御ひいき勧進帳

えいっと早起きして、ラジオのスイッチをつけて「音楽の泉」を流した。今日はショパンの《前奏曲集》。どんよりと曇ってひんやりと寒い朝、台所で作業しながら聴いて、気分上々。今日こんなときにまさにぴったりな音楽だった。

去年の秋以来、自転車乗りの国立劇場行きがたのしい。どんよりとした曇天も底冷えのする冷気もなんのその、今日も自転車で早めに外出。通りがかりの覇気のないスターバックスでのんびりした。図書館でコピーした国立劇場の上演資料集をのんびり眺めているうちに時間が迫ってきた。店内の BGM でふと《フィガロの結婚》の「もう飛ぶまいぞこの蝶々」のアリアが流れて嬉しかった。

国立劇場は『御ひいき勧進帳』。劇場を出ると粉雪が舞っていた。富十郎の弁慶でハイになっていたのが、まあ、顔見世狂言の二番目みたい! と、ますますハイになってしまい、思っていたよりも早く終わったので、いい気分でサイクリング、しているうちに、いつのまにか雪がやんでいた。


芝居見物

去年5月の歌舞伎座海老蔵襲名で『暫』と『勧進帳』を立て続けに見たあとで急に思い出したのが、岩波の新日本古典文学大系の『江戸歌舞伎集』(ISBN:4002400964)に収録されている『御摂勧進帳』の脚本とその注釈。何年か前の7月の猿之助歌舞伎のときにちょろっと『御摂勧進帳』の上演があった。その折、この本に『御摂勧進帳』が全幕収録されているのを図書館で見つけた。ほんの気まぐれに借り出してひとたびめくってみたら、これが面白いこと面白いこと、思わず全幕通して読んでしまった。かんじんの芝居見物の方は二の次で、本の方に夢中だった。いったい、何がそんなに面白かったのだろう。と、記憶もあいまいになったところで、去年夏に『江戸歌舞伎集』を入手して『御摂勧進帳』全段を再読、うーむ、やっぱり尋常じゃないくらい面白い。何年か前に読んだときよりもずっと面白かった気がする。いったい、何がそんなに面白かったのだろう。

今回の見物に備えて、国立劇場の上演資料集をいつもの京橋図書館で借りてきた。松緑存命中の昭和54年4月と昭和63年1月の上演資料集2種類。昭和43年の初めての『御摂勧進帳』復活上演に際しての志野葉太郎さんの劇評がとてもためになる上に面白かったのだったが、桜田治助の脚本について、一番目は《夫々の伏線が搦み合い読み進めるうちに前の方を忘れてしまったり、どう考えてもわからない筋があるといった大変な代物》というふうに書いてある。これに対して二番目については「なかなか面白い」。《治助の世話狂言の手腕は今回の出幕にならない二番目にやや窺われるにすぎない》といったくだりもある。国立劇場の復活は初演以来、一番目から『暫』と所作事、芋荒いをピックアップしてコンパクトにまとめているもので、二番目の上演はない。本を読んでいるときはとても面白かったけれども、二番目が実際に舞台化されてみたとしたら、はたして本のように面白いのかどうか。いずれにせよ、いつか見てみたい気はする。

志野葉太郎さんのおっしゃる通り、桜田治助の『御摂勧進帳』はその局面局面を面白がりつつも読んでいるうちに前の方を忘れてしまって、そういえばどうだったかな、ま、どうでもいいかな、先に進もう、というような刹那的な読みになってしまって、こんなところもまさしく芝居見物をしている感覚そのまんまだった。『御摂勧進帳』はきっちりと規格通りに「顔見世狂言の約束事」を踏襲しているので、江戸の芝居小屋の「顔見世狂言」ということをくっきりと触覚でき、安永2年の顔見世興行に登場する役者ひとりひとりの様子を詳細な注釈で知ることができる、すなわち本を読みながらにして気分は一気に江戸の芝居小屋で、たいそう面白かった。それから『江戸歌舞伎集』の嬉しいところは、脚本の表記が役名(弁慶)ではなくてもとのままの役者名(海老蔵)になっていること。役者名のままになっていることで、いよ、待ってました、仲蔵登場! といった感じに、「本を読みながらにして気分は一気に江戸の芝居小屋」度がますます高まって、たいへん胸が躍った。辻妻なんてどうでもよくて、舞台にうつる役者を眺めて劇の進行に身をゆだねるという、とにもかくにも芝居見物の感覚そのまんま。

それから「趣向」。毎年11月の顔見世狂言のとき「世界定め」が行われる。その「世界」に対して、作者が毎年想を構えて新作を作ることを「趣向」と呼ぶ。戸板康二の『歌舞伎の話』(ISBN:4061596918)の「その脚本」に、「趣向」こそが狂言作者が心血を注いだ部分であるが、彼らの工夫は俳諧趣味、すなわち《見立というような他愛のない機知》に陥り易かった、というようなくだりがある。その「見立というような他愛のない機知」の細かいことを、詳細な注釈でいろいろ知ることができるというのも、『江戸歌舞伎集』のたいへんすばらしく面白かったことだった。俳諧趣味とやらがいい感じ。

おっと、『江戸歌舞伎集』所収の『御摂勧進帳』のいったい何がそんなに面白かったのだろう。と追憶にひたっていたら、ここまでつい長々と書き連ねてしまった。『御摂勧進帳』の何がそんなに面白かったのだろうって、なんといっても注釈が面白かったのだった。

などなど、前置きが異常に長いけれども、岩波の新大系の『江戸歌舞伎集』を堪能した思い出の『御摂勧進帳』を見ることができるというのはとりあえず極私的に嬉しいことだった。


今回の『御ひいき勧進帳』は初演から数えて4回目の上演となり、初演のときに『暫』と芋荒い弁慶で奮闘した松緑の役を分担するかたちで、富十郎雀右衛門がつとめる、というふうになっている。かつての本読みの思い出にひたれる上に、松緑を引き継ぐようにして雀右衛門富十郎が活躍というわけで、今回の上演は絶対に見逃せないと思っていた。とは言うものの、そういう思い入れの方がメインになってしまって、芝居見物そのものはあっさり終わってしまいそう、というのが、観劇前の自分内予想であった。なので、せめて過去の上演資料集で「お勉強」するとしようといったところなのだった。

三津五郎襲名のときに玉三郎の『女暫』と去年の海老蔵の『暫』が鮮烈で、『勧進帳』の方は江戸末期の七代目團十郎初演の松羽目ものがおなじみすぎるくらいおなじみで、『暫』も『勧進帳』もいわば九代目團十郎が明治にきちっと固めたものが現在の基礎になっている(のかな)、そちらの方があまりにおなじみすぎて、今さら前近代の江戸の顔見世狂言を見せられても、なんだかピンとこないのだろうなあと思っていたのだったが、嬉しいことにこの予想は大いにはずれた。何年か前にちょろっと歌舞伎座で芋荒いの弁慶を見たときは、本読みの方がメインだったけれども、今回は上演の方でも自分なりにくっきりと心に刻んだこと多々ありだった。というか、ただ単に舞台をぼんやりと見て、ぼんやりと役者を眺めて、妙に充足感。うまく言葉にはできないような感じで、なんだかよかったのだった。自分でも意外なほど満喫。

雀右衛門の『女暫』では、雀右衛門の姿を見ただけで胸がいっぱい。うまく言えないのだけれども、雀右衛門ならではの持ち味を凝視することで、ずっと胸がいっぱいなのだった。梅玉は所作事の「鹿島の事触れ」姿も風格たっぷりだったけれども、『勧進帳』の富樫がとてもよかった。そして、富十郎の弁慶。といった感じに、雀右衛門富十郎梅玉のそれぞれがそれぞれの役柄に適合しているその様子。まさしく「顔見世歌舞伎」を見ているような感覚になってきた。

それにしてもたのしかったのが最後の『勧進帳』で、まずは、関守の彦三郎と梅玉、弁慶の富十郎の三人の掛け合い具合にク−ッと興奮。全編「荒事ッ」といった感じに、動きが派手で雄弁術が発揮され、セリフのあくたいにもウキウキ。すばらしいのはなんといっても富十郎の弁慶で、まずはその姿がとても立派で風格たっぷりでまさしく「でっけえ」。見ることはないだろうけれども和藤内を見たい、と急に思った。よく言われる荒事における「稚児の心で」といった要素がばっちりとハマっていて、あちこちで荒事のたのしみ満喫だった。勧進帳を読み上げるところのくだりで一番興奮、義経を打擲するところでの義経のセリフのくだりもよかった。「歌舞伎十八番」の『勧進帳』のことなんてすっかり忘れて、『御摂勧進帳』そのものを完結された世界としてホクホクと見物してしまって、この点が自分ではとっても意外、こんなにもたのしいなんて! と、いい意味で予想が裏切られたのだった。芋荒いのところも理屈なしに面白かった。飛んできた手ぬぐいをすんでのところで逃したことが唯一のがっかり。弁慶をいじめる二人の下役の屈託のなさもとてもよかった。「闊達」ということを身体全体で感じた一幕だった。

富十郎の背後には松緑がいるのかな、ひょっとして憑依しているんじゃないかしら、という気分になってくるオーラが富十郎からみなぎっていた気がする。紀尾井町のすぐ近くの劇場で見ることで臨場感もたっぷり。今月の歌舞伎座に際して読み返していた『松緑芸話』のことを思い出したりも。雀右衛門の『女暫』ともども、セリフに松緑へのオマージュが込められていることで背後にいる松緑のことを思わせてもらった。今回の『御ひいき勧進帳』全体で見たことのない松緑のことを一人で勝手に思って胸がいっぱいになった。

それにしてもたのしかった富十郎の『勧進帳』。芝居見物のときに「おっ」と思ったことを帰宅後、『江戸歌舞伎集』で確認するのもたのしいことだった(前に読んだときにも見ているはずなのにすっかり忘れている)。富樫の退場直前に「切手」を渡しているところで、『対面』を思い出したのだったが、『江戸歌舞伎集』の注釈にもしっかりとそう書かれてあった。富樫のような役目の人物が、富樫と斎藤次と二人いるのはなぜだろう、岩永・重忠パターンなのかなと思って注釈を確認してみたら、いろいろと面白いことが書いてあって、この関所は「江戸の町奉行所」が見立てられてあって、ここでは昼と夜の時替わりで二人の役人がいるという設定、これは『双蝶々曲輪日記』の浄瑠璃を踏まえていて、富樫が采配する「夜の闇の中で初めて人の情けが生かされる」という「引窓」の趣向なのだという。うーむなるほど、しみじみおもしろい。

浄瑠璃の黄金時代と入れ替わるようにして歌舞伎が繁栄していった18世紀後期、そんな浄瑠璃と歌舞伎の連関、相互取り込み、といったようなことが面白いなあ! と思った。などなど、歌舞伎史はなにかと面白いというのが、今回の『御ひいき勧進帳』全体の一番の感想だったかも。桜田治助の顔見世狂言といえば、叢書江戸文庫の『文化二年十一月 江戸三芝居顔見世狂言集』という本が手元にあるので、いつか読む日が来るといいなと思う。『御摂勧進帳』から年月が流れ、この頃は並木五瓶が江戸に下っている。並木五瓶よりも前に並木正三をちょっとだけ強化したいと思っているところなのでいつになるかわからないけれども。浄瑠璃の方でも読みたいのが無尽蔵、これから一生かかって緩慢に取り組むとしよう。たのしみたのしみ。