『書誌書目シリーズ89 藤木秀吉「武蔵屋本考その他」』(ゆまに書房、2009年6月)

藤木秀吉『武蔵屋本考その他』(昭和15年4月28日刊)の原本の復刻が、ゆまに書房の「書誌書目シリーズ」として刊行された(http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843332283)。『武蔵屋本考その他』は藤木秀吉の一周忌に際しての遺稿集で、編集を一任されたのが当時23歳の戸板康二。藤木秀吉(享年56)は戸板康二の父の友人で、戸板康二慶應義塾在学時に、その書斎に自由に出入りして本を読ませてもらっていた。古河の重役だった藤木はたいへんな古書好き、いわゆる「書痴」で、その書斎は演劇書であふれていた。芝居と書物、俳句という共通の趣味を媒介に、藤木秀吉は戸板青年に大いに目をかけていた。戸板康二自身が後年、《本の趣味の友達として、年のちがいを忘れて、ぼくを一人前に扱ってくれたにちがいなかった。》と回想しているように(「藤木秀吉さんのこと」)。


藤木秀吉は昭和14年4月28日、肺炎をこじらせて急逝し、その初七日の日に、藤木の友人たちは故人の書斎で戸板康二に、『武蔵屋本考その他』に収められることになる藤木の原稿の束を見せられる。彼らはその場で遺稿集の刊行を決め、戸板康二に編集の一切をまかせた。故藤木の「若き書斎の友」として、彼らは若き戸板康二に絶大な信頼を寄せていた(在りし日の藤木秀吉と同様に)。そして一年後、戸板康二は見事に彼らの期待に応えたのだった。『武蔵屋本考その他』と題された藤木秀吉の遺稿集は、故人の趣味生活(書物、芝居、俳句)を網羅した行き届いた編集がすばらしく、また、戸板康二という存在を抜きにしても、大正から昭和初期の一古書愛好家のありようが興味深く、絶好の古本文献にもなっている。表題になっている「武蔵屋本考」は丸善文献として貴重だし、読み物としてもすこぶるおもしろい。




『書誌書目シリーズ89 「武蔵屋本考その他」藤木秀吉著・戸板康二編集』(ゆまに書房、2009年6月25日)。



戸板康二を読むようになって今年でちょうど十年なので、わたしが藤木秀吉のことを知ったのはちょうど十年前ということになる。戸板康二の本を次々に買って読むようになって(最初期はもっぱら昭和二十年代の演劇書)、読み終わると神保町の豊田か銀座の奥村にせっせと仕入れに行っていた(いずれのお店も今はもうない。十年一昔……)。と、そんな戸板康二に夢中になって気もそぞろに古本屋に通っていた折に、ふらりと手にとった戸板康二編集の『日本の名随筆 別巻10 芝居』(詳細:http://www.tssplaza.co.jp/sakuhinsha/book/zui-bekan/tanpin/8307.htm)で、編者あとがきの冒頭、

 慶応の学生になって間もなく、父の親しい実業家の家に招かれて行き、その書斎を見て目がまわりそうになった。
 広い部屋の三隅に天井までの書棚があり、そのほとんどが古今東西の演劇書なのだ。
 劇場に通いながら、小遣いで少しずつ買い集めた私の本の中に、あるはずのない貴重な明治以来の珍本がずらりと並び、中には初めて存在を知った稀覯書もある。それが縁で、大学を出るまで、家人が不在でも自由に読みに来るようにといわれた。私にとってその人は、学恩の大先輩だと思っている。

というくだりを立ち読みしたときの感激はいまでもとっても鮮烈だ。豊田と奥村のどちらだったかは忘れたけれども、いずれの本屋さんも演劇書がきわめて整然と並んでいる本屋さんだった。この一節、整然とならぶ古今の演劇書の下で目の当たりにすると、いっそう格別なものがあって、すっかりいい気分。もちろんその場ですぐさま購った。


ここで語られている「父の親しい実業家」の名前が藤木秀吉(ふじき・ひできち)であることを知ったのは、もう少しあとのこと。『回想の戦中戦後』(青蛙房、昭和54年6月)や『見た芝居・読んだ本』(文春文庫、昭和53年5月)所収の「藤木秀吉さんのこと」を読んだのがきっかけだった。あのとき豊田か奥村で立ち読みした一節の主はこの人だったんだと感激はひとしおだった。そして、読み返せば読み返すほど、藤木秀吉と戸板康二の「書斎の友」としての交わりに愛着を覚えた。以来、戸板康二と藤木秀吉のえにしのことがずっと心に残っていた。


しかし、若き戸板康二が編集した藤木秀吉の遺稿集『武蔵屋本考その他』を実際に手にしたのは、2003年の初夏のこと。「ずっと心に残っていた」なんて言いつつ、生来のズボラゆえ、図書館等で現物を閲覧することもせずに4年もの歳月が過ぎてしまっていたのだ。ある日ひょいと届いた古書目録に『武蔵屋本考』が売っているのを見かけた。それまで『武蔵屋本考』を買うなんて考えることすらなく探求したこともなかったのに、いざ売っているのに直面すると、とたんに欲しくなるから不思議。しかし、少々値が張ったので、「うーむ、どうしたものか」としばし思案したあげく、ま、現物を確認してから、購入するか否かを決めるとするかなと、イソイソと早稲田大学演劇博物館の図書室へと出かけた。で、いざ閲覧してみたら、思っていた以上に充実した本なのでびっくり。マニアックな考証のみかと思っていたら、ちょいと拾い読みしただけでなにかと親しみがわくくだりが多々あり、ますます藤木秀吉に愛着がわいてくるのが嬉しかった。


戸板康二は『武蔵屋本考その他』について、『回想の戦中戦後』では、《一周忌に間に合わせるために、藤木さんの遺稿集を作ることになり、ぼくが編集した。「武蔵屋本考」という本で、いまでも、神田でたまに見かける。もちろん非売品である》というふうに、「ぼくが編集した」とさりげなく振り返るにとどめているけれども、そんな後年の回想のさりげなさとは裏腹に、『武蔵屋本考』はいざ手にしてみたら、とにかくも、たいへん充実した本だった。戸板さんってば自分の手柄として、この本のすばらしさをもうちょっとしっかり強調しておいてくれたら、わたしだってもっと早く手にしていたのにッ、と己のズボラを棚にあげて、戸板さんの奥ゆかしさをもどかしく思いながら、演劇博物館の図書室で『武蔵屋本考』をいつまでも眺めていると、ふいと「昭和15年5月14日」という日付とともに「戸板康二氏寄贈」の判が押してあるのが目に入った。この瞬間の感激といったらなかった。とにかくも『武蔵屋本考』を購入するのはわたくしの義務である、というような心境になり、こうしてはいられない、一刻も早く注文せねばと、一目散に帰宅したのだった。


と、2003年の初夏、『武蔵屋本考』を入手したことは、わたしにとってはたいそう嬉しいことで、自作のウェブサイト「戸板康二ダイジェスト(http://www.ne.jp/asahi/toita/yasuji/)」に同年10月、「藤木秀吉遺稿集『武蔵屋本考』のこと」と題した覚え書きを載せることで、自分のなかで、戸板康二が編集した、藤木秀吉の一周忌にあたっての遺稿集『武蔵屋本考その他』(昭和15年4月28日)入手の記念とした次第(http://www.ne.jp/asahi/toita/yasuji/archives/03.html)。



『武蔵屋本考その他』を入手して6年、以来ずっとわたしのなかでは、藤木秀吉は特別な存在だった。このたび、ゆまに書房の「書誌書目シリーズ」として、『武蔵屋本考その他』が刊行される運びとなり、こんなに嬉しいことはないのだった。僥倖としか他に言いようがない。と、刊行されるというだけでも嬉しいのに、自サイトの「藤木秀吉遺稿集『武蔵屋本考』のこと」を改稿したものを「解説」として載せていただき、身に余る光栄、ただただ深謝なのだった。





藤木秀吉の遺稿集『武蔵屋本考その他』(昭和15年4月28日)を入手して以来、藤木秀吉を知ったことを戸板康二ファンのひそかなたのしみとして悦に入り、柳田泉言うところの《人のよまぬ古書をよんで、ひとり会心の興を得る》というような心境になっていたのだけれども、




高橋輝次編『古本漁りの魅惑』東京書籍(2000年3月)。林哲夫さんの装画の古本随筆のアンソロジーに、藤木秀吉の「『歌舞伎』の合本」が収録されているのを発見したときの悦びといったら! 「『歌舞伎』の合本」はいつ読んでも頬が緩む名篇で、藤木の生前は未発表、それまで『武蔵屋本考その他』の原本でしか読むことができない文章なのだった。藤木秀吉の名前を目次に連ねているというだけでもこのアンソロジーがいかに行き届いた編集かがわかるのだけれども、他にもすばらしい文章が目白押しの、ぜいたくな一冊。読み返すたびに発見がある。



それから、『武蔵屋本考その他』に収録されている「丸屋善七失踪届」は、「読書感興」の第2号(昭和11年4月発行)が初出(掲載時のタイトルは「丸屋善七失踪」)。林哲夫さんの「はじまり本の根深さについて」(初出:「彷書月刊」2005年1月号→『古本屋を怒らせる方法』白水社asin:4560031673)に収録)に、藤木秀吉の「丸屋善七失踪」が紹介されている。この林哲夫さんの文章を読んで、スムース文庫の大庭柯公『ふるほんやたいへいき』(2004年11月発行)を読み返したくなる、という、一連のつながりが嬉しい。




「読書感興」第4号(双雅房、昭和11年10月1日発行)。表紙:内田巌。「読書感興」全8冊のうち、この号だけ内田巌の表紙画で、最近嬉々と買ったばかり。ちなみに、双雅房の「随筆と書物の雑誌」である「読書感興」全8冊は、このたびの『武蔵屋本考その他』とおなじく、ゆまに書房の「書誌書目シリーズ34  書物関係雑誌叢書」として覆刻されていて、日頃から重宝している(1993年7月発行)。





「学鐙」昭和13年11月20日発行。『武蔵屋本考その他』に収録の「武蔵屋本のことゞも」の初出誌。明治20年代にいち早く近松門左衛門翻刻を叢書として世に出した丸善の傍流の出版社の「武蔵屋」の研究に没頭した藤木秀吉は、おのずと丸善に造詣が深く、「読書感興」に寄稿した「丸屋善七失踪」もその余滴だった。「武蔵屋本」の蒐集にのめりこんだ藤木秀吉は、亡くなる前年の昭和13年にコレクションを完成。その完成に際して寄稿したのが「学鐙」掲載の「武蔵屋本のことども」だった。同号の編集後記では、《永い間、武蔵屋本を探していられた藤木先生から、その研究一端を頂いたのも、この本に由縁がある丸善に社史上の一つの資料が頂けたのも嬉しく……》というふうに紹介されている。


藤木秀吉が「武蔵屋本」の蒐集にのめりこんでいた当時、「学鐙」の編集にあたっていたのは、水木京太(昭和5年から昭和19年まで)。水木京太は「三田文学」に、劇評の書き手として弱冠二十歳の戸板康二を推挙した人物。魯庵のあとを受けての仕事に、たいへん誇りを持っていた水木京太は、戸板康二が「学鐙」の編集室へ顔を出すと、いつも自分の椅子を指差して「この椅子は魯庵が座っていたんだよ」と嬉しそうに言っていたという。藤木秀吉は、武蔵屋本を考証するにあたって、たびたび内田魯庵の名前を出していたり、上掲の「読書感興」では、内田巌が父魯庵のことを回想していたりと、「藤木秀吉」をたどってゆくと、あちらこちらで、おのずと魯庵へとつながることになるのだった。



先日、図書館の閲覧室で、『日本蒐書家名簿 昭和十三年度版』(日本古書通信社昭和13年6月25日)というのを眺めて、なかなかたのしかった。東京市の住所録は、会津八一の名前ではじまる。渥美清太郎の名前はあるけれども、安部豊の名前はない。内田誠の「蒐書種目・研究事項」は「美術・交通史」となっている。明舟町在住の川尻義豊は「伝記」。北園克衛は「日本史・古典文学・新文学・地誌」。ミツワ石鹸の丸見屋商店宣伝部の衣笠静夫の住所は「日本橋区両国二〇ノ一 丸見屋内」、蒐書種目は「明治文学」……とページを繰って、なにかとたのしいのだったが、思っていたとおりに藤木秀吉の名前が載っていて、にんまりだった。藤木秀吉の「蒐書書目・研究事項」は「劇書、書誌」となっていて、もう、そのまんま、「武蔵屋本考」。