映画館で清水宏の『有りがたうさん』を見た日

三の酉が終わって年末にかけてが一年で一番好きな季節。まだ寒さが新鮮でコートが嬉しい。で、年が明けるといいかげん寒さにも飽きてしまうのだった。今年は三の酉がないけど、思い出すのが「一葉忌ある年酉にあたりけり」という久保田万太郎の俳句。一葉忌も済んだことだし、いよいよ好きな季節だなと思うと嬉しい。と、そんなこんなで、今日もずいぶん早起き。朝の喫茶店でひたすらビュトールの『心変わり』を読んでいるときの気持ちのよさといったらなかった。


夜は銀座へ。松屋の上の階で日用品を仕入れたあと、山野楽器をのぞいてディスクを物色。「ダブルポイントデー」に向けていろいろ計画をたてて、時間ぴったり。シネスイッチ銀座で開催中の《松竹110年祭》にて上映中の清水宏の『有りがたうさん』を見た。『有りがたうさん』は長らくの念願の映画で、一昨年の清水宏生誕100年記念上映のときはドジをして見逃してしまったので、今回の上映はとても嬉しかった。清水宏の映画を見るのはその一昨年の映画祭の『簪』以来で、『有りがたうさん』を見られれば、清水宏の懸案映画はすべて見ることができるというわけで、わたしのなかでもやっと一区切りついた恰好。『簪』も今回上映があり、たいへんな絶品で思い出すだけで胸が詰まる映画で、ぜひとももう一度とも思ったけど、今回は『有りがたうさん』だけに気持ちを向けることにした。清水宏はあまり見過ぎてはもったいない。

などと、前置きが長いけれども、清水宏の『有りがたうさん』、いざ見てみると、もうもうたいへんな絶品で、「清水宏の感じ」をこよなく愛する身にとっては、たまらない映画だった。中戸川吉二の小説とおんなじように、わかる人にとっては好きで好きでたまらないし、わからない人にとっては退屈でしかないのだろう。とにかくも、好きな身にとってはたまらない映画で、このままずっと続いていて欲しいと本気で思ってしまったり、あるところではうっかり涙ぐんでしまったり。移動するバスがゆらゆらと揺れるような浮遊感は軽やかだけど苦味があって、だけど、軽やかで。同じバスに乗り合わせた運転手さんやお客さんやバスとすれ違ういろんな人々は、二度と会うことはないかもしれないし、明日も同じように顔を合わせるかもしれないし、歳月を経て再会するかもしれないしと、桑野通子がバスの中でぽわっとくゆらすタバコの煙のように(ここのショットが素晴らしかった!)、そのときは確実に存在しているけれどもすーっと消えていってはまた現れるという感じの「永遠の現在」のようなものに心がふるえた。

清水宏の映画をくくってみると、『有りがたうさん』は『暁の合唱』とセットでバス映画で、『按摩と女』と『簪』は温泉映画セットというふうになる。『簪』のこともなつかしく思い出す。温泉地の人々の交流が描かれているわけだけれど、その交流というのはいつかは必ず終わりがくる一過性のもので、おそらく二度と会うことのない人々のひと夏の物語。そういうことからくる独特の浮遊感を描くのが清水宏はとってもうまい、というか、なにも考えずにやっているのだろうなあと思う。天才としか言いようがない。なにも考えずに撮っているので、ときどきひどい脱力作に遭遇するのがご愛嬌なのだった。


とかなんとか、清水宏の『有りがたうさん』は文句なしに今年見た映画のなかで自分内ダントツナンバーワンだった。生涯に見た映画(たいした生涯ではないが)でも『簪』『按摩と女』と合わせて、大切に胸のなかにしまっておきたい映画だ。そんな映画を見た日は最高だ。ひたすら幸せな気持ちになって映画館をあとにして、皇居沿いの夜道をテクテク歩いた。三宅坂と通って半蔵門を経由して靖国通りを横断して一口坂をくだる、というコースをたどる。江戸東京たてもの園に展示してあった都電の停留所に「一口坂」というのがあったのを思い出す。あの都電の路線はどんな感じになっていたっけ、と少し気になった。


映画で心穏やかに帰宅してみると、扶桑書房の目録が届いていて、キャー! と大騒ぎ。手洗いうがいを大急ぎで済ませ、体勢をととのえていざチェックすると、欲しい本がたくさんあって、ますますハイになる。思わず、数冊注文、を済ませたそのあとで、今週末の趣味展は自粛しようと大いに反省す。


編集グループ SURE(http://www.groupsure.net/)から郵便物あり。「セミナーシリーズ《鶴見俊輔と囲んで》」の刊行案内が入っていた。シリーズ第4巻に山田稔さん登場、タイトルは『何も起こらない小説』とのこと。以前、SURE のウェブサイトで読むことができた「山田稔を囲む会」の速記かなと思う。その記事はプリントアウトして製本(のようなもの)してわが書棚に収まっているのだけれども、そういう私家版が本当に一冊の本として刊行されるのはいつもとても嬉しい。A5版並製、約80ページで700円のブックレット、北沢街子さんの装幀、さぞや素敵な本であることだろう。