中戸川吉二『北村十吉』を読み、『茶の間句集』を買って後悔する。


またもや風邪っぴきの週末が明けてみると、必要以上に睡眠にいそしんだせいか、カラッと全快。必要以上に早起きをして、ずいぶん早くに外出。コーヒーを飲んで、のんびり読書。思うところあって持参していた野口冨士男『私のなかの東京』(中公文庫)の目当てのところを読み返したあと、おもむろに図書館で借りてそれっきりだった中戸川吉二『北村十吉』(叢文閣、大正11年)を取り出す。油断していたら、返却期限が迫ってしまった。今まで読んだ中戸川吉二はすべて短篇だったので、ハテどうだろうと思っていた長篇小説ではあったけれども、いざ読み始めると、スイスイとページがすすんでゆく。師事していた里見とんの家で出会った目白の女学生との恋愛をそのままタラタラと綴っていて、里見とんは「T・S」として登場していて、おっ、この「M」というのは三宅周太郎だな、「M・K」は久保田万太郎……、というふうに、演劇と文学が不可分な時代としての大正と文士たちの交流といった、その時代の雰囲気をヴィヴィッドに体感できる歓びがまずあって、新富座で自作上演を控える里見とんといった描写がいかにも大正なのだった。新宿駅の待合室とか両国が始発の電車とか当時の東京の様子の描写がたのしい。『大東京繁昌記』の上司小剣の小説について坪内祐三が書いていたこと、「小説でしか語れない実感的な資料」という言葉が中戸川吉二の『北村十吉』にもそのまんま当てはまる。と、そんなこんなで、スイスイとページを繰る指がとまらない。まだまだページがたくさんで、うれしい。


夕刻、イソイソと外に出て、マロニエ通りを歩いて、ひさしぶりの京橋図書館。『北村十吉』以外の本をさっと返して、銀座へ戻る、その途中、松屋裏の奥村書店にひさしぶりに足を踏み入れる。足を踏み入れてすぐに文庫本棚でふと、伊藤正雄・足立巻一著『要説日本文学史教養文庫を手に取る。チラリと立ち読みして、ちょっとした記述が独特でなかなか面白そう、細切れ用に持参するのにぴったりだなあと、ふらっと購入を決める。ついでに俳句コーナーを眺めると、ふと『茶の間句集』というタイトルが目にとまり、そのタイトルに反応しチラリと立ち読みすると、ウム、安住敦がはしがきを書いている。「茶の間句会」という名称は戸板康二の『回想の戦中戦後』でおなじみの久保田万太郎を囲む「茶の間の会」にちなんでいて、その総帥格だった伊藤熹朔が亡くなりしょんぼりしている夫人を慰めるべく始まった句会なのだという(昭和42年5月に第1回句会)。フムフムと立ち読みを進めると、NHK吉川義雄いとう句会でもおなじみの宮田重雄中村伸郎宮口精二といった文学座の面々、わたしのなかではおなじみの大江良太郎、といった固有名詞が一気に眼前に登場して、興奮。伊藤正雄・足立巻一著『要説日本文学史』の勢いにのって、『茶の間句集』(茶の間句会発行、昭和51年8月)も衝動買いする。そして、帰りの電車のなかで早くも、なにも買うほどのものでもなかったような気がしているのだった…。


春先に大田区立郷土博物館で馬込文士村の展覧会を見たあと、テクテクと散歩して、天誠書林で大喜びで買った本のうちの1冊に、句楽会『句集 大入札』(俳句研究社、昭和33年)がある(店主さんに「これはいい本ですよ」と言われる)。久保田万太郎の第一句集『道芝』のあとがきでおなじみの「句楽会」が戦後に復活していたのを知ったのは初めてだった。吉井勇花柳章太郎の文章でもおなじみの「句楽会」、『句集 大入札』の序文は当の花柳章太郎だ(明治座再開場の楽屋にて執筆)。



画像は『句集 大入札』の木村荘八による扉絵。とりあえず、思わず買ってしまった『茶の間句集』を句楽会の『句集 大入札』の隣に押しこむ。『茶の間句集』、買っておいてよかったと思う日が来ないとはかぎらない、と自らをなぐさめたあと、中戸川吉二の『北村十吉』の続きを読むもだんだんダレてきて、早々に寝てしまう。