『やぶにらみニッポン』の十返肇。新井静一郎『ある広告人の日記』。

2年ほど前に、ラピュタ阿佐ヶ谷の《銀幕の東京》特集で、特に深い考えもなく単に気が向いたのでふらりと、鈴木英夫の『やぶにらみニッポン』(昭和38年・東宝)を見に行ったら、十返肇がなんと俳優として出演していて、「キャー!」と大興奮したことがあった(id:foujita:20060711)。しかも臆面もなく出番は少なくない。十返ファンの身としては見逃さないで本当によかったッと、2年後の今でもたまに思い出しては悦に入っていたのだけれども、仄聞するところによると、その『やぶにらみニッポン』、なんと今月CSで放映されているのだという。こ、こうしてはいられないッと、即座に受信手続きをとりたいところであったが、そうも言っていられず、ハテどうしたらよかろうなア……と懊悩のあまり、思い余ってあつかましくもさる人に頼みこんで、DVD に録ってもらって、先日無事入手。なんという親切であることだろう! と涙滂沱になって(本当に)、と同時に、なんとずうずうしいこと! と己に対する若干の慙愧も胸に、ソワソワと視聴した次第だった。いただいた DVD はわが書棚の「十返肇コーナー」に並べて、末永くわが家の家宝としたい。




鈴木英夫『やぶにらみニッポン』(昭和38年・東宝)より、週刊誌の座談会における十返肇寺内大吉。ビールはアサヒビール十返肇松本清張のようなベストセラー作家という役どころで出演。野球評論まで書かされて困るよ、まったく、とか、当人を当て込んだセリフもあって、にんまり……しながらも、十返は昭和38年4月に入院したと思ったら、全身にガン細胞が転移していて、またたくまに8月に壮絶な死を遂げた。『やぶにらみニッポン』の撮影期間はいつごろだったのだろうか、この映画で記録されている頃の十返は癌にむしばまれた最晩年の姿だと思うと、正視するのがちとツライものがあるのだった。




『やぶにらみニッポン』より、数寄屋橋の「マツダビル」の非常階段から森永の地球儀ネオンサインをのぞむ。映画そのものは実に他愛ないながらも、ロケが多用されることで、東京オリンピック前年の、変貌のまっただなかにある東京のあちらこちらが記録されているという点でたいへん貴重。地下鉄工事であちこちの道路が凸凹していたりする。「おっ」という東京ロケ地を挙げようとするとキリがない。



いただきものといえば、先日、別のさる方が、新井静一郎『ある広告人の日記』(ダヴィッド社、1973年9月)をお譲りくださり(まど展の「あきつ」棚にて200円だったとのこと)、ジーンと感激、なんという親切であることだろう! と涙滂沱であった(本当に)。昭和7年に森永製菓の宣伝部に入って戦後は広告界の重鎮だった新井静一郎の、戦前の森永時代(昭和13年3月23日から昭和16年6月22日まで)と敗戦後の電通と森永を兼務している時期(昭和22年1月1日から同年12月27日まで)の日記を収録した一冊で、戦中戦後の広告界の絶好の資料となっている(特に戦前の森永時代は、戸板康二明治製菓とほぼ同時期!)。この本のことは「sumus」第12号《特集・小出版社の冒険》(2004年5月発行)掲載の南陀楼綾繁さんの「池田文痴菴と森永製菓(後編)」で初めて知って、都立中央図書館へ出かけてランランと繰ったものだった。以来今日まで、入手の機会はめぐってこなかった。




新井静一郎『ある広告人の日記』(ダヴィッド社、1973年9月15日)。装釘:伊藤憲治。四六版、函入。戦前の明治製菓宣伝部とその周辺を追うようになってから、いつのまにか書棚の一角に「ダヴィッド社コーナー」が出来上がり、山名文夫『体験的デザイン史』(1976年2月)とか『日本デザイン小史』(1970年9月)とか『戦争と宣伝技術者たち』(1978年2月)が鎮座することとなった(古書価格の総額はいったい……)。新井静一郎の本もここに並ぶ。装幀の伊藤憲治は、戸板康二と同年の1915年生まれ。戸板康二と同様に戦前に「報道技術研究会」に所属していた一時期があり、新井静一郎と知遇を得たきっかけになったという。「ヴォーグ」の表紙で知ったピエール・ロワに惚れこみ、敗戦後、ピエール・ロワ的な試作品をつくって朝日新聞社の「婦人朝日」に売り込みにいったら、飯沢匡編集長もピエール・ロワの大ファンでたちまち意気投合し、伊藤憲治が「婦人朝日」の表紙を担当するようになった(『聞き書きデザイン史』による)。と、この挿話が前から大好きだ。飯沢匡のその数多き魅惑的な功績のひとつについては、右文書院ホームページ(http://www.yubun-shoin.co.jp/)の濱田研吾さんの連載、『ほろにがの群像 朝日麦酒の宣伝文化とその時代』第4回「飯沢匡がまねかれ、ほろにが君が生まれる」(http://www.yubun-shoin.co.jp/horoniga/04.html)に詳しい。



……と、ひさびざに、新井静一郎の『ある広告人の日記』をあらためてじっくりと読んでみたら、あらためて「おっ」の目白押しで、付箋をはさむ指がとまらないのだった。

昭和十三年五月十四日(土)
(前略)私が銀座七丁目あたりを、帰り途で歩いていると、十返君が後から呼びながら駆けてきた。今、ひとりでコロムバンにいるのだが、寄って行かないかというので引返し、お茶を飲みながらしばらく話した。十返君は、午後五時までに映画之友の原稿を上げねばならないので、これから新公報の事務所へ行き、一時間位で書き上げるのだという。(後略)  

などと、とりわけ十返肇が登場する箇所に心ときめくのだったが、このくだりを見て、思い出した画像として、



聞き書きデザイン史』六耀社(asin:4897374162)の口絵に、「今泉武治 雑誌広告 1938」として紹介されている図版。よく目をこらすと、これは「映画之友」昭和13年6月1日発行号の裏表紙の広告だということがわかるのであった。十返が原稿を書いていたのとまさしく同時期! 十返の原稿はこの号に掲載されているのかな。図書館に「映画之友」を確認に行かねば……。あとの方には、新井静一郎が十返に頼まれて原稿を南部圭之助に紹介し(昭和13年11月12日)、後日、新井のもとに南部から十返の原稿を使う旨電話があるというくだりがある(同月28日)。塩山芳明著『東京の暴れん坊』右文書院(asin:4842107030)で、十返肇が1950年代の「キネマ旬報」に頻繁に登場しているというくだりを読んで、「ワオ!」と大喜びしていたものだったけれども、十返と映画雑誌との深い関係は1930年代からだったのだなあとしみじみ感じ入るのだった。図書館での映画雑誌のさらなる閲覧を心に誓い、目には炎がメラメラ。


などと、『ある広告人の日記』における、十返がらみの「おっ」を挙げようとするとキリがないのだけれど、南川潤が登場しているのも「おっ」であった。

昭和十三年九月二日(金)
夜はチョコちゃん(森永SG)の送別会をささやかにやる。ミコちゃんとともに日動で落合った。ここで南川(潤)君に会った。少女画報は思い切って辞め、小説に専念すると少し勢い込んで話していた。中央公論に小説を頼まれたとのこと、これをチャンスとして生かし切る決心をしたらしい。

池田弥三郎戸板康二が初めて対面した日動画廊ティールームが舞台というのにも興奮だけれども、それよりもなによりも、ここで南川が「中央公論」に頼まれて書くことになったのは、『人形の座』の第一回として書かれた『舞台』という短篇だということは、先月の図書館でのノート(id:foujita:20080406)を繰るまでもなく、すぐにわかった。『人形の座』は主人公が森永をおもわせる製菓会社に勤めているという設定で、なかよしの十返肇に取材したに違いないと勝手に確信して胸躍らせていたものだったけれども、実は新井静一郎とのおしゃべりが元になっている可能性も高いということが判明した。しかし、十返や新井静一郎といった森永広告人との交流が土台になっていることだけは確実なので、いずれにせよ、南川潤の小説に製菓会社が登場しているというのは胸躍る挿話なのだった。南川潤の1930年代東京を舞台にした「都会風俗小説」の雰囲気には、森永広告人との交流が多分に反映していた。広告人のみならず、文学者や映画人とさかんに往来していた森永広告人たちのかもし出す「東京の空の下の雑踏」といったようなものを、新井静一郎の『ある広告人の日記』は鮮やかに伝えてくれるのだった。




南川潤『失はれた季節』(春陽堂昭和14年12月5日)の本体。装幀:三岸節子。ちょうど今日、『風俗十日』(日本文学社、昭和14年2月15日)、『人形の座』(日本文学社、昭和14年6月20日)に続く、南川の三番目の本が届いたところ。最初の書き下ろし長篇とのこと。