府立一中の坂をくだって赤坂界隈へ。赤坂離宮の国会図書館。

朝。涼しくて曇っているのでこれ幸い、小さな風呂敷包みの弁当箱と番茶入れし水筒を携えて、テクテクと国会図書館に向かって歩く。途中、通りがかりのコーヒーショップでひと休み、とある古書店あてに注文のハガキをサラっと書きあげたところで、スクッと立ち上がって、通りがかりのポストに投函。開館とほぼ同時に国会図書館に入る。


夕方。なんやかやで思っていた以上に時間がかかってしまった。外に出ると、シトシトと雨が降っている。身体をほぐしがてら、赤坂に向かって、テクテク歩く。国会図書館のあと散歩のいくつかのコースのひとつに、国会議事堂前の正面から日比谷高校脇の急な坂道をくだって赤坂界隈に出る、というのがある。あの急激な坂道をくだるのはひさしぶりだなアと急に嬉しくなって、傘をクルクルまわして、つい早歩き。今まで特に気にとめたことがなかったのだけれど、この坂道は「新坂」という名前らしいと、坂の途中の碑を見つめてしばし立ち止まる。坂の上に勤める官吏や学生たちが、息も絶え絶えにゼエゼエと登っていたというので、「遅刻坂」という別称があるという。遅刻の危機のなか、この坂道を登るのはいかにも大変だなあと、にんまり。そういえば、この坂道はいつもくだるばかりで登ったことはないのだった。今日は溜池山王から地下鉄にのる。




都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より、「府立第一中学校」(昭和3年、岡田信一郎)。『建築の東京』に夢中の昨今、毎回しつこく画像を貼り付けずにはいられない。




「ホテルニュージャパン(佐藤武夫設計)遠望」(1960年)、森仁史編『ジャパニーズ・モダン 剣持勇とその世界』国書刊行会asin:4336046875)より。日比谷高校の先のホテルニュージャパンの跡地は現在「プルデンシャルタワー」がそびえたつ。「宝石」昭和33年7月号に『車引殺人事件』を寄稿したのを機に、推理作家としての仕事をも持つことになった戸板康二は、推理小説に限ってはホテルをその仕事場にしていた。新橋第一ホテルとともにホテルニュージャパンをよく使ったという。ホテルニュージャパンはしばしば「東京やなぎ句会」の開催場所としても使われ、ホテルで仕事をしている最中に出席したこともあった。という次第で、ホテルニュージャパンは「東京戸板名所」のひとつなのだった。



今日は、もうちょっと時間が早くて、天候も良好だったら、国会図書館のあとは、赤坂見附から青山通りへ出て、先日のニューオータニ美術館の劉生展の折に歩いた豊川稲荷の横の弾正坂から迎賓館の脇に出て四谷への道をもう一度歩きたいなと思っていた。来るべき秋日和国会図書館の帰り、虎谷で喫茶がてら、歩ければと思う。


現在は迎賓館となっている赤坂離宮がかつて国会図書館だったと知ったのは、いつだったか。タイムマシンがあったら、行ってみたい場所のひとつかもと思う。戸板康二赤坂離宮国会図書館のことをどこかで書いているのを見て以来、赤坂離宮国会図書館の描写をなにがしかの本で目にすると、そのたびにそこはかとなく嬉しい。なんて、躍起になって探索しているわけではむろんなくて、偶然出会うたびに喜んでいるだけだけれども。最近では、佐多稲子の小説に出てきたのを見たばかり(メモしておけばここで抜き書きできたのに……)。


井上友一郎編『東京通信』(黄土社、昭和29年5月)という本がある。「中央公論」誌上に掲載された文士による東京各所のルポルタージュを収録したアンソロジーで、ここに収録の福田恆存による「国立国会図書館」(「中央公論」昭和28年3月掲載)によると、赤坂離宮国会図書館の座席数は150余りでたいてい開館同時に満席になったという。満席の場合は受付の前のベンチで順番を待つ。当日の新聞が自由閲覧になっているのでこれを読むのもよし、持参の本を読むのもよし、《閲覧室ほど居心地はよくないにしてもフランス十八世紀式の豪華な宮殿の雰囲気に浸りながら、好きな書物に読み耽けるのも満更ではあるまい》とは、福田恆存の言葉。


当時、赤坂離宮の半分は「裁判官弾劾裁判所」として使われていて、もう半分が「国立国会図書館」だった。広いようでいて、三分の一以上は廊下で使える部屋は少なくて、やはり不便ではあったようだ。たとえばマイクロフィルムの編纂課は、元離宮の風呂場が使用され、色刷りのタイル張りの部屋で、付属の便所がその暗室になっていたというからびっくり(水洗用の水を使用するため)。福田恆存がこのルポを発表した当時、「旧ドイツ大使館跡二万坪の地所」に新館建築案が通り、来年度予算に一億円を計上したところだったとのこと。。「赤坂離宮」は、《日清役後三国干渉で「なにくそ」という勢いで造り上げた臥薪嘗胆記念建築》であり、《表の鉄門を通して見た外観はイギリスのバッキンガム宮殿の如く、建物の内部はフランスのヴェルサイユ宮殿の如し……》、《現在、都内の観光バスは全部ここに寄り、少くて五百人、春秋のシーズンには四千人が訪れる》観光地となっていたという。以上を踏まえての、《「国立国会図書館」が今日、アメリカ式図書館の見本であるように、赤坂離宮はもともと日本における西洋の宮殿の見本だったのだ》というような、福田恆存の筆致にニヤニヤ。


昭和23年10月から半年間、国会図書館に勤めた倉田卓次は、『裁判官の戦後史』(筑摩書房、1987年8月)で、《赤坂離宮の豪奢華麗な建物の内装とセンカ紙印刷の書籍に溢れる書棚とではチグハグな印象だったが、戦後初めての開架式閲覧室だけでも新しい図書館文化の誕生を感じさせた》と書いている。




絵葉書《東京名所 国会図書館(旧赤坂離宮)》。先日の古書展でふらりと買った名所絵葉書。




岩波写真文庫68『東京案内』(岩波書店、1952年7月発行)より、「国会図書館の内部(閲覧室)」。赤坂離宮国会図書館については、「四谷附近」のページに紹介されている。

新宿の大通りを皇居の方へむかって来ると四谷見付に出る。見るべきものは何もない。見付から右へ折れるといかめしい鉄門、その内側にイギリス風の建物。これは旧赤坂離宮といわれたもので、戦後国会図書館となった。つまり議員たちが勉強したり、討論の資料をここの係官から得るという目的であるが、その門を出入する人はほとんど学生服を来ているから国会議員ではないのだろう。

と、写真と妙に愛嬌のあるシニカルな紹介文とで、上記の福田恆存のルポを実感して、ますますニヤニヤ。