おすそわけの花梨。中央線古本めぐり。浅見淵と秋声が届く。

今日も無駄に早起きをしてしまう。せっかくの休日、もっと朝寝がしたいのにどうしても早くに目が覚めてしまう(老化現象)。つまらないことである。家事諸々が一段落ついたところでラジオのスイッチを入れると、ちょうど「音楽の泉」がはじまるところ。本日の曲目は《クロイツェル・ソナタ》だった。このごろ、シゲティバルトークのディスクで毎晩のように聴いている曲なので、今日はやめにしようとスイッチを切り、そうだ、ひさしぶりにあのコーヒーショップへ行こうと思いつき、イソイソと散歩に繰り出すことに。今日も朝から絵に描いたような秋日和


ちょいと遠回りして身体をほぐしてスッキリしたところで、目当てのコーヒーショップでショートドリップ。持参のテキストブックとノートブックを開いて、カリカリととあるお勉強にいそしむ。そんなこんなしているうちに気がつくと正午近い。いったん家に帰ることにする。通りがかりのお屋敷の軒先に「ご自由にお持ちください」と庭の木の大きな花梨がゴロゴロとダンボール箱に入れられてあるのが目にとまり、「おっ」と立ち止まる。庭の木の果物をおすそわけでちょうだいするのは、人生最大の歓びのひとつに数えられる(わたしのなかでは)。さっそく花梨の蜂蜜漬けをこしらえて、風邪予防につとめるとしようと、おおきいのを2つちょうだいして、上機嫌。今日はいい休日になりそうな気がする。今年は無事に柿をもらえるのだろうかと、急に気がかりになる。



正午過ぎ。中央線直通の東西線にのりこんで、荻窪へゆく。三週間前の三連休に食べ損ねて以来ますます思慕がつのっていた、ブルーベルのオムライスを食べるためだけに、すなわち、昼食のためだけにわざわざ荻窪へ出かけるのだった。青い空の下、三週間前とおんなじように、線路沿いの道をズンズン歩く。このところ本当にオレンジ色一色の中央線をとんと見なくなった、まだ走っているのだろうか、まあ、どうでもいいが……などと思いながら、ズンズン歩いて、ブルーベルにたどりついてみると、やれ嬉しや、今日は無事に営業中。こんなに嬉しいことはないと、オムライス小サイズ650円を心ゆくまで味わうのだった。


そんなこんなで満腹になって外に出る。せっかく荻窪にやってきたことだし、ちょいと古本屋をめぐるとするかと、線路沿いから裏の静かな路地に入って、竹中書店、岩森書店を経て、ささま書店にたどりついた。


いつものように軒先の105円棚からチェック。さっそく、保昌正夫ほか著『かたりべ叢書5 八木義徳』(宮本企画、昭和60年9月30日)というのを見つけてガバッと手に取る。この1冊だけでもここまで来た甲斐があったッとさっそく歓喜にむせぶ。臼井吉見編『小説の鑑賞』河出新書(昭和28年9月1日)というのも手に取る。谷崎による『つゆのあとさき』論、宇野浩二による『玄鶴山房』論などなど、おなじみの文章を集めた、作家による小説鑑賞のアンソロジー広津和郎の秋声『縮図』論も入っている。この文章が大好きで、いったい何度読み返したことだろうとしみじみとなる。このあとすぐにどこぞやのコーヒーショップでこの文章を読めると思うと、それだけで嬉しい。というわけで、105円本2冊だけでも今日はなんたるよき日ぞやとホクホクと店内に入ったのだったが、店内でも次から次へとザクザクと本を手にし、もっと買いたいけれどもそうも言っていられないし、もう困っちゃうッと身体をよじらせながら(アホ)、本を抱えながら棚をくまなく眺めるのだった。ひさびさにささま書店で思う存分、買い物ができて、こんなに嬉しいことはない。今日はなんたるよき日ぞやとホクホクと外に出る。ずいぶん長居をしてしまった。




今日一番嬉しかった買い物。『若い星 久保田耕一記念』(久保田耕一遺稿集編集委員会昭和32年5月30日発行)。装画:伊藤熹朔。同年2月22日に三十半ばで病没した久保田耕一は万太郎の一人息子。前半に遺稿として戯曲等5編、後半に関係各氏による追悼文を収録している。この本を初めて知ったのは数年前の神保町の八木書店の店頭にて。伊藤熹朔ならではの書体が洒落ているなというのと、目次に名を連ねる顔ぶれを見て当時の劇界の大ボス、久保田万太郎の威光がみなぎっているなあと半ばあきれたのが第一印象だった。以来、入手の機会を逸していた懸案の本だった。戸板康二との関連でしか知らなかった久保田耕一については、ここに収録の追悼文を読んで、これからちょっと考えてみたい。




小村雪岱東京市立第一中学校之図》、内田誠編『隆に賜へるの書』(私家版、昭和8年12月20日発行)より。逆縁となってしまった父親の悲嘆の発露として編まれた追悼文集ということで、内田誠編『隆に賜へるの書』を思い出した。昭和8年6月、長男である隆(市立一中在学中)を14歳で亡くした内田誠は、遺稿を集めた『内田隆作文集』を同年8月に発行し、この『隆に賜へるの書』は同年12月に刊行した追悼文集。東京市立一中の同級生や学校関係者、知り合いの文士や画家、身内を総動員して追悼文を集めた本書の巻頭に、雪岱による原色版挿絵が挟み込まれている(手持ちのは真ん中に切れ目が入ってしまっている。痛み本ゆえにとても安かった)。東京市立一中は池田弥三郎の出身校でもある。同年1月に台湾総督だった父、内田嘉吉も他界しており、昭和10年7月の三回忌に際して、双雅房より『父』を刊行。肉親を追悼するにあたって、いずれもあきれるほど豪華な造本を世に送っている内田誠。その内田誠=水中亭は、明治製菓を定年退職した2年後の昭和30年8月13日に大礒の自宅で他界。享年62歳。戦前の明治製菓宣伝部の名物男だった内田誠の晩年は不如意なものだった。内田誠の追悼本があればよいのになあといつも思う。




岡崎武志さんの『気まぐれ古書店紀行』(工作舎、2006年2月)の一節、「荷物が重いと心は軽い」を思い出しつつ、さあ、このあとどうしようか、当初の予定では高円寺の古書会館で開催の「古本博覧会」(http://blog.livedoor.jp/furuhon_hakurankai/)に出かけるつもりだったけれども、ささまでこーんなに本を買ってしまったことだし、ひさしぶりに西荻で珈琲を飲みながら、のんびり買ったばかりの本を繰りたいなあと思うのだ、ハテどうしたらよかろうなア……と途方にくれつつも、結局は高円寺の駅に降り立っているのだった。高円寺はひさしぶり。前回来たのはいつだったかな、そうだ去年の年の瀬、二次会の高円寺で摂取したアルコールで翌日ひどい目にあってしまい、明日はもう大晦日なのに何をやっているのだろう、来年からちゃんとしようとヨロヨロして以来だなあと追憶にひたりながら歩いていたら、うっかりコクテイルの前に来てしまった。あわてて元来た道を戻る。


無事に西部古書会館にたどりつき、「古本博覧会」の棚をくまなくめぐる。なかなかいい感じのポンポンと手にとりたくなる並びで、たいそうたのしいのだった。いろいろと迷うものはあれども、200円の文庫本4冊と「セルパン」500円を買うことにする。古くて安くて今すぐにでも読みたい文庫本をポンポン買うのが実は一番楽しい気がする。会場で出会う安い雑誌を気まぐれに手にとるのも古書展のいつものおたのしみ。「古本博覧会」はそんな古書展のたのしみがふんだんに詰まっていた。もっとみれば、いくらでも欲しいのが見つかりそう。後ろ髪をひかれる思いで会場をあとにして、駅前の喫茶店でひと休み。買ったばかりの「セルパン」昭和6年2月号を繰って、野溝七生子の「猫族私見」というエッセイを読む。




「セルパン」昭和6年2月号の裏表紙は森永チョコレートの広告。わーいわーいと、「セルパン」を買ったのは実は広告目当て。



さらに、見返しは明治チョコレートの広告、《メトロ社特作「紐育の歩道」撮影中のキートン氏》。とりわけ1930年代前半は明治、森永ともにその宣伝に映画人をさかんに起用している。「サイレントからトーキーへ」の時代の製菓会社と映画会社ないし映画人。明治製菓宣伝部の内田誠の文章によると、ピークは1932年5月のチャップリン来日時だったようだ。





夜。紅茶を飲んで、サブレをかじりながら、ささまで525円で買った福原麟太郎『メリ・イングランド』(吾妻書房、昭和30年7月25日)を繰っていたら、ピンポーンと古本が届く。金曜日の夜、帰宅したらいつもたいへんたのしみにしているとある古書店の目録が届いていて酔いが一気に覚めてメラメラと偵察、しかしあわてるとロクなことにならぬので翌朝まで待って注文のファックスを送ったものが、早くも今日届くなんて! 今日はまれにみる古本日和であることよ(詠嘆)。届いたのは、昭和十年代の徳田秋声2冊と浅見淵1冊。嬉しすぎて頬擦りしたいくらいッと(アホ)、しばし歓喜にむせんだところで、本棚をゴソゴソ整理。野口冨士男十返肇を軸に「昭和十年代文学」を見通すことが、このところの本読みの最大のたのしみのひとつなのだった。いろいろと今後の本読みおよび調べもの計画をたてているうちに、紅茶がすっかり冷めてしまった。




浅見淵『現代作家卅人論』(竹村書房、昭和15年10月20日)。装幀:佐々茂雄。前々から欲しかった本を入手して、いつまでも歓喜にむせぶ。フランス装のつつましくて上品な装本がたいへん好ましいのだった。

紅野「……この昭森社、それは昭和十年代では忘れられない出版社ですね。戦後もそうなんですけど、森谷さんが亡くなられて、「本の手帖」の別冊で、昭森社の目録が出ましたが、それがすばらしい目録で、昭和文学史と切っても切れない関係がよくわかります。われわれ今日から見ると、刺激を受ける本がずいぶん出ていますね。」
野口「あのころ小さな出版社が多かったですね。」
紅野「紀伊国屋といい、大観堂といい、赤塚書房といい……。」
野口「竹村書房、砂子屋書房、これは絶対に忘れられない。昭森社という本屋さんは、中でも非常におもしろい本屋でしてね。稲垣足穂さんなんかのも出している。森谷均に知恵をつけていたのが倉橋弥一なんです。」
紅野「高見順さんの本には倉橋さんの話がちらちら出てまいりますね。」
野口「倉橋弥一が非常な稲垣足穂びいきで、稲垣さんの本を出せ出せというわけですよ。ほかのジャーナリズムじゃ稲垣足穂さんが全然忘れられていた時代に、その本が出るということはマイナー出版社でなきゃならないし、またマイナー出版社には倉橋弥一みたいな男がついていたということです。砂子屋の山崎の剛平さんには尾崎一雄さんとか。ですから、文壇の表面に現れたところと、蔭の部分でいいますと、竹村書房なんか参謀は知りませんけど、たとえば平野謙さんがあそこで校正をやっていたということがあるわけです。」


野口冨士男紅野敏郎「昭和十年代文学の見かた」(「風景」昭和48年1・2月号) - 野口冨士男編『座談会 昭和文壇史』(講談社、1976年3月)】