極私的東京名所めぐり:鶯をたづねたづねて麻布まで

正午前。都営三田線に乗り換えて、御成門で下車して地上に出ると、背後は東京タワー。《2007東美アートフェア「春」》開催中の東京美術倶楽部(http://www.toobi.co.jp/)へ出かける。まずは、林哲夫さんの展示のある岸本画廊のブースに突進、静かな空間で心ゆくまで絵を見て、それはそれは至福なことだった。館内に低音量で流れているモーツァルトの音楽とともに絵を見る。それはそれは格別なひとときであった。


林哲夫「開窓近作展」。《開窓近作展としてみました。北窓開くという“春”の季題から取りました。》


東京美術倶楽部は今日が初めて。御成門東京美術倶楽部といえば、昭和24年3月に戸板康二の『丸本歌舞伎』の出版記念会(幹事は折口信夫久保田万太郎)が催された場所、ということで長年心に刻まれていた「極私的東京名所」のひとつなのだった。折口信夫がこの日のためにこしらえた『平気平三困切石』なる『石切梶原』のパロディが上演され、会場に居合わせていた三島由紀夫がのちに《ある年、戸板康二氏の出版記念会で、折口氏作の石切梶原のパロディの仁輪加に爆笑を禁じ得ず、改めて氏の生ひ立ちの中に、洒脱濶達な上方文芸の伝統のあることを痛感して、一驚を喫したのであった》というふうに記している美術倶楽部での春の宴。同年8月、同じく東京美術倶楽部にて今度は安藤鶴夫の『落語鑑賞』の出版記念会(幹事は久保田万太郎戸板康二)が催され、こちらでは桂文楽の高座、『つるつる』と『船徳』の二席あり。ロッパが源之助の声色を披露して万太郎が感涙した夏の夕べ。


と、そんなこんなで、長年の懸案だった「極私的東京名所」を訪れることができて、しかもきっかけが林哲夫さんの展覧会というのがなんとも嬉しく、低音量のモーツァルトでますます上機嫌、人混みをぬって会場を練り歩き、気ままに絵を見て歩いて、いつまでも上機嫌。展示会場の3階と4階をつなぐなだらかな螺旋階段がなかなか素敵、階段近くの喫茶スペースにはコーヒーのにおいがたちこめていて、ますますいい気分。ひととおりめぐって、最後にもう一度林哲夫さんの絵を見て、階段をトコトコ下ってゆく。平成の現在、東京美術倶楽部は新しい建物になってしまっているけれども(参照:http://www.toobi.co.jp/club/history.html)、なだらかな曲線に沿って階段をくだって2階の大広間を垣間見た瞬間、昭和の昔の出版記念会の雰囲気のようなものを意外なほどヴィヴィッドに体感できたような気がした。とかなんとか、一人で勝手に心ときめかして、いつまでもフツフツと嬉しい。次回はぜひともお茶席を体験したい!



正午過ぎ。東京美術倶楽部をあとにして、いざ愛宕山NHK放送博物館http://www.nhk.or.jp/museum/)へ出かける。愛宕山が好きだ。たまに出かける機会があると、それだけでフツフツと嬉しい。ふもとにたどりつき、眼前の険しい階段を横目に、エレヴェーターに乗って東京タワーを横目にスイスーイと高台へ。心持ちよくウカウカと放送博物館の入り口にたどりつき、ずいぶんひさしぶりの放送博物館、展示コーナーは容赦なく無視して、4階の放送ライブラリーに突進。宝塚関係のプログラムを探せ! とメラメラと検索、2本該当があったので、フムフムと2本続けて視聴する。旧宝塚大劇場最後の公演をとらえつつ宝塚のしくみ(のようなもの)を解説したものと、宝塚七〇周年にあたってそれまでのあゆみを振り返ったプログラムの2本。初心者としてはたいへん勉強になって、よかった。白井鐵造は偉大なり、といつも思う。武庫川沿いの大劇場、今はもうない昔の宝塚大劇場のどこか牧歌的な情景に心和み、1930年代の宝塚、いわゆる「阪神間モダニズム」当時の宝塚のハイカラな映像ににっこり。新珠三千代のインタヴュウがファンとしては嬉しく(宝塚当時の舞台映像がむちゃくちゃかわいい!)、小夜福子はいつ見ても凛々しいのだった。1992年12月が最後の公演だった旧大劇場、昭和2年に『モン・パリ』が初演されてレビュウ時代の幕開けを飾った旧大劇場は、1993年1月に亡くなった戸板康二と時を同じくして、その歴史に幕を閉じたのだなア、ということに初めて気づいたのが一番の収穫だったかも。戸板康二を思う上でなかなか象徴的なことのような気がして、嬉しい発見だった。



午後2時。神谷町界隈の通りがかりのお店でお昼ごはん。ワインを1杯おまけしてもらって機嫌よく外に出る。曇り空の正午前とうってかわって、青い青い空のポカポカ陽気の昼下がり。ここ仙石山界隈は昭和12年戸板康二卒業論文を書き始めようとする頃に下宿していたアパートがあった界隈で、泉ガーデンの片隅には偏奇館跡がある。昭和12年戸板康二永井荷風はかなりのご近所さんだったのだ。と、今日はそちらの方角ではなく、麻布局裏手の路地を、飯倉片町へ向かってテクテク。適当に入った裏道だったけれど、古い住宅がいくつも散見できて、ところどころのモダーンなディテールが実にたのしい。なんとなく昭和12年の仙石山の雰囲気のようなものが体感できた気がする、と、ここでも勝手な思いこみで一人心ときめかして、上機嫌。飯倉片町の交差点から六本木交差点に向かって歩いて右手、ロアビルの向かいの和菓子やさん、青野総本舗(http://www.azabu-aono.com/)へ。往年の文学座青野平義(1910-1974)の実家というだけで、長年行ってみたかったあこがれのお菓子屋なのだった。念願かなって、やれ嬉しや。


一周忌の追悼本『追想 青野平義』(私家版、昭和50年12月8日)を初めて手にしたとき、青野平義のことが一気に大好きになった。役者としてはどうもあまりパッとしなかったみたいだけど、青野平義はみんなから「青ちゃん」と呼ばれて、ずいぶん慕われていたようだ。老舗の御曹司だったけど放蕩息子で、お店は全部弟にまかせて、本人はいたって暢気に好きな芝居で一生を送った。追悼本はしっかり者の弟さんの編集によるもので、寄せられた文章を読んでゆくと、追悼される青ちゃんに「いいなア……」のいいどおし。お酒が好きだった青ちゃん、植草甚一殿山泰司の追悼文がわたしのお気に入り。戸板康二は《東京っ子で、せきこむと少しどもる癖のある早口で、青野さんは冗談をいっては、笑わせていた。久保田(万太郎)先生は、青野さんがお気に入りで、そのジョークを楽しんで聴いていた。龍岡晋さんも先生にとって欠くことのできないたのもしい存在だったが、龍岡さんには物をたのむことが多いので、打ちとけてがいても、先生はちょっと改まった態度だったが、青野さんには、ごく気楽に話していたようである。》というふうに書いている。その龍岡晋は《竜ちゃんといってくれるひとがまたひとりへった。》とさびしそう。龍岡晋(龍ちゃん)に青野平義(青ちゃん)。久保田万太郎をとりまく人物誌はいつだってとっても魅惑的なのだった。


……とかなんとか、東京美術倶楽部とおなじように、勝手な思いこみで、総本舗青野は長年の「極私的東京名所」であった。お土産をみつくろって、機嫌よくお買い物。名物の鶯もちは、《四代目青野平九郎の兄(青野平義・俳優)が ”楽屋でも汚さず食べられる菓子を”ということで考案したことが始まり》なんですって!


総本舗青野の包装紙。あまりきれいに写せなくて残念。麻布界隈の古き地図があしらってある包装紙が実にチャーミング。久保田万太郎の俳句をきっかけに知った「ぬしは麻布で気が知れぬ」という江戸の慣用句がなんとはなしに思い浮かんで、にっこり。画像は本日の遊覧の出発地「あたご山」のあたり。慶事用(ピンク)と弔事用(グレー)の包装紙も欲しいなあ。今回の包装紙はとりあえず『追想 青野平義』のカヴァーにした。



クローバー(http://www.clover-inc.com/)2階でコーヒーをすすりながらチーズケーキを食べて、ひとやすみ。今日は途中眠くなったりせず、終始上機嫌の遊覧となって、めでたしめでたし。星条旗通りにも懸案の「極私的東京名所」があるのだけれど、次回のたのしみにとっておくことにして、午後4時半、大江戸線にのって、帰る。