大阪遊覧日記:南海本線と阪堺電車。溝口健二『浪華悲歌』をおもう。

東京駅8時半発の新幹線は、定刻通り11時過ぎに新大阪駅に到着。JR の改札を出るといつも、いつのまにか小走りになっている。地下鉄の一日乗車券(850円)を買ってイソイソと電車に乗り込んだそのすぐあとで、車窓に淀川が見える瞬間はいつもそれだけで大はしゃぎ。向こうに見えるのは、小津安二郎の『彼岸花』のラストの鉄橋かなとふつふつと嬉しい。御堂筋線はドーム状の地下ホームがとってもモダンで、地下に入っても駅を通過するたびに車窓に目をこらしてうっとり。なんばで御堂筋線を下車。地上に出ると、青い青い空の下、高島屋がそびえたっている。かつての数寄屋橋日劇のような円形部分は補修中でカバーがかかっていて、ちと残念だったけれども、高島屋長堀橋から難波へ進出という矢先、高岡徳太郎は東京へ行き、交代するように今竹七郎が宣伝部に入ったのだったなあと1930年代初めの大阪を思ってふつふつと嬉しい。などと、高島屋をぐるっとひとまわりしたあとで、おなじみの波屋書房を目指して歩いて、「ワッハ上方」の演芸資料館に後ろ髪をひかれつつ、界隈をふらふらと散歩。道具屋筋の町並みがたのしいなあとクネクネと適当に歩いてゆくと、今度は昭和感ただようキッチュで巨大なキャバレーが目にたのしい。成瀬巳喜男『めし』(昭和26年11月封切)に登場している「キャバレーメトロ」を思い出したりしつつ、路地をクネクネと歩いてゆく。ああもう、なんてたのしいのだろう。


そんなこんなで、そろそろ時分どき。さア、せっかく大阪へ来たのだから、本日の昼食は、前に一度だけ行ったことのある「はり重」(一度行っただけで大好き)か前々から気になっている「重亭」か「しき浪」でハリキッて洋食を食べるといたしましょう! ……と言いたいところだったけれど、一週間前の風邪っぴきのあおりで胃の調子があまり芳しくないので、今回はあきらめることにする(ああ無念)。今日はのんびり、サンドイッチをつまみながらコーヒーをすすりたい気分なのだった。電信柱の陰でこっそり地図(愛用の「でっか字まっぷ 大阪24区」)を開いて前に一度だけ行ったことのある「丸福珈琲店」の位置を確認、道頓堀の方角へちょいと北上すればすぐそこだ。もうすぐ丸福珈琲店でコーヒーが飲めると思うと、嬉しくてたまらない。気がせいて、つい早歩きなのだった。




織田一磨「大阪風景」内《道頓堀》(1917年)。図録『都市風景の発見』(茨城県近代美術館、1992年)より。道頓堀のパウリスタといえば宇野浩二



徳力富吉郎「新版画百景」内《道頓堀の夜》(1938年)。おなじく、図録『都市風景の発見』(茨城県近代美術館、1992年)より。織田一磨が大正モダンの道頓堀ならば、こちらは昭和モダンの道頓堀。




溝口健二『浪華悲歌』(第一映画・昭和11年5月封切)の冒頭の道頓堀。徳力富吉郎の《道頓堀の夜》を見れば、思い出づるは溝口健二の『浪華悲歌』。溝口の数々の強烈なショットが心にべったりと貼りついていて、このあとも大阪のところどころで、勝手な思い込みで『浪華悲歌』を思い出すのが格別だった。すばらしき浪華悲歌!



初めて大阪へ遊覧に出かけた2000年の末、夜時間が空いたので道頓堀に立ち寄ってみた際に松竹座を見上げながら、いつの日かここで芝居見物したいものだなあとしみじみ思ったものだった(いまだ実現していない)。その直後に丸福珈琲店でコーヒーを飲んで、店内の雰囲気と松竹座の外観見物の余韻と絶妙に調和していて、上機嫌にコーヒーを飲んだあの日の夜が懐かしくて、約十年ぶりに丸福珈琲店に行ってみたくなった次第。初めて大阪へ出かけたときの松竹座と丸福珈琲店のときの高揚感は、その後の大阪行きのたびにいつも味わっている感覚。



丸福珈琲店からまたもとの道に戻り、ふたたび高島屋のまん前にやってきた。途中でうっかり買ってしまった「北極」のアイスキャンデーのいちご味(120円)をかじりながら、威風堂堂とそびえ立つ高島屋の外観を眺める。




そうだ、屋上へ行ってみようと、アイスキャンデーを食べ終わったあとにデパートに入ってエレベーターに乗り込んでみたものの、改修工事中ゆえかもとからなのか、屋上への出入口は見当たらず、がっかりであった。早々にデパートを切り上げて、南海難波駅の改札へと向かう。今日はこれから、南海電車で遊覧に出かけるのだ。




波高島屋といえば、日頃からむやみに心惹きつけられてやまない東武伊勢崎線のホームを有する浅草松屋とおなじ久野節の設計。デパートとターミナル駅とが結合している設計がそのまんま難波高島屋と南海難波駅にも踏襲されていると知ってからというもの、東西の昭和モダン建築探索ということで、南海難波駅に出かけてみたいものだと思っていたものだった。




北尾鐐之助『近代大阪』(創元社、昭和7年12月)口絵写真より、《南海ビルディング(難波)》。



関西遊覧のたびにしょうこりもなく「素晴らしき関西私鉄!」と大はしゃぎしていたというのに、いままで南海に乗ったことがなかったのはとんだ欠落であった。念願かなって、やれ嬉しや。わーいわーいと停車中の南海本線に乗り込んで、持参の『日本鉄道旅行地図帳 大阪』(新潮社刊)を参照しながら、車窓を眺める。発車はまだかしらと「でっか字まっぷ 大阪24区」も一緒に眺めて、地理を把握する。難波で御堂筋は四つ橋筋に合流するのだなと思っているうちに、林哲夫著『喫茶店の時代』(編集工房ノア、2002年2月)や杉山平一著『戦後関西詩壇回想』(思潮社、2003年2月)を読んで以来、強く印象に残っている創元社の喫茶店のことを思い出して、南海電車といえば安西冬衛! と大興奮。

……松竹座のある道頓堀と、南海電車難波駅の間の、銀杏並木の御堂筋に、うるし塗り表紙の『春琴抄』や、ジュラルミン表紙の横光利一の『時計』で有名な創元選書の版元の創元社が出版物の展示用に小さな書店を出し、その一隅を、テーブルを五六脚置いた喫茶室にした。店の名前は「創元」だった。

と、杉山平一著『戦後関西詩壇回想』にある(p.23)。林哲夫著『喫茶店の時代』によると、開店は昭和23年4月、敗戦後の焼け跡が残る難波界隈は一大闇市だったという。「創元」は小野十三郎安西冬衛竹中郁らの溜り場となり、安西冬衛は「難波発二十二時佐野行終」という作品に、《「創元」で夜ふかしをするのがつひ半年ほど前からの風習になった》、《二十一時三十分。市電アベノ行の終が通つてしまふ。そろそろおみこしをあげる汐時となる。同じ南海沿線の連中とつき合って「創元」を出る》、《難波駅の壮大なドーム。紅いネオンで6と標識した急行線六番ホーム。モネの描いた「サン・ラザール駅」の構図を彷彿させる》、《既に、二十二時発佐野行終の列車は二輌乃至四輌編成の車体を心持カーブをもつ歩廊に駐めて河用砲艦のやうに強靭な曲率で夜の旅客達をひきずつている》という言葉を織り込んでいる。この作品を紹介しつつ、杉山平一は安西冬衛小野十三郎に共通する「鉄道好み」を見出しているのだけれども、このくだりが『戦後関西詩壇回想』初読時から涙が出るほど大好きだった。ほんの気まぐれで南海で遊覧に出かけることになって南海難波駅のプラットホームにやってきて、列車のなかで出発を待つという、ありふれた時間が、詩人の言葉によって、急に特別な瞬間へと変容する。堺に住んでいた安西冬衛とおんなじように、南海にのって堺方面へ向かうという、ただそれだけのことが、わたしのなかで特別な時間になる。


難波駅の隣りの広大な敷地はもと大阪球場のあった場所だという。こんな町中に球場があったなんて、なんていい時代だったのだろう、そういえばかつて「南海」という球団があった、「阪急」という球団もあった、「近鉄」という球団もあった、「阪神」という球団はまだある……などと思っているうちに、列車は関西空港に向かって出発。車窓と『日本鉄道旅行地図帳 大阪』とを交互に眺めてるうちに、右側は大阪湾なのだなあと、なんとはなしに海を思う。




溝口健二『浪華悲歌』(昭和11年5月封切)より、山田五十鈴の実家に同僚の原健作が訪ねてくる場面(このスタイリッシュなショット!)。実際のロケ地はともかくとして、依田義賢のシナリオを参照するとト書きに「住吉辺の三流住宅地」とある。さきほど道頓堀で『浪華悲歌』の冒頭を思い出したそのすぐあとで、南海で住吉を通過することになり、映画の地理把握ができて臨場感たっぷり。



『日本鉄道旅行地図帳 大阪』をじっくり眺めると、南海と阪堺電車が並走しているということに妙に感興をそそられるのだった。「名駅舎」と表示のある諏訪ノ森駅の先で南海本線阪堺電車は交差し、その先の「浜寺駅前」で阪堺電車は終点となる。一方、南海本線諏訪ノ森駅の隣駅は「浜寺公園」。『日本鉄道旅行地図帳 大阪』ではその「浜寺公園」にも「名駅舎」の表示がある。南海本線は、「諏訪ノ森」と「浜寺公園」とで立て続けに「名駅舎」を有しているということになる。……などと、『日本鉄道旅行地図帳 大阪』を参照しているうちに、南海本線を諏訪ノ森で下車して「名駅舎」見物のあと、隣駅の浜寺公園へ歩き再度「名駅舎」見物、それから浜寺駅前から阪堺電車の始発にのって大阪市内に戻る、という行程が練り上げられていた次第であった。


堺を通過したあたりから、車窓は次第にのんびりしてくる。目当ての諏訪ノ森駅でイソイソと下車。




登録有形文化財」の駅舎は、踏切を渡った先。期待どおりのチャーミングな駅舎が嬉しい。《大正8年(1919)に建てられた南海本線上りホーム端のたった48平方メートルの小駅。凝った屋根まわりの風格ある駅舎で、かつては海水浴場の下車駅だったため玄関上のステンドグラスに白砂青松の風景が描かれている》というふうに、『日本鉄道旅行地図帳 大阪』に説明がある。まあ、そうだったのね!



というわけで、諏訪ノ森駅のステンドグラスがまたチャーミングなのだった。




ふたたび、下りホームの方へ戻ってみると、駅前の喫茶店の窓辺に諏訪ノ森の駅舎を描いた絵が掲げられていて、しばし見とれる。ステンドグラスの「白砂青松の風景」もしっかりと描きこまれてあるのが微笑ましい。高層の建物ができたり黒板塀がなくなったりポストが新しくなったりしているけれども、駅舎そのものはまったくおんなじ。



関西遊覧のたびに「すばらしき関西私鉄!」とイソイソと電車に乗り込んで、途中下車するといつもかならず、関西私鉄網の整備による京阪神モダン文化の形成、というようなことをイキイキと実感することになり、胸躍らせている。『日本鉄道旅行地図帳 大阪』では、明治末から昭和初期にかけての大阪の商工業都市化、「サラリーマンの誕生」に合わせて、《彼らを運ぶ鉄道会社は競って沿線に住宅街を開発し、ターミナルにはデパートを設け、休日には家族で楽しめる遊園地や海水浴場を開いた》というふうに解説があるのだけれども、このたび初めて訪れることになった南海沿線も、まさしくその典型。難波から南海にのって諏訪ノ森で下車して「名駅舎」を見て、かつての海水浴場に思いを馳せながら隣駅の浜寺公園まで歩きがてら住宅見物をして、モダン関西がイキイキと実感できて、いうことなしだった。


まずは、南海と阪堺電車の交差地点を目指して、テクテクと歩いてゆく。その合間にちょいと界隈の住宅見物をするのが思っていた以上にたのしかった。閑静な住宅街のあちらこちらに古い邸宅が残っていて、とりわけその黒板塀が独特な感じだった。海の近くの住宅街のこの界隈、関東でいえば鎌倉の江ノ電沿いという雰囲気かなと思う。




住宅街からふたたび線路を目指して歩いてゆくと、やがて南海と阪堺電車の交差地点が見えてくる。写真ではわかりにくいけれども、こちら側に見えるのが阪堺電車。交叉する鉄線が長谷川利行の絵のようで、目に愉しいのだった。



大阪市外なので「でっか字まっぷ 大阪24区」にこの界隈は載っていない。途中踏切を渡ったりして、適当に歩いてゆくと、前方に阪堺電車の終点、浜寺駅前にたどりついた。恵美須町行きの電車が停車中。電車の右手には浜寺公園が広がり、公園の先は大阪湾。かつて海水浴場として賑わっていた場所。



浜寺公園を背にした正面に、南海本線浜寺公園駅がみえる。『日本鉄道旅行地図帳 大阪』には、《明治40年(1907)南海鉄道電化を機に改築された二代目駅舎。東京駅を手がけた建築家辰野金吾による木造平屋の洋館は、ハーフティンバーにトックリ形の柱が並ぶ優雅で軽快な駅舎だ。周辺には南海が開発した高級住宅街と海水浴場があった》というふうに解説されている。辰野金吾ということでとてもたのしみにしていたけれども、実際に訪れてみると、表面が塗りなおされていることでかえって作り物のように見えてしまった。



辰野金吾の駅舎から浜寺公園へ向かう道の幅とか距離がいかにもかつての海水浴場を彷彿とさせて、南海の駅からもう一度阪堺電車の乗り場に向かうときの、季節はずれの閑散とした海水浴場を歩いているかのような気分はなかなかよいものだった。和多田勝著『相惚れ大阪』(夏の書房、昭和52年6月)によると、浜寺に海水浴場が作られたのは明治39年、大阪毎日新聞の肝いりだったとのこと。一方、阪神間の海水浴場といえば香櫨園、こちらに遊園地が出来たのが明治40年。まさしく、関西私鉄網の整備による京阪神モダン文化の形成、というようなことを実感したひととき。



阪堺電車にのって、のんびり終点の恵美須町へ向かう。途中、いつものように居眠りしてしまい、目を覚ましてみると、電車は大阪市内に入っていて、住吉大社の前を通過するところ(『夏祭浪花鑑』を思い出してよろこぶ)。だんだん線路の脇が狭くなって、民家が密集した感じになってくるのが、たのしい。いかにも古くからの住宅地という感じで、生活感がただよってくる車窓がうれしい。そして、「天神ノ森」を通過したときは「あっ!」と成瀬巳喜男『めし』を思い出して、興奮だった。




成瀬巳喜男『めし』(昭和26年11月封切・東宝)より、天神ノ森駅のシーン。『めし』の冒頭の原節子のナレーションは、

大阪市の南のはずれ。地図の上では市内ということになっているけれど、まるで郊外のような、寂しい小さな電車の停留所。すぐそばの天神様の森に。曲がりくねった路地の奥に。東京で、周囲の反対を押しきって、結婚してから五年目。大阪へ、夫の勤め先が変わってから三年目。……

というふうになっている。旅行のあと、成瀬の映画をじっくり見直すのがとたんにたのしみになった。ついでに実は未読の林芙美子の原作も読んでみようと思った。



そんなこんなで、阪堺電車は終点の恵美須町に到着。改札の外に出ると、向こうに見えるのは通天閣。このあとは、生国魂神社の方へテクテク歩いてゆくというダンドリだったのだけれども、地下鉄の一日乗車券を無駄にするのが惜しいあまりに、恵美須町から谷町九丁目まで無理やり地下鉄に乗る。電車を待ちながら、持参の「でっか字まっぷ 大阪24区」の生国魂神社あたりのページを開いて、さまざまな坂の名前を眺めて胸躍らせる。長年の念願の口縄坂を歩いてみたいけれども、ちょっと距離があるようだったので、今回はあきらめる。谷町九丁目でふたたび地上にあがり、源聖寺坂を目指してテクテクと歩く。休日の静かな大通り、ここは谷町筋。源聖寺坂の方角には高速道路沿いで見かけるようなラブホテルがそびえたっている。地図を眺めて勝手に心ときめかすのと現実の風景とではずいぶん違うものだなあと思いつつもくじけることなく、巨大なラブホテルを目指して歩いていった先に、源聖寺坂が続いていた。いざ源聖寺坂にたどりついてみると、地図を眺めて勝手に心ときめかしていたとおりの風情たっぷりの坂道。そういえば、大阪の坂道を歩くのは今回が初めてなのだった。ゆっくりと坂道をくだってゆく気分は最高だった。


ちょうど源聖寺坂をくだった先に、前々から「でっか字まっぷ 大阪24区」に大きくメモしている場所があった。それは「大洋金物」という会社の場所(http://www.tform.co.jp/)。杉山平一著『戦後関西詩壇回想』(思潮社、2003年2月)の「竹中郁の人柄など」に、竹中郁の子息の竹中左右平が建築事務所を開いており、《年々自分でデザインされた賀状のセンスのモダンなところは父親ゆずりというか、若き竹中郁の感覚を彷彿させて、まことに嬉しいものだった》というくだりがあり、

 あるとき、左右平さんから、自分で設計した建築が「新建築」という雑誌に紹介されているというお便りが、その建物の写真と共に送られてきた。
 それは、ル・コルビュジエの系統のものだろうか、直線と、コンパスで描いたような曲線の組み合わされた清新、明晰な建物だった。やはり竹中郁の詩に通ずるものがある。
 私は、ひまをみて、その建物を見に行った。東京とちがって坂のすくない大阪では、織田作之助の文学碑のある口縄坂や、それに並ぶ源聖寺坂など、閑静な坂が有名だが、その源聖寺坂を下って、玩具屋の並ぶ松屋町筋という通りを越えたあたりに、その太洋金物という貿易会社のビルがあった。
 ごみごみした町なかには際立つ斬新なビルだったが、訪ねた見知らぬ通行人である私を、会社の人は快よく建物の内部に案内してくれた。自慢したい気持も察せられて、私も嬉しかった。北欧の家具を輸入している会社らしく、洒落た家具の展示にふさわしい空間や螺旋階段の工夫など、それは竹中郁の世界でもあった。余りにも早い左右平さんの死が惜しまれてならない。

というふうに続く。先ほど、南海難波のホームで安西冬衛を思い出したところだったので、杉山平一『戦後関西詩壇回想』めぐり、ということで、前々から愛用の地図帳にメモしてあったのを幸いに、杉山平一とおなじように源聖寺坂をくだって、「大洋金物という貿易会社のビル」を見に行ったという次第だった。





大洋金物の前を通って細い路地へと入ってゆくと、いつのまにか「黒門市場」の入口に来ていて、「キャー!」とつい小走り。人混みをぬって、黒門市場の活気のなかを歩いてゆく。静御前(だったかな)の巨大な人形を見て、そうか、文楽劇場はすぐ近くなのだなあとやっと気づいたりする。市場を歩くのはそれだけでたいへんたのしい。なにか買い物ができたら最高なのだけれども、家に帰るのは明日の夜遅くになるので、今日は見るだけ。しかし、菓子店があるのが視界に入ったとたん、吸い込まれるように中に入り、「パインアメ」136円をガバッと購入。つい先ほど、源聖寺坂を下る直前、たまたま谷町筋沿いに「パインアメ」の本社があったのを見て(http://www.pine.co.jp/)、「あ、パインアメ」と思っていたところだったのを思い出して、急に欲しくなった。買ったばかりのパインアメを一粒口に放って、日本橋の駅に出る。



地下鉄の一日乗車券を無駄にしたくないばかりに、このあとも小刻みに地下鉄に乗っては地上に出て、お気に入りの場所をいくつかめぐる。北浜から歩いて近代建築を見物したりコーヒーを飲んだりもする。南森町から天神橋筋商店街を歩いて、天神橋筋六丁目の駅に到着したとき、ちょうど日没。大阪の夜はいつも、閉店間際の堂島アバンザのジュンク堂で本を見るのがおたのしみ。そして、ジュンク堂のあとは、いつもハイボールを飲むのがお決まりなのだった。というわけで、杉山平一と後藤明生を買って外に出て、心持ちよくウカウカとサンボアへ行ってみたら、臨時休業の札がかかっていて、大いによろめく。こ、こんなはずでは……。北浜のロックフィッシュは閉店してしまったというし、いったいどこでハイボールを飲もうかとヨロヨロと新地をさまようのだった。初めて入ったお店でシェイクスピアの登場人物と同じ名前のカクテルを飲んで、すっかりいい気分になって、次回の大阪行きのときもまたこのお店に来ようと、再び外に出た頃はすっかり夜が更けていた。




溝口健二『浪華悲歌』(昭和11年5月封切・第一映画)より、山田五十鈴が地下鉄に乗っているシーン。



本物の電車でロケしていて、下車するところ。実はこの電車は地下鉄ではなくて、阪急の車両が使われている。



地下鉄を降りると、妹の大倉千代子にバッタリ。金を無心されてうんざりする山田五十鈴。と、ここで気づくのは駅のホームに嵐山の観光ポスターが貼ってあること。調べてみると、ロケ地は阪急の大宮駅なのだった。Wikipedia によると、1931年開業の大宮・西院駅間は銀座線に次ぐ日本で二番目の地下鉄とのこと。次回の京都行きの際は、阪急の大宮で『浪華悲歌』に思いを馳せたあとで、嵐山電車に乗りたい(何度でも大河内山荘に行きたい)。



と、ロケ地は阪急電車および大宮駅だけれども、地上に出るとそこは大阪。




依田義賢の脚本のト書きに、《アヤ子飛び出しては来たものの思わず立停る。思案にあまった顔。街の雑音。自動車が通る。車内には株屋の藤野が乗っている。アヤ子見るともなく藤野に気がついた。》とある箇所。『浪華悲歌』のこのシークエンスが大好きで、大阪で地下鉄に乗って地上に出るたびに、このくだりを思い出して、悦に入っていた。すばらしき浪華悲歌!