掾』で述べられていた『引窓』のエピソードを反芻することとなったことで、わたしのなかでは、一周まわった感覚だった。

わたしとしては、解説文中の《この場合の「古典的規矩」は、決して音楽上の規矩にとどまるものではない。「風」論の初演者主義の基本は、作品が書き下ろされ初演された時に立ち帰って、その一段と取り組むことにあり、戯曲重視という人形浄瑠璃文楽の根本的なあり方と通底する。》という一節、武智鉄二の『「風」の倫理』に書かれてある(らしい)ことが、文字通り「倫理」というか、なんというか、今後の指針になって、浄瑠璃そのものへの気を引き締めようと思っていた当初の目的が、この解説で見事に果されたように思う。

浄瑠璃素人講釈』をめくっていると、「修行」とか「稽古」とかいった文字をよく目にする。最近とみに、その「稽古」という言葉について考えることがあって、きっかけは「演芸画報」の「稽古歌舞伎会」という記事だった。戸板康二の『演芸画報・人物誌』で知ったくだり。長らく愛読書になるであろう、榎本滋民の『落語ことば辞典』(ISBN:4000024221)でも「稽古」という項目がある。《「稽古」は「古を稽える」ことだが、決して単に過去を顧みることではなく、旧態が形成したものごとの本質を考究しながら、それにかなった技能の基礎を鍛練することによって、去来の的確豊富な可能性を把握することであろう。》という文章のあとに、世阿弥の『風姿花伝』のことが登場する。『浄瑠璃素人講釈』をめくると、「稽古」という言葉が、ますます身にしみてくるのだった。

などなど、『浄瑠璃素人講釈』の興奮についてはうまく文章がまとまらぬが、とにかくも、わたしにとっては、いろいろな意味で、今年随一の衝撃の書であった。なかなか興奮が収まりそうもない。


……と、岩波ブックセンターでは『浄瑠璃素人講釈』の下巻を手にして、現代文庫の中野三敏と迷いつつ、今回は講談社文芸文庫を買うことに。

解説が坪内祐三で、中公文庫版の色川武大の解説が再録されているという仕掛けが、見事な効果を発揮している一冊。憎いまでの巧い演出。小林信彦そのものは、映画や小説に関する文章を中心に愛読しているものの、今まで何冊か読んだけれど小説にはあまり親しんでいない。同じく、坪内祐三さんの解説に惹かれて購入した、『ムーンリヴァーの向こう側』(新潮文庫)も、小説の仕掛けにはなるほどと思ったけど、小説そのものには大いに乗れないものがあったのだった。さーて、今回はどうなるか。実は今度こそと、とても期待大なのだ。

勢いに乗って、小沢昭一さんの新刊も購入。雑誌「論座」での連載対談が元になっていて、桂米朝で始まり、矢野誠一さんで締め、という構成に惹かれたのだったが、いざ読んでみると、やっぱりとても面白い。話術が冴えているせいか、とりわけ、桂小金治がいいなあ。あんまりよくて、ちょっと泣けてきた。延広真治先生の対談ではなにかと勉強になるくだり多々あり、今後の刺激を受け、鶴瓶もよかったなあ。岩波の六代目松鶴本がますます欲しくなってしまった。と、拾い読みしただけで、今後の落語聴きの意欲がモクモクと湧いてきて、そもそも落語に惹かれたのは、矢野誠一さんや小沢昭一さんなどの「東京やなぎ句会」の面々、もとをたどれば『戸板康二の歳月』『句会で会った人』だった。と、原点に立ち返った感覚。延広真治先生のところを読んで、近日の入船亭扇橋を聴く日がたのしみになってきた。つい衝動買いしてしまって、ちょっと後悔だったけど、いざめくってみると、やっぱり買ってよかったと思った一冊だった。先日、小沢昭一を見たばかりで、正岡容の文庫本を買ったばかりで、といった、めぐりあわせが嬉しい。

書肆アクセスでの買い物。書肆アクセス半畳日録(http://plaza.rakuten.co.jp/accesshanjoe/)で刊行を知って、買いに行きたい、買いに行きたいとこの半月ばかり、ずっとムズムズだった。無事入手できて嬉しい。長谷川郁夫『われ発見せり』(書肆山田)を買ったのも書肆アクセスで、実際に読んだのは買ってからだいぶあと、今年に入ってから。伊達得夫のことを心に刻んだのだったが、その数カ月後、同じ書肆アクセスでこのような本を手にするというめぐりあわせにジーンだった。大阪のアトリエ箱庭で《「書肆ユリイカ」の本》展が催されるのだそうで、とってもうらやましい。この11月は文楽を見るべく大阪へ出かける気満々だったが、結局いつもの出不精で見送ってしまった。やっぱり、文楽行きたかったなあと、いまさらにように思ってみたり。『浄瑠璃素人講釈』を読んで、その心の隙き間を埋めようと思う。

東京堂では念願の小沼丹全集! 第三巻よりも先に、山田稔さんの月報を早く読みたくて、つい第四巻の方を買ってしまった。