南川潤の『白鳥』を読んで、モダン都市のダンスホールをおもう。

連休が明けて、いつもの朝の喫茶店でコーヒー片手に、まっさきに読んだ本は、南川潤の『白鳥』(今日の問題社、昭和17年)。




南川潤『白鳥』新鋭文学選集3(今日の問題社、昭和17年11月)。装釘:鈴木信太郎野口冨士男の『黄昏運河』(昭和18年3月刊)が入っているということで、前々から興味津々のシリーズ「新鋭文学選集」。『白鳥』も『黄昏運河』も鈴木信太郎による表紙の絵はおなじ。野口冨士男の自作年譜(『文学とその周辺』筑摩書房・1982年8月)の昭和17年の項に、《秋、今日の問題社で「新鋭文学選集」が企画され、日比谷の松本楼でおこなわれた著者の顔合わせ会で、和田芳恵を知る、和田は選集の企画者であった》とある。和田芳恵の企画であるということになるほどと深く感じ入ってしまう戦時下のシリーズ。

日本文学の新しい方向を指示すべき民族的伝統を生かした気力と美しさと潤いとを持った作品の傑作集を、新世代の青年男女に贈るべく現文壇に特異な性格を放つ新鋭作家の協力を求めて「新鋭文学選集」を継続刊行致します。/全篇書下し長篇を主として何れも近来の力作を編めて日本文学に新世代の息吹を与えんとした野心的傑作ばかりです。/今後毎月一冊刊行。上記十五冊以後は決定次第発表します。(『白鳥』の巻末にある「新鋭文学選集」広告文より)

「新鋭文学選集」の刊行書は番号順に、野村尚吾『旅情の華』(1)、中島敦『南島譚』(2)、南川潤『白鳥』(3)、井上友一郎『雁の宿』(4)、野口冨士男『黄昏運河』(5)、長谷健『新星座』(6)、福田定吉『風眠る』(7)、高木卓『復讐譚』(8)、牧屋善三『新生』(9)、和田芳恵『離愁記』(10)、田中英光『端艇漕手』(11)、白川渥『山々落暉』(12)。巻末の広告で予告されているものの、未刊となった(と思われる)作家は、宮内寒弥、牧野吉晴、丸岡明、織田作之助



年明け早々、五反田の古書展で深い考えもなく200円だしと『生活の設計』を買って読んで(id:foujita:20080125)、2月は『掌の性』と『人形の座』を読み(id:foujita:20080227)、3月は桐生へ出かけ(id:foujita:20080320)、その遊覧にあたって事前に購入していた『風俗十日』は、読みさしのままだったのをつい先日、読んだ(大森描写がとってもよかった)。胸がしめつけられるまでに南川潤に夢中! …というのでは決してないのだけれど、戦前昭和の「風俗小説」ならではちょっとした洒落っ気が、同時代のモダーンな日本映画を見ているかのようで、なんとなく離れがたい愉しみなのだった。さらに、小説に描かれた都市風俗に喚起されるようにして、いわゆる「モダン都市東京」をいろどるあれこれに、あらたにないしあらためて目を見開かされるというのにいつも胸躍る。芋づる式に他の本へとつながっていくのが毎回嬉しい。


南川潤の『白鳥』は、昭和15年10月をもって閉鎖に追い込まれたダンス・ホールのダンサーがヒロインで、この背景はまさしく、野口冨士男の『暗い夜の私』に描かれていた時代なのだなあと、しょっぱなから野口冨士男を思い出して、嬉しくってたまらない(帰宅後の夜、まっさきに読み返した)。ストーリーはやや時局に沿ったもので、いままでの生活をリセットして、まっすぐに日々を着実に生きていこうとするヒロインのサマを描いていて、読み心地はたいへん気持ちがよい。ヒロインが無事にタイピストとして就職するガラス会社は、蒲田から郊外電車で三駅目だったり、先輩の有能タイピストが住んでいる大森の描写、ダンス・ホール閉鎖のあとの帰郷の折に立ち寄る大阪がチラリと舞台になったり、当地で化粧品会社(中山太陽堂?)に勤める元ダンサー(ヒロインの範となる)のアパート暮らしの様子などなど、いつものとおり、風俗小説ならではのディテール描写もサービスたっぷり。全体的には、たくみに時局への配慮をちりばめつつも、自身の「風俗小説」を書きあげているというのが興味深かった(今年初めて読んだ『生活の設計』と同様に)。野口冨士男は最後の小説集となった、『しあわせ』(講談社、1990年11月)のあとがきで、《戦時中に浅見淵氏からの文芸時評で、時勢に順応せぬ非国民とみなされても致し方のない「最後の風俗作家」と評された体験をもつ私は、戦後、風俗小説とは何だろうかと自問した》と記している。……などと、「芋づる式」というのではなしに、いつも結局は野口冨士男へともどってゆくのだった。野口冨士男のいう「風俗小説」を考えると、おのずと徳田秋声永井荷風がそびえたつこととなり、野口冨士男のとびきりの名著をあらためて繰ることになったりもする。ここ数年、わたしの本読みはいつも野口冨士男を中心にまわっている。




濱谷浩《東京赤坂 フロリダダンスホール 鏡を見るダンサー》1935年。『モダン東京狂詩曲 図録』(東京都写真美術館、1993年)より。



南川潤の『白鳥』を読んで、にわかに戦前昭和のダンスブーム文献が読みたくなり、まっさきに手にとったのは、瀬川昌久『 舶来音楽芸能史―ジャズで踊って』清流出版(asin:4860291395)。かねてからの愛読書、和田博文『テクストのモダン都市』風媒社(asin:4833131161)の「ダンスホール」の項には、「アサヒカメラ」1937年3月号に掲載されたという徳田秋声の写真があって、この写真が前々からなんだか好きだ。




玉川一郎『CM漫談史 附 欧米CMのぞき』(星書房、昭和38年10月)。挿絵:和田義三・西川辰美。おなじく「ダンスホール文献」として思い出した本。

 東京のダンス・ホールが目立ちはじめたのは、昭和三年頃であったろう。大阪で先に流行り出していたのだが、その筋の弾圧を受けたダンサーが、大挙東上したものだという。
 ひと頃は四十ヶ所もダンス・ホールが出来たが、色々の弊害が起こり、昭和五年頃には、八ヶ所に整理され、健全な? 発達を遂げたのである。
 それらが、昭和十五年十月三十一日、非常時の故をもって、全ダンス・ホールが閉鎖され、ダンサー二千名が完全失業になったまでの十年間がハナであったのだ。
 どんなダンス・ホールが昭和六年頃あったか。


(フロリダ)赤坂溜池にあった。よそが三分間二十銭の時ここだけは二十五銭とった。菊池寛氏などの顔がよく見えたところ。タンゴ・バンドなども一番さきに入れた。よそはタンゴとなると、レコードであった時代である。
(日米)八重洲口の千代田信託ビルの五階にあった。ダンサーが女学生ムードなので評判であった。
(ユニオン)人形町にあり、通称「人形町」。現在映画館のあるビル。株屋さんなどが和服でゾロリとした格好で踊っていた。大正十三年末、浅草十二階下の魔窟を玉の井に追っ払た元警視総監丸山鶴吉氏がビア樽のような夫人を伴って現われ、自分はラッコの襟のついた外套を着たまま椅子に坐り、夫人が自分の半分もないようなヤセ形の教師と踊るのを見物していた。
(国華)八丁堀の中島という呉服屋のビルの何階かにあった。ここのナンバー・ワンで糸川というダンサーが株をやり、大もうけをしてジャーナリズムに騒がれたりした。全体的に下町情緒のあるホールであった。
(パルナス)日本橋横山町の小松ビルというビルの中にあり、ダンサーは二十人くらい。一番小さなホールであった。これが、後の帝都座ダンス・ホールの前身。
(九段)九段のナントカというビルの中にあり、学生の客が多く、バンドの連中がダンサーと踊ったりして、ダラシのないホールであった。これが後の太田屋ビルの新橋ダンス・ホール。
飯田橋飯田橋のシナ料理店の三階にあり、チケットも夜券が十五銭という安さで人気があった。これが後の和泉橋ダンス・ホール。教師の玉置真吉氏が評判であった。徳田秋声氏がセッセと通っていて、手の込んだステップをやっていたが、あんまり上手ではなかった。
(シプレー)三原橋のナントカという倉庫のあるビルの階上にあり、後の京橋交差点近くの銀座ダンス・ホールの前身。芥川賞で世に出る前の石川達三氏が、ここでダンス教師をしていた事は知る人ぞしる……。


テナもんであった。
 雑誌の新聞広告、しかも「新青年」の如き、尖端を行くモダンな雑誌の広告のアイデアや、ヒントを得るには、時代の脚光を浴びつつあるダンス・ホールに行かなくてはダメだ、と私は思ったのである。


玉川一郎『CM漫談史 附 欧米CMのぞき』 - 「ダンスホール通い」】 

玉川一郎は、昭和3年3月、東京外国語学校仏語部卒業、白水社に勤めるが五ヶ月で業務縮小のあおりをうけ失職し、11月初めに博文館広告部に入り、主に新聞広告を作成。昭和8年3月退社後、伊東屋宣伝部に嘱託として勤務。そして、昭和9年1月よりコロムビアレコードへ……という、モダン都市の宣伝部を渡り歩いたという経歴の持ち主。『CM漫談史』は「電通報」に連載されたもので、電通の出版部部長清水基吉によるはしがきにあるとおりに、まさに《玉川一郎氏の自伝的読物ですが、そのまま日本のCM発展史でもあり、かつ世相史としても大いに興味深く……》というふうな読み物。





福田勝治『銀座』(玄光社昭和16年7月5日発行)より。巻末の写真の説明には《親子は伊東屋で買物をしたから伊東屋の包みをもつてゐる。やがて乗物に乗つて帰つてゆく。銀座はかうした人たちを一日どれ位送り迎へることか。「何処で買ひましたか」「銀座です」人は或誇りをもつてさういふ。》というふうに書いてある。南川潤の『白鳥』と同時代の銀座。『白鳥』のヒロインは、伊東屋で履歴書を書くために筆と墨を買っていた。