阪神間遊覧日記:中津の跨線橋。甲南漬資料館と文学館と小津安二郎。

日曜日の朝の堂島界隈。今日もよいお天気で絶好の遊覧日和だなアと、機嫌よく大阪駅へ向かってテクテク歩く。堂島から肥後橋に向かって立ったときの眼前の眺めが大好き。朝日新聞社のモダンな社屋とその向かいの建物の鉄塔、この都市風景を目にしたいがために、大阪の宿はいつも堂島界隈なのだった。



残念なことにこれらの建物も近々なくなってしまうというから、もしかしたら今日が見納めになってしまうかも。東京とおなじように大阪の近代建築もどんどん消えてゆくのだなアと、毎日新聞社跡地の堂島アバンザあたりで肥後橋をふりかえったところで、クルッと正面を向いて、大阪駅へ向かってズンズン歩いてゆく。



内田魯庵は《銀座の風に時折は吹かれないと頭に黴が生えて湿気臭くなる気持がする》と書いていたけれど(『銀座と築地の憶出』)、わたしは関西に出かけない日々が数ヶ月続くと次第にムズムズしてくる。関西の風に時折は吹かれないと頭に黴が生えて湿気臭くなる気持がするのだった。と、そんな年明けのある日、ほんの気散じに手帳を眺めていたら、古書展も観劇もない週末、2月と3月にまたがるこの週末を逃したら、次回の関西行きはいったいいつになってしまうのだろう! ということにハタと気づき、気づいたとたん急にソワソワ、突如「行け! 行け! 大阪へ」というような心境になった。こ、こうしてはいられないと、「行きたいところ目白押しで困っちゃうッ」とウンウン唸りながら行程を練っては練り直し、しまいには、ハテどうしたらよかろうなあと、本当に困ってしまうのだった。


2日目は堂島が起点であるのでおのずと、梅田から電車にのってどこかへ出かけるとするかな、ということになる。梅田といえば、宮脇俊三『鉄道旅行のたのしみ』(角川文庫、平成20年11月)の「西日本の私鉄の巻」の書き出しは、

 関東の人間が関西の私鉄に乗ると、圧倒されたり感心したりすることが、じつに多い。
 まず阪急電車の梅田駅。駅とも町ともつかぬ広大なコンコースや地下街、ドームの天井からはシャンデリアが、ずらりとさがっている。そして九本にも及ぶ線路が巨大な櫛のように並ぶ。
 梅田を発車すると、複線が三組も並行して新淀川を渡る。運がよければ三本の電車が並んで走る、という絶景に接することもできる。ターミナルといい、この梅田――十三間の三複線といい、私鉄経営の先覚者小林一三が築いた阪急王国の繁栄を、まざまざと見る思いがする。

というふうになっていて、まさしくうなずくことしきり、関西に出かけるたびにこの宮脇俊三の一節を身体全体で体感しているのだった。そうだ、今回は梅田から阪急電車にのって、「富士正晴記念館(http://www.lib.ibaraki.osaka.jp/fuji/fuji.html)」に出かけるといたしましょう! と、山田稔著『富士さんとわたし』(編集工房ノア、2008年7月)片手にとりあえず胸を熱くしてみたのだったが、よくよく確認してみると、「富士正晴記念館」を設けている茨木市立中央図書館は2月末から3月初めにかけて「資料点検に伴う休館日」となっているではないか。ああ、なんということなのだろう。気勢をそがれることこの上ないのだったが、ま、出かける前に気づいたのは幸いであった。


……などと、阪急電車の路線図を眺めながらウダウダと行程を思案しているうちに思い出したのが、今まで中津が気になって仕方がなかったということ。梅田から並走して十三でそれぞれの方向へと分岐してゆく阪急電車。淀川を渡る直前の梅田と十三の間にある小さな駅、中津。





北尾鐐之助『近代大阪』近畿景観第三編(創元社、昭和7年2月25日)。装幀:高岡徳太郎。わたしの書棚にあるのは、海野弘の解説が付された『覆刻版 近代大阪』(創元社、1989年3月20日)の方。




《昭和四年ごろから、七年にかけて、書きためて置いた都市漫歩の記録を、いつもの雑文風にとりまとめてみた》と「序」にある北尾鐐之助の『近代大阪』の巻頭口絵の一番最初のページが、すなわち高岡徳太郎による装幀の表紙をひらいて『近代大阪』でまっさきに目にすることになるのが、北尾鐐之助自らの撮影による《中津の跨線橋の交錯》。



以前、「ホーム・ライフ」というグラフ誌、昭和10年8月に創刊し昭和15年12月に終刊した、大阪毎日新聞社の写真部長、北尾鐐之助が一貫して編集にあたっていたフォト・マガジンを夢中になって閲覧した折(id:foujita:20080716)、北尾鐐之助の映画への愛とグラフィカルなセンス、写真への造詣等々がいかんなく反映された誌面に、常日頃の自分自身の嗜好と勝手に結びつけて、たいへん共感して心がスイング、『近代大阪』の著者としておなじみだった北尾鐐之助にいっそう親しみを覚え、北尾鐐之助が好きだ! と共感することしきりだった。「ホーム・ライフ」を知ったことで、『近代大阪』がわたしのなかでそれまで以上に大切な一冊となった。


北尾鐐之助は『近代大阪』において、「高架線の中津」という一章を設け、

 私はもう十年以上も、毎日の如く朝夕電車の窓から、この辺の風景を眺めているが、私はこの辺における高架電車の上に縦横に張り廻された架空線や、架線柱が、鉄橋の繋桁柱と交錯した複雑な鉄の交響楽に心を惹かれる。

と書いている。阪急電車にのって、堂島の地にあった大阪毎日新聞社に通勤していた北尾鐐之助が、毎日車窓から見ていた中津風景。そして、ある日、北尾鐐之助は実際に中津の地に降り立って、界隈を「漫歩」する。

 いったい阪急電車は、梅田から中津に至る路面電車に並行して高架線を築造したので、距離から云えば、梅田から十三まで直線にとった方が近いのだが、梅田駅の構内を迂回して、十三までは弧線を描いているので、中津の跨線橋に立つと、ちょうど阪急百貨店や、大阪駅の背後を越して東南に高層建築が林立する。一直線に、毎日、朝日新聞社の高塔、阪大病院、大阪ビル、電信局などの建物。殊に前景に描き出される、大阪鉄道局の建物及び阪急百貨店、梅田駅の貨物操車場が、煤煙と雲霧の中から、前方にまず堂々たる姿をみせる。


北尾鐐之助『近代大阪』の「高架線の中津」に掲載の地図、《中津町附近の線路交錯》。大阪毎日新聞社の社屋は、路面電車の堂島中島駅のすぐ近く。


二日目の起点は堂島である。北尾鐐之助が通勤していた大阪毎日新聞社跡地の前を歩いたあとで中津へと向かい、『近代大阪』文中の北尾鐐之助の「漫歩」さながらに、しばし中津を歩く、という思いつきはたいそうわたしをワクワクさせた。『富士さんとわたし』を書棚に戻し、『近代大阪』をガバッと取り出してランランと読み、「でっか字まっぷ 大阪24区」を眺めてはまた読みなおすのだった。



さて、日曜日の朝の堂島界隈。肥後橋の眺めを見納めたところで、堂島から梅田へ向かってテクテク歩いて、そのまま中津へと歩を進めればよいのだけれども、あともう1回だけ地下鉄に乗りたいのだった。梅田から御堂筋線にのって、隣駅の中津で下車。




初めて大阪へ遊覧に出かけた2000年末、御堂筋線にのって初っぱなからドーム状のホームに胸躍らせていた。以来、大阪に来るたびに地下鉄に乗るのが大きなたのしみのひとつ。ドーム状の天井とシャンデリアのモダンなこと! 梅田―心斎橋間が大阪の最初の地下鉄で、開通は昭和8年5月。『近代大阪』刊行時(昭和7年2月25日)にはまだ地下鉄は開通していなかった。


御堂筋線を中津で下車して地上に出て、税務署の脇を歩いてゆくと、梅田貨物線の線路に行き当たり、左折して線路沿いを歩いてゆくと、阪急の高架が眼前にあらわれる。この貨物線と阪急の高架の交錯が、ああ、まさしく近代大阪! と、北尾鐐之助の『近代大阪』そのまんまの視覚の歓び。ガタンゴトンとマルーン色の阪急電車が何度も高架を走る。何本もの電車がすれ違ってゆく。高架の真下から上を見上げるとさらに迫力たっぷり。北尾鐐之助言うところの《阪急電車の高架線に沿って、梅田裏ともいうべき中津町から、十三大橋の南詰まで繋がれた、長さ四五〇メートルの高架道路》へと上がってゆく。日曜日なので、車の通行量は少ない。『日本鉄道旅行地図帳 関西2』(新潮社刊)によると、この道路には昭和50年まで「阪神大阪線」という路面電車が走っていたらしい。




北尾鐐之助『近代大阪』、「梅田・曽根崎」口絵、《阪急電車梅田跨線橋》。

 東海道線が、いよいよ高架になる。阪急電車が下に下りて、縦についていた跨線橋が今度は横につく。阪急百貨店のちょうど二階位の高さに、汽車が煙りを吐いて走る光景を想像することは愉快である。
 城東線、西成線が、本線に合するところには、鋭角な高架の三角形が出来る。この両側に並んだ汚ない家屋のことを考えると、少し憂鬱になる。東から来るものには、これが大阪という大都会の第一印象になるのだ。


と、北尾鐐之助と同じアングルで撮影して、悦に入る。




さらに北尾鐐之助の真似をして、2009年3月朔日撮影の《中津の跨線橋の交錯》。ああ、近代大阪!



などと、ひととおり北尾鐐之助『近代大阪』ごっこを満喫したところで(ああ、楽しかった!)、阪急電車に乗るべく中津駅の改札へ。跨線橋の側からひなびた階段を下りて左折しひなびた地下トンネルを歩いた先にひなびた改札がある。その先へゆくと梅田貨物線の線路のまん前に出る。先ほど歩いていた線路の反対側に出る。目の前には古色蒼然という言葉がぴったりの洋菓子店。これら一連の風景にも大いに感興をそそられるのだった。切符を買って階段を上がって、阪急中津駅の狭いホームに立って通過電車をやり過ごしつつ、今回は梅田のターミナルを見ることはできなかったけれども、中津から阪急に乗るというのはなかなか貴重な体験だなあと、大いによろこぶ。中津から電車が出発すると、淀川はすぐそこ。いつもながらに、阪急電車が淀川を渡る瞬間はなんてすばらしいのだろう!



中津から阪急電車にのって、西宮北口で下車。停車中の阪急今津線に乗り換えて、出発を待つ。車窓のまん前に見える特になんということもないようなショッピングモールは実はもと西宮球場があった場所だという。昨日の南海難波駅に引き続いて立て続けに停車中の車窓から球場跡地を見ることになるなんて! と思いがけず大興奮。ちょうど1年前にフィルムセンターの《生誕百年 映画監督 マキノ雅広》特集で見た、『学生三代記 昭和時代』(昭和5年・マキノプロ)の「野球の巻」に登場していたのはたしか宝塚行きの阪急電車だったなあと思いだしもし、さらに興奮は続く(もう一度見たい!)。




西宮球場 昭和12年 西宮市 設計=中尾保 構造設計=阿部美樹志》、「阪神間モダニズム」展実行委員会編『阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化、明治末期―昭和15年の軌跡』(淡交社、1997年10月)より。《装飾のない白亜の建築。昭和初期にはすでにツタで覆われていたという甲子園と好対照をなしている。設計者はかつて日本インターナショナル建築会のメンバー》とある。2004年に解体工事が始まったとのこと。こんなモダンな球場をほんの数年前まで見ることができたなんて! 阪急電車の車窓から見たかったものだとしみじみ思う。阪神電車から甲子園が見えることに感謝しないといけない。


それにしても、昨日の大阪球場に引き続いて、期せずして立て続けに、球場跡地の脇に停車中の電車に乗りこむことになったのは奇縁であった。すっかり忘れていたけれども、かつて「南海」という球団があった、「阪急」という球団があった、「近鉄」という球団があった……と思っているうちに、急に藤井寺球場のことが気になって仕方がなくソワソワ(自分でも忘れていたけれども、実は大昔、ひそかに野茂のファンだったことを思い出し、胸がキュンとなって急にソワソワ)、藤井寺球場ももうないのだとしたらその跡地は今どういうふうになっているのだろうか、南海、阪急とおなじように停車中の近鉄電車の車窓からも野球場の跡地が見えるのだろうか、ま、それは後日調べることにして、とりあえず持参の『日本鉄道旅行地図帳 関西2』(新潮社刊)を開いて、藤井寺駅を探してみる。ああ残念、藤井寺駅のあたりは、「関西1」の圏内なのだった(帰京後の購入を決意)。気を取り直して、鉄道路線図を眺める。まさしく網の目のように張り巡らされた近鉄路線をじっくり眺めるとこれまた実に壮観なものがあって、球団はなくなってしまったけれども地図上で見るかぎりでは関西私鉄の威光がまばゆいばかりで、しみじみ感心してしまうのだった。まったくもって「関東の人間が関西の私鉄に乗ると、圧倒されたり感心したりすることが、じつに多い」。それに近鉄沿線はそこはかとなく風流な駅名が多いような気がする、瓢箪山、鳥居前、菖蒲池、大和西大寺当麻寺、道明寺……とかなんとか、阪急電車の車内で思わずじっくり近鉄電車の路線を眺めてしまうのだったが、「俊徳道」の文字が目に入ったとたん、頭のなかは一気に後藤明生の『しんとく問答』。次回の関西遊覧の折には『しんとく問答』ごっこというのもいいかもしれぬ……などと気の早いことを思ってウキウキしたところで、早くも電車は終点の今津に到着。あわてて下車、ここで阪神電車に乗り換えるのだ。阪急に引き続いて阪神にも乗れるなんて、夢のようだ。



今津で阪急から阪神に乗り換える。阪急はもちろん阪神も大好きだ! と阪神間を移動すると、それだけでいつも大はしゃぎ。今回は甲子園駅を通ることができなくて残念なり。昨日の浜寺公園を胸に香櫨園でかつての海水浴場を思い、阪神間モダン生活を思う。そして、住吉と御影を通るときが、わたしのなかで阪神電車のもっとも心躍る瞬間。東京山の手の子、戸板康二は父が関西に転勤したことで、昭和7年から12年にかけての約5年間、三田の学生時代、長期休暇のたびに阪神間に「帰省」していた。その帰省先が住吉。隣の御影には父の友人、藤木秀吉の邸宅があって、その書斎で戸板康二はたくさんの演劇書を読みふけった。十代終わりから二十代にかけて戸板康二は、三田の学生として「1930年代・東京」を闊歩し、父の転勤のおかげで長期休暇の際には「阪神間モダニズム」をも体験することとなった。そんな1930年代の三田の戸板康二のように、これから先、わたしも年に何度か休暇で「帰省」するようにして、関西遊覧できたらいいなと思うのだった。と、御影の次は石屋川。その次の新在家で下車。次なる目的地は、「甲南漬資料館」なり。


関西遊覧のたびに阪神間モダン探索のわが必携書、「阪神間モダニズム」展実行委員会編『阪神間モダニズム』(淡交社、1997年10月)をガバッと取り出して、行きたいところをリストアップするのが毎回のおきまり。出かけたい場所は点在しているから「周遊」はちょっと無理だけれども、前から好きな場所と初めて行くところをうまく織り交ぜて、少しずつ「阪神間モダニズム」探索を自分なりに深めていきたいものだと目には炎がメラメラ。『阪神間モダニズム』を何度も繰って、初めての阪神間行きのときに出かけた昭和8年築の御影公会堂があんまり素敵でびっくりだった、あの地下食堂へまた出かけたいけれども昼食の時間には早いから無理かなあと思ったところで目についたのが、御影公会堂のある石屋川駅の隣りの新在家駅が最寄りの旧高嶋邸。昭和5年施工のモダンな邸宅が現在、「甲南漬資料館」として公開されているという。御影公会堂とおなじく清水栄二による設計というので、がぜん楽しみになった。御影公会堂とおなじく阪神大震災を経てもなお健在、「阪神間モダニズム」を現在に伝える近代建築。


阪神間モダニズム』、第2章「阪神間の建築」の「阪神間に生きた建築家とその作品」に、「表現主義の親密な空間 清水栄二――高嶋平介邸」(p.91)として梅宮弘光氏によって、

高嶋邸は、灘五郷のひとつ魚崎郷で奈良漬を商う高嶋平介商店の二代目・高嶋平介の自邸兼帳場として武庫郡御影町、現在の神戸市東灘区に昭和五年、施工した。商店敷地には木造平屋の製造場や店舗、木造洋館の郵便局などがあり、これらと併存して鉄筋コンクリート造二階建てのこの住宅が建設された。それはまた同商店が会社組織を整え「甲南漬」の商標を掲げるなど近代化を推進する時期と重なっていた。

というふうに紹介がある、旧高嶋邸の「甲南漬資料館」を目指して、阪神電車各駅停車を新在家で下車して、線路を左手にテクテク歩く。ちょいと殺風景な真新しい町並みがいかにも阪神大震災の罹災を思わせるのだったが、阪神電車の高架の車庫が見えたところで右折し、線路を背に歩いてゆくと、突如「モダーン!」な建物が視界に入る。阪神大震災もなんのその、旧高嶋邸は健在なのだった。「偉大なり! 清水栄二」と涙が出るほど感激した瞬間。




と、新在家駅から徒歩数分、こうして旧高嶋邸の側面から入ってゆくことになる。左上方に阪神電車の車庫が見える。




阪神の車庫が見えたところで右折して、突如目に入るのが、この旧高嶋邸の塔部。上掲の「表現主義の親密な空間 清水栄二――高嶋平介邸」に、

この住宅の外観で最も目をひくのは、建物の南西隅の塔であろう。その頂部には、パラボラ・アーチによる大・中・小三つ(解釈の仕方によっては四つ)のトンネル・ヴォールトが組み合わされている。その組み合わせ方は、並列であったり、大きさが極端に異なったり、ヴォールトの一般的な構成原理からはずれており、それがなんとも不可思議な印象を与える。この塔の内部は中央に小さな吹き抜けをもつ階段室で、外形が内部空間に規定されているとも思えない。このように建物の隅部に特徴ある造形を施す手法は、清水による西尻池村公会堂や御影公会堂に共通で、とくに複数階にわたる三角形断面の連続窓は、いずれにも登場する。

というふうに解説されている。





旧高嶋邸の「甲南漬資料館」の正面に立ちすくんで、「なんて素敵なのだろう!」としばし大はしゃぎ。

こうした造形感覚は、日本における表現主義の影響をうかがわせる分離派建築会の初期作品や一九二〇年代前半の逓信省営繕課による局舎のいくつかとも類似のものである。じじつ清水は分離派建築会のメンバーと同じ歳だし、神戸にはそうした局舎のひとつである兵庫電話局(大正九年)もあった。しかし、それらとの関係を指摘するよりも、むしろ表現主義的造形に共鳴する空気のなかに清水も生きていたということなのだろう。

というふうに、上掲のあと『阪神間モダニズム』での解説が続いている。青い青い空の下、1930年代モダン都市の空気を肌で感じるひととき。それにしても、なんて素敵なんだろう!




旧高嶋邸の右側は甲南漬の売店となっていて、その正面ではこうして灘の酒の銘柄の数々を目の当たりにすることが出来て、その郷土感のようなものがふつふつと嬉しい。阪神間に出かけるたびにつくづく無念に思うのが、この数年ですっかり日本酒を飲めない体質になってしまったこと(その心の隙間を埋めるべくワイン一辺倒に)。ガブガブと日本酒を飲んでいた頃が懐かしい。銘柄比較にも夢中になったものだった。しかーし、日本酒は苦手になってしまったけれども、奈良漬という手があったではないか! と大いによろこぶ(奈良漬はもともと大好物)。




小村雪岱《キンシ正宗 ポスター》1926〜1945年頃、図録『関西のグラフィックデザイン展 1920〜1940年代』(西宮市大谷記念美術館、2008年)より。《阪神間は、酒どころ「灘五郷」として有名。各酒蔵ともポスターを多く作成し販売促進の一助としていました。これら日本酒のポスターはいわゆる「美人画」系ポスターであり、商品をイメージさせる小物と微笑む女性を配置する構図のポスターが多く制作されました》とある。



あとでゆるりと土産物を吟味するとしようと、「甲南漬資料館」であるところの旧高嶋邸の室内へと入る(入場無料)。建物見物だけが目当てでやってきたのだけれども、灘の酒は飲めないけれども奈良漬は大好物の身にとっては、思っていた以上に興味津々に見物することができて、たいへんたのしかった。他に見物客はいなくて、モダン建築の静かな室内を心ゆくまで満喫することができて、いうことなしだった。




資料室に展示されていた、阪神大震災での罹災を現在に伝える、復元された鏡。旧高嶋邸の建物はよくぞ無事であったと、本日何度目かの感激にふるえる。アカデミーバーの真ん中に割れ目の入った壁画を思い出して(参照:http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200403takenaka/05.html)、胸がいっぱいになった。




旧高嶋邸の背面の広大な敷地はかつて甲南漬の工場だった。高嶋邸に至る直前、阪神の高架の車庫が面白いなあと思っていたところだったので、あの車庫の敷地はかつて漬物工場だったのね! と臨場感たっぷりで嬉しい。阪神沿いの漬物工場、原料は灘の酒。と、その風土感が観光客にとっては嬉しい。




阪神間モダニズム』掲載の「表現主義の親密な空間 清水栄二――高嶋平介邸」に掲載の写真には、《内部では建築家による照明器具のデザインにも惹きつけられる》と添えられてあった。梅宮弘光氏による解説の結びは、同時代の「表現主義的造形に共鳴する空気のなかにいた」清水栄二、《高嶋邸では、そうした感覚がこじんまりとした親密な空間を生み出す方向で生かされている》というふうになっている。甲南漬資料館の室内では、この一節をあちらこちらで実感して、なんとも素敵な時間だった。




と、旧高嶋邸室内での時間が名残惜しいのだったが、そんな気持ちに応えてくれるように、こちらの応接室にて11時半からお茶を喫することができるというので大喜び。時間が30分ほど先だったので、先ほど目をつけていた甲南漬の売店でゆっくりと土産物をみつくろったあとで、11時半きっかりに応接室へ。ソファにこしかけて、煎茶のセット400円を喫して、しみじみ至福だった。係の女性が入れてくださったであろうお茶はとてもおいしく、お茶菓子もとてもおいしかった(亀井堂総本店、と手帳にメモ)。暖炉の上に、「ミセス」のアンソロジー本が積んであって、お茶を飲みながらのんびり繰ってたのしかった。「昔のミセス」気分がいかにも似つかわしい高嶋邸の応接室。


高嶋邸の和室では、11時半から甲南漬を味わえる和食の昼食が供されている(950円)。そろそろ時分どきで、御影公会堂とおなじように近所の人が気ままに食べにきていて、それがとても好ましかった。今度また昼食を食べに来たいなと思ったところで、もと来た道を戻って、ふたたび阪神電車にのる。あっという間に三宮に到着し、今回の遊覧では阪神電車はこれでおしまい。次なる目的地は、王子公園駅が最寄りの神戸文学館なり。ふたたび阪急電車に乗るべく、阪急のホームへとズンズンと歩く、とその前に王子公園でピクニック気分で昼食をと、そごうの地下へおむすびを買いにゆく。




阪急三宮駅前を写す絵葉書、《(神戸)阪急会館附近の美観》。




中山岩太《神戸風景(焼け跡 阪急三宮駅)》1945年、『中山岩太 MODERN PHOTOGRAPHY』(淡交社、2003年4月)より。《1945年3月と6月の空襲で、神戸は壊滅的な被害を受けた。中山は、神戸大丸写真室のスタッフとともにその光景を詳細に記録していた》と同書にある。阪急会館は空襲では無事だった。




阪急三宮駅の西口改札。阪神大震災のあとも、西口改札の天井部分のみ往年のモダン建築の雰囲気が残っていて、三宮から阪急電車に乗るときはいつも西口から。上階のコーヒーショップの窓際の席に座れば、天井を間近で見ることができる、のだけれども、いつも観光客は時間に追われている。イソイソと阪急電車に乗り込むのだった。



三宮から阪急電車にのって二駅目の王子公園で下車、次なる目的地は神戸文学館(http://www.kobe-np.co.jp/info/bungakukan/index.html)なり。




神戸文学館のまん前のベンチで、菜の花のおむすびを食べて本日の昼食とする。無事に腹ごしらえが済んだところで、ギイッと扉を押して、文学館のなかへ(入場無料)。元は関西学院のチャペルだったという、歩くとギシギシと音のする木の床が風情たっぷりで嬉しい。


ツカツカと展示室へ。常設展示ゾーンでは、神戸にゆかりの文学者が時系列にコンパクトに紹介されている。チャペルの空間とよく調和したウィンドウがこれまた風情たっぷりで嬉しい。さっそく正岡子規のところで、明治28年日清戦争の従軍記者として中国に渡った帰りの船で喀血して神戸に入院のあと須磨で静養したことを伝えるウィンドウでスッと立ちすくみ、柴田宵曲の『子規居士』を思う。……などといちいち書いているとキリがないのだけれども、極私的にたいへん嬉しかったのが、十一谷義三郎コーナー。神戸一中入学と同時に御影東明村の酒造家の下僕となり苦学、のくだりが、先ほど阪神間の旧高嶋邸へ出かけたばかりなので、なおのこと臨場感たっぷりで嬉しい。さらに、「文藝春秋」昭和5年11月号に掲載の「自動幻画のチラシ」の自筆原稿が1枚展示されていて、ウィンドウ越しに十一谷義三郎の文字を追って、大よろこび。そして、「改造」昭和10年4月号の誌面、十一谷義三郎の「ぎんざ・ぱらるうん」なる文章の冒頭ページが展示してあり、その文字をもランランと追って、さらに大よろこび。自筆原稿と「ぎんざ・ぱらるうん」とで突如、十一谷義三郎への愛が燃えたぎる。今後の蒐書をメラメラと決意する。




十一谷義三郎『ちりがみ文章』(厚生閣、昭和9年4月18日)。以前にもここに載せたことがあった(id:foujita:20080120)。同時代の「レツエンゾ」の広告にこの本の紹介があって、嬉しかった。なかなかチャーミングな造本、函の表に「不二男装」とある。初めてこの装幀者の名を知った戸板康二『街の背番号』(青蛙房、昭和33年5月)では「岡村夫二」名義だったけれども、不二男、不二夫といった名義もあるのでややこしい。神戸文学館に自筆原稿のあった「自動幻画のチラシ」はこの本に収録されていて、初読時から特に好きな文章だった。古い紙モノはいつだって心躍るもの。戦前の明治製菓宣伝部とその周辺を追っている身にとっては、ちょっとした広告文献でもある。




中山岩太《神戸風景(トア・ロード)》1939年頃、『中山岩太 MODERN PHOTOGRAPHY』(淡交社、2003年4月)より。『ちりがみ文章』には「谷崎潤一郎小論」なる文章も収録されているのだけれども(昭和9年2月)、十一谷義三郎のあとの常設展示コーナーにはもちろん谷崎潤一郎が控えている。ここで、中山岩太の写真を見ることになり、これまた臨場感たっぷりで嬉しかった。同じ写真でも写真集で見るのと神戸文学館で谷崎に思いを馳せながら見るのとでは気分は全然違うなあと上機嫌。



……などと、本当にもうイチイチ書きとめていたらキリがないくらい、神戸ゆかりの文学者を時系列に紹介している常設展示コーナーのあちらこちらで「おっ」と刺激を受け、モクモクと嬉しかった。コンパクトでありながらも丁寧に設計されたショーケースとパネルがたいへん好ましかった。一番楽しみだったのは「竹中郁コーナー(http://www.kobe-np.co.jp/info/bungakukan/takenaka.html)」、満を持して対面できて、感激はひとしお。なかなか立ち去り難かった。書斎も素敵だけれども、それ以上にウィンドウの展示物に吸い込まれそうなくらいに陶然となる。とりわけ、ボン書店最初の刊行本、横綴じの小さな詩集、『一匙の雲』(昭和7年8月発行)を目の当たりにした瞬間は、洲之内徹の「買えなければ盗んでも自分のものにしたくなるような絵」というような心境になって、切ない気持ちにすらなった。この『一匙の雲』はページが開いたまま展示してあって、その隣りには竹中郁自身が孫のために絵筆をとって送ったハガキが並べてあり(竹中の絵の色が素敵)、昭和7年の竹中郁28歳のボン書店の詩集と老年になってからの孫へのハガキという並びという視覚的歓びが、竹中郁のその人そのものという感じで、その一貫性が、足立巻一著『評伝 竹中郁』(理論社、1986年9月)の読後感とまったく同じ感覚だった。それが実によかった。




岩佐東一郎『二十四時』新詩叢書(湯川弘文社、昭和18年8月)。あとがきに《此れは、現在までの詩集六冊から自選したもので、岩佐東一郎一覧表である》とある。現在、わが書棚にある唯一の湯川弘文社の新詩叢書で、大のお気に入り。この本を扶桑書房の目録で入手して以来、古書展で湯川弘文社の新詩叢書を見かけるたびに毎回購入を迷ってムズムズしている。神戸文学館の「竹中郁コーナー」で竹中郁の戦前最後の詩集、新詩叢書の『龍骨』(昭和19年2月)が展示されているのを目の当たりにして、またもやムズムズと物欲が刺激されるのだった。


……などと思っていたら、『現代詩文庫 1044 竹中郁詩集』(思潮社、1994年11月)所収の年譜で、湯川弘文社の「新詩叢書」はほかならぬ竹中郁の企画だったことを遅ればせながら知った。昭和18年に自装により刊行を開始、翌昭和19年、印刷事情の極端な悪化のなかで「新詩叢書」の刊行を続ける、とある。装幀には昭和15年の沖縄旅行のときに持ち帰った手拭の図柄が使われている。神奈川県立近代文学館(http://www.kanabun.or.jp/kensaku.html)で検索して、湯川弘文社の新詩叢書を取り急ぎリスト化してみた。

  1. 城左門『秋風祕抄』(昭和18年1月20日
  2. 笹澤美明『海市帖』(昭和18年1月20日
  3. 小野十三郎『風景詩抄』(昭和18年2月15日)
  4. 竹村俊郎『鹿草』(昭和18年3月5日)
  5. 阪本越郎『益良夫』(昭和18年4月30日)
  6. 安藤一郎『靜かなる炎』(昭和18年8月15日)
  7. 岡崎清一郎『夏館』(昭和18年8月15日)
  8. 岩佐東一郎『二十四時』(昭和18年8月15日)
  9. 安西冬衞『大學の留守』(昭和18年12月20日
  10. 近藤東『紙の薔薇』(昭和19年1月20日
  11. 津村信夫『或る遍歴から』(昭和19年2月15日)
  12. 福原清『催眠歌』(昭和19年2月15日)
  13. 村野四郎『珊瑚の鞭』(昭和19年2月15日)
  14. 中山省三郎『豹紋蝶』(昭和19年2月15日)
  15. 竹中郁『龍骨』(昭和19年2月15日)
  16. 藏原伸二郎『天日のこら』(昭和19年3月10日)
  17. 田中冬二『菽麥集』(昭和19年7月5日)


後ろ髪をひかれる思いで常設展示コーナーを去って、併設の「神戸の本」コーナーへゆき、椅子に座って、次から次へと本を繰る。部屋に帰るのを待ちきれず、かねてからの愛読書、竹中郁『私のびっくり箱』をランランと読み返したりもして、結構長居をしてしまった。




竹中郁『私のびっくり箱』のじぎく文庫(神戸新聞出版センター、昭和60年3月7日)。竹中郁の三回忌に遺文集として、『消えゆく幻燈』(編集工房ノア、1985年3月)とともに足立巻一によって編まれた。2冊ともかねてより大の愛読書で、竹中郁のみならず足立巻一その人にもますます惹かれることになった。




中山岩太《第1回神戸みなとの祭》1933年、『中山岩太 MODERN PHOTOGRAPHY』(淡交社、2003年4月)より。

 昭和八年十一月、いまの《神戸祭り》の前身である《神戸みなとの祭》の第一回が催されたことがあり、街のいたるところに小磯良平描く大きなポスターが張りめぐらされていた。画面中央には黄金の冠をつけた美女が白いドレスに花束をかかえて立っている。そのうしろには、シルクハットにタキシードの鼻の高い青年と、もうひとりの女とが描かれている。画面の左下端には提灯行列の灯が流れ、その上に船のマストが陰影になってそびえ、上空には花火がはじけている。
 祭りの雑踏のなかで、そのポスターを指さしながら、ひとりの少年が「あいつが竹中郁や」といったのをいまでもおぼえている。シルクハットの青年はそのころの竹中をモデルにしたものだった。


足立巻一『評伝 竹中郁 その青春と詩の出発』(理論社、1986年9月)より】


ふたたび外に出たところで、ふとバス停が目にとまった。阪急電車で戻るよりもバスで行った方が気分が変わっておもしろいかなと、三宮方面のバス停に向かって道路をわたり、バス停の列に加わったとたんバスがやってきて、わーいわーいと乗りこむ。バスにゆらゆら揺られていい気分、次第にトロトロとしてきたところで、三宮駅に到る直前、アカデミーバーのある交差点を通り過ぎ、ワオ! と急に目が覚めた。山小屋風のイスズベーカリーの隣りにある小さなバー。さきほど、神戸文学館にて、竹中郁の『私のびっくり箱』で《加納町三丁目の交叉点の東北、ちょうど大きな歩道橋の階段のかげになって見つけるのに困るようになったが、丸太の山小屋風のバアがある。アカデミーバーという。》という書き出しの「壁画のあるバア」(初出:「神戸っ子」昭和54年12月号)というエッセイを読み返していたところだったので、思いがけず、アカデミーバーのすぐ近くの交叉点をバスで通りかかることになって、胸がいっぱいだった。



思わず駅から交叉点へと早歩きして、アカデミーバーの前に行ってみる。日曜日の昼下がりの青い空の下、壁画の竹中郁のこうもり傘を見やりながらハイボール片手に夢心地になった2年前の春の夜を思う。



夜は神戸在住のご夫妻にお呼ばれなので、夕方までのんびりするかなと、三宮から元町までふらふらと歩いたあとで、念願のユーハイムの本店へ(http://www.juchheim.co.jp/juchheim/honten/index.html)。1988年に現在の地に移転してきたというから、書物を通して憧れていた生田神社横のお店のことは書物を通して空想するのみだけれども、今の本店でも十分素敵な空間で大満足、コーヒーを飲んで、大いにくつろいで、神戸でユーハイム! という本家本元のよろこびにひたる。デパートの地下などでおなじみのお店の本店めぐりはいつもとてもたのしい。と同時に、かつて渋谷の東急文化会館の1階にあったユーハイムの喫茶室がお墓参りのあとの定番コースだったなあと懐かしがったりもした。




小津安二郎秋日和』(昭和35年11月13日封切)より。ユーハイムといえば、小津安二郎の映画のなかで原節子がお土産に買ってくるお菓子なのだった。




溝口健二『浪華悲歌』(昭和11年5月28日封切)、成瀬巳喜男『めし』(昭和26年11月23日封切)、小津安二郎小早川家の秋』(昭和36年10月29日封切)は三大「関西」映画だ! というわけで、『小早川家の秋』を見直してみると、ここでも原節子はお土産にユーハイムのお菓子を買っている。田中眞澄編纂『全日記小津安二郎』(フィルムアート社、1993年12月12日)を参照すると、『小早川家の秋』の準備中の折、昭和36年6月9日の日記は「車が十一時にくる 池田の小林逸翁美術館を見学して 池田から十三 十三から神戸 ユーハイムにて珈琲 西灘を見て 三宮 宝塚に帰る」というふうになっていて、阪急沿線の移動のサマが嬉しい。小津安二郎が珈琲を飲んだユーハイムのかつての店舗にさらに思いがつのる。




壮行会のあと宝田明司葉子と「郊外の小駅のホーム」のベンチに座る。電車は映らないけれども、ここは阪急の十三。




駅の前に、十三のネオンサインのショットが入る。『全日記小津安二郎』の8月22日に「夜十三駅のロケーション」とある。駅を撮ったのかネオンを撮ったのかはわからない。




鴈治郎浪花千栄子の競輪場のくだりの前にこのショットが入る。近鉄電車の路線図で目にとまった西大寺! 『全日記小津安二郎』の7月21日に「西大寺の競輪場をとる 甚だ暑い」とある。





旧高嶋邸の「甲南漬資料館」では、『小早川家の秋』の酒蔵のことを思い出して嬉しがったりもしていた。『小早川家の秋』は伏見の酒造工場が舞台だけれども、『全日記小津安二郎』を参照すると、伏見のみならず灘の造酒屋を方々まわっていたりもする。……などなど、『小早川家の秋』撮影の折の『全日記小津安二郎』では、京阪神のあちらこちらの昭和36年夏の日々の小津安二郎とその移動のサマに心がスイング。今回の旅行の絶好の締めとなった。