牧野信一と大岡龍男を読み返し、尾崎一雄『ペンの散歩』を取り出す。

朝、早々に外出。昨日の神奈川県立近代文学館の余波で、牧野信一をちょっとだけ読み返したくなり、岩波文庫の『ゼーロン・淡雪』を持参。あちらこちらをピンポイント式に読み返したあと、堀切直人の解説をじっくりと読む。



画像は、神奈川県立文学館の《没後五十年 牧野信一展》開催の栞(昭和61年2月から3月まで開催、保昌正夫監修)で、3年前の黄金週間のお出かけ折に「ご自由にお持ち下さい」とあるのをとりあえず持ち帰っておいたもの(当時のわが記録:http://www.on.rim.or.jp/~kaf/days/2003-05.html#18)。表紙は、大正13年9月の「新潮」に掲載された、岡本一平描く牧野信一。この絵がとても好きで、もう何年も部屋の書棚に立てかけて飾っている。出がけに突発的に持参して、コーヒー片手に、しばし眺めたあと、今週中に終えねばならぬと、ディケンズ中野好夫訳『デイヴィッド・コパフィールド』最終巻(新潮文庫)を繰る。ひとたび繰ると、ズンズンといつものことだけど、スイスイとページが進む。このときだけ眠気が吹っ飛ぶ。


夜、眠いので早々に帰宅すると、注文していた『創刊百年記念 ホトトギス名作文学集』(小学館、1995年)が届いていた。大岡龍男による「直哉居を訪う」(昭和30年7月)目当てに一度図書館で借りたことがあったのを先日『不孝者』が届いた勢いにのって注文していた、のを、ほぼ忘れかけていた。いかにもなおなじみの名前の合間合間に、加能作次郎(『恭三の父』)、上司小剣(『鱧の皮』)、近松秋江(『青草』)といった名前が交じるところがたまらない。と、ちょいと物欲が刺激されてしまう目次だったのを思い出して、うっかり買ってしまった。同時期に虚子に嘱望されていた若い写生文作家として大岡龍男とともに名前が挙がっていた(『不孝者』巻頭の虚子の序文による)、勝本清一郎の名前は目次にはない。

大岡龍男の「直哉居を訪う」は、NHK の「芸談」という番組で、語り手を志賀直哉、聞き手を尾崎一雄というプログラムを組んだことを綴ったもの。ひさしぶりに読み返して、尾崎一雄が「大岡龍男さんのこと」なる一文でこの番組のことを綴っているのを思い出して、たまらなく読み返したくなった。カオスと化している本棚を探索してやっとのことで、目当ての尾崎一雄『ペンの散歩』(中央公論社、昭和53年)を取り出して、つくづくくたびれた。早々に寝ることにして、寝床で『ペンの散歩』を繰る。あらためて「大岡龍男さんのこと」を読んで、しみじみ感じ入る。富士正晴著『高浜虚子』を読まねば、とメモ。牧野信一のお墓参りのことを綴った一文を読んで、小田原に遠足に行きたいなと思っているうちに、いつのまにか寝てしまったようだ。