中戸川吉二の「名短篇」を読む

朝、ラドゥ・ルプーのディスクでシューベルト即興曲集を流す。ディスクがちょうど終了したところで身支度完了、いざ外出。ちょっとだけ時間があったのでコーヒーを飲みに寄る。『コンラッド短篇集』を読み進める。昼休みは本屋さんへ。「本」を入手するもいろいろと見てまわっているうちに残り時間がなくなってしまった。帰りはいつもよりだいぶ遅くなる。京橋図書館に直行し、本を返してまた借りた。涼しい空気がひんやりと気持ちよかったので、日本橋界隈まで散歩。今日は疲れたなあとコーヒーを飲んでひと休み。

借りたばかりの、「新潮」通巻一二〇〇号記念『名短篇』(ISBN:410790136X)を繰る。出たまなしの頃に「おっ」となりつつもそれっきりだったのを、先日、編者である荒川洋治さんの『世に出ないことば』を読んでいて思い出し、「あっ」となった。中戸川吉二の作品が収録されていると知っていてもたってもいられず、本屋さんに出かけるたびに探していたけど発見ならず、注文してみようかなと思ったところでいつものお念仏、「図書館、図書館」とあいなった。で、まっさきに中戸川吉二の『寝押』(大正11年12月)を読んで、とたんにウルウル。琴線に触れてしかたがない。なんとすばらしいことだろう。わかる人にはわかるだろうし、わからない人にはわからない。わかる人だったらグッときてたまらないだろう。とにかくも、わたしはこういう小説が大好きだと、シンシンと嬉しかった。


荒川洋治の編集後記より抜き書き。

中戸川吉二は「新潮」を舞台にした“流行作家”のひとりである。一九二〇年から一九二三年の間に「新潮」に書いた「馬」「友情」「ダリヤの煩悶」「ペチイプルジョア」「自嘲」などをこの機会に読んだ。つくりは甘い。作者の人生も甘いようだが、生活はあり、その生活の書き方がとても現代的なのである。この釧路生まれの人から現代文学の青春篇がスタートしたようにも感じる。でも、つくりは甘いので、どれを選ぶかで迷い、「寝押」に落ち着いた。男と男、二人の青春生活である。中戸川吉二の特徴が出ていると思う。道草のつもりで読んだ、小説風の随想「牧場行き」(一九二〇・八)も愉快だった。釧路の牧場へ、遊びに行く。まだ小さい妹たちは怖がる。小声で「牛さん、牛さん!」と、お世辞をいって、馬車を降りる。平気な顔をしていた「私」も内心怖い。思わず「牛さん!」と言ってしまう。/こうした、かわいいというしかないものを書いた。不思議な明るさをもった、不思議な作家だった。その文章は、色川武大「雀」のもとへと流れついたように思われる。時期的にも離れた作品と、作品が近づく。百年の時間は、そんなはたらきをすることもあるのかもしれない。》


ところで、少し長いので収録を見送ったという、《外資会社勤務の若い女性を描く》、高見順の『外資会社』(一九三〇・七)というのがとても気になる。とりあえずは、この「新潮」の『名短篇』は絶対に買わないといけないなと思った。中戸川吉二の作品が入っているだけでも買う価値はあるけど、本全体のつくりがとてもいい感じ。まだ在庫があるようで安心、よかった。

帰宅後は、借りたばかりの桂枝雀の『寝床』を聴きながら、いただきものの柿を食べた。バックハウスベートーヴェンピアノソナタ全集、《悲愴》が入っているディスクを流した。眠かったので11時に寝る。


去年の暮れから、三宅と、岡田のおかみさんとが、家へ来る度びに、「近く阿部さんが見舞に來るさうだ」と、何邊となく云つては居たが、大會社の重役が、どんなに忙しいかも知つてはいるし、うそつきやがれーと、ひがみ強くなつてゐる私は思つてゐた。
三宅が「文楽物語」を持つて來て呉れたことがある。その前日、やはりその本を、明治生命保険會社へ持つて行つたんだそうだ。阿部さんは、大きな専務椅子にどつかり腰を下ろして、(三宅周太郎の仕方話しが充分ある様子を想像せよ)話したさうだ。そのうち私の所へ來ると云ふことや何やかや。ところが、二三日した三月十七日の日曜日、本當に阿部さんは家へ來た。勿論約束で三宅も一緒に來たし、又ぢきあとから岡田のおかみさんまで來た。……
それから六日たつた土曜日の朝刊で阿部さんの急逝を知り、何んとも、かんとも吃驚して了つた。とにかく岡田へ電話をかけて、おかみさんに來てもらつた。私は看護婦を連れてあとの事も考へずに、車に乗つた。すると途中あツと云ふおかみさんの聲に外を見ると、信濃町の停留所に三宅が立つてゐるので、急いで車の中へ入れた。もう此の近くときく阿部さんの家へといそいだのだ。日頃のおかみさんの話で大層大きな家とはきいてゐる。然し三宅も私も、實際に訪ねるのは、これが最初であつた。
三宅と私は顔見合せて、暫く沈黙した。
岡田のおかみさんが一人で饒舌つてゐる。
三宅が急に大きな聲を出した「大きな家へ不意に越すからいけないのだ」
私「違ふ。断然違ふと思ふ。丁度いゝのに限るね」
岡田のおかみさんが、くすりと笑つた様な氣がする。
私「それはもう断然丁度いゝのに限るね」
すると三宅も又、くすりと笑つた様な氣がする。
大きな門の前へ來た。阿部章蔵と書いてある。黙つてみんなそこへ下りた。(完)


中戸川吉二「丁度いゝのに限る」−「三田文学水上瀧太郎追悼号(昭和15年5月・臨時増刊)】