演劇博物館80周年。早稲田からバスで上野へ。松坂屋の「銀サロン」。

正午過ぎ。本日が初日の《三好十郎展》とあと3日間でおしまいの《演劇博物館80周年名品展》の見物のため、演劇博物館(http://www.waseda.jp/enpaku/)へ出かける。早稲田大学の構内は、銀杏の臭気ただようなか、文化祭の準備(たぶん)で活気づいていて、絵に描いたような秋日和であった。


演劇博物館の扉をギイッと押して、まずは1階の展示室にて《没後五十年 三好十郎記念展》。麻生三郎による《三好十郎像》の線描をガラスケース越しに見ることができて、しょっぱなから大喜びだった。三好十郎は小津安二郎より1つ年上の1902年生まれ。この世代の人びとによる日本近代文化を彩った諸々の事象、および彼等の闊歩した「1930年代東京」に常日頃から胸躍らせているのだった。小津安二郎成瀬巳喜男を典型にして、1930年代と1950年代とをその青年時代とその成熟という観点で対照させると同時に、パラレルなものとして概観するということは、蓮實重彦の文章を読んで以来、ずっと心にベタリと貼りついている。三好十郎展でも、1930年代と1950年代とを並列させて眺めるのがたのしかった(1958年の死は早すぎる)。滝沢修1906年生まれ)の『炎の人』初演時(1951年9月)のポスターを見て、そんなことを思った。


三好十郎が P.C.L. に在籍してシナリオの執筆に従事していたのは、1936年2月から1939年11月まで、と手帳にメモしながら、この時期の「映画之友」と昭和13年4月に創刊の「東宝映画」の誌面を思い出して、うっとりしたりもする。三好十郎と東宝といえば、『彦六大いに笑ふ』(昭和11年11月封切)をまっさきに思い出す。こちらはヴィデオで何回も見ておなじみだけれども、内田誠が《青い草の中に見出す小さい花のような愛嬌もの》、《徳川氏の小説を読むような、面白味もあるようなもの》(「彦六なぐらる」−小山書店刊『遊魚集』所収)と書いていた、『彦六なぐらる』(昭和15年3月)の方はいまだ見る機会がない。「ムーラン・ルージュ」の伊馬春部(当時は「伊馬鵜平」)も P.C.L. に嘱託として勤めていたりと、当時の舞台人ないし文壇人と東宝との関わり、というのをもっと自分なりに整理したいなあといろいろと抱負ができる。




「日本演劇」昭和22年11月(第5巻第8号)。表紙:石井柏亭戸板康二が編集者として辣腕(?)をふるっていた雑誌。この号に三好十郎の「丸山定夫についての断片」が掲載されている。三好十郎が「日本演劇」にこの原稿を寄稿した経緯については、戸板康二の「三好十郎の手紙」(初出:「手紙の発送」昭和42年9月→『夜ふけのかるた』所収)に詳しい。この挿話が前々から強く印象に残っていて、三好十郎ときくと、まっさきにこのことを思い出す。1915年生まれの戸板康二と戸板さんと上の年代の人たちとの交わりをあれこれ追いかけるのが、結局のところ、一番の道楽なのだった。この号の表紙の石井柏亭による東京劇場の絵が大好きだ。昭和26年4月に歌舞伎座が新開場するまでの、東京劇場で上演された歌舞伎、「青年の客気」みなぎっていた戸板康二の当時の文筆をとおしてみる当時の歌舞伎に一番愛着がある。



ミシミシと階段をあがって、2階へ。次は「演劇博物館80周年記念名品展」。二代目左團次の『ジュリアス・シーザー』のアントニウスの衣裳にさっそく「おー!」と心のなかで大いにどよめく。個々の演劇人別の小展示になっているところが、とてもよかった。それぞれの演劇人のところでそれぞれにおもしろい。花柳章太郎の肖像にはいつもその美しさにハッとなる。舞台を見た人しか知らないであろう花柳の美しさをおもう。花柳章太郎というと、いつもいわゆる「文化人」との交流のサマにクラクラとめまいを覚えるのだったが、それを象徴するかのような展示にいつもながらに驚嘆。小村雪岱手書きの、木村荘八の手書きの帯を穴のあくくらい凝視して、いつまでも陶然。花柳による『いたずら帖』の美しさ。きものメモにいつまでもうっとり。……などと花柳に後ろ髪をひかれる思いで歩を進めると、お次は喜多村緑郎。芸妓の扮装の舞台写真の、その粋ぶりが実にすばらしい。こちらも見とれるばかり。タイムマシンにのってなにか舞台を見せてあげると言われたら、歌舞伎よりも花柳と喜多村の新派を見たいような気がする。喜多村のところには、日記の展示があって、細字のペン先でもって外苑で犬の散歩をしたり、アラスカで昼食をとるさまを窺うことができた(年代の表示が欲しかった)。犬をつれた喜多村を想像するだけでも嬉しい。続いて、三津田健のシラノの鼻の数々がたのしかった(賀原夏子の『メーク・アップの仕方』という本に掲載の三津田を思い出した)。……などなど、演博の至宝の数々に度肝を抜かされて、たいそうたのしいことであった。




上山草人『素顔のハリウッド』(実業之日本社、昭和5年7月5日)の本体。上山草人資料の展示では、この本の表紙でおなじみの『バグダッドの盗賊』の絵が威風堂々と掲げられていて、その異様な迫力に思わず笑ってしまうのだった。「怪優」という言葉はまさにこの人のためにある言葉だ。




ちなみに、『素顔のハリウッド』の函はこんな感じで、草人自身による似顔絵があしらってあって、実にチャーミング。装釘者として内田誠の名前がクレジットされているこの本、内田誠は題箋を担当したのだろう。




明治製菓の広報誌、「スヰート」昭和5年4月20日発行号(第5巻第2号)より、明治製菓主催「草人を聞きその映画を見る会」(3月17日に日比谷公会堂で開催)の様子をつたえるグラビアページ。内田誠は『海彼岸』(昭和4年6月15日発行)という、欧州旅行の見聞をまとめた私家版の本で、ハリウッドの上山草人を訪れた折のことを綴っている。




草人の会が開催されたことを伝える上記の「スヰート」の表紙は足立源一郎によるもの(当時は B5 サイズの誌面で、昭和6年7月発行号より四六版に改められ、さらに昭和7年5月発行号より菊判に変更し、終刊の昭和18年までその大きさで続いていたのを確認している。)。上山草人明治製菓主催イベントの出演は、明治製菓の宣伝部で辣腕をふるっていた内田誠の交友のたまものだった。草人のみならず、1930年代の明治製菓宣伝部と映画ないし映画人との交流はいつもたいへん興味深く、なかなか尽きないのだった。



などなど、上山草人肖像画に興奮のあまり、ここまでしつこく画像を貼り付けてしまったけれども、演博でなにがしかの展示を見ると、演劇のみならず、演劇ないし演劇人からつながる日本近代文化の諸相といったようなものがうかびあがってきて、いつもモクモクと刺激を受けて、なにやら嬉しくなって、外に出ることとなる。わたしが演劇博物館の存在を初めて知ったのが、ちょうど10年前の1998年10月、歌舞伎座で見た雀右衛門の『お夏狂乱』の上演が「早稲田大学演劇博物館創立70周年記念」となっているのを見て、「フムフム、早稲田大学には演劇博物館というのがあるのか」と思ったのがきっかけであった。あれから10年である。わたしのとってのこの10年間は、演博でモクモクと刺激を受けて嬉しがってばかりいた歳月だった。




都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より、「早大演劇博物館・早大営繕課・上遠組・昭3)。昭和10年当時の演博の建物。今でも十分に開館当時の姿が残されているのが、嬉しい。文楽人形の展示がおもしろい。三宅周太郎の『文楽の研究』の初版は昭和5年、上記の明治製菓上山草人イベントと同年のことなのだなあ、とふと思った。





昼下がり、早稲田から上野松坂屋ゆきの都バスにのる。早稲田からバスで、千駄木界隈にゆくのは前々からお気に入りの行程なのだった。ひさしぶりに乗って、嬉しい。のんびり車窓を眺めて、不忍通りにさしかかったところで、ちょうどよいところで下車したいと虎視眈々と様子をうかがい、「池之端二丁目」に降り立つ。どうやらちょうどよいところで下車することに成功したようだとほくそ笑んだあと(いつもぼんやりして降り損ねる)、木陰をテクテクと歩く。水月ホテル鴎外荘の脇をとおり、清水坂にさしかかる。絵に描いたような秋日和の静かな午後。次の目的地は、国際こども図書館(http://www.kodomo.go.jp)なり。


無事に調べものが済んで、ついでに読んだ本であれこれ興奮したりし、外に出ると、もうそろそろ夕刻にさしかかろうとしていた。めっきり日が短くなった。絵に描いたような秋日和の上野公園を、ミシミシと落ち葉を踏みしめる。上野広小路にさしかかったところで、しまった、図書館のあとは氏原忠夫のカバー目当てに明正堂書店で買い物する計画だったのに(参照:http://homepage2.nifty.com/bcover/taisyo/92taisyo.html)、うっかり忘れてしまったッとがっくり肩をおとす。と、そのときふと、上野松坂屋の「銀サロン」のことを思い出した。


昭和10年6月創刊の松坂屋の PR 誌「新装」のことを調べていた折(id:foujita:20080414#p1)、創刊間際の「新装」の誌面で、上野松坂屋に「銀サロン」というレストラン(だったかな)が開店したことを知らせるグラビア記事が妙に印象に残っていて、上野松坂屋の「銀サロン」というネーミングをかすかに記憶することとなった。モダン都市のデパートの食堂のインテリアとそこで談笑する映画女優、その舞台としての1930年代東京を今に伝えるグラビア記事を通して残った記憶。それがつい最近、上野松坂屋には21世紀の現在も「銀サロン」というものがあるということをどこかで知って、軽く興奮であった。果たしてそれは本当だろうか、本当だとしたら現在の「銀サロン」はどんなふうなのだろうか、ぜひとも近いうちに確認に行かねばと思っていたのだった。


というような次第で、思い出してよかった。上野広小路の群集をぬってイソイソと松坂屋に足を踏み入れてみると、入口の案内板で本館7階に「銀サロン」というものがあるということが表示されていて、まあ! と大喜びでエスカレータを小走り。そして、「銀サロン」にたどりついてみたら、そこには古風な、絵に描いたような古きよきデパート食堂の風景が眼前に広がっているのだった。このような空間がまだ健在だったとはとにわかに感動し、コーヒーのみでも大丈夫そうだったので、よい機会だとばかりに「銀サロン」でひと休み。妙になごむ空間で、いつまでも感激にひたる(店員さんもとても感じがよい)。コーヒーをすすりながら眺める窓の外には、浅草一帯の空が見える。日暮れ時の空はこんな感じの薄紫なのだったと、ひさしぶりにじっくりと空を見た気がした。完全に日が暮れて真っ暗になったところでスクッと外に出る。エレベーターの古風な表示板(階数の表示が時計の針のようになっている)に心を躍らせる。いままでほとんど上野松坂屋に足を踏み入れたことがなかったのは、もったいないことであった。また来よう。エレベーターで一階に降りて、地下鉄で家に帰る。




織田一磨上野広小路》(大正5年10月)、『東京風景』のうち。中央に「ライオン歯磨」の広告塔がみえる。




小泉癸巳男『版画 東京風景』(講談社、昭和53年3月25日)より、《第十七景 上野公園山下口》(昭和6年9月作)。こちらは「仁丹」のネオンサイン。