日中線終着駅跡に感激し、昼下がり、郡山で真船豊と双雅房を思う。

いつものとおりに6時に起き、せっかくの温泉であるので、のんびり朝湯をたのしむとしよう……というかねてからの計画もむなしく、アタフタと8時に起きて、朝食をたいらげて、9時に宿を出る。喜多方行きのバスがやってくるまでまだだいぶ時間がある。日中線の終着駅、熱塩駅の跡地が「日中線記念館」となって残っているという。遠路はるばるここまでやってきたことだし、少しは「観光」というものをしてみたい気もする。バスが来るまで散歩がてら、見学に出かけることにする。


と、ほんの時間つぶしに軽い気持ちで見物にいった「日中線記念館」だったのだけれど、いざたどりついてみると、たいへんすばらしく、いつまでもヒタヒタと感激。まずは、往時の熱塩駅の駅舎がそのままのかたちで「記念館」として残っているというのがすばらしい。今はなき日中線にのってその終着駅、熱塩駅に降り立ったときのことを、宮脇俊三は『終着駅へ行ってきます』(日本交通公社1984年→新潮文庫・1986年)に、

日中線熱塩駅。いい駅である。北欧の民家を想わせる屋根の反りが美しい。瀟洒という語がぴったりする建物だ。ホームから見ても、駅前から見ても、横へ回っても、どこからでも形がいい。

というふうに書いている。あとで読むとうなずくことしきりで、しみじみとなる。そうそう、まさしくその通り。いい駅だった。屋根の反りが美しかった。瀟洒という語がぴったりする建物だった。どこからでも形がよかった。熱塩駅の建物が視界に入ってきて、それがだんだん大きくなる、そのときどきの瞬間の嬉しいことといったらなかった。たどりついてみると、待合室やその扉、ベンチといったようなものがそのまんま残っていて、往時の「熱塩駅」にそのままタイムスリップしたかのようで、いつまでも嬉しかった。なんて、実は上掲の直後、宮脇俊三は熱塩駅について、

もっとも、それは離れて見た場合であって、近づけば漆喰は剥落し、窓枠ははずれ、かつては駅長以下が颯爽と勤務したであろう屋内は荒れ放題で、錆びた什器や備品が放置され、散乱している。

と続けているのだけれども、まあ、今となっては、かつて「荒れ放題」だった屋内には、日中線にちなむものが少しばかり陳列してあって、ささやかながらも「記念館」となっているわけで、近づいてみても悪くはなかった。往時の待合室のベンチや看板のようなものが今となっては一番の「展示物」なのだった。


そして、駅(の跡)からホーム(の跡)へと出てみると、



線路はないけれども、駅のホームがそのままのかたちで今も残っている。


さらに歩を進めると、屋根の下にかつての日中線の電車がそのまま停車している、中に乗ることもできる様子、ワオ! と、さっそく乗り込んでみると、いかにも古色蒼然とした木製の客席が風格たっぷり。ツーンとニスの匂いがきそうな風情(昔の世田谷線の匂い)。しばし客席(板張りなので固い)に座って、窓を眺めながらくつろいで、昨日の食べ残しの明治製菓の「きのこの山 みちのく限定(あきたこまちササニシキ 米パフ入り)」を1つだけ食べてみたりする。宮脇俊三より1、2年あとに日中線にのって熱塩温泉へ出かけた山口瞳は車内について、『温泉へ行こう』(新潮社・1985年→新潮文庫・1988年)に、

本来、鉄道というものこういうものではなかろうか。板張りの内部のその板がピカピカに光っている。ドアの把手の真鍮もしかり。鉄道員の愛情がむんむんしている。鉄道マニアなら狂喜するだろう。……

というふうに書いている。これまた、あとで読むとうなずくことしきりなのだった。「鉄道マニア」でなくても狂喜だったわ! 宮脇俊三の文章だと、

貫通路を通して、ディーゼル機関車が尻を上下左右に揺さぶりながら走っているのが見える。機関車牽引による「客車列車」ならではの眺めで、馬車に通じるものがある。

というふうになっているのだった。客車列車ならではの眺めか、フムフムといつまでもうなずくことしきり。



いつまでも座っていてもキリがないので外に出て、線路の敷いてあったあたりを直行、駅のホームを左手にしばし歩を進めると、



線路はないけれども、踏み切りがそのまんまの姿で残っていて、実にいい景色。ああ、しみじみいい眺めだなあ……。と、写真を見ていつまでも追憶にひたるのだった。



10時少し前にバスにのって、喜多方駅へ。次の磐越西線は3分後! これを乗り逃したら1時間以上も喜多方駅で時間をつぶさねばならないッ、と駅前のバス停からものすごい形相で全力疾走をして息も絶え絶え(全力疾走をしたのは何年ぶりだろう)、全力疾走の甲斐あって、無事に電車に乗ることができた。車窓をたのしむつもりが、ディーゼル車ならではの揺れが心地よく、ついウトウト。会津若松から郡山への車内ではコンコンと寝入ってしまって、帰りの電車でも猪苗代湖を見逃してしまった。終点の郡山でやっと目を覚ます。昨日あんなに寝たのに、また眠ってしまうとはどういうことなのだろうと、よろけながら改札を出る。が、ドトールの看板が視界に入ったとたん、とたんに目が覚めた。そういえば昨日からずっとコーヒーを飲んでいないのだった。ドトールの看板を見た瞬間、今もっとも身体が欲しているものはコーヒーだということに気がついて、いてもたってもいられない。というわけなので、ドトールの店内にイノシシのように突進。これほどまでにコーヒーを渇望したことはかつてなかったような気がする。ドトールのコーヒー180円がこれほどまでに美味だったことはかつてなかったような気がする。ドトールの看板にこれほどまでに感激することは将来二度とあるまい。…などとしみじみしつつ、ドトールの窓から郡山駅前広場を見渡すのだった。



ドトールでスッキリ目が覚めたところで、意気揚々と郡山駅前からバスにのって、「こおりやま文学の森資料館(http://www.bunka-manabi.or.jp/bungakunomori/)」へ出かける。バスを降りるとすぐに、なかなか感じのよい公園が視界に入る。その一角に、「郡山文学資料館」と「郡山市久米正雄資料館」とがあり、入場料は両館共通で200円。目当ては、鎌倉から移築された久米正雄の邸宅がそのまんま「資料館」となっている「久米正雄資料館」だったけれども、まずは「郡山文学資料館」を見学。そんなに深い考えもなく入場したのだったけれども、こぢんまりとまとまった展示がなかなかよかった。


宮本百合子久米正雄を中心にしつつ、周辺の文学者にも言及している。とりわけ嬉しかったのが、真船豊。鎌倉文士の久米正雄ともに、久保田万太郎とつながる人物誌というわけで、日頃の関心にズバリ直結する展示なのだった。久保田万太郎は創作座で『鼬』を演出する際に真船豊と知り合う。

 戦前に見た新劇で、客席がむんむん熱気を帯びた光景として、記憶に残っているのは、昭和十年の創作座の「鼬」の初演の時の飛行館講堂である。

 真船豊という作家は、この作品で世に出た。まもなく、その戯曲は『中央公論』のような一流の総合雑誌に発表されることになる。この時代に、演劇雑誌以外の檜舞台で、書いたものを活字にする劇作家はほかにいなかった。

 創作座で次々に上演した真船さんの作品は、郷里の会津の山村を舞台にしたもので、後年の「山参道」まで、登場人物も共通した、一連のものといえる。その「鼬」や「鉈」や「孤舎」を演出したのが、生まれた町の浅草をもっぱら劇にした久保田万太郎だったのも、ふしぎな縁であった。


戸板康二「真船豊」 - 『わが交遊記』(三月書房、昭和55年)より】

昭和十年代に戸板康二は、久保田万太郎内田誠を通じて、真船とたびたび会う機会を持つようになった。……というふうな、一連の流れを反芻して、モクモクと刺激的で嬉しかった。




真船豊の最初の著書、『鼬(いたち)』(双雅房、昭和10年12月)の検印紙。「す」の字で鈴木信太郎による意匠だということがわかる。あとがきに真船豊が、《先日、久保田万太郎先生に呼ばれて、唐突に「君の本を出すから、原稿を至急集めなさい」とただそれだけ言はれたのです。私はその時、唯ぼうつとしてあわてて帰り、草草に原稿を集めたのであります。》と書いているように、この本は久保田万太郎のすすめで双雅房から刊行された、というわけで、久保田万太郎と双雅房社主の岩本和三郎の交流から広がってゆく双雅房人物誌、といったものに心躍るのだった。かねてから興味津々の双雅房人物の重要人物のひとりが内田誠なので、おのずと目下最大の関心事項、明治製菓宣伝部の「スヰート人物誌」につながる。



今村秀太郎古通豆本47 双雅房本ほか』(日本古書通信社、昭和55年9月)。表紙は、上掲の鈴木信太郎による双雅房検印紙! 真船豊「岩本和三郎君のこと」、鈴木信太郎「双雅房の思ひ出」、渋沢秀雄「『書斎異変』より」、「文体社・双雅房限定版書目」を収録。

 私の最初の本は、「鼬」といふ戯曲集であったが、ある日の夜、秋の夜だったと思ふ。岩本君がやって来て、手あぶりに手をかざしながら、どういふ装釘にしようかといふやうなことを言ひ出してゐるうちに、二人はだんだん昂奮して来て、とてつもないことを考へだした。その夜はそんな話で夜が明けて了ひ、明日早速出かけよういふことになって、上野駅から会津若松へ二人で行った。

 その町の一番大きな呉服商へ出かけ、反物を山ほど買ひしめたのである。つまり、この地方の農家などで着る会津木綿縞といふもの。男縞とか、赤い縞が入ってゐる女子縞とか。たとへば千部作っても、その一本一本が、みんな違った模様の装釘になる。こいつは面白いと言って彼はひどくはしゃいだ。

 やがて本屋の店頭に現はれると、なるほど素晴らしい珍風景になった。その本を私は彼と東京の街を歩きながら書店で見て歩いて大声で笑ひ興じたのを覚えてゐる。このきばつな木綿装釘は、その後流行した。然し岩本君の作り方のやうな美しいキリッとしたものは見当たらなかった。


【真船豊「岩本和三郎君のこと」より】



真船豊『鼬(いたち)』(双雅房、昭和10年12月)の本体。この縞も、会津若松呉服店岩本和三郎が買い占めた反物が使われたものなのかな、とフツフツと嬉しい。今回の鉄道温泉旅行のよき思い出としたい。なんて、文学資料館に来るまで一度も真船豊のことを思い出したことはなかったというのに、いきなり真船豊と双雅房のことで頭がいっぱいになっている。



そもそものお目当ての、鎌倉の二階堂から移築された久米正雄邸も、期待通りに満喫。



玄関のあたりは洋風だけど奥に行くと和風になる。玄関を入ってすぐの応接までフカフカのソファに座りながら、壁の絵画を見るのがたのしかった。宮田重雄梅原龍三郎、林倭衛といった絵が嬉しかった。昭和5年に建立とのことで、久米正雄は円本で財をなした当時の文士の典型だったといえる。いかにも瀟洒な邸宅で実感として昭和文学の「ある時代」を思うことができたのがよかった。いかにも人望あふれる様子が如実に伺える、久米正雄その人にもたいへん和むものがあった。本は一冊も読んだことがないのだけれど。




清水宏『金環蝕』(松竹蒲田・昭和9年)より、怪我で入院している意中の男子(藤井貢←配役が大いに不満)のために森永キャンデーストアでお見舞いのお菓子を買うモダンガール、桑野通子。戦前映画のタイアップ画像のわがコレクションの一枚。文学資料館の久米正雄の展示を見て、まっさきに思い出したのが久米正雄原作(「キング」掲載)の清水宏映画だった。昨日から清水宏のことを思い出してばかりいる。当時の通俗小説とその映画化の系譜というようなものにかねてから興味津々。他の清水宏サイレント、他の蒲田映画とおなじく、『金環蝕』も当時の「モダーン!」がふんだんに詰まっていて、東京ロケも冴えていて、ストーリー云々はどうでもよくて「映画」としてたいへん満喫。ヴィデオで見てしまったのでスクリーンでまた見たい。桑野みゆきの父親は森永製菓の宣伝部にいて、梅園龍子明治製菓宣伝部のカメラマンと結婚といったようなことを含む、映画と製菓会社宣伝部の交わりについてさらに追及ていきたいのだった。



「こおりやま文学の森資料館」はなかなか満喫であった、それにしても今日もみごとな秋日和、と心持ちおだやかに公園を歩いて、いつまでも上機嫌。ふたたびバスにのって、郡山の駅に向かう、その途中、ブックオフが見えたのであわててバスを降りる。いろいろと立ち読みにいそしみつつも、何も買わずに外に出て、駅方面へ歩いて、安ワインをガブガブ飲んでふらふらっと新幹線に乗り込む。指定席が売り切れていたので思いあまってグリーン車に乗ってしまう。貧乏性なのでとたんに目が覚めて、持参の文庫本、岡崎武志『古本でお散歩』をホクホクと繰っているいちにあっという間に東京についた。


「温泉に入ったし、駅弁も食べたし、日中線記念館はすばらしかったし、ドトールのコーヒーはおいしかったし、文学の森は思っていた以上に満喫だったし、ワインもおいしかったし、うっかりグリーン車にのってしまったし、東京へ向かう車中で岡崎武志本を読むときの快感といったらなかったし……」「言うことなし」